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いつかまた奈良で(皐月物語 153)

 法隆寺東院の四脚門を出た稲荷小学校の児童の行列は参道の石畳の上を歩いていた。築地塀ついじべいと桜並木の間を同級生たちが列をなしている様子は壮観だ。最後尾から眺めていた藤城皐月ふじしろさつきは飛鳥時代の法隆寺で行われる法要に僧として参加しているような気分になった。
 案内人の立花玲央奈たちばなれおなの隣には神谷秀真かみやしゅうまが陣取っていた。ここから南大門に到着するまでの残された時間、皐月は玲央奈とともっといろいろな話をしたいと思っていた。だが、秀真にとってはこの瞬間こそが立花との一期一会になる。そう思うと、秀真の好きにさせてやりたいという気持ちにもなる。皐月はすでに玲央奈とネットで繋がっているので、いつでも言葉を交わすことができる。
「中宮寺で弥勒菩薩が信仰されていたのって、なんでですか?」
 弥勒菩薩の好きな秀真にとってこれは重大問題だ。皐月も秀真と同じくこのことを気にしていた。
 中宮寺の本尊が如意輪観音に変更されたのは鎌倉時代だ。だが、それ以前の本尊はわかっていない。現在の本尊の半跏思惟像が飛鳥時代に造られたのはわかっているが、いつから中宮寺にあったのかもわからない。
「中宮寺の創建の詳しい事情は不明です。だから正確なことは言えません。私の妄想なら話せますが、それでもいいですか?」
 秀真は静かに頷いた。皐月もそばに寄って、立花の話を楽しみに待った。
「聖徳太子の同士として国造りに尽力した秦河勝はたのかわかつという人物がいたのですが、神谷さんは知っていますか?」
「はい。知っています」
 皐月でも秦河勝の名前くらいは知っているが、どのような人物なのかまでは知らない。一緒に歩いている同じ班の二橋絵梨花にはしえりかは頷いていたので、知っているようだ。勉強のできる栗林真理くりばやしまりや、文学少女の吉口千由紀よしぐちちゆきなら、もしかしたら皐月と同程度の知識があるかもしれない。だが、歴史に興味のない烏丸凛からすまりん一宮風花いちみやふうかは知らないだろう。
「秦河勝は京都に蜂岡寺はちおかでらという、現在の広隆寺こうりゅうじを建てた人です。広隆寺は603年に、法隆寺と中宮寺が607年に建てられたので、これらの寺はほぼ同時期に建てられたんですね」
 話が京都に飛び、皐月たちは少し戸惑っていた。だが、立花が言った広隆寺と中宮寺のどちらにも弥勒菩薩半跏思惟像があることを知っている絵梨花は立花の言わんとすることを理解していた。
「聖徳太子が部下たちに『私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏をお祀りする者はいないか』と言うと、秦河勝が『やつがれがお祀りしましょう』と申し出ました。ヤツガレってわかりますか?」
「『僕』のことだよね。難読漢字のクイズで見たことがある」
 漢字の得意な千由紀に答えられる前に皐月が答えた。皐月は立花にいいところを見せたい一心でムキになっていた。
「そう。やつがれは男の召使を表す謙譲語です。『日本書紀』では大臣の臣という漢字が用いられています」
 やつがれに喜んでいたのは男子の皐月と秀真だけだった。女子はこういう中二病的な言葉には反応が薄い。
「秦河勝は聖徳太子から仏像を賜って蜂岡寺を造ったんですが、その仏像が弥勒菩薩半跏思惟像だと『日本書紀』に書かれていません。ですが、蜂岡寺は創建当初、弥勒菩薩を本尊としていたので、聖徳太子から譲り受けたのはやっぱり弥勒菩薩半跏思惟像だったと、私は信じています」

