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修学旅行、伏見稲荷駅で降りて伏見稲荷大社へ行く(皐月物語 139)

 下鴨しもがも神社の参拝を終えた藤城皐月ふじしろさつきたち6人は京阪電車の出町柳でまちやなぎ駅に戻って来た。駅構内に入っても足を止めることなくホームに向かった。
 階段を下りる途中で発車標と時計を見た。時刻は13時25分で、電車の発車する5分前だった。ここから改札を抜けてホームに行くまでは少し距離があるので、地下の店で寄り道をする余裕はなかった。
 岩原比呂志いわはらひろし先頭にして、早歩きでコンコースを抜けた。改札を通り、さらに階段を下りると、1番ホームにはすでに中之島行き普通が停まっていた。
 比呂志は7両編成の先頭車両へ班員5人を率いて、緑と白のツートンカラーの車内に乗り込んだ。始発駅だけあって、座席に6人がかたまって座ることができたのはありがたかった。みんな少し疲れが出ていた。

「伏見稲荷駅だから特急は停まらないんだな」
 皐月は下鴨神社に来る時に乗った京阪8000系の豪華な内装が忘れられず、できることならもう一度乗りたいと思っていた。電車は定時に出発した。
「藤城氏、各駅停車も悪くないぞ。七条駅までは地下だからつまんないけど、東福寺駅からは地上駅だ。駅も車窓も変化があって楽しいよ」
「地上駅って言っても、東福寺、鳥羽街道、伏見稲荷で終わっちゃうじゃん。あっけね~」
「おっ! 藤城氏、もしかして京阪本線の駅、憶えた?」
「いや……修学旅行の範囲内の駅しか憶えていない。もしかして岩原氏は全部憶えたのか?」
「さすがにまだ憶えていない。でもいずれは全部憶えたいな。今はJRの駅を憶えている最中だから、私鉄は後回しにしているんだよね。でも、せっかく修学旅行で京阪に乗れたんだから、こっちを先に憶えようかな」
「そうか……岩原氏がそのつもりなら、俺も負けてられないな。やっぱ、JRに限らず、私鉄も全線全駅は憶えたいよな」
 皐月も比呂志も時刻表で路線図を眺めるのが好きな路線鉄だが、比呂志は駅訪問が好きな降り鉄で、皐月は駅舎を楽しむ駅鉄だ。
「なあ、岩原氏。京阪であれやる?」
「いいね。まだ途中までだけど、やってみようか」
 皐月の言う「あれ」とは、皐月と比呂志が学校の休憩時間でやる遊びのことだ。
「せ~のっ、出町柳・神宮丸太町・三条・祇園四条・清水五条・七条・東福寺・鳥羽街道・伏見稲荷」
 皐月と比呂志は声を合わせて駅名の暗誦をした。
「龍谷大前深草」
「あれっ? 藤城氏、伏見稲荷までじゃなかったの?」
「龍谷大前深草は予定変更前に下りる予定だったから憶えてた」
「じゃあ、ここから先は僕がやる。藤森・墨染すみぞめ・丹波橋・伏見桃山・中書島ちゅうしょじま・淀・石清水八幡宮・橋本。とりあえず京都府だけは憶えたけど、大阪府はまだ憶えていないや」
「お~っ、京都府で区切ったか」
「特急停車駅だけは憶えたけどね。さすがに。でもまだ全然憶えていないから、恥ずかしい……」
 皐月はあることに気付き、頭の中で復唱して確認した。
「なあ、岩原氏。この中に五七五があるぞ! 『丹波橋・伏見桃山・中書島』!」
「本当だ! すげ~。『淀・石清水八幡宮』 あ~、字足らず!」
ぐうを伸ばしてもダメか。ぐう~」
「ハハハッ!」

