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優等生のベールの奥(皐月物語 74)

 藤城皐月ふじしろさつき江嶋華鈴えじまかりんは稲荷小学校の校門を出ると、すぐに左の路地に入った。この道は車が通れないほど狭いので交通事故になりようがなく、多くの児童たちの通学路に指定されている。
 この通りには検番けんばんの裏玄関があり、昨日は筒井美耶つついみやと二人で検番の窓越しに芸妓げいこみちるかおると会った。
 皐月は学校の帰りにいつも二階の稽古場の窓を気にしている。今日は窓が閉められていたので芸妓の誰とも会えなかった。
 皐月の帰りの通学路の楽しみは大好きな芸妓の明日美あすみに会うことだ。明日美が検番にいることがわかれば、窓越しに声をかけているだろう。髪を切って紫のカラーを入れて以来、皐月はまだ明日美と会っていない。
「さっきの田中のことなんだけど、江嶋にフォローお願いしてもいいかな。俺、人とうまく付き合うのってあまり得意じゃないんだ」
「そう? 全然そんな風には見えないんだけど。でも5年生の時は男子よりも女子とよく話してたね」
「俺、男よりも女の子と喋る方が好きだから。でも別に女好きってわけじゃないから、そこんとこは誤解すんなよ」
「誰が信じると思う、そんな話? 藤城君って女の子大好きじゃない」

 皐月は男のいない環境で生まれ育った。別れた父親に対してトラウマがあったので、女の中でこそ安らぎを得られるようになっていた。
 皐月のこの事情を知っているのは幼馴染の栗林真理くりばやしまりだけだ。だから皐月はクラスメートから女好きのレッテルを張られている。女子は皐月と絡むことをあまり気にしていないようだが、男子からは白い目で見られることがある。
「田中もさ、江嶋みたいにかわいい女の子の言うことなら何でも聞くんじゃないかな」
「ちょっと何言ってんの? かわいいとか変な持ち上げ方やめてよ」
「いやかわいいだろ、お前。いや、かわいいっていうよりも美人か」
「からかわないで!」
 本気で怒られた。華鈴は自分の顔にコンプレックスを持っているようなので、これからは軽薄な態度を取らないよう気をつけなければならない。
 華鈴は一重瞼で端正な顔立ちをしている。クールで近寄り難い雰囲気を出しているが、皐月はそこに魅かれている。形の良い一重瞼を美しいと思っているが、悪い友だちの花岡聡はなおかさとしからはあまり共感してもらえない。

 華鈴は5年生の時から児童会など、教師寄りの委員をよくやっていた。優等生ぶっているように見えるので男子からは敬遠されがちだが、皐月は真面目で優秀な女子は嫌いではない。
 同級生で幼馴染の月花博紀げっかひろきはこういうタイプが大好きなので、密かに華鈴に目を付けているに違いない。皐月はなぜか、博紀の好きなタイプの女子に好かれる傾向がある。
「話を戻すけどさ、副委員長として委員会をまとめる役をやってくれないかな。江嶋だったら人望があるし、先生からも信頼されてるじゃん。俺の言うことなんか聞きたくねーって奴でも、江嶋の言うことなら聞くと思うんだよね」
「そうかな? だって藤城君は私の言うことなんか聞いてくれないでしょ?」
「そんなことね~よ。……なあ、頼むよ」
「じゃあ藤城君は委員長として修学旅行実行委員会をどうしたいの? 副委員長だからまとめ役をやるのは構わないけど、委員長だからって話によっては言うことを聞けないよ」
「俺はガンガン仕事を進めていくつもり。こういうのって比べられるものじゃないと思うけど、過去のどの年度よりもいい修学旅行にしたいって思ってる。これじゃダメかな?」
「わかった。じゃあ私はサポート役に徹するね。でもあまり自分勝手なことはしないで、少しはみんなの話も聞いてよね」
「ありがとう。もし俺が独断専行になったら注意してくれ」