 稲荷小学校の児童たちが東大門をくぐり始めた。歩みが少し遅くなったので、皐月は少し周りを見た。振り向けば夢殿の屋根が見え、右手には水路と並木の向こうに宗源寺の四脚門が見えた。
「秦河勝の創建した広隆寺と、聖徳太子の創建した中宮寺に祀られている二つの半跏思惟像は御姿がよく似ています。でも、作風は少し違っていて、広隆寺の半跏思惟像は朝鮮三国時代の作風を色濃く残しているのに対し、中宮寺のは日本的な感覚で再構成した斬新な様式となっています」
 皐月はあの魅惑的な中宮寺の半跏思惟像を思い浮かべ、確かに斬新で色っぽい仏像だったと思い返した。ここにいたみんなもそれぞれ中宮寺の仏像のことを考えていたようだ。立花はひとまず話を中断して、皐月たちを率いて東大門を抜けた。
「中宮寺が広隆寺よりも少し後に創建されたことを覚えていますか?」
 東大門の基壇を下りたところで立花は創建の順番の確認をした。
「私はこう想像します。広隆寺の半跏思惟像は朝鮮半島から持ち込まれた物だった。聖徳太子は秦河勝に譲った弥勒菩薩像を見本として、それを超えるものを中宮寺向けに造らせていた。だから、中宮寺の半跏思惟像は日本的な、より美しい仏像になった。どちらが美しいかは、私の好みなんですけどね」
 女子たちの間で笑いが起きた。絵梨花がとても嬉しそうな顔をして立花を見つめていた。
「中宮寺は創建当時、聖徳太子から賜った広隆寺と同じタイプの弥勒菩薩を本尊にしたんだと思います。後に弥勒菩薩の信仰が聖徳太子の信仰へと変化したというのが私の想像なんですが、これで解答になったかな? 神谷さん」
「はい! すっごく納得しました。広隆寺を超える仏像を中宮寺の本尊にしようとしたんですね」
「あっ、これはあくまでも私の妄想だから、真に受けないでね。実際どうなのかはわからないんだから」
 秀真はオカルトに対するアプローチを、まず何でも信じることから始めると言っていた。皐月はその態度をずっと危なっかしいと思っていたので、この時の秀真の態度に嫌な感じがした。皐月の心配をよそに、秀真はすっかり立花の話に感激していた。
 秀真は聖徳太子のことを存在していなかったと言った。立花も秀真と同じ考えだ。ならばこの話をどう考えたらいいのだろうか……皐月の混乱は増すばかりだった。

 皐月たちは法隆寺の再建前の若草伽藍のあった辺りを歩いていた。目の前には立花玲央奈が法隆寺で一番好きだと言った景色が広がっていた。皐月の隣に栗林真理が来ていた。
「この道、素敵ね」
「そうだな。ここに来るまで、法隆寺がこんなにいいところだとは想像もしてなかった。修学旅行でいろいろまわったけど、法隆寺が一番好きかも」
「皐月もそうなんだ……。私も法隆寺が一番好き。最初はそんなに期待していなかったんだよね。だって、京都の方が華やかなイメージじゃない?」
「まあ、そうだよな。外国人観光客も京都の方が多いし」
「仏像だけじゃなくて、大宝蔵院で宝物ほうもつが見られたのも良かった。東大寺でも東大寺ミュージアムの宝物を見たかったな。他のクラスの子たちは見た子もいたんでしょ?」
「まあ、そうみたいだね。でも、俺たちは二月堂とか法華堂に行ったわけじゃん。両方は行く時間がなかったんだし、また見に来ればいいじゃん」
「そうだね……。また、来よっか」
 皐月と真理が話している間、秀真は立花と弥勒の話をしていた。
「弥勒って救世主ですよね? 釈迦の教えが滅びようとする時、天変地異が起こり、死に至る病が広まって世界が滅びそうになる。そこに弥勒菩薩が兜率天とそつてんからこの世界に降臨して、苦しむ人々を救済する。これって、キリストの再臨と似ているようで違う気がするんですけど、僕にはよくわからなくて……」
 深刻な顔をする秀真を見て、立花が驚いていた。
「小学生なのに、そんなこと考えているんだ……。神谷さん、あまりそっちの世界に足を突っ込まないで、もっと伸び伸びと過ごした方がいいよ」
「そうかもしれないけど、知っちゃったら気になるでしょ? しょうがないじゃん……」
 皐月は秀真の気持ちがよくわかる。秀真に終末論的な世界観を聞かされて、うっかり興味を持ってしまった。一度知ってしまうと、もう元のぬくぬくとした暮らしには戻れない。頭の片隅に自分たちが生きている間に世界が滅びるんじゃないかという恐怖が刷り込まれてしまった。
「そう……。それならたくさん勉強して、不正確な情報に踊らされないようにするしかないですね」
 立花の言葉が皐月の心に刺さった。確かに知らないことがあるから不安になる。一度でも終末論に関わったからには、情報収集して知識を極めるしかない。皐月は精神的重圧と付き合い続けなければならなくなったことがわかり、悲壮な気持ちになった。
「じゃあ、弥勒とキリストの違いを簡単に話します。詳しいことは自分で調べてください」
 秀真は黙ってうなずいた。皐月も固唾を飲んで立花の話を待った。
 歩みが遅くなって、前を歩いている1組と距離が離れてきた。皐月たちは徳川家康が大坂冬の陣の出陣前に戦勝祈願 に訪れて一泊したといわれている、法隆寺子院の弥勒院の前まで来ていた。
「弥勒菩薩の下生げしょうは説法によって善人も悪人も全ての人々を救済するんですけど、キリストの再臨は世界を義をもって裁くんです。キリストは過去を含めたすべての人間を地上に復活させ、その生前の行いを審判して、天国行きと地獄行きに分けるんです。仏教と違って、キリスト教は厳しいでしょ?」
「はい」
「もしこれからもそういった話に興味を持ち続けるなら、いろいろな話をゴチャゴチャにしないで、丁寧に切り分けて考えるようにしてくださいね。カルト宗教とか、スピリチュアルとかは色々な宗教を統合しようとするのが多いから、終末論に怯える人が引っ掛かりやすいんです。あと、優秀な人も宗教を統合したがりますね。自分ならできるという自信があるんでしょうね」
 皐月には立花のアドバイスがまだよくわかっていなかった。だが、これからオカルト的な知識を知っていくうちに、理解できる時が来るのかもしれない。秀真の心配だけでなく、皐月は自分も気をつけなければとこの言葉を心に刻んだ。

