母を撒く

 三月の末、母が亡くなった。
 昨年末に外来で点滴を受けに行き、そのときに受けた検査で即入院。その後、家には帰れなかった。がんだった。

 がんが見つかったのは一昨年だった。肺と骨。手術はできず、抗がん剤治療になった。後には脳への転移もあり、放射線治療もした。
 闘病生活に入ってからも、本人は結構元気だった。実際の心中がどうだったかはわからないが、なんというか、どんと構えていた。父のほうがずっと萎れていた。

 母はわたしが子どもの頃から、常々、お墓に入るのはイヤ、自分の骨は海に撒いてほしい、と言っていた。冗談めかして、ハワイがいいな、とか。
 わたしたち家族も、ハワイは無理だよ~、日本で撒くから自力で海を渡ってって、と笑っていた。
 だからわたしは、ぼんやりと、しかしずっと長らく、母はお墓には入らないんだろうなあと思っていた。実感は伴っていなかったにせよ、思っていたことは思っていたのである。

 年末に入院してからは、一週間ほどでがくんと悪くなった。あっという間に発話が難しくなり、うつらうつらしている時間がどんどん長くなっていく。
 その頃には、余命もあと一ヶ月から二ヶ月ほどだろうと宣告された。
 当時母が入院していた病院はコロナ禍の影響で面会に制限がかかっていたものの、それが許す範囲で、家族や、母のきょうだいが見舞いに行きまくった。
 週に二回、一回あたり三十分、一度に個室に入れるのは二人まで。みんなで順繰りに母に声をかけ、目を開けると、起きた起きた、起きてるうちにみんな顔を見せなきゃ、とそれはもう忙しなかった。
 父の神経が今にもぷつんといってしまうのではないかというくらい張り詰めていたのもこの時期で、見ていて本当に可哀想だった。何をしていてもふとした瞬間に泣き出していた。明らかにヤバいLINEが飛んできたときには、わたしと妹が実家にすっ飛んでいき、かなり真剣に実家近くの精神科や心療内科を検討した(結果的には行かなかった)。
 家族の中で一番繊細なのは父だったので、母は叔母相手に、自分が死んだ後の話をすると泣かれるからなかなかそういう話ができないんだよねえと言っていたようだ。じゃあ娘に話をしなよということになっていたらしいのだが、本人も周囲も全員が油断しているうちに(なにせ入院直前まで、というかなんなら当日まで元気だった)、あっという間に会話が難しくなってしまったので、わたしと妹は相当慎重になった。二人で完全個室のネカフェに泊まり込んで葬儀屋を比較検討したり、叔母に母とどういう話をしていたのか聞き取りをしたり、あれやこれやした。
 散骨ってどうしたらいいんだろう、という話もした。ググると、ぼちぼちいろんなところが取り扱っているようだった。

 二月の半ばを過ぎた頃、転院を勧められた。
 余命宣告から概ね六週間ほど経ったあたりだったと思う。
 容態が当初想定されていたよりも(ある程度は)落ち着いているので、今のうちに(急性期病院である大学病院よりも)緩和ケアのしっかりしたところに移ったほうが本人のためにも家族のためにも良いのではないか、ということだった。父はかなり悩んだようだが、最終的には転院を決めた。
 急いで転院先の候補を絞り、翌週にはわたしと妹も帯同して家族面談に行き、三人で相談の上、ここなら転院してもいいだろうという病院を選んだ。二月の末に転院した。ほとんど八週間経っていた。

 転院先の緩和ケアのフロアは、明るくて綺麗だった。先生も看護師さんも穏やかで丁寧だった。
 入室人数以外は面会の制限もなくなり、父はほとんど毎日見舞いに行っていた。わたしも妹もできる限り見舞いに行き、三十分ほど母の枕元であれこれと喋った。
 母がはっきりとした反応を返してくれることはもう滅多になかったが、看護師さんたちは、ちゃんと聞こえていますよ、と言ってくれていた。
 時折、痰が絡んで喉がごろごろと鳴っているのや、口がずっと開いたままでいるのが痛々しかった。ただ、部屋の机の上には母が使っていたスキンケア用品が父によって持ち込まれていて、看護師さんたちは日々それを使ってくれており、ずいぶん痩せた母の手や頬は、それでも温かくて柔らかかった。

 毎日見舞いに行けるようになったことで父が少し落ち着き、葬儀の話や、散骨と手元供養の話が徐々に進んでいった。
 わたしと妹の間では、父は散骨を嫌がるのじゃないかという危惧がややあったのだが、父は泣きながら、それがお母さんの意思だから、と言った。わたしも妹も、そうだね、お母さんずっと言ってたもんね、と慰めた。
 葬儀屋を決め、祭壇の花やら、棺やら、仏衣やらがたくさん載ったカタログを持ってきてもらって、それに載っていることもそうでないこともあれこれ聞いた。ゆっくりと、母の死の準備をする期間だった。
 手元供養の品は、母が叔母に、ここのがいいなあと申告していたサイトで探した。わたしと妹が父の提案を却下して、これが母の趣味だよ、と言ったモデルは、その後叔母に確認するとどんぴしゃで母のご指定だった。母の趣味はわかりやすい。

