さあ、ゲームを始めようか(皐月物語 36)
藤城皐月はアイルミルクチャイを飲みながら及川頼子の部屋の中を眺めていて、不思議な気持ちになっていた。
母の友人の頼子はまだこの家に引っ越してきたばかりだ。物が少なくて整理整頓が行き届いているせいか、皐月には部屋の中が生活感に乏しく殺風景に見える。
見慣れないミニコンポや収納に使われている変色したカラーボックスを見ていると、友だちと一緒に昭和時代の世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚に陥る。そのうえこの部屋の中に一人、最近出会ったばかりの少女がいる。しかも美少女だ。
この余りにも非日常的な空間の中で、皐月はここまでに至る成り行きに思いを馳せていた。
頼子と祐希という家族が増えたこと、入屋千智と出会ったこと。祐希や千智のみならず、幼馴染の栗林真理にまで恋心が芽生えたこと。
教室で隣の席にいた筒井美耶に優しい気持ちになったこと。席替えで新たに近くの席になった二橋絵梨花や吉口千由紀に関心を抱いたこと。
ナンバーワン芸妓の明日美の甘い香り……。
「おい、何ボ~っとしてるんだ。麻雀しようぜ」
月花博紀に急かされた。博紀に女のことを考えていたと見透かされたらたまらない。
「麻雀するのはいいけど、5人だから一人余るな。どうしよう?」
皐月たちの班は人数が少ないので、一人足りないことがあっても、一人余ることは今までなかった。皐月は博紀に違うことを考えさせようと思った。
「振り込んだ奴が抜ければいいんじゃね?」
「勝ち負けはどうつけるんだよ?」
「持ち点決めて、倍になるかゼロになったら終わりってことで。で、その時沈んでいたら負け」
博紀の提案はブー麻雀という、ちょっとガラの悪い麻雀だ。月花直紀が千智にルールの説明し始めた。
皐月たちはいろいろな麻雀のルールで遊んでいる。直紀はオーソドックスな半荘制が好きで、今泉俊介は東風戦、博紀はブー麻雀で、皐月は古典的なアルシーアル麻雀が好きだ。栄町の悪ガキ共は全く協調性がない。
「負けたら罰ゲームね」
「罰ゲームって何だよ?」
「歌! みんなの前で歌を歌ってもらおう」
俊介が間髪を容れずに主張した。嬉しそうな顔をしていた。
「そんなのお前にとってはただのご褒美じゃねえか。全然罰ゲームになってねえ。お前、自分が歌いたいだけだろ」
「博紀君の歌が聴きたいだけだよ。それとも何? 俺たちに勝てる気がしないとか?」
俊介が煽る。博紀は煽られるとカッとなる癖がある。
「じゃあ罰ゲームは歌ってことで賛成の人?」
俊介の問いかけに博紀以外の4人は全員賛成の挙手をした。
「マジか……。じゃあ歌うのは最下位の奴だけってことでいいな。よ~し、お前ら全員ぶちのめしてやる!」
ルールは子の満貫である8000点持ち。トップがプラス8000点になるか、誰かが0点になった時点で終了。その時、持ち点が原点を下回っていたら負け。原点より沈んだ奴は浮いた奴に1000点支払って次のゲームに臨むというハンデを付ける。
「歌は女性シンガー限定ね」
「なんで女限定なんだよ、俊介」
これは完全にアイドル好きの俊介の趣味だ。
「俺、女の歌なんて歌えねえよ」
「スマホで歌詞を見ながら歌えばいいじゃん」
同じくアイドル好きの皐月に異論はない。
「入屋さんも女性シンガー限定ってことでヨロシク。男の歌を歌えって言わないから」
俊介の真の狙いは千智の歌っているのを鑑賞することだった。その狙いに気づいた男たちは色めき立った。男子たちは喜んでいるのを千智にバレないように隠しているが、意外にも博紀が一番嬉しそうな顔をしていた。
「人前で歌うなんて恥ずかしいな……」
「入屋って歌上手いじゃんか。音楽の授業の時でもみんなの手本だって先生に歌わされてたし」
「あれ、すごく嫌なんだけど」
「そうか? 男子はみんな喜んでるよ」
「だから嫌なんだってば。変に目立ちたくないの」
千智と直紀のやり取りを聞いていて、皐月は直紀のことが羨ましくてたまらなくなった。千智と同じクラスの直紀は皐月の知らない千智をよく知っている。皐月はまだ千智のことを何も知らないに等しい。
俊介がスマホを取り出して考え込んだ。俊介のスマホにはイヤホンジャックがある。
「皐月君、スマホをミニコンポに繋げたいんだけど、オーディオケーブルって持ってる?」
「あるよ。スマホを繋げるのもいいけど、どうせならPC繋げようか。この部屋のテレビならPC繋げば映像も出力できるから」
「そうしてもらえると助かる。バッテリーなくなっちゃうもん」
俊介は言い出しっぺだからなのか、この部屋のBGM用に自分のスマホを提供しようと考えていたようだ。皐月は俊介の提案に乗ろうと思った。
「じゃあ今朝言ってた皐月君が最近ハマってるアイドルのミュージックビデオでも流そうよ」