 西院伽藍の中門を右に望みながら、稲荷小学校の児童たちは参道を左へ曲がって南大門へ向かっていた。先頭を歩いている3組はすでに南大門を抜け始めていた。
「神谷さん、ごめんね。ちょっとお説教臭くなっちゃって」
「いえ……。勉強になりました」
「でも、神谷さんは凄いね。小学6年生なのに色々なことを知っている。私が6年生の時なんか、法隆寺を見ても『大きいなぁ~、古いなぁ~』くらいしか思わなかったよ」
「ガイドさん、私と一緒だね」
 一宮風花いちみやふうかが立花にじゃれついた。一緒にいた烏丸凛からすまりんは風花の横で笑っていた。
「法隆寺はどうだった?」
「古くて、いいな~って思った」
「昔の私と同じだ。そちらのあなたは?」
 話を振られた凛は一瞬、言葉に詰まった。
「私は……ガイドさんの話が面白かったです。歴史なんてつまんないと思っていたけど、全然そんなことないって思いました」
「そう言ってもらえると、嬉しいな。あなたたちをガイドできて良かった」

 皐月たちも南大門を出た。これで法隆寺の参拝が終わった。1組から3組まではそれぞれのガイドの人に別れの挨拶をして、松本屋に買い物に行く者と、バスに戻る者に分かれた。皐月たちは前島先生たちが来るまで南大門の前で待つことにした。
「皐月さん、さっき中宮寺でみんなより先に本堂の外に出て行ったよね? どうしたの?」
 立花は中宮寺での皐月の異変に気付いていた。皐月は誰にも気づかれないように気を付けていたつもりだったので驚いた。
「うん……ちょっとね……」
 皐月はあの時、少し変な気持ちになっていた。中宮寺の半跏思惟像には魔性がある。玲央奈もおかしな気持ちになっていたのかもしれないと思うと、中宮寺で感じたことは適当なことを言って誤魔化さなければならない。
「また辛くなっちゃったの?」
「……まあ、そんなとこ」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
 玲央奈はこれ以上、理由を聞いてこなかった。皐月にとっても答えられるようなことではなかったので、玲央奈の配慮に助けられた。
「皐月さんは修学旅行で法隆寺が一番良かったんだ」
「そうだよ」
「私のガイドのおかげかな?」
「当ったり前じゃん。玲央奈さんに色んなことを教えてもらえて、すごく勉強になったし、建物や宝物の実物を実物を目の前にして想像したり推理する面白さもわかった」
「皐月さんは感受性が豊かだから、昔の人の気持ちがわかり過ぎて、苦しくなっていたね」
「でも楽しかった」
 前島先生が児童を引き連れて歩いてくるのが遠くに見えた。立花がみんなに呼び掛け、松並木を抜けて奈良県道146号法隆寺線にある斑鳩めぐり案内図の前に移動した。