 そうして三月が過ぎていった。

 三月三十日は土曜日だった。わたしと妹は母の見舞いに行った後、その日は実家に泊まった。
 深夜、日付が変わる頃、わたしはまだスマホを眺めながらごろごろしていた。父の寝ている隣室から声が聞こえたような気がした。直後に、父がドアを開けて、病院から連絡があってすぐ行かないと、と言った。
 病院まで自分で運転する気でいた父に、わたしと妹で絶対だめだと言い聞かせてタクシーを呼び、病院まで三十分はかからないほどだったろうか。深夜に呼ばれて行き先に病院を指定されたせいか、タクシーの運転手さんは、かなり車をぶっ飛ばしてくれた。車内で叔父や叔母に連絡を入れながら、父がずっとどうしようもなく焦っていた。
 病室まで駆け込んで、細い息の母を三人で囲み、しばらくして母は亡くなった。十五分か、二十分か、それくらいだったと思う。
 父が泣きながら、もう息してない、と言った声が悲痛だった。

 看護師さんは、母のエンゼルケアをわたしたちにも手伝わせてくれた。
 身体を拭き、髪を洗い、服を着せて化粧をした。病院で用意してくれた化粧品はファンデや口紅が固くて均一に伸ばすのが難しく、わたしと妹で、やばい、あんまり適当だとお母さんに怒られる、でもあとで葬儀屋さんがもう一回してくれるから下手っぴでも許して~、みたいなことを語りかけながら、みんなで少し笑った。
 葬儀屋から母の迎えが来るまでに、ぽつぽつと三人で話した。
 総じて、よかったね、と言い合っていたような気がする。
 お母さんが頑張ってくれてよかったね。桜も咲いたしね。わたしも妹も実家にいるタイミングで、しかも着くまで待っててくれて、お母さんってば最期まで超空気読んでいくじゃんね。最期に会えてよかったよ。エンゼルケアも手伝わせてもらえてよかったね……。
 葬儀屋のお迎えが来て、母を乗せた車が去った後、わたしたちはもう一度タクシーを呼んで家に帰った。三時を過ぎていた。まだそんな時間か、という気もした。みんなで冷蔵庫の中にあったゼリーを食べながら、また同じように、いろんなことがよかったよ、という話をした。

 葬儀の打ち合わせは、事前にも説明を受けていたのでスムーズだった。
 市営の斎場(古く、施設もまあその古さ相応)よりも、最後は綺麗な斎場がいいと言って、そのようになった。
 通夜まで間に三日あったが、安置所が面会可だったので、父はこの間にも母の顔を毎日見に行っていたようだ。わたしも一日目について行ったが、入院中にはずっと開いてしまっていた口や、ぼんやりとくうを見つめていた目がそっと閉じられて、母の顔は穏やかだった。下手くそな化粧は、すでに葬儀屋の担当者に聞いた通り、一度落とされていた。

 通夜の当日、納棺のとき、お化粧はどんなふうにしますか、気になるところはありますかと聞かれた父が、頬のあたりのしみなんかを綺麗にしてあげてください、と言ったのだが、わかりました、と言った担当の方のコンシーラーが完璧すぎて、親族の女性陣みんなでコンシーラーがすごすぎる……と感動した。アイシャドウやリップは入院前の母が使っていたものを使ってもらって、ああ、いつものお母さんだ、という顔になった。いつもの、というか、少し若返っていた。コンシーラーがあまりにも完璧だったので。

 通夜にはびっくりするほど人が来た。具体的に言うと、事前に想定していた人数の倍以上くらい来た。
 人望や人徳と呼ばれるようなものが可視化されていた。自分の葬儀はこんなにはならないな……と思った。
 わたしたちはおおむね和やかに、もう十年以上会っていなかった幼馴染やそのお母さんたちと話をしたりしていた。
 だが実際に通夜式が始まり、読経が始まった瞬間、涙が止まらなくなった。自分でも驚いた。本当に涙が止まらなかった。マスクの下の鼻水が……化粧が……と考えている冷静な部分と、ただただ流れていく涙が自分の中で分離していて、不可思議な体験だった。
 告別式のときも似たりよったりだったが、ひとしきり泣いて、さあ最後に棺の中に花を入れるぞという段になると、供花が結構な数来ていたために棺の中の花の密度がすごいことになっていてみんなで笑った。えっ、まだお花ある!? みたいな。
 併設の火葬場でお骨が上がってくると、思っていたよりしっかりした骨がばっちり残っていて、ずっと長く苦しく闘病するよりよかったのかもしれないね、というような話もした。もちろんもっと生きていてほしかった。でも確かに、長く苦しまずにいてほしかった。両方あった。実際にどちらがよかったのかはわからない。
 骨壺と、白木の位牌と、遺影を持って家に帰った。
 実家のリビングの隅には、父が母の写真や思い出の品や、なんやかんや色々を集めて飾ったスペースがすでにあり、そこに持って帰ってきたものを据えた。
 わたしたちは、おかえり、と言った。

