席替え (皐月物語 22)
担任の前島先生が教室に入ってきた。まだ30代の女の先生だ。藤城皐月はこの人が6年間で一番当たりの先生だと思っている。
前島先生は今までの先生と違って変な癖がなく、理不尽なことを言わない。男女隔てなく名字をさん付けで呼んでくれる。5年の時の担任は男の先生だった。男ってだけで皐月は嫌だったが、馴れ馴れしく名前を呼び捨てにしてくるのが生理的に受け付けなかった。
前島先生は電子黒板の使い方が上手い。噂では稲荷小学校で最高のテクニックを持っているという話だ。皐月の去年の担任に比べ、前島先生は多彩な機能を使いこなしていて、授業がとても楽しくわかりやすい。
1時間目は学活で、Web会議システムを使った全体朝礼が行われる。その後に遅い朝の会が開かれた。宿題の提出をする時、栗林真理は皐月にだけわかるように胸の前で小さく手を挙げた。こそこそと二人の秘密みたいにするのが皐月には楽しかった。
2時間目になると前島先生から席替えの話が出て、教室に歓声と悲鳴が上がった。
「やったー!」
「やっとこいつと離れられる!」
「月花君の隣に行きたい!」
「今のままがいいっ!」
「せめてあと一日っ!」
皐月の隣に座っている筒井美耶からは悲鳴が上がった。皐月は喜怒哀楽を表に出さず、密かにドキドキしている。
「皆さん、悲喜交々ですね。良くも悪くも2カ月で席替えしますからね。では早速始めましょう。今回も『席替えメーカー』というアプリを使って席を決めます。前席希望の方はいますか? 前回希望した方も含めて手を挙げてください」
視力が低く黒板が見えにくい子は優先して最前列にしてもらえる。真理は眼鏡をかけたくないという理由で1学期はずっと最前列を希望していて、今回も真理は手を挙げた。他にはフィリピン人ハーフのラブリも前回と同じく手を挙げている。吉口千由紀は2学期から眼鏡をかけ始めたので今回は挙手していない。
「カルロスさん、申し訳ないのですが今回も一番後ろの席になってもらえますか?」
「はい、わかりました」
ブラジル人ハーフのカルロスは縦にも横にも身体が大きい。クラスで一番小さい学級委員の二橋絵梨花がカルロスの後ろの席になったら、前が見にくくてストレスを溜めそうだ。カルロスは見た目は怖そうだが、気の優しい男の子だ。前島先生は外国人の生徒にはなぜか名前にさん付けをする。
黒板上部にあるプロジェクターから黒板に『席替えメーカー』が映し出された。先生は生徒に見せながら席替えの条件を入力する。最前列と最後列の条件を入力し終え、条件入力画面を閉じた。
「では今から席替えをします。席替えボタンを押しますよ」
『席替えメーカー』では画面の上部に今の座席の配列が記されていて、下部には席替え後の座席が空白の状態になっている。男子の席は水色に、女子の席はピンクに色付けられている。アプリでは席の数は36個用意されているが、クラスの人数は34人なので、廊下側の最後列の2席は空白にしてある。
ざわざわしていた教室が静まりかえると、先生は教室を見渡した。少し微笑んだ後、何も言わず席替えボタンを押した。利用規約の文章が画面いっぱいに表示され、「同意する」をクリックすると文章が消え、新しい座席の配置がもう出来上がっていた。教室がまた様々な声に包まれた。
「それでは自分の席を確認してください」
画面のスクリーンショットを保存した後、新しい座席表を黒板に大写しにした。生徒たちの目が一斉に真剣になった。
「先生は職員室へちょっと戻りますので、10分で席替えを終えてください。学級委員、後はお願いします」
「はい」「はい」
前島先生は学級委員の月花博紀と二橋絵梨花を信頼している。面倒なことでも平気で二人に丸投げする。