 皐月と華鈴は駅前大通りのスクランブル交差点で信号待ちをしていた。二人並んで立っていると、華鈴が右下方から皐月のことを見上げていた。
「藤城君って背が高くなったね。5年生の時はこんな風に見上げたことがなかったのに」
「江嶋は背が低くなったな。こんなにちっちゃかったっけ?」
「私は普通だよ。今のクラスでも平均くらいの身長だと思う」
「そうか。お前って遠くから見ると大きく見えるんだよな。でもこうして並ぶと小さい」
 信号が青になったので二人は並んで歩き始めた。通学路は豊川稲荷の表参道ではなく、児童の登下校に安全な駅前大通りのアーケードの方だ。
 皐月は一つ目の角を左に入るよう華鈴を誘った。大通りの一本裏道に皐月の家がある。左に曲がり、すぐに右に曲がって狭い路地に入ると少し先に皐月の家の松の木が見える。
「俺ん教えてやるよ」
「えっ? どうして?」
「特に意味はない。ちょっとランドセルを家に置いてきたかっただけだ。江嶋ん家まで送ってってやるよ」
「いいよ、別に。それに私、家知られたくないし」
「近くまで行ったら引き返すから、大丈夫だよ。そこまで家を見られたくないなら、探るような真似はしないからさ。ただ俺はもう少し江嶋と話したいだけなんだけど、ダメか?」
「ダメじゃないけど……」
「じゃあ決まりな」
 二人で下校をしているうちに、皐月は華鈴と別れ難くなっていた。

 小さな焼肉屋『五十鈴川』から肉を焼くいい匂いがしてきた。こんな早い時間にもう肉を食べている客が来ている。
 皐月は匂いにつられてお腹を鳴らしてしまった。同じクラスの友だちなら爆笑されるところだが、華鈴は聞こえないふりをしてくれてた。
「あ~、焼肉食べたい!」
「私も」
「あっ、あそこに松の木が見えるでしょ、板塀から道にはみ出たの。あの家が俺ん
「でかっ!」
「そんなにでかくないって。旅館をしていた古い家を借りてるんだ」
 改めて遠目に見る自分の家は全体が焦げ茶色で古惚ふるぼけている。確かに元は和風旅館だが、手入れのされていないこの建物をレトロと言うには無理があるかもしれない。隣の手芸店が明るくお洒落なので、そのコントラストを改めて見ると、皐月は恥ずかしくなってきた。
「芸妓の置屋おきやをしているから部屋数がないといけないって親が言ってた」
「ゲイコ? オキヤ? 何、それ?」
「ああ、江嶋は知らないか……。芸妓ってのはお酒の席で客をもてなす人のことで、京都の舞妓まいこさんの年食った人って感じかな。置屋ってのは芸妓さんたちが住み込んだりする家のこと。珍しいよな、今の時代」
「じゃあ藤城君のお母さんはその芸妓のお仕事をしてるの?」
「そうだよ」
「へ~、なんだか現実離れした話だね」
 家の前の松枝まつがえをくぐり、玄関の前まで来た。まだ行燈あんどんに明かりが灯っていないので、松の木の枝が影になって少し暗い。
「ちょっと待ってて、すぐ戻ってくるから。それとも俺ん家寄ってく?」
「さすがにそれはちょっと……」

 格子戸こうしどを開けて大きな声で「ただいま」と言うと、玄関先の楽器置き場にランドセルを放り投げ、慌てて台所へ入っていった。
「頼子さん、ただいま。何かお菓子ある?」
「あら、おかえりなさい。どうしたの? 慌てちゃって」
「今、玄関で連れを待たせてるんだ。これからまた出かけるんだけど、お菓子を持っていきたくてさ」
「お菓子ね……羊羹ようかんならあるけど、いくつ欲しいの?」
「2つでいいよ」
「2つね……友だちって女の子でしょ?」
「よくわかったね」
「今時の男の子って、女の子とよく遊ぶのね」
 頼子から手渡されたのは井村屋の『片手で食べられる小さなようかん』だった。これは小さくパックされた羊羹で、はさみを使わなくてもパッケージをギュッと押すだけで羊羹が出てくる優れものだ。煮小豆製法で小豆を煮汁ごと煮つめられているので、風味が豊かで美味しい。
「ありがとう。じゃあこれ持って行くね」
「ねえ皐月ちゃん、どんな子か見に行ってもいい?」
「えーっ! まあいいけど、別に彼女とかじゃないよ」
「ふふっ、楽しみ~」
 ゆったり歩いて玄関に戻る皐月の後に頼子がついて来た。三和土たたきで靴を履いていると、華鈴が中を覗き込んできた。その時、皐月の背後にいた頼子と目が合って、華鈴はびっくりしていた。
「こんにちは」
「あっ、こんにちは」
 華鈴は瞬時に大人への対応に切り替えていた。姿勢を正し、軽く礼をし、完璧な笑顔を作っていた。
「紹介するね。彼女は江嶋華鈴さん。うちの学校の児童会長で、俺と同じ修学旅行の実行委員もしてるんだ。家の方角が同じだから一緒に帰ってきた」
「初めまして。江嶋です」
「こちらこそ初めまして」
「ごめんっ、急いでいるから行くね」
「あっ、もう行っちゃうの? また遊びに来てね」