 正直に言えば、わたしも妹も母の見舞いにだいぶ時間や体力を割いていたので、母の葬儀からこちら、少なくともわたしの生活は幾分穏やかになった。
 スマホを握りしめて眠らなくてすむようになったのがありがたく、そして寂しかった。

 五月の半ば過ぎに四十九日があった。
 また、母の古くからのお友達二人を交え、親類たちで母を偲んで食事会をした。酒好きだった母の陰膳の前に、みんなが飲んでいるビールと日本酒とワインと……と、順にグラスが並んでいった。三人ほどが結構なスピードで飲んでいた。すごかった。全然顔色が変わらないので感心してしまった。まあ、母もそうだった。

 四十九日が過ぎて、母のお骨は、手元供養の品と海洋散骨を扱っている会社に引き取られていった。お骨はそこで粉にしてもらい、手元供養の品と、遺骨ペンダント、散骨用、と振り分けてもらうことになっていた。
 散骨の予定日は六月になった。場所は東京湾、ディズニーリゾート沖。そんな近いところで撒けるんだ……と思った。なんとなく、印象として、もっと遠いところに撒くのだと思っていた。
 ググっていた段階で見たところ、依頼する会社によっては、どこの港から出てどのあたりで撒くかがかなりいろんな場所から選べるところもあるようだった。ちらっと見た限り、場所と船の乗船人数によって値段がぜんぜん違っていた気がする。正直結構するな……という感想だったが、お墓をこれからずっと管理していくぞとか、それこそ、新しく立てるぞとなるよりはいいのかもしれない。かもというか、単純に金銭的に言えば、まあ、安い……というのもなんだが、安いだろう。
 海に出るので当然だが、荒天で延期である。運動会みたいだ、と思った。

 当日は喪服でのご乗船はご遠慮ください、滑りやすいのでスニーカーや運動靴がおすすめです、濡れるかもしれないので濡れてもいい服かカッパをご用意ください、というのが注意事項だった。
 専用の港というわけでもないので喪服NGはそうだろうが、とはいえ一応モノクロっぽい感じがいいのかな……と思ってカジュアルめの黒いワンピースに淡いグレーのカーディガンを着ていったら、現地では父が一番普通にクルージングですよという格好で来ていて、そうかい、になった。もうちょっと軽くても良かったか……。
 その日はめちゃくちゃ晴れていた。ぴかぴかの青空だった。母はすごい晴れ女だった。しかしかなり暑かったので、みんなで、お母さんもうちょっと手心を……と言っていた。
 船に乗ったのは六人。穏やかに凪いだ海をクルーザーがゆっくり進んでいった。船長さんも、今日は本当に波が静かですねえ、と言っていた。
 葛西臨海公園の観覧車が見え、ディズニーリゾートのホテル群が見えてきて、ディズニーランドホテルやスペースマウンテンが見え、プロメテウス火山が見え、SSコロンビア号やタワー・オブ・テラーが見えた。妹と一緒に、ランドの方って意外と高さのあるものがないんだね、とか、シーの新しいエリアの話とか、ランドの美女と野獣のエリアにも行けてないから行きたいんだよなあとか、そういう話をだらだらしていた。
 沖、というくらいだからもう少し遠くまで行くのかと思っていたが、片道三十分ほどで船が止まり、散骨のセレモニーが始まった。
 黙祷、献酒、献水、お骨を撒き、花を撒く。最後にもう一度黙祷。
 短い黙祷の後、まず日本酒の瓶から、だばだばとお酒を海に注ぐ。同じようにペットボトルのお水。お水を撒く際、いや~お母さんはお酒薄めないで! って言うんじゃない? と笑った。
 お骨は、人数分の白い紙袋に分けられていた。水にすぐ溶ける素材で脆いので、底を支えて持って、ぽーんと放ってください。そう言われた通りに、みんなが順に海に放る。頑張ってハワイまで漂ってって! ファイト~! そういう明るいお別れになった。白い袋は着水とほぼ同時に底が破けて、白い粉が海に漂っていった。白い袋はすっと海面から消えていった。
 最後に、籠に用意された花びらを撒いた。綺麗だった。まあ、水面は青くも透明でもない、東京湾の色だったけれども。クルーザーの後ろをゆったりと流れていく、ほんの短い花の帯を見送った。
 再度短く黙祷して、では港に戻ります、となって、また船が動き出した。
 帰りは、行きよりもなんとなくお喋りが少なかった。わたしは海面を見ていた。クルーザーが立てる白い波と