窓辺での思索(皐月物語 97)
藤城皐月は二階の窓の欄干に肘をつき、雲の流れる空を見ていた。一瞬、強い風が吹いた。風が顔に当たり、前髪が靡いて額が出た。窓の外は寂れた路地で、今は誰も歩いていない。
今日は夕食の時間を気にせず、栗林真理と長く一緒にいられる。今までの皐月なら胸が高まっていたかもしれないが、今日ばかりは妙に心がざわつく。
江嶋華鈴からの誘いを断り、泣かせてしまったこと。明日美への想いが叶ったこと。それらの思いを意識から外して、これから自分は真理に逢いに行く……。
皐月はこの動機にリビドーが大きく占めていることを否定できない。かつて悪友の花岡聡に投げかけられた発情期という呪いの言葉が脳裏を過ぎる。自分のことを悪い奴だ、最低な奴だ、穢れた奴だと考えてしまう。
だが自己否定ばかりしていられない。発情期の何が悪いのか、発情期上等だ、と反発したくもなる。もっと悪い男になってやろうか、いっそ最悪のクソ野郎になってやろうか、とさえ思ったりもする。
(華鈴の涙はキツかったな……)
これからも女の子を泣かせることがあるんだろうな、と皐月は思った。複数の女の子と恋愛をしたら、どんなひどい状況になるのだろうか。恋愛関係にならなくても、複数の女の子から好意を寄せられたらどうなるのだろう。
女の子を泣かせたらフォローできる男になるべきなのか。女の子を絶対に泣かせないような誠実な男になるべきなのか。あるいは女の子を絶対に泣かせない技術を身につけるべきなのか。他にも色々なパターンがあるだろうが、皐月にはまだどうするべきか決められそうにない。
窓の外は静かだ。皐月は自分の眼に見える範囲には自分一人しかいないことに気が付いた。この時、豊川稲荷で筒井美耶と交わした会話を思い出した。
「じゃあ藤城君が一番好きな子って誰なの?」
「一番好きって、今か?」
「そう」
「今だったら筒井、おめえだよ」
誰が好きかとしつこく聞いてくる美耶を適当にあしらおうとした言葉だ。その理屈はこうだ。
自分の世界には今、美耶しかいない。だから誰を好きかと言われたら、美耶のことしか選びようがない。だから美耶が一番好きだ。
思い出すと、我ながらなんて屁理屈だと笑ってしまう。選びようがないとはひどい言い草だ。さすがに美耶は反論した。
「じゃあ私が目の前にいなかったら一番好きじゃなくなるってこと?」
「そりゃそうだろ。だってその時は俺の世界にお前はいないんだから」
「目の前にいなくたって私はいるよ」
「それは……いるのかもしれないけど、いないかもしれないじゃん」
「いるに決まってるでしょ! 変なこと言わないでよっ」
今、窓の外を眺めている皐月の眼の前に美耶はいない。華鈴も明日美もいない。真理もいないが、もうすぐ皐月の眼の前に姿を現す。だが、真理はまだいない。
事実、今は皐月の世界に誰もいない。これはとても重要なことなんじゃないか、というのが皐月の予感だ。理屈はわからない。
「悪ぃ。もちろん筒井はいる。ただ俺にとっては次に会うまでの筒井は記憶の中の人っていうか、概念のような存在というか……要するに不確定じゃん。そういうのって、なんか儚くない?」
皐月は美耶との会話の後、時々この時の自分の言葉を思い出すことがある。
思い出や体験は全て記憶だ。動画や漫画で味わった疑似体験による感動も記憶、勉強で覚えた知識も記憶だ。これらの記憶には強弱はあっても違いはないんじゃないか、と皐月は疑っている。
記憶は脳に刻まれている情報ということになっている。だが、あの脂肪の塊のような臓器に記憶が刻まれているとは自分の直観に反している。本当に記憶は脳に格納されているのだろうか。
オカルト的な発想だが、人の記憶はどこか巨大な記憶装置に格納されていて、人はそこから記憶を呼び出しているのではないか。脳は記憶装置ではなく、記憶装置との通信装置なのではないか。
そんなことを考えると人間そのものが怪しい存在に思えてくる。そして自分自身の存在も……。
(気持ち悪いな……)
皐月は無性に真理に逢いたくなってきた。同じ時空を二人で過ごしたい。触れ合っていれば、自分の存在の胡散臭さを忘れることができるかもしれない。
(どうして俺はこんなにも寂しいのか……)
窓の外の空を見上げ、皐月はもう一度考えてみることにした。