 皐月は早く頼子から華鈴を遠ざけたかったので、頼子の話が始まる前にそそくさと家を出た。頼子の方を見ている華鈴を押しだすような形で皐月は家から離れた。
「ちょっとどうしたの、急に?」
「別に……。今日は最終下校時間まで居残りだったから、早く帰らなきゃいけないだろ?」
「うちは両親が働いているから、急いで帰らなくても大丈夫なんだけど……」
「そうなのか? だったら家に寄ってもらえばよかった。お茶菓子でも出したのに。あっ、そういえば家からおやつ持ってきたんだ。あげるよ、はい」
 皐月は華鈴に『片手で食べられる小さなようかん』を手渡した。
「これいいの、もらっちゃって?」
「ああ。俺も自分の分持ってきたから、食べながら帰ろうぜ。腹減ったろ? これ、ここんとこ押すだけで羊羹が出てくるんだぜ」
 手で真ん中辺りをピュッと押すと羊羹がニュッと出てきた。この羊羹は片手で食べられて手も汚れないし、袋の切れ端が出ないのでゴミが少なく済む。
「江嶋もやってみ」
 華鈴も皐月の真似をして押し出すと、羊羹がパックの中で切れて上半分くらいが出てきた。
「あっ、かわいいっ!」
「かわいい? 変なこというなぁ。それより食べてみてよ。この羊羹、美味いんだから」
 華鈴は上品に口を小さく開けてパックから出た羊羹を少しだけ食べた。
「美味しい……甘すぎないのがいいね。小豆の粒がしっかりしてて、私好み」

 人が嬉しそうに食べているところを見ていると、皐月はいつも幸せな気分になる。
 5年生の時の華鈴はいつも無理をして、いい子を演じていた。だが、給食を食べている時だけは無邪気な顔だった。
 今の華鈴は昔の給食の時間の時のように、素に戻っているようだ。児童会長をしているくらいだから、華鈴は6年生になった今でも教室ではきっと無理をしているのだろう。

 皐月は栄町さかえまち商店街を避けて、文具店の手前の細い路地へ華鈴を誘導した。
 この通りは車が通れないほど細く、夜の飲食店の居酒屋2件、バー1件、料亭1件が軒を連ねている、ちょっとした飲み屋街になっている。華鈴はこの道を通ったことがなかったらしく、物珍しそうにキョロキョロしながら歩いていた。
 路地を抜けると豊川稲荷の表参道に出る。皐月はここで右に曲がるのかと思ったが、華鈴は豊川進雄とよかわすさのお神社方面に直進したいと言った。この先に小さな食料品店があるので、卵を買って帰りたいと言う。華鈴は学校帰りに時々買い物をして帰るらしい。
「ねえ、さっきのきれいな人って藤城君のお母さん?」
「いや、違うよ。あの人はママの芸妓げいこのお弟子さんで、家に住み込みで働いている人。でも芸妓というよりは、ほとんどお手伝いさんみたいに家事をしてくれているかな」
「へ~、藤城君の家って芸妓さんと一緒に住んでるんだ。家に芸妓さんがいるって、お父さん的にはどうなんだろう? 私のお父さんなら絶対に喜んじゃうだろうな、綺麗な人がいつも家にいるなんて」
「俺んって、父親いないんだ」
「あっ……ごめん」
「いいよ、全然気にしていないから。オヤジなんていない方がいいし」
 人に母子家庭だということを言うと、いつも微妙な空気になる。皐月は自分に父親がいないことは母にはいいことだと思っている。自分のために辛い思いを我慢してまで母に父と一緒に暮らしてほしいとは思わない。それに自分も父親とは一緒に暮らしたくない。
「さっき会った女性はね、俺のママの高校の同級生で、親友なんだ。あの人も離婚していてね、それで今は友だち同士で一緒に暮らしているんだ。二人ともすごく楽しそうだよ」