 皐月と比呂志がはしゃいでいる間、神谷秀真かみやしゅうまは女子たちに稲荷についてレクチャーしていた。
「伏見稲荷の辺りは深草っていってね、弥生時代から栄えていた大規模な農耕集落だったんだ。遺跡もあるんだよ」
 秦伊侶巨はたのいろこ伊侶具いろぐ)は稲作で裕福な暮らしをしていた。餅を的にして矢を射ると、餅が白鳥になって山へ飛んでいった。その白鳥が降りた所に稲が成った。そのことを昔の言葉で「伊禰奈利いねなり」といい、伊奈利いなりという社を建てた。
「この出来事は伏見稲荷大社の始まりとなった711年の話だよ」
「じゃあ、稲荷の神様って、この時までいなかったってこと?」
 栗林真理くりばやしまりが秀真に疑問をぶつけた。
「これは難問なんだよな……。伊奈利社いなりのやしろは確かにこの時が始まりなんだけど、それ以前に伏見稲荷大社の御祭神の宇迦之御魂神うかのみたまのかみというか、食物の神への信仰はあったんだよね」
 宇迦之御魂神は日本神話に登場する女神で、穀物など食物の神だ。人が生きていくためには食べ物が必要だ。暮らしの中で神様を信じるのなら、食べ物の神様への信仰心が生まれるのは必然だ。
「伏見稲荷よりも古い稲荷神社はあるんだ。和歌山県有田市の熊野古道に稲葉根社いなばねのやしろという神社があって、創建は535年。日本最古の稲荷跡と言われている。祭神は倉稲魂命うかのみたまのみことで、今の伏見稲荷大社と同じだよ」
 秀真は皐月と違い、真理を相手に容赦なく情報を浴びせかけた。真理だけでなく、二橋絵梨花にはしえりか吉口千由紀よしぐちちゆきも真剣に秀真の話を聞いていた。
「稲葉根が稲荷ってこと?」
「う~ん、音の響きが似ているから有り得るな……。稲葉根社が山の上にあったから、氏子が参拝しやすいよう、社を山の麓にも造ったんだ。その時に稲葉根社を稲荷社って言うようになってね、今では糸我稲荷神社いとがいなりじんじゃっていう神社になってる。それが652年のことだから、伏見稲荷の711年よりもだいぶ古いね」

 秀真の話を聞いて、真理は考え込んだ。
「稲葉根社と伏見稲荷大社の関係がよくわからない。稲葉根社はどうしてできたの?」
「ちょっと待ってね。栞のメモを見るから」
 秀真はナップサックから修学旅行の栞を取り出して、メモを見ながら話をした。
 稲葉根社は安閑天皇の2年(535年)の春、凶作を憂えたさとの人たちが山に神籬ひもろぎを作って豊作を祈った。数日後、倉稲魂命の神託が下り、ここに降臨した。翌年、ここに仮の社を建てて稲葉根社と称し、神を祀った。
「稲葉根社の由緒書には倉稲魂命が稲荷山にも降臨したって書いてあるけど、山城国風土記には白鳥って書いてあるし、他の文書には稲荷明神って書いてある」
「秦伊侶巨の伊奈利の話とは繋がっていないね。じゃあ、稲荷明神は倉稲魂命とは違うってこと?」
「違うわけじゃないと思うけど……秦伊侶巨が伊奈利社を作ったから、伊奈利社の神が稲荷明神とか稲荷大神って呼ばれるようになったんだと思う。後の時代になると、稲荷大神と宇迦之御魂神(倉稲魂命)の働きが同じだから同一視されるようになった、ってことじゃないかな」
 聡明な真理は小学生の秀真にこれ以上の知識を求めるのは酷だと判断した。真理は内心モヤモヤとしていた。
「ありがとう、神谷君。稲荷のこと、なんとなくわかった。食物の神への信仰は伏見稲荷ができる前からあったんだね」
 真理に話を打ち切られ、秀真はホッとしていた。稲荷神いなりのかみの起源には諸説ある。皐月となら「異也」や「INRI」の話もできようが、女子たち相手に今ここでするべき話ではない。電車に乗っていられる時間も限られている。