 立花と皐月たちが着く頃にはすでに前島先生たちが案内図の前に来ていた。既にバスに戻った児童たちもいたようで、クラスの半数くらいしかこの場には集まらなかった。他のクラスの児童たちもいて、その中に1組の江嶋華鈴えじまかりんがいた。
 立花と前島先生は挨拶を交わし、お互いに今日の日のお礼を言い合っていた。二人が少し談笑した後、立花を囲んで記念撮影をすることになった。横断歩道を渡り、もう一度法隆寺の敷地内に入った。
「南大門と松並木をバックに撮りましょう。みんな並んで。1組の子も2組の子も3組の子も入って」
 立花は皐月と秀真を呼び、自分の両隣に並ばせた。立花の前に一宮風花と烏丸凛、二橋絵梨花にはしえりかが来て、しゃがんで立花の邪魔にならないようにした。皐月たちも中腰になり、後ろに並ぶ他のクラスの児童たちが良く写るようにした。
「それでは撮ります」
 前島先生が自分のスマホで写真を撮った。撮影が終わると華鈴が前島先生のもとへ駆けて行った。
「前島先生も入ってください。私が撮影します」
「いいの?」
「はい。4組だけの写真を撮りましょう」
 華鈴の提案で4組だけが残り、もう一枚写真を撮った。
「私たち、先にバスに戻っています」
 そう言って、華鈴は4組以外の児童を引率してバスに戻った。そんな統率力のある華鈴を見ていて、皐月は改めて華鈴が児童会長をしていることを思い知らされた。この時の華鈴は凛々しく、美しかった。
「それでは、みなさん。立花さんにお礼を言いましょう」
 ここにいる4組全員で立花に案内のお礼を言い、最後に一人ずつ挨拶をして別れた。皐月は順番が最後になるように立ち回り、みんなの挨拶が終わるのを待った。秀真が挨拶をし終えて、皐月の番になった。
「玲央奈さん。今日はありがとう」
「元気でね、皐月さん。写真、送るから」
「うん」
 バスに戻る秀真たちと少し距離が開いたのを確認して、皐月は玲央奈と最後の言葉を交わした。
「またここに会いに来るから」
「待ってるね」
「じゃあ、行く」
「うん。バイバイ」
 皐月は手を振って玲央奈と別れた。泣きそうになった顔を見られたくないので、決して振り向くまいと思った。だがしばらく歩いていると我慢できなくなり、両手で顔をこすって表情を整えて振り向いた。玲央奈は法隆寺を去りながら、指を目に当てていた。

 帰りのバスに乗り込むと、先にバスに戻っていた一部の男子児童が柿の葉寿司を食べていた。バス乗り場の手前にある平宗ひらそうで売っていたものだ。
 皐月が自分の席に行くと、隣に座る二橋絵梨花が窓際の席を空けていた。
「藤城さんが窓際に座って」
「えっ? そんな、気を使わなくてもいいのに」
「今度は藤城さんが外の景色を楽しんでよ」
「俺、あとでバスレクしなきゃいけないから、通路側の方が出やすいんだけど」
「そんなの私の前を通ればいいじゃない」
 ここは絵梨花を立てることにして、窓際の席に座った。皐月は路線バス以外のバスにはあまり乗ったことがないので、窓から見る外の景色が新鮮だった。
「二橋さん、疲れた?」
「うん……さすがに疲れちゃった」
「旅行ってこんなに疲れるものかな? 温泉に入って、美味しいものを食べる旅行しかしたことがなかったからな……」
「でも、すごく楽しかった。こんなに楽しい旅行は初めて。たぶん、この先もこの修学旅行より楽しい旅行なんてないんだろうな……」
 天井を見上げながら、絵梨花はそっと目を瞑った。感慨に耽っているのだろうと思い、皐月はそっとしておくことにした。
 窓の外に松本屋で買い物をした児童たちが続々とバスに戻って来るのが見えた。やはりみんなにも疲れの色が見られた。ソフトクリームを持っている子が何人かいて、その手があったかと皐月は感心した。
「藤城君」
 通路側を見ると、修学旅行実行委員の筒井美耶つついみやが立っていた。
「バスレクの準備をしたいんだけど、いい?」
「わかった」
「先生が運転手さんの後ろに席に移動するから、左側の一番前の席でバスレクをするようにって言ってた」
「じゃあ、そっちに移動するか」

 通路側に座っている絵梨花を超えて、一番前の席へ移動した。窓際には美耶が座った。
「先生がね、高速道路に入ったらバスの中で立っちゃいけないって言ってた。どうする?」
「マジか……。じゃあ、出発前に用紙を配っておこうか」
 美耶は色のついたドラッグストアのレジ袋を4枚持って来た。クラスメイトの名前を書いた用紙が2枚ずつ入っていた袋を1枚と、「いつ」「どこで」「何をした」と書かれた袋を3枚、それとは別に人数分の用紙を持ってきた。用紙は全て、二つ折りにしてあった。皐月が委員会の仕事で忙しかったので、美耶がバスレクの準備をしていた。
「ありがとう。筒井、完璧に準備してくれてたんだね。これでみんなが楽しんでくれるといいんだけど……」
「大丈夫。美優ちゃんたちが盛り上げてくれるから」
「根回しまでしてくれてたんだ。サンキュー」
 バスレクをやりたいと修学旅行実行委員に提案したのは新倉美優にいくらみゆだ。美優は松井晴香まついはるかと並ぶ、クラスのカーストの最上位の女子だ。美優といつも一緒にいる伊藤恵里沙いとうえりさ長谷村菜央はせむらなおも盛り上げてくれるだろう。