皐月の席は窓から3列目で、前から2番目になり、そこは真理の真後ろだった。真理と席がこんなに近くなるのは初めてだ。皐月の隣は学級委員の絵梨花だ。絵梨花とはあまり話をしたことがなかったので、今から楽しみだ。
「あ~あ、藤城君と席が離れちゃったよぉ~」
美耶が皐月の腕に触れてきた。今までは言葉や態度で好意を示されてきたが、叩かれる以外で触れられたのはこれが初めてだった。
「筒井は窓際の後ろから2番目か。アニメなら主人公の席だな」
「藤城君と席が5つも離れてるよ~」
美耶が皐月の腕をゆさゆさと揺すってくる。どうして腕を離さないのだろうと考えながらも、ちょっとドキドキする。気持ちがいいからそのままにしていると、美耶が急に腕を突き放してきた。
「あ~っ! 栗林さんの後ろの席!」
半泣きの顔がもっと情けなくなった。
「あ~っ! 二橋さんの隣!」
「なんなんだよ、お前は」
「なんでもないよっ!」
こういう美耶にはいつもイラっとしていたのに、今日の皐月は全く嫌な気持ちにならなかった。
「なあ筒井、席が離れちゃって寂しくなるな。せっかく仲良くなれたのに」
「別れる時に限って優しいこと言わないでよ。ズルイ」
「別れるって、ただ席がちょっと離れるだけじゃんか。大げさだな」
「『せっかく仲良くなれたのに』とか変な言い方するからだよ」
皐月は一瞬、意味がわからなかった。
「あ、ごめん。確かにこれじゃサヨナラするみたいだわ」
「ホントは私とサヨナラしたかったの?」
「そんなことねーよ。寂しいって本当だし」
「席が離れたら仲良しじゃなくなっちゃうの?」
あ~なんかいつもの筒井だな……。
「バカだな。車の免許取ったら十津川の山に連れてってくれるんだろ。遠い未来の話だけど、おれ本気で楽しみにしてるんだぜ」
「本当?」
「ああ。それに夏休みの話、もっと聞きたかった。また話聞かせろよ」
「うんっ!」
皐月と美耶が話をしているうちにクラスのみんながゴソゴソと動き始めた。いつまでもここでおしゃべりをしていると次にこの席になる子たちの迷惑になる。絵梨花はともかく、博紀をイライラさせるとクラスの女子の大半を敵に回すことになるので、皐月と美耶は慌てて移動を始めた。美耶はすっかり機嫌が良くなっていた。
美耶には言えないが、皐月は新しい席が楽しみでワクワクしている。栗林真理や二橋絵梨花の近くになったのは刺激的だ。特に絵梨花。真理並みに勉強のできるこの優等生はどんな子なのだろう。後ろの席になった吉口千由紀も気になる。千由紀は男子どころか女子ともほとんど話をしないで本ばかり読んでいる。皐月ですらまだ口を利いたことがない。皐月にはこの三人が博紀のファンクラブに入っていないことが好ましかった。
斜め前には7月に引き続き神谷秀真がいる。また秀真とオカルト話ができて嬉しい。斜め後ろには鉄道ヲタクの岩原比呂志が来た。比呂志は皐月にとって唯一の鉄道友達だ。今度の席は皐月にとっては最高の席順になった。
「真理と席が近くになるなんて初めてだな」
「そういえばそうだね」
「話しかけるのにわざわざ真理の所まで行かなくて済むのはいいな、面倒くさくなくて」
「何それ、面倒って。別にいいよ、無理に話しかけてくれなくたって」
口ほどに真理は怒っていない。それでも皐月以外の人からは怒っているように見えるらしい。それが災いしてか、クラスの女子は真理とあまり話をしたがらない。でも真理はその方が勉強がはかどっていいと言う。
「さっきの話だけどさ、コーゲツが筒井さんのことからかうから大峰の話、聞けなかったじゃんか」
秀真が機嫌悪そうに皐月に話しかけてきた。
「ホツマ、悪ぃ。ちょっと話がエロくなりそうだったから逃げちゃった」