「豊川稲荷はお寺なのにお稲荷さんだし、お稲荷さんって割と曖昧な存在なんだね」
 横で話を聞いていた吉口千由紀よしぐちちゆきが稲荷に対する疑問をつぶやいた。だが、真相を求めているような感じではなかった。
「栗林さんは夏休みの自由研究で豊川稲荷のことを調べていたから、仏教の稲荷のことは詳しかったよね。茶吉尼天だきにてんだったっけ。僕はそっち方面はあまり得意じゃなくて……」
「そうそう。真理ちゃんのレポート、すごく詳しく調べてあってあった。さすがだな~って思ったよ」
 二橋絵梨花にはしえりかは真理の自由研究のレポートを読んでいたようだ。自由研究と自由工作は小学校の体育館に展示されていたから、誰でも見ることができた。父兄にも見てもらえるよう、一般公開もされていた。真理はあんなクソ真面目なレポートなんて誰にも読まれないと思っていたから、秀真や絵梨花に読まれていたことに驚いた。
「私も読んだ。文章が上手くて、面白かった」
 千由紀も豊川稲荷のレポートを読んでいたようだ。こんな持ち上げ方をされると、今さら本当のことを言えなくなってしまう。
「ねえ……皐月。どうしよう……」
 皐月と比呂志が鉄道話に花を咲かせている時、真理が泣きそうな顔で話しかけてきた。
「どうした?」
 真理が珍しく狼狽うろたええていた。真理がこんな顔をする時は、悪いことをしたのがバレそうになった時だ。
「夏休みの自由研究のこと……みんな、すごいって褒めてくれる」
「よかったじゃん」
「よくないよ……。あんたはいいかもしれないけど、私は困る……。もう、本当のこと言っちゃってもいい?」
「そうだな……もういいか。前島先生なら今さら再提出しろなんて言わないだろうし、みんななら黙っていてくれるだろ」
 真理はみんなに向かって、神妙な顔で話し始めた。
「あのね、私の豊川稲荷の自由研究はね……皐月に全部やってもらったの」
 惰行運転に入っていた車内にはレールのジョイント音だけがリズムを刻んでいた。車内に「左側の扉を開けます。ご注意ください」というアナウンスが流れ、車両は減速し始め、ブレーキ音とともに停車した。プシューという音が鳴り、扉が開いた。七条駅に着いた。
「いいな……。私も藤城さんに自由研究をやってもらいたかったな。真理ちゃんが羨ましい」
 真理の顔はまだ強張っていた。皐月は真理の肩に手を置いた。真理を落ち着かせるためなら、人の目なんて気にしてはいられなかった。
 その頃の皐月はまだ絵梨花と親しくなかった。仮に絵梨花と今くらい親しかったとしても、皐月は絵梨花の宿題を代わりにやることはなかっただろう。皐月にとってその時の真理は幼馴染を超えた特別な存在になっていた。
「藤城氏は僕に自由研究のレポート見せてくれたよね。豊川市の全駅の訪問記。あれとは別にもう一本レポートを書いたんだ」
「まあね。夏休み中に豊川稲荷のことを調べたことがあったから、それをちょっとまとめて、真理の自由研究にしてやったんだ」
 皐月は真理の宿題を全部やったというよりも、趣味で調べたことを真理の宿題にしたという設定にした。この方が自分にとっても真理にとっても心理的負担が軽いとの判断だ。

 電車は七条駅を出発し、地下から上がって地上へと出た。車内の音が少し静かになった。JRと立体交差をすると、家がぎゅうぎゅうに立ち並ぶ関西らしい車窓に変わった。皐月と比呂志は車窓に見入ってしまった。
「ねえ、絵梨花ちゃん。私のこと、軽蔑する?」
「軽蔑はしないけど、嫉妬はするかな。そんなに尽くしてくれる人がいて、羨ましい」
 絵梨花の言葉に真理はほっとした。だが、羨ましいが心に引っかかった。
「私は過大評価を改めないといけないって思った。文才があるのは栗林さんじゃなくて藤城君だったんだ。そうとわかってたら、藤城君の駅の訪問記も読んでおけばよかったな……」
 千由紀の言葉は真理の心に針を刺した。だが、皐月は真理の痛みに気付かずに、千由紀に文才を評価されていたことを喜んだ。
「そんなの読ませてあげるよ。また学校に持ってくるから。でも、駅の訪問記なんて鉄オタじゃないと面白くないと思うよ?」
「楽しみにしてるから」
 力を推しはかろうとしているな、と思った。じゃあ千由紀の小説も見せろよ、と言いたいところを皐月は我慢した。
 駅の訪問記はどうせ誰にも読まれないと思って書いたので、こうして改めて友達に読まれることになると、心の中を覗かれるようで恥ずかしくなった。皐月は千由紀が小説を見せたがらない気持ちがよくわかった。