 バスレク用の用紙を配り終わると、皐月は前島先生に声をかけられた。
「藤城さん。今から音響の説明をしますね」
 担任の前島先生は通路を挟んで隣の席にいた。皐月はスマホではなく、音楽プレーヤーを持ってきた。これは芸妓げいこをしている母の弟子の及川頼子おいかわよりこが使っているプレーヤーを借りたものだ。
 接続端子などの確認をしていると、バスにカラオケが用意されていることがわかった。
「カラオケできるんだ……」
「したいの?」
「う~ん。どうしよう……。疲れちゃったから寝ちゃいたい気もするけど、やりたい子もいるだろうな……」
「藤城さんが独断で決めちゃってもいいのよ。まだ誰も知らないから」
 皐月は先生にじっと見つめられた。こんな時なのに先生を異性として意識してしまい、ちょっと妙な気持ちになってしまった。中宮寺の弥勒菩薩を見ていた時の前島先生を思い出し、あらぬ事を想像してしまったからだ。
「じゃあ、やめておきます。僕はカラオケが好きだから歌いたいけど、歌いたくない子もいると思うし、同じメンバーだけで歌い続けていると、歌わない子は仲間外れにされたような気持ちになると思う。それに寝たい子もいると思うから、カラオケはやらないことに決めちゃいます」
「わかりました。じゃあ当初の予定通り、レクリエーションが終わったら音楽を流しましょう」
 皐月は安堵した。カラオケをやりたい気持ちは強かったが、それ以上に落ち着きたかった。だが、いつかこのクラスのメンバーでカラオケをしてみたいという思いはある。今はまだ小学生なので、カラオケに行けない。
「前島先生はカラオケするんですか?」
「しますよ。たまにね。一人カラオケだけど」
「ヒトカラ! いいな~。それ、僕の夢だよ。先生はどんな歌を歌うんですか?」
「昔の歌ですよ」
「僕は昭和歌謡が得意です。いつか先生とカラオケに行きたいな」
「教師と生徒の関係が終わったら、また誘ってね」
 前島先生ともっとプライベートの話をしたかったが、そろそろバスが出発するということで、席に着かなければならなくなった。皐月は次のパーキング・エリアに寄るまで美耶の隣に座ることになった。
 皐月と美耶は手分けをして、みんなに書いてもらった用紙を回収した。これでバスレクの準備が整った。
「筒井は修学旅行、どこが一番良かった? 俺は法隆寺」
「法隆寺か……。藤城君、ガイドさんと仲良くなったもんね。いいな~」
「筒井もガイドさんともっと喋ればよかったのに」
 美耶は一瞬、ムッとしたように見えた。
「私は東大寺。教科書で習った大仏も良かったけど、その後、勉強班で二月堂とか法華堂に行ったのが楽しかった」
「俺も! みんなで歩いた二月堂裏参道も良かったよな。法華堂の仏像は大仏よりも良かった」
 美耶は嬉しそうにうなずいていた。
「筒井が不空羂索観音ふくうけんさくかんのんの顔を穏やかじゃないって言ったのには驚いたよ。筒井には俺には見えないものまで見えているみたい」
「そんなことないよ~」
「筒井と一緒に仏像巡りをしたら楽しそうだな……。いつか仏像巡り、付き合ってよ」
「え~っ。私、そんなに仏像って好きじゃないんだけどな……」
 皐月は美耶が宗教を嫌っているのを忘れていた。
「そうか。そういえば筒井って、お寺のことあまり好きじゃなかったっけ。じゃあ俺、一人で見るよ」
 皐月はフラれたような気分になっていた。気持ちを逸らすため音楽プレーヤーを立ち上げて、曲名リストを確認し始めた。1曲目にボリューム調整用の曲を追加しようと思い、頼子の入れた曲からみんなが知ってそうな曲を探すことに没頭した。古い男性アイドルの曲ばかりで、目的に合いそうな曲が見つからない。
「ねえ、藤城君。いつか一緒に東大寺に付き合ってもらえないかな。今度はゆっくりと見てみたい」
「東大寺か……。全然ゆっくりできなかったもんね。もっと時間をかけて見てみたい所がたくさんあった。見ていない所もあるし、鹿とも遊んでいない。やり残したことだらけだ」
「美味しいものも食べていないよね」
「そうだな。グルメは大事だよな。また、行こうか。東大寺」
「うんっ!」
 美耶とも何時かのデートを約束できた。でも、どうせ忘れられるだろうな、と皐月はあまり期待をしていなかった。ただこの時だけでも楽しい未来を夢見ることができれば、それでいいと思った。