目に見える世界が全てなら、自分と離れて客観的に存在するものを否定することになる。これも自分の直感に反するな、と皐月は思った。この世界はゲームじゃない。でもこの世界が仮想空間かもしれないという話は同級生の神谷秀真から聞いたことがある。もしこの世界が仮想空間なら、この世界はゲームだ。
皐月が美耶に言った言葉は、秀真から聞いた話に影響された戯れ言に過ぎなかったのかもしれない。それに、今は分からないことの判断を自分の直感に頼っているが、自分の直感が絶対に正しいとも限らない。
(もうやめた……)
何が何だかよくわからなくなってきた。皐月には集中力が長続きしないという深刻な欠陥がある。その欠点を補おうと、何かを考える時は頭を高速回転させようとする。こういう方向に努力を続けていると、瞬発力に特化した脳になりそうだ。
同級生の吉口千由紀は読書にも読書特有の体力が必要だと言った。皐月は思索にも特有の体力があるのだろうと考え、今の自分には思索する体力に欠けていると思っている。皐月はこういう方向に脳を鍛えるべきなのかもしれない。
また、思索に必要な知識がなさ過ぎるとも痛感している。世界を理解したり、考えをまとめ上げるための情報がない。自分の無知に嫌気がさして、余計に集中力を削いでいる。だから勉強をして、知識を増やせば少しはましな頭になるのかもしれない。
(面倒くさいな……)
物を深く考えることは自分の気性に合わないかもしれない、と皐月は思った。だがこれは悔しい。自分の脳の働きが低劣だと認めることになる。
(自分にいいところなんてあるのだろうか……)
無性に悲しくなってきた。空を見上げていると、空の向こうにある漆黒の闇に消えてしまいたくなった。
狭い路地にジャンボタクシーが入って来た。百合たちのお座敷のお迎えだ。皐月は流れるままにしていた涙をぬぐい、窓を閉めて急いで階下へ下りた。芸妓姿になった百合と頼子が家を出ようとしていた。
「皐月、行ってくるからね」
「外で見送るよ」
皐月は百合と頼子に続いて家の外に出た。タクシー乗務員は永井明彦だった。タクシーを下りてバックドアを開けて待っていた永井が皐月を見てニヤニヤしていた。
「この前、姫街道で会ったね」
「何のこと?」
やはり永井は気付いていた。そして皐月がとぼけていることも察しているだろう。永井ならこのことを百合には言わないはずだ。
タクシーにはすでに凛と満と薫が乗っていた。皐月を見た凛が手を振ってくれた。真理は少し凛に似てきた。美しく着飾った凛を見て、皐月は思わずドキッとした。
最後列に座っていた満が車の窓を開けて顔を出した。
「皐月、元気にしてた?」
「ちょうど今、元気になったところ。満姉ちゃん、綺麗だね」
「あはは。ありがとう。あれっ? 皐月ってこんなに背が高かったっけ?」
「もう満姉ちゃんのこと追い抜いちゃてるかもね」
「そうか~。これからどんどん背が伸びて格好よくなるね!」
百合や凛がいるせいか、今日の満はいつもよりもおとなしかった。華やかな和服を着た満はとても美しかった。奥で微笑んでいる薫も奇麗だ。
助手席に座ろうとする頼子を制止して百合が座り、頼子は百合の後ろの席に座った。荷物を格納し終わった永井がバックドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
「永井さん、気をつけてね」
「皐月君、大丈夫だよ。任せておいて。ちゃんと安全運転するから」
永井のいつもの台詞を聞き、皐月はみんなを見送った。この後、永井は明日美を拾って安城のお座敷へ向かう。
皐月は家の中に戻った。一人の家は久しぶりだ。頼子たちがこの家に来るまではいつも一人だった。なんだか懐かしかった。
テーブルの上にある夕食代を手にした。自分の分をポケットに入れ、祐希の分のお金の写真を撮った。その写真を及川祐希に送り、自分は真理と一緒に夕食を食べることを伝えた。
祐希からすぐに返信が来た。メッセージには祐希も外で食事をしてくると書かれていた。誰と食事をするかまでは書かれていなかったが、皐月には想像がついた。
皐月は続けて真理に「今から行く」とメッセージを送った。真理からはただ一言「待ってる」と返って来た。