 京阪電車の中之島行き普通列車は伏見稲荷駅へ到着した。皐月たちは先頭車両に乗っていたので、電車を降りると目の前に自動改札があった。改札を出るとすぐ右手に「千本いなり」という稲荷寿司の店があった。
 皐月たちの地元の豊川稲荷の表参道にも稲荷寿司の店が何軒かある。一応、豊川市が稲荷寿司発祥の地と言われているらしい。豊川稲荷の稲荷寿司は俵型だが、伏見稲荷の稲荷寿司は狐の耳のような三角だ。
「真理。稲荷寿司買って」
「どれ?」
「わさびいなり」
「何個?」
「1個」
「ん」
 ササッと真理が店に行き、わさびいなりを一つ買って、皐月に手渡した。
「真理は食べないのか?」
「私はまだお腹空いていないから」
 比呂志が駅舎や狐の像と一緒に秀真や絵梨花、千由紀の写真を撮っていた。千本鳥居を意識した朱色の鉄骨の柱と緑色の屋根が旅情を誘わないこともなかった。稲荷寿司を買っていた真理と皐月の写真も比呂志に撮られた。
「じゃあ行こうか。藤城氏は歩きながら食べてね」
 比呂志と秀真を先頭に、駅を出て左へ進んだ。伏見稲荷へ続く稲荷停車場線は歩道のない細い道だが、自動車が引っ切りなしに通る交通量の多い道だ。人の数も多く、清水寺の参道に引けを取らない賑やかさだ。
 稲荷停車場線は清水坂や産寧坂、二寧坂と雰囲気がかなり異なっていた。清水寺の参道は観光客に向けて洗練されていたが、伏見稲荷の参道は生活と観光が入り混じった卑俗な感じがした。飲食店やテイクアウトの店が多く、皐月は稲荷寿司を一つ食べたのに、まだ食べ足りない気持ちになっていた。
 通りの奥に伏見稲荷OICYビレッジという有名なフードコートとおみやげ横丁があるが、先を急ぐ皐月たちはここを見送った。橋の手前の店から漂う焼肉の匂いを嗅ぎながら、JRの踏切の前で遮断機が開くのを待っている列の最後尾についた。人の歩けるスペースが狭いので、前の人たちに倣って皐月たち一同も二人ずつ列を作って並んだ。班の最後尾になったのは皐月と真理だった。
「藤城さんたちって夫婦みたいだよね」
「そう? 私には親子みたいに見えた」
 前にいる絵梨花と千由紀は皐月と真理に聞かれてもいいような声で話していた。
「真理。焼肉食いたい」
「高い。それに買っている間に踏切が開いちゃうよ」
「あ~腹減った」
「今、稲荷寿司を食べたばかりでしょ? 我慢しなさい」
「ちぇっ、ケチだな」
 絵梨花と千由紀に笑われたが、皐月と真理はそれも楽しかった。
 橋の親柱おやばしらには稲荷橋と書かれていた。高欄こうらんも平安期の寺社のようにペンキで朱色に塗られていた。稲荷橋をゆっくり渡ると、その先にJRの踏切があった。随分と長い列ができていたことになる。
 踏切を超えると店先で食べ物を買っている人が増え、参道はさらに混雑しているように感じた。ここまで来ると生活臭が消え、完全に観光地となっていた。
 少し進むと本町通りと交わる信号のない交差点に差し掛かった。本町通りには病院や銀行、個人宅などが並ぶ生活道路になっていた。今の皐月たちには用のない道だが、ちらっと見ただけでも日常に戻り、ホッとした気持ちになった。
 本町通りと裏参道の角には「ちいかわもぐもぐ本舗」があった。ちいかわはクラスの女子の間で人気がある。他の班の女子たちは絶対にこの店に捕まるだろうな、と思いながら皐月たちは店の前を通り過ぎた。