 華鈴が買い物に立ち寄った食料品店は青果を中心に一般食品や卵を少し売っているだけの店だった。かつては賑わっていそうな店構えだが、老夫婦が切り盛りをしているためか、今は商売の規模を縮小している。
 この食料品店は品ぞろえが絞られていて、店舗の半分くらいしか活用されていないので寂れているように見える。だが車で買い物ができない人が多いこの地域にはなくてはならない大切な店だ。
 皐月は華鈴の買い物が終わるまで店の外で待っていた。華鈴は店のおばあちゃんと少し会話をした後、ランドセルから買い物袋を取りだして買った卵を入れていた。会計を済ませ、おばあちゃんに手を振ってから華鈴は店から出てきた。
「いつもお金と買い物袋を持ってるの?」
「帰りに買い物に寄りたい時はね。本当は学校にお金を持ってく時は紛失や盗難防止のために職員室に預けなければいけないんだけど、面倒だからランドセルの奥にお金を隠してるの」
 華鈴が楽しそうに笑っている。クソ真面目な印象だった華鈴が密かに校則を破っていたことは皐月の華鈴への好感度を上げた。もともと皐月は華鈴に対してはいい感情しかなかったが、この時初めて華鈴にときめいた。

「卵を買ってたみたいだけど、今日の晩ご飯は卵料理?」
「うん。家に鶏の胸肉があるから、親子丼でも作ろうかなって」
「江嶋って自分でご飯作ってるんだ」
 皐月は華鈴の家庭的な一面を知り、ますます好きになった。
「親が二人とも仕事の時はね。でも毎日ってわけじゃないよ。うちの両親は飲食店で働いているから、二人とも家にいない日だけは自分でご飯を作ってる」
「そうか……お前、偉いな。うちの親も夜の仕事だから、さっき会った頼子さんが家に来るまでは、自炊することもあったよ。でも、片付けが面倒だな」
「藤城君も料理するんだ」
「5年生の時の家庭科の授業で調理実習があっただろ。あれで俺も家で料理してみようと思ったんだ。しばらくは授業で習ったほうれん草炒めと野菜サラダばかり食ってたよ」
「その頃はさっきの女の人はいなかったんだ」
「うん。でもその頃はまだおばあちゃんが生きていたから、ご飯は作ってもらえたんだ。でも、死んじゃってからは自分でやるしかないかなって思って、自炊してた」
「そんなことがあったんだ……」

 うっかり自分のことを言い過ぎてしまった。皐月は人から同情されることが好きではない。憐れみを受けるくらいなら揶揄やゆされる方がマシだと思っている。
「自炊はたまにしかしなかったけどね。お金をもらって外食したり、コンビニ飯だったりすることの方が多かったし」
「それでも自分でご飯を作ることもあったんでしょ。そんなの小学生はなかなかできないよ。私も自分でご飯作ることがあるから、わかってる」
「まあご飯っていっても、自分の好きなものしか作ったことがないけどね。毎日カレー食ってた時もあったから、ひどいよな」
「私も自分の好きなものしか作らないし、簡単なもので済ませちゃうよ」
「授業で栄養のバランスとか教えてもらったけど、そんなの全然考えてなかったな」
「そんなの当たり前じゃない。自炊は自分の好きなものだけを食べられるからいいんだよ」
 5年生の時に華鈴と席が隣同士だった頃、二人でいろいろなことを話してはいたが、お互いの私生活のことは何も話していなかった。皐月も家の事情を隠していたので気付かなかったが、どうやら華鈴は皐月と境遇が似ているようだ。優等生のベールの奥には、家庭的で親しみやすい顔が隠れていた。


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音彌
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