 バスが出発した。法隆寺参道の松並木を見ながら、皐月は大きなものを乗り越えたような、大きなものを失ったような気持ちになっていた。いろいろなことがあった。修学旅行だから嫌な思いをしなくて済んだが、物足りない思いはたくさんあった。
 市街地に出ると、どこにでもありそうな地方都市の景色が広がっていた。チェーン店に賃貸マンション、古い戸建て住宅や名も知らない中小企業の建物を見ていると、ついさっきまで飛鳥時代の法隆寺にいたことが夢のように思えた。
「筒井」
「なに?」
「修学旅行、終わっちゃったな」
「うん」
「この時間がずっと続けばいいのに……」
「……うん」
 バスは大和川に掛かる御幸大橋みゆきおおはしを超え、法隆寺ICから西名阪自動車道に入った。本線と合流して落ち着いた頃を見計らい、皐月は音楽プレーヤーからバスレク用のBGMを流し、マイクを取ってクラスメイトに話し始めた。
「それでは今からみんなが楽しみにしていたバスレクを始めま~す」
 ここで新倉美優と伊藤恵里沙いとうえりさ長谷村菜央はせむらなおの三人が「イェ~イ」と声を上げ、手を叩いて盛り上げてくれた。それにつられて他の児童も一緒になって騒いでくれた。
「さっきみんなに書いてもらった用紙を使って、短い文章を作ります。いつ、どこで、誰と、誰が、何をした。みんな、面白いことを書いてくれたかな?」
「書いたー!」
「下品なこととエロは書いていないよね?」
「書いてなーい!」
「ありがとう。じゃあ、これから始めるね」
 BGMのボリュームを下げ、皐月と美耶で回収した用紙を交互に読み上げた。

 バスレクは大いに盛り上がって、成功のうちに終わった。皐月の想像以上にみんなが笑って、楽しんでいた。
 4組の児童はアホが多いので、エロはやめろと言ったのに軽いエロを入れたり、下品はやめろと言ったのに判断に困ることが書かれていたりした。皐月と美耶が「これは読めない」と言っても、みんなが「読め」と言うので読み上げると、大爆笑になった。
 皐月はBGMをみんなのリクエストした曲に切り替えた。これで後は音楽を聞きながら豊川に戻るだけになった。
「ふぅ~。終わった……」
「お疲れ様。これで実行委員の仕事が終わったね」
「いや……俺にはまだ最後の挨拶が残ってるんだ。ヤベーな。文言忘れちゃったよ。アドリブで乗り切るか」
「大変だね」
「まあ、委員長だからな。それより筒井。ありがとうな」
「えっ? 何?」
「バスレクの準備、全部任せちゃって……。本当に助かった」
「いいよ、それくらい」
 美耶を見ると、6年生になって一番可愛い顔をしていた。皐月は美耶があまりにも可愛くて、本気で好きになりそうになった。美耶は明るくて、穏やかな性格をしている。幼馴染の栗林真理と同じくらい、一緒にいて気を使わないでいられる。
「筒井と一緒に実行委員をやれて良かった」
「本当? 私もそう思ってた」
「修学旅行が終わったら、実行委員も終わりか……。寂しいな」
「……そんなこと言わないでよ。私まで寂しくなっちゃう」
 美耶を見ると泣きそうな顔をしていた。美耶じゃなければ、ここで抱き寄せてしまいたかった。だが、美耶にはそんなことはできない。皐月は美耶には絶対に手を出してはいけないと思っていた。それは美耶が自分のことを好きだということを公言しているからだ。