 朱塗りの大きな鳥居の先が伏見稲荷大社裏参道だ。伏見稲荷大社の社号標があるので、ここが神社の始まりだ。もう車が通ることのない、安全な道になった。
 裏参道には食べ物屋だけでなく、八ツ橋の店や土産物屋、神具店もあった。神具店は地元の豊川稲荷の表参道にもあり、皐月は一度も足を踏み入れたことがないくせに少し懐かしさを感じた。
 日野家の店先ですずめうずらが網の上で焼かれていた。頭やくちばしの形がそのまま残っている焼き鳥はなかなかインパクトがある。稲荷名物らしいが、見た目のグロさで食べるのに勇気がいる。参拝客が大勢集まっていて、恰幅の良いおじさんが鶉の串焼きを食べていた。骨が多くて顎が疲れるが、美味しいらしい。
「皐月、あんたも食べる?」
「いや……ちょっと無理かも。普通に焼き鳥を食べた方がいい。真理が食えよ」
「私はそういうのダメなの。昆虫だって食べられないし」
「当たり前だ。虫なんか食うもんじゃない」
 もう少し進むと石造りの明神鳥居があった。鳥居の先には稲荷神社と彫られた社号標が立っていた。稲荷神社は旧称で、伏見稲荷大社は1946年に改称された社名だ。稲荷神社は全国に3万社あるといわれていて、伏見稲荷大社はその総本社だ。
 鳥居を抜けると参道の両側に奉賛者ほうさんしゃ芳名ほうめいが書かれた名札掛けが塀のようになっていた。その先にある朱塗りの鳥居の向こうには楼門が見えた。
「みんな。僕はもう摂社や末社を細かく見てまわらないから。ここでは伏見神寶ふしみかんだから神社にしか行かない」
「いや、本殿にはちゃんとお参りしようよ。神谷君」
 秀真は八坂神社や下鴨神社で舞い上がって、班員に迷惑をかけたことを反省していた。一番やきもきしていたのは班長の千由紀だった。秀真の言う通り、伏見神寶神社だけしかまわらなければ時間の短縮にはなるが、千由紀はきちんとお参りをしたがっていた。
「神谷氏、ここではみんなで揃ってお参りしよう。修学旅行なんだし」
「岩原さんの言う通りだよ。私、神谷さんと一緒にお参りしたいな」
「本当?」
 絵梨花の甘い言葉に秀真がとろけそうな顔になった。思わず絵梨花の顔を見ると、絵梨花もいたずらな笑顔を皐月に返した。
「じゃあ、伏見稲荷は本殿と神寶神社だけってことで決まりだな。時間も押してるし、サクっとまわろう」
 こんな参拝の仕方は皐月の本意ではなかった。だが、次の東寺の参拝時間を考えるとゆっくりとしてはいられない。見所の多い伏見稲荷大社なので、時間短縮よりも計画していた参拝の時間に間に合わせるよう気をつけなければならない。
「岩原氏。伏見稲荷の滞在時間は40分だ。絶対にこれだけは死守しような」
「僕には神社の所要時間が全然読めないんだけど、動きに無駄のないよう気を配るよ。1分でも遅延を回復しよう」
 皐月たち一同は気持ちを引き締めて鳥居をくぐった。

 境内に入ると一段と高い所に楼門が聳え立っていた。左斜めから見上げる楼門は恐ろしく美しかった。青い空に手前の手水舎ちょうずやの銅葺屋根の緑青ろくしょう、楼門の丹塗りの柱、尾垂木おたるき欄干らんかんの黄金色の断面の配色が雅やかだ。
「思ったより人が少ないよね?」
 手水舎で手と口を清めながら秀真が比呂志に言った。
「境内が広いから人が少なく見えるだけで、この先の千本鳥居は行列になってると思うよ。油断するとまた遅れるから」
 比呂志は秀真の楽観的な言葉を単独行動の罪滅ぼしのつもりで言っているものだと看破した。そんな比呂志を見て、皐月は比呂志の遅延回復の本気度を知り、自分の考えの甘さを知った。
 皐月たち6人は階段から楼門を見上げた。この楼門は豊臣秀吉によって造営されたもので、大きな屋根は入母屋造いりもやづくり桧皮葺ひわだぶきだ。南北に延びる廻廊は切妻造きりづまづくり檜皮葺で、連子窓れんじまどには青緑色の格子が施されている。桃山風の豪華絢爛な楼門だ。
 楼門へ至る石段を上ると、楼門の手前に狛犬ではなく狛狐が置かれていた。皐月たち豊川市民にとって、狛狐は豊川稲荷で見慣れたものだ。狐は稲荷大神の眷属けんぞくという神の使いで、野山にいる狐とは違い、人の目には見えない霊的な存在だ。
「なあ、皐月こーげつ。豊川稲荷の大本殿の前にある狐って、何か咥えていたっけ?」
「いや、何も咥えていなかったはず。一の鳥居の狛狐も何も咥えていなかったと思う」
 伏見稲荷の狛狐の多くは玉・鍵・稲穂・巻物のいずれかを咥えている。楼門前の左の狐は鍵を咥えていて、右の狐は宝珠ほうじゅを咥えている。狛犬の阿吽のようなていになっているが、意味は違うらしい。皐月と秀真はこれらの意味を調べたことがあるが、どうにも興味が持てなかった。