皐月は小百合寮の全ての戸締りをして、自分の部屋と祐希の部屋を仕切っている襖も閉めておいた。玄関や居間、階段や二階の廊下の電気はつけたままにしておいた。暗くなってから帰って来る祐希に怖い思いをさせたくないからだ。古い和風旅館だった小百合寮は、夜になると怖い。皐月はこの家に引っ越して来て以来、ずっと夜の二階の暗さを怖れている。
玄関の行燈看板に明かりをともした。小百合寮とだけ書かれた小さな行燈は、夜になると闇が深くなる家の前の路地を優しく照らす。皐月は一人で外で外食をした帰り、この行燈の明かりに救われていた。誰もいない虚ろな家でも、この小さな明かりがあればホッとする。
皐月は頼子たちが家に来る前の、一人でパピヨンに夕食を食べに行ってた頃のことを思い出した。あの頃も寂しかったが、今は別の寂しさがある。家は常に人がいるようになって賑やかだが、やはり気を使う。小百合がいない時は余所の家にいるような気分のなることもある。
それは祐希も同じなのかな、と思う。せめて今日だけでも、祐希にはこの家で一人になる解放感を味わってもらいたい。寂しいかもしれないけれど、嬉しくもある。皐月は今、久しぶりに伸び伸びとしている。
できることなら自分自身がその感覚をもう少し味わいたいと思った。だが今は真理と逢う方が幸せだ。そう考えると、これは祐希も同じなのかもしれない。これから祐希も恋人と時間を気にせず、一緒に過ごすのだろう。
短時間でいろいろ考えたせいか、皐月は疲れてしまった。
玄関の古い格子戸に鍵をかけ、皐月は家を出た。
9月も終わりに近づくと夕方は涼しくなる。湿気の少ない秋の空気が気持ちいい。外は少し暗くなり始めた。
街の明かりが灯り始めた駅前商店街を抜け、豊川駅に着いた。東西自由通路を上りながら、皐月は祐希のことを考えた。
以前の皐月は祐希の恋人のことを考えると嫌な気持ちになっていた。今思えば、あれは嫉妬だったのかもしれない。今でも嫉妬しないわけではないが、以前ほど胸を焦がすことはなくなった。
真理のマンションの前まで来た。心のざわつきはさっきよりも高まっている。だからといって、もう引き返すことはできない。今ここで引き返せば、恐らく真理は悲しむだろう。
エントランスのガラスに映る自分を見て、皐月は苦笑した。余りにも格好悪かったからだ。姿勢が悪く、少し猫背気味だ。その上、オーラがない。いくらなんでも、このままの姿で真理に逢いに行くことはできない。
立て直さなければいけないと思った。皐月は調子のいい時の自分にキラキラ光っているものが見える時がある。そう言う時の自分は無敵だと思っている。
試しに最近ショート動画で覚えた流行りのダンスを踊ってみた。元々の振り付けが格好いいので、ちゃんと踊れば誰でも格好良く見える。最初は動きがダルかったが、2回目は動きに切れが出て、それなりにいい感じになってきた。もうしょぼくれた感じがなくなった。
(割と単純だな、俺って……)
3回目を踊りながらご機嫌になっていたところに、マンションから初老の女性が出てきた。あと少しでダンスが終わるので、構わずに踊り続けた。最後に決めのポーズをすると、その女性が拍手をしてくれた。
「こんにちわ」
皐月は恥ずかしい気持ちをやせ我慢で耐えて、笑顔で彼女に挨拶をした。
「こんにちわ。あなたの踊り、素敵だったわ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
「今時の子は格好いいわね。いいものを見せてもらったわ」
手を振ったその女性は駅に向かって歩いて行った。彼女に褒められて、皐月はすっかり気分が良くなった。
「さて、行くか」
エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。エレベーターの鏡に映る自分の姿に、もう不満はなかった。光こそ放っていなかったが、姿勢もよく、自信を取り戻したように見える。これから真理に会いに行くのにマイナス思考になる必要なんてない。
皐月は鏡に向かって右ストレートを一発入れた。シュッと短く鋭く息を吐いた時の音が、パンチで空気を切り裂いたように聞こえて気持ちがいい。エレベーターが止まって背後の扉が開くと、皐月は元気良く振り向いた。そして、弾むようにエレベータの外に出た。