 バスは伊賀SAに入り、一度目の小休止となった。何人かの児童がトイレに行ったり、外の空気を吸ったりしていた。
「俺、自分の席に戻るわ」
「えっ? なんで?」
 皐月が立ちあがると、美耶が驚いた顔で皐月を見上げた。
「おやつと飲み物が席に置いてあるんだ。俺、腹へっちゃって」
「そんなの、ここに持ってくればいいじゃない」
「それは不自然だ。俺は戻るよ」
 通路側に座っていたのが幸いした。皐月は速やかに席を立って、自分の席に戻った。
 皐月はこれ以上、美耶に深入りしたくなかった。自分との関係を秘密にできない相手とは異性の付き合いをしたくなかったし、美耶を傷つけることになるのがわかっていたからだ。それならば最初から近づくべきではない。
 絵梨花の座っている席へ戻ると、皐月の席に真理が座っていた。皐月は少し嫌な感じがした。
「そこ、俺の席」
「出発までならいいでしょ?」
 勝手にバスの席を代わってはいけないと、学校の規則で決められていた。混乱やトラブルの元になるからだ。だが、出発までなら問題はないと思い、皐月は黙って秀真の隣に座った。秀真は皐月と話したがっていたようで、皐月が来るのを喜んでくれた。
「僕さ、ちょっと仏教に目覚めちゃったかもしれない」
「えっ? どういうこと?」
「修学旅行でいろんなお寺に行っただろ? そこで感じたんだ。神道だけじゃなくて仏教のことももっと知りたいって。空海とかスゲーよな」
「はぁ……。そうなのかね?」
「世界の神々ってさ、結局は習合してるんだよね。だから、それぞれの宗教の知識だけだと不完全なんだ。神々の繋がりを意識しなきゃ、神の本当の姿が見えてこない」
 秀真は今まで以上にオカルトにのめり込もうとしていた。これまで皐月はそんな秀真のことを面白がっていたが、今は危なっかしくて心配だ。
「東大寺と法隆寺は良かったな。古代日本の情熱が伝わってきたよ。あの時代に自分がいなかったことが悔しいな。くそ~」
 こんなに熱くなっている秀真を見るのは初めてだ。皐月はちょっと秀真のことを羨ましく感じた。自分は秀真に比べ、オカルトや古代史に冷めかかっている。だが、それは単に知識不足による見識の狭さなのかもしれない。
秀真ほつまもそうかもしれないけどさ、俺ももっと勉強しなきゃなって思ったよ」
 立花玲央奈と話していて、皐月は自分が物を知らな過ぎることを痛感した。今のままでは玲央奈と対等に話ができない。
「じゃあ、二人で切磋琢磨しようぜ。皐月こーげつと僕は同士だ」
「そうだな。一緒に勉強、頑張ろうぜ」
 希望に燃える秀真を見ていると、皐月は自分の心配なんて些細なことだと思えてきた。