 楼門を抜けると目の前には外拝殿げはいでんがある。この外拝殿は八坂神社や下鴨神社で見た舞殿ぶでんのようだ。八坂神社の舞殿は拝殿の役割もあったという。
「なんだかどこの神社も造りが似てるね」
「確かにそうだね。いくら立派な造りでも、みんな似ている。続けて見ていると、さすがに感動が薄れるなぁ」
 珍しく真理と比呂志が二人で話をしていた。
「岩原君は飽きちゃったの?」
「ちょっとね。でも、神谷氏は飽きずに小さな神社を全部まわっていたんだよ。すごく楽しそうだった」
「皐月も全部の神社をまわりたそうにしていたな……」
「僕は正直、同じような神社ばかり見て何が面白いのかなって思ったけど、それは鉄道も同じだって気がついた。知識や情報があれば小さな差異がわかるし、意味や由来を知っていれば何でも面白いよ。そういうのって、どんな分野でも同じだよね?」
「そうか……専門家って知識があるから面白いんだ。だから神谷君は電車の中で伏見稲荷の情報をいっぱい教えてくれたんだ。確かに事前にいろいろ教えてもらっていると、何も知らずにここに来るより楽しいかも」
 真理は勉強も同じだな、と思い返した。受験勉強をし始めた頃はただ苦しいだけだったが、知識が増えるにつれて楽しくなってきた。大学に入って、好きなことを専門的に勉強したら楽しいんだろうな、と思った。

「ねえ、燈籠のデザインって一つ一つ違うみたいだけど、なんだろう……。もしかして星座?」
 千由紀が秀真に話しかけていた。
「そう。あれは黄道十二宮がデザインされた鉄灯篭だよ。明治時代に作られたんだって」
「山羊座を探していたんだけど、よくわからなくて……。並びから推測すると、あれだと思うんだけど」
 千由紀の指差したのは得体の知れない化け物だった。
「ああ、そうか……。黄道十二宮だから山羊座じゃなくて磨羯宮まかつきゅうだ。磨羯はメソポタミア占星術だと淡水世界の神のことだけど、インドに伝わったら魚のお化けになっちゃった」
「じゃあ、山羊とは関係ないんだね。まあ、私はなんでもいいんだけど、山羊座の人が可哀想になるデザインだよ、これ」

 皐月は真理や千由紀たちの写真を撮っていた。伏見稲荷も下鴨神社と同じで、写真にした方が美しさが際立っているように見えた。
「ねえ、藤城さん。二人の写真を撮らない?」
「いいね。撮ろう」
 皐月と絵梨花は顔を寄せ、自撮り写真を撮った。
「背景に社殿を入れたいな。誰かに頼んでみようか」
 皐月は近くにいた年配の女性に声をかけ、撮影を頼んだ。本当は写真慣れをした若い女性に声をかけたかったが、あいにく近くに女性はこの人たちしかいなかった。男性なら何人かいたけれど、皐月は大人の男の人が苦手だ。
「あなたたち、修学旅行で来たの?」
「はい。愛知県から来ました」
 女性との受け答えは皐月がした。
「二人で伏見稲荷に来たの?」
「いえ、6人で行動しています。他の子たちは今、それぞれ見たいところを見ています」
 話が長くなるのかな、と思っていたらすぐに写真を撮ってくれた。
「伏見稲荷がいつ建てられたのか知ってる?」
「はい。711年に三ケ峰に稲荷神が降臨したのが伏見稲荷の始まりだそうですね」
「あら、よく知ってるわね。最近の小学生は良く勉強しているのね。じゃあ修学旅行を楽しんでね」
 女性たちと別れると、絵梨花が話しかけてきた。
「今の人たち、いい人だったね」
「うん。ちょっと驚くレベルだった。ああいう人っていいな」
「お母さんより上の世代じゃない?」
「女の人の良さに齢なんて関係ないでしょ」
 彼女たちは50代に見えた。皐月は彼女らに稲荷小学校の校長先生と同じ雰囲気を感じていた。