皐月は秀真のことをホツマと呼んでいる。これは秀真からのリクエストで、古文書の『秀真伝』が由来だ。
ホツマは皐月のことを音読みでコーゲツと呼ぶ。これは『カタカムナ』という記号のような文字で書かれた巻物を謎の宮司から託された物理学者・楢崎皐月にちなんだと言う。
二人のあだ名はどちらも日本の正統の歴史から異端視されている古文書からきている。秀真が興奮して皐月に話しかけてきたのがきっかけで二人は仲良くなった。皐月は最初、秀真が何の話をしているのかさっぱりわからなかったが、いろいろ情報を注入されていくうちに面白くなってきた。
「皐月、美耶ちゃんにいやらしい話しちゃダメでしょ」
真理の顔がにやけている。
「いや、栗林さん、それは違う。ぼくたちは修験道の女人禁制について話をしていたんだ。筒井さんが本に書いてあるのとは違う地元の人の物の見方をしていたから興味深くてさ。それをコーゲツが遮るようなことを言うから……」
「ホツマ、お前は鈍過ぎなんだよ」
三人で話をしていると、皐月の隣の絵梨花や後ろの吉口千由紀、斜め後ろの岩原比呂志も皐月たちのやり取りを興味深く聞いていた。
「あっ、二橋さん、吉口さん、おれエロくないからね」
皐月はこれ幸いにと絵梨花と千由紀に話しかけた。
「はい、わかってます」
絵梨花は明るく笑っている。たぶん信じてもらえただろう。
「エロくたっていいじゃん」
微かに笑いながら千由紀が小さな声で話に加わった。千由紀が自分から人に話しかけるのを皐月を含めたこの5人は初めて見た。
「藤城氏は花岡氏と一緒にいる時はいつもエロい話をしているのに、ぼくと話をする時は一切そういうことを言わないよね。どうして?」
「岩原氏、語弊のある言い方はやめてくれよ。それじゃまるでおれがエロいみたいじゃないか」
「え?」「えっ?」
「……えーっ?!」
皐月、秀真、比呂志の三人が爆笑すると真理、絵梨花、千由紀もつられて笑った。クラスの班分けは席の並びの縦2行横3列の6人で一班となり、今盛り上がっているこの6人が同じ班になる。席替えが終わった後、この班が一番騒がしい。
気分よく皐月たちが笑っていると博紀がやって来て絵梨花に声をかけた。
「二橋さん、そろそろ先生が来るからクラスをまとめておこうか」
「はい」
博紀はちらっと皐月へ視線を飛ばした。それは一瞬のことだったが、博紀の表情に皐月は機嫌の悪さを感じた。この変化がわかるのは皐月の他に松井晴香くらいのものだろう。
博紀と絵梨花が教壇に立った。
「新しい座席表を消しますが、間違いは……なさそうですね」
絵梨花が教室をざっと見渡して確認した。もう席の配列を全部を覚えているようだ。
「背が伸びて机と椅子が身体に合わなくなった人はいますか? 今すぐにはわからないかもしれないけれど、しばらく使ってみて自分に合っていないなと思ったら学級委員に言ってください。大きいサイズのものに交換します。他に何か今の席順に不満があったら遠慮なく僕たちに言ってください。正当な理由があれば先生に取り次ぎます」
博紀は真面目で優秀な学級委員だ。何も言われなくても気を利かせて先生を助け、クラスをまとめる。1学期はまだこの学校に慣れていなかった絵梨花を上手に立ててクラスに馴染ませた。
そもそもこの学校には学級委員という制度はない。前島先生が独断で学級委員を復活させた。先生が言うには、このクラスの学級委員はみんなのリーダーというよりも先生の補助的な仕事を任せたいという話だった。博紀や絵梨花はよくやっていると先生もクラスのみんなも思っている。
前島先生が教室に戻ってきた。手には角形2号の封筒を持っていた。もうみんなわかっていた。これはテストだということを。