見出し画像

「国難」への覚悟―犬養毅と濱口雄幸


一、昭和の實盛、起つ

 昭和四年(一九二九)六月二日、犬養毅は頭山満とともに中国を訪れた。四年前、「革命未だ成らず」の言葉を遺した死んだ孫文の墓が、北京から南京郊外に移されることになったのである。頭山とともに、「大アジア主義」の理想を掲げて辛亥革命の手助けを惜しまなかった犬養は、時の国民政府の蒋介石から、国賓の待遇を以て迎えられた。
 孫文が亡くなった大正十四年(一九二五)、国内で普通選挙法が公布されると、犬養は政界からは引退。信州富士見の白林荘で悠々自適の日々を送っていた。しかし、犬養が中国旅行から帰国する間もなく、政界では大きな変化が訪れていた。七月二日、政友会の田中義一内閣が、前年の張作霖爆殺事件の処理をめぐり、天皇からの信任を失って総辞職。即日に民政党の濱口雄幸内閣が成立した。その心労が祟ってか、その年九月二十九日、田中は狭心症で急死した。田中亡き後の政友会総裁をめぐり、図らずも嘗て尾崎行雄と並んで〝憲政の神様〟とよばれた犬養の名前が浮上したのである。
 十月十二日、総裁推戴式を受けた犬養は当年七十七歳。新聞は犬養の政界復帰を、源平時代の老将、齋藤實盛になぞらえた。当の犬養本人も、これが最後の政治生活となることを充分承知していたはずである。

二、〝統帥権の干犯〟

 昭和五年一月十一日、軍縮と緊縮財政を政策に掲げた濱口内閣は、まずは蔵相、井上準之助の下、金解禁を断行。続いて二十一日に開催されたロンドン海軍軍縮会議には、首席全権として、元首相の若槻禮次郎を派遣した。幸いにして濱口の政策は国民の支持を得ることができたのか、衆議院解散後、二月二十日に行われた普選法第二回目の総選挙では、民政党は政友会の百七十四議席を遥かに上回る二百七十三議席を獲得することが出来た。
 折から進められてきた軍縮条約では、アメリカとの交渉の結果、補助艦艇全体で対米六割九分七厘五毛、大型巡洋艦六割、潜水艦は英米同様、五万二千七百屯を保有するという案が成立した。アメリカ側が当初突きつけた巡洋艦六割に対し、日本側の要望である七割近くにまで達することができたのである。しかしながら、この条件は、海軍軍令部の納得しうるものではなかった。海軍内でも〝条約派〟と〝艦隊派〟が分裂する中、四月二十二日、外相、幣原喜重郎を送り、軍縮条約に正式に調印する運びとなった。
 三日後の第五十八回特別議会では、野党となった政友会が真っ先にこの問題を争点にした。まずは野党側の拍手を大きく浴びて、政友会総裁、犬養毅が登壇した。
「海軍々縮会議は愈々調印を了したが…国防の責任当局たる軍令部が国防に不十分だと言ふ様な兵力量に同意して尚ほ政府は最初の主張が達せられたと信ずるか」(讀賣新聞、四月二十六日付朝刊より)
 低声ながらも舌鋒鋭く迫る犬養に対して、濱口首相は、
「軍縮条約による我が兵力量で我が国防は極めて安固なりと政府は確信してゐる。又軍縮余剰金額は今之を明にする事は出来ぬが政府は此の余剰金を以て国民貧圧の軽減をなす方針を以て進んでゐる」(同前)と応じた。民政党にとって、軍縮政策と緊縮財政は表裏一体であったといえる。
 それに対して、政友会総務の鳩山一郎が、「内閣の意見と軍部の意見とに相違を来し之を陛下に奏上して宸襟を悩し奉つた事については内閣は責任を負はねばならぬ」(同前)と、憲法問題まで突いてきたものだから、議論は拡散した。いわゆる〝統帥権の干犯〟問題である。
 鳩山としては、与党を追いつめるための一つの党略として、「統帥権」を持ち出したに過ぎまい。しかしながら、この一件が、やがて国家の命運を左右する大問題につながることになるとは想いもよらなかったに違いない。