 伏見稲荷大社は今まで参拝してきた寺社に比べて一段とあけの色に満ちている。皐月たちは外拝殿をまわり、本殿の前の内拝殿に出た。ここでは参拝者が引っ切りなしに鈴を鳴らしていた。
 石段を上り、注連縄しめなわの張られた唐破風からはふ屋根から中へ入り、内拝殿で二礼二拍手一礼をした。
「豊川稲荷と違って、雰囲気が明るいね」
 真理の表情も明るかった。
「そりゃ神社だからな」
「私ね、皐月の自由研究を書き写していて、豊川稲荷に行ってみたくなったんだよ」
「そうか。じゃあ今度一緒に行こうか」
 皐月は幼馴染なのに、一緒に豊川稲荷へ行ったことがなかった。豊川稲荷があまりにも近過ぎて、わざわざ参拝に行くような所だとは思っていなかったからだ。
「受験が終わったらね。それと、伏見稲荷ももう一度ゆっくりと参拝してみたいな。今日はこのまま急いでまわらなければいけないんでしょ?」
「修学旅行だからしゃーないな。伏見稲荷もまた来なくちゃいけないな」
 さすがに皐月と真理は絵梨花たちのいる前で、また一緒に来ようとは言えなかった。
 内拝殿で参拝を終えた6人は大きな授与所の前を通り、内拝殿と本殿を横から見た。本殿は玉垣に囲われて近くに寄れないが、それでもかなり近づいて見ることができた。
 四方に高欄を巡らせた本殿は桧皮葺五間社流造の大きな建物だ。五間もあるのは御祭神が五柱も鎮座されているからで、主祭神の宇迦之御魂大神うかのみたまのおおかみが中央座に鎮座され、北座に佐田彦大神さたひこのおおかみ、南座に大宮能売大神おおみやのめのおおかみ、最北座に田中大神たなかのおおかみ、最南座に四大神しのおおかみが祀られている。伏見稲荷では五柱の祭神をまとめて稲荷大神いなりのおおかみとしている。
「稲荷大神は下鴨神社の玉依姫命たまよりひめのみこと賀茂建角身命かもたけつぬみのみことみたいに人じゃなくて、概念みたいな存在なんだね」
「概念と人か……。皐月こーげつは神社の神のことをどんな風に説明したんだろう」
 皐月は流造の伸びやかな本殿の屋根に見惚れていて、秀真と千由紀の会話を聞いていなかった。真理も皐月の隣で本殿を見ていた。
「藤城さんの説明はわかりやすかったよ。私たちの疑問にもよく答えてくれたし、わからないことはネットで調べてくれた。この修学旅行で神様や仏様のことが少しだけどわかったような気がする」
「そうなんだ。二橋さんがそういうなら、皐月の説明は完璧だったんだろうね」
 秀真が皐月のいないところで皐月の話をする時に寂しそうな顔をすることがある。
「神谷さんが電車の中で教えてくれた稲荷の話、すごく面白かったよ。神道って仏教よりも謎が多いんだね。神谷さんは神様の話をする時は楽しそうだけど、藤城さんは苦しそうに見えた」
「苦しいか……。皐月こーげつはオカルトにのめり込んでも、どこか醒めているところがあるからな。岩原氏、鉄道ではどう?」
「鉄道は純粋に楽しんでいるよ。でも僕が知っているオタクとは違う。藤城氏は執着心が薄いんだと思う」
 絵梨花と秀真と比呂志が皐月の話をしているのを千由紀は静観していた。千由紀が皐月たちの方を見ると、視線を感じたかのように皐月が振り向いて目が合った。皐月が爽やかな笑顔で千由紀の方に駆けて来た。
「伏見稲荷の本殿、思ったよりも良かった。もう十分堪能したから先を急ごう。いよいよ千本鳥居だね。外国人旅行客の一番人気だ」