「いや、それはちょっとマニアック過ぎてみんなに悪い。とりあえず最初は音楽配信で今流行ってる曲でも流しておこうよ」
「俺は別の沢田研二のままでもいいんだけどな~」
皐月は俊介の影響で昭和歌謡が好きになったが、俊介の熱量は皐月の比ではない。俊介は他にも母親世代の頼子の持っているレコードをかけたがっている。
「じゃあ麻雀で勝った奴が次のゲームの間、好きな音楽を流せる権利をゲットできるってのはどう?」
俊介は次から次へと提案をしてくる。こういう頭の回転の速さを皐月はいつも好ましく思っている。
「俺、そんなに音楽とかこだわりないなぁ」
直紀はあまり音楽に興味がない。大人びた俊介に比べて直紀は幼い。
「直紀ってアニメ好きじゃん。アニソンとか流せばいいよ」
皐月もアニメが好きなので直紀をフォローする側に回る。
「俊介も兄貴もアニメに興味ないだろ。いいのか、そんなの流しても」
「いいって。だってそれが勝った奴の特権なんだから」
直紀の兄の博紀は憂鬱な顔で皐月たちのやり取りを見ていた。
皐月はもう一度自分の部屋に戻り、PCとケーブル、麻雀の精算に使うコインを持ってきた。俊介はPCであらかじめ配信サイトにアクセスしておいた。
「5人いると点棒が足りなくなるからチップを使おうぜ。いつものプラスチックのチップじゃなくて、今日はこれを使おう」
皐月が持ってきたのは仮想通貨のビットコインとイーサリアムのコインだった。
「これ何だよ?」
「仮想通貨のビットコインとイーサリアムのコインだ。博紀、仮想通貨って知ってる?」
「なんとなくなら……。それって本物?」
「まさか。暗号資産だから仮想通貨にコインの現物はないよ。これは玩具。面白いだろ」
「まあ、チップよりは雰囲気出るな」
「千点棒の代わりにビットコイン、百点棒の代わりにイーサリアムにしようぜ」
「いいね。面白いよ、なんか悪い遊びしているみたいで」
直紀は博紀ほど優等生ではない。ちょっと悪いことを喜ぶところが一緒に遊んでいて刺激的だと皐月は好ましく思っている。
「で、ビットコインとかイーサリアムって今いくらなの?」
「さあ……どうだったかな。値動きが激しいからよくわかんないや。俊介、PCをミニコンポとテレビに繋げておいて。できる?」
「ミニコンポには繋げられるけど、テレビにはどうやって繋げればいいのかな?」
「HDMIケーブルがあるから、それを使ってくれればいいよ」
「設定とかは?」
「繋げるだけでいいよ。あとはテレビ側の入力切替でHDMIを選択するだけ」
「テレビに繋げるんだったら、別にミニコンポに繋げなくたって音出るじゃん」
「コンポのスピーカーの方が音質がいいだろ」
「そりゃまあそうだね。じゃあ後は任せといて」
俊介が作業を始めると直紀が覗き込んできた。直紀につられて博紀も物珍しそうに見ていた。
「私、持ってるよ」
千智が皐月の耳元で小声で囁いた。ビットコインの玩具を小さく指さしている。
「実は俺も。さっきレートを聞かれた時、困った」
皐月と千智はアイコンタクトだけで言いたいことが伝わった。友だち同士でお金の話をしたくなかったが、千智とこんな秘密を共有することになるとは思わなかった。
「ただ麻雀するだけかと思ったら変な流れになっちゃった……。こんなんでよかった?」
「いいよ。結構楽しんでるから。月花君も学校と違うし、俊介君も面白いし。カラオケじゃないのに人前で歌うのはちょっと恥ずかしいけど」
「大丈夫。千智が最下位にならないように俺が守るから」
「そんなことできるの?」
俊介はともかく、麻雀好きの月花兄弟を敵に回すとしのぐのは難しい。だが、それが面白い。
「そうだな……例えば千智が最下位になりそうになったら、俺が他の奴を狙い撃つとか。最悪、俺が身代わりになって誰かに差し込んで自爆するとか」
「おい、お前ら何か企んでるな。作戦会議かよ」
皐月は博紀に聞かれるのを承知で千智に策を聞かせていた。
「ああ。お前を狙い撃ちにして歌わせてやんよ」
「面白れえじゃねえか。そっちがその気ならこっちもそのつもりでいくぜ」
「そうでなくちゃ面白くない。かかってこいや」
博紀の目的は祐希に会うことで、麻雀をしに来たわけじゃない。そんな博紀を本気にさせるためにはちょっと煽らないといけない。博紀が本気で遊んでくれないと自分が面白くない。
俊介がテレビの電源を入れ、HDMI入力に切り替えると皐月のPCの画面が映った。
「とりあえず最新のヒットチャートのトップ50でも流しておくね。さあ、やろうか」
みんなの知ってる曲が流れたようで、場が軽く盛り上がっている。ミニコンポのスピーカーから流れる音もなかなかいい。
ただ、皐月はアイドル以外の最近の流行りの曲をあまりよく知らない。軽い疎外感を感じながら、俺がトップを取ってみんなの知らない地下アイドルの曲を聴かせてやろう、といった変な闘志が湧き上がってきた。