 バスが出るので、真理と席を代わって皐月は自分の席に戻った。絵梨花はやはり窓際の席を皐月に譲った。
「藤城さん、もうこっちに戻って来ないかと思ってた」
「どうして? 俺の席はここだよ」
「そうだけど、神谷さんと楽しそうだったから」
「バスレクも終わって、やっと少し落ち着ける。でも、まだ学校に着いたら挨拶をしなきゃいけないからな……」
 挨拶の文言は修学旅行のしおりに書いてある。ナップサックから出して確認すればいいのだけれど、面倒くさい。だがそうも言ってられないので、皐月はナップサックを開けた。
「あら? いい匂い」
「ああ……。匂い袋だね、この香りは」
「野上さんと交換したので有名な匂い袋だね」
 急に実果子の名前が出たので驚いた。絵梨花の顔を見ると、こういう時も余裕のある笑顔をしていた。
「二橋さんが知っているくらいなら、相当有名なんだろうな」
 体験学習で作った匂い袋を男女で交換するとカップルになるという言い伝えがあるらしい。二本木小学校の先輩から代々伝わっている迷信だ。兄や姉がいる者は知っている話だが、皐月はそのことを知らなかった。だが、交換相手の野上実果子のがみみかこはもしかしたら知っていたのかもしれない。
「俺は自分が作った匂いの方が好きなんだけどな……」
 皐月は自分で作った匂い袋を気に入っていた。本当は実果子のと交換したくなかったが、まだ執着がなかったので実果子の好きにしてやった。
「でも、野上さんが作った匂い袋もいい香りがするよ。清水寺を思い出しちゃうな~」
「清水寺?」
「そう。清水寺の本堂の香りに似ているかな」
 皐月は実果子と清水坂の来迎院らいごういんの前で会った。その時、実果子は清水寺に行く途中だった。実果子にとって清水寺がいい思い出だったから、本堂の香りに似せたを匂い袋を作ったのかもしれない。
 これ以上、絵梨花に野上のことを聞かれたくなかったので、手早く栞を取り出して、ナップサックを片付けた。実果子との修学旅行の思い出はいいものだけではなかった。実果子と交換した自分の匂い袋を捨てた奴のことを思うと、今でも怒りで頭に血が上る。
「二橋さんは修学旅行でどこが一番良かったの?」
「一番か……。旅行に行く前は東寺とうじを一番楽しみにしていたんだけど、二日目の東大寺と法隆寺も良かったからな……。でも、仏像は最後の中宮寺の弥勒菩薩が一番良かった。見られないかと思っていたけど、見られて嬉しかった」
 皐月は絵梨花に中宮寺で弥勒菩薩半跏思惟像に陶酔していた時と同じ雰囲気を感じた。まだ男性経験のない絵梨花が弥勒菩薩像に感じたものがなんなのか気になる。
「そういえば二橋さんは半跏思惟像を夢中になって見ていたよね。俺、一番後ろで見ていたから、みんなの様子がよくわかったよ」
「ヤダ……恥ずかしい。でも、また見に来たいな。もっとゆっくり見たかった」
「今度は山吹が咲く頃に見に来よう。仏像だけじゃなく、お寺も美しいから」
「そうだね……」
 絵梨花は目を閉じた。弥勒菩薩像を思い返しているんだと思い、そっとしておくことにした。皐月も窓の外に目をやった。バスから見る車窓は視線が高く、景色が良く見える。普段は見ることのない山の中の景色が珍しく、飽きることがない。
 絵梨花が何も話しかけてこなくなったので、どうしたんだろうと様子を見ると、ウトウトしていた。首が安定していなくて、これでは身体に悪そうだ。
「二橋さん、眠いの?」
「あ……うん。ちょっと眠いかな」
「席、代わろうか? 窓際なら身体を持たれかけて眠れるよ。その方が身体に優しいから」
「うん……。でも、動きたくないな……。藤城さんの肩、貸して」
 皐月は一瞬、躊躇した。絵梨花は男子の間で人気がある。男子から嫉妬されるのは間違いないだろう。それに真理はどう思うのか。美耶はどう思うのか。様々な思いが去来した。
「いいよ」
「ありがとう」
 絵梨花は少し体を寄せ、皐月の肩に頭を預けてきた。絵梨花の体は真理よりも軽かった。皐月はこの状況を喜んでいたが、ほとんどドキドキしなかった。女慣れをしてきたんだと思った。
 時間が経つにつれて、だんだんこの姿勢が苦痛になってきた。絵梨花を起こすかもしれないと思うと、身動き一つ取れない。相手が真理ならもっと雑に扱えるが、絵梨花とはそんな関係ではない。皐月は絵梨花のことをまだ、壊れ物のようにしか扱えない。
 皐月は栞を見たり、窓の外を眺めたりするしかなかった。このシチュエーションは絵梨花のことを好きな男子から見れば羨ましい限りだろうが、皐月はこの後のことを考えるとだんだん憂鬱になってきた

 しばらく走ると、バスは最後の小休止のために刈谷PAへ入った。ここで停まると何人かの児童に絵梨花に寄りかかられているところを見られてしまう。絵梨花を起こそうと思ったが、寝息を立てている絵梨花を見ると皐月には起こすことができなかった。
 バスが止まりそうになったので、皐月は狸寝入りをした。顔を絵梨花から背け、窓の外の方に向けてうつむいた。バスが出るまではこの姿勢を絶対に維持しなければならない。
 バスが止まると、何人かの児童がバスの外に出たようだ。皐月は目を瞑っているので、誰に見られたかはわからない。全神経を周囲に張り巡らせ、自分に向けられた視線や気配を探ろうとした。だが、特に嫌な感じはしなかった。
 前の席に座っている真理が外に出たようだ。皐月は絵梨花と寄り添って寝ているところを見られたのは間違いないと思った。これまでは女子と仲良くしていても寛大だった真理だが、この姿を見てどう思うか。皐月は目を閉じながら少し考えたが、まあどうにかなるだろうと思った。
 バスの中は静かだった。寝ている者が多いのだろうか。みんなだって修学旅行で疲れているはずだ。車内に流れているみんなの選んだ曲はまだ一周していない。リピートにしていないので、全員の曲が流れたら、そこで音楽が終わる。今流れているのは少し前に流行ったが、皐月の全然興味のない曲だった。
 再びバスが走り始めた。目を瞑っていたせいか、皐月は眠くなっていた。もう愛知県内にいると思うと安心するのか、気持ちが安らかになり、睡魔に抗えなくなってきた。絵梨花と触れ合っているところが温かい。
 皐月はこの夢心地を失いたくないと思い、寝ないようにしていた。だが、あまりにも気持ちいい。皐月は幸せを感じながら、いつしか眠りに落ちていた。


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音彌
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