 皐月たちは権殿ごんでんの前を離れ、横にある鳥居の奥へと歩を進めた。鳥居の両側には狛狐がいて、左の狐の横には御神籤の結び所がある。
 鳥居をくぐってゆるやかな石段を上ると、左手には長者社、荷田社、五社相殿、両宮社があり、正面には玉山稲荷社たまやまいなりしゃがある。外国人観光客ならともかく、日本人の参拝者でもこれらの境内社に手を合わせる者はほとんどいない。
 秀真と皐月は摂末社に参拝したくなる気持ちを抑えてスルーしたが、正面の玉山稲荷社にはつい手を合わせてしまった。すると絵梨花が皐月たちに続いて手を合わせ、真理たち3人も絵梨花に続いて手を合わせた。
「ありがとう、二橋さん。僕たちに付き合ってくれて」
「神谷さんと藤城さんが神様に手を合わせているところを見ていたら、私も手を合わせずにいられなかったの」
 無理に付き合わなくてもよかったのにと秀真が言っても、絵梨花は秀真と皐月が参拝するなら自分も参拝すると言い張った。他の3人は絵梨花が参拝するならといった感じだ。
「遅れを取り戻したいから、急ごう」
 秀真が先頭に立ち、玉山稲荷社の前を右に曲がった。少し石段を上って鳥居をくぐると正面に神馬舎しんめしゃがあったが、ここでは手を合わせずに左に曲がり、石段を上った。その先には白狐社びゃっこしゃ奥宮おくみやがある。
 秀真と皐月は次の命婦専女神みょうぶとうめのかみを祀る白狐社で軽く手を合わせた。命婦専女神は稲荷大神の眷属の白狐のことだ。隣の奥宮では略式ではなく、二礼二拍手一礼をした。
「神谷君、ここではちゃんとお参りするんだね」
 付き合いで軽く手を合わせた真理が秀真に軽い気持ちで尋ねた。
「奥宮は本殿と同じ稲荷大神を祀る社で、摂社や末社じゃなくて別格なんだ。ないがしろにはできない。でも、他の社を軽く見ているわけじゃないよ。ただ時間がなくて……」
「わかってる。嫌なこと聞いちゃって、ごめんね」
 真理に謝られた秀真は泣きそうな顔をしていた。

「神谷さん。次の東寺とうじなんだけど、今回は行くのをやめてもいいよ」
 その言葉に5人は一斉に絵梨花を見た。東寺は絵梨花が誰よりも行きたがっていた所だからだ。
「それはダメ! 東寺は僕も行きたい。みんなだって行きたいよね?」
 皐月たち4人は黙って頷いた。
「みんなが楽しまなきゃ修学旅行じゃないよ。自分が犠牲になればいいだなんて思わないでほしい」
「でも神谷さん、行きたい所に行けなくて相当我慢しているよね?」
 秀真は絵梨花の言葉に即答できなかった。場の雰囲気が変な方に流れようとしていた。
「……僕みたいに業が深い奴を基準にしちゃいけないよ」
「そうだよ、二橋氏。オタクの言うことなんか聞いていたら、予定がメチャクチャになるよ。鉄道オタクの僕が言うんだから間違いない」
「そうそう。どうせまた来るんだから、今日は先を急ごうぜ。ほらっ、行くぞ!」
 皐月は秀真と比呂志の気持ちに応えたいと思い、絵梨花の手を引いて奥宮の前を離れた。真理に見られているのはわかっていたが、この際どう思われてもいいと思った。
 目の前には稲荷塗と言われる朱色の巨大な鳥居がトンネルのように並び立っている。ここから先が国内外問わず、旅行者に大人気の千本鳥居だ。
「いざ行かん、神奈備へ!」
「おう! ……あれっ?」
 皐月の掛け声に反応したのは秀真だけだった。まわりの参拝者がにやにやしながらこちらを見ていた。
「皐月、そういうの恥ずかしいからやめてよ」
「まあ、いいじゃない。ごめんね、藤城さん」
「……ぉぅ」
 千由紀も小さな声で声を上げた。
出発進行~しゅっぱ~つしんこ~
 みんなの息が合ったのを確認して、比呂志が気持ち良さそうに喚呼した。
 これからいよいよ千本鳥居をくぐりながら稲荷山の参道を上ることになる。伏見稲荷大社の面白いところはここからだと旅行者たちは言う。
 ここからは秀真が熱望していた伏見神寶ふしみかんだから神社へと向かう。皐月たち6人は不思議と疲れを感じていなかった。参拝者たちの流れに巻き込まれるように、皐月たちは千本鳥居へと吸い込まれていった。


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音彌
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。