三、男子の本懐

 昭和五年十一月十四日。午前九時前、岡山での陸軍演習視察に向かうため、濱口首相は東京駅のホームを歩いていた。その時、一発の銃声があがった。弾は濱口の腹部に命中した。一瞬の出来事だったが、濱口は気を失うことなく、激痛に耐えながら、「男子の本懐」と呟いた。急遽、帝大付属病院に運ばれた濱口だが、いずれはこのような災難に遭うことを予想していたかのような姿であった。幸い一命を取り留めたものの、この事件が当年六十一歳の彼の肉体のみならず、内閣そのものの寿命を縮めることになった。
 狙撃した男は、愛国社社員の佐郷屋留雄、二十三歳。青木得三の日本宰相列伝『若槻礼次郎・浜口雄幸』によると、警視庁から狙撃の理由を問われ、佐郷屋は、「私のやった行為は、民政党の現内閣を倒す所存であって、浜口首相さえ倒せば、当然現内閣はつぶれると思って狙撃しました」
と答えている。続いて濱口内閣の失政について佐郷屋は、
「不景気を招来し、失業者をたくさん出し」たことの他、ロンドン軍縮条約を締結した結果、「日本の海軍を屈辱的な地位」に置いたこと、そして野党政友会が議会で取り沙汰した〝統帥権の干犯〟を挙げている。
 〝統帥権の干犯〟について、さらに警察が追及すると、佐郷屋は「統帥権干犯とは不敬罪です」と答えた。当時の民間右翼が、「統帥権」というものを如何に認識していたか、伺い得る一つの証といえるかもしれない。
 佐郷屋は、「いまの内閣が倒れたら、少なくもいまよりよい内閣ができると思ってやりました」とも答えたそうだが、実際にはどうであったか。皮肉にも、濱口を厳しく追及した犬養毅も、この事件から一年後首相となったが、五月十五日、海軍将校によって命を奪われる身となった。

四、〝二大政党制〟の難関

 山口二郎は『政権交代』の中で、「健全な民主政治には、政権交代が必要」と説き、「政治権力の暴走を防ぐという自由主義の観点」と、「国民による政治選択を実質化するという民主主義の観点」から、日本における英米流の二大政党制の浸透を提唱している。「民主主義の下に複数の政治的選択肢が存在していれば、人間は社会のあり方、世の中の仕組みについて自己修正能力を発揮しうる」というのである。
 もちろんこうした政治システムにも大きな欠陥はある。例えば吉田徹は、『二大政党制批判論』の中で、二大政党制が、「その片方を政権や権力の分け前から排除して敗者を作り出すシステム」であることから、「敗者の側に回った有権者は当然不満を蓄積」させ、その結果、いざ政権交代が起きた場合、「それまで権力の座にあった政党の既得権益の基盤を破壊しようと、急進的な政治が行われる」といった事態を想定している。
 山口氏の積極論にせよ、吉田氏の否定論にせよ、民主党による政権交代が実現した平成二十一年に刊行されたものだが、各国の二大政党の実状から日本の政党政治の行く末を詳細に分析している。現に今日、我が国でもこうした政治機構が展開される運びとなったが、図らずも戦前の政友会、民政党による我が国の政権交代が〝失敗〟に終わったという認識については、両者とも共有しているようである。
 坂野潤治は『日本憲政史』の中で、これらの〝先例〟から、「二大政党間に政権交代が過度に起ることは、国策に対して国民が選択権を持つ点で、憲政上きわめて重要なこと」と認めながらも、同時に「政権交代が自己目的化して、政策対立が必要以上に強調されるという危険性も併せ持ったシステム」であることを留意している。これらの議論からも、過去の〝失敗例〟から今日の教訓を汲み取るといった後付けはいくらでもできるであろう。
 しかし、「余は必ずしも政党政治を以て政治の理想とするものではない」と述べていたのは、他ならぬ二大政党時代の当事者でもあった濱口雄幸本人であった。濱口は、最晩年に執筆した『随感録』の中で、「若し、他に我が国体と我が皇室と我が国民心理とにピツタリ合ふ所のより良き政治の形式が発見せられたならば、夫は又別に大いに研究を要する問題であると思ふ」という仮説を提起している。濱口自身でさえ、当時の政党政治を、飽くまで〝試験時代〟と規定していたのである。
 もはや嘗てのように、政党政治そのものを脅かすような絶大な勢力はない。しかし、もし今日の各政党が、共有する国益以上に、自党の〝党益〟を優遇するような事態となれば、システムそのものの根底をも揺さぶりかねない。
 濱口雄幸にせよ、犬養毅にせよ、決して己の〝私利私欲〟に走ったために、テロリストたちの標的になったわけではない。彼等は〝国賊〟どころか、誰よりも国の行く末を深く憂え、国民一人一人の生活を案じ続けていた。そして、周囲の執拗な圧力にも屈することなく、死の直前まで、己の信念を貫き通した。もちろん政治の世界において〝結果責任〟が常に問われる以上、未曾有の動乱期にあって〝失政〟を免れることは極めて困難だったに違いない。
 翻って今日、経済政策で失敗しようとも、皇室の〝政治利用〟を目論もうとも、果ては国民以外の住民に国運を左右するような〝参政権〟を与えようと画策しようとも、政治家が命を狙われるといった事態はまず考えられない。
 もちろん暴力手段によって国家が改造されるというような風潮は今のところ見受けられないし、あってはならない。しかしながら今日においても、テロや震災といった内憂から、金融恐慌をも含めた経済危機、近海での周辺事態、といった外患は、いつ勃発してもおかしくはない。
 歴史を遡れば、幕末から明治国家の建設期を経て、昭和動乱期に至るまで、自らの命をものともせず、未曾有の国難に立ち向かった指導者達が存在した。新たなる「国難」が避けられない今日、先人たちが命懸けで貫き通した信念の叫びに、今こそ耳を傾けるべき時が来ているのかもしれない。
 
          (初出『京の発言』第十四号、平成二十二年九月)


いいなと思ったら応援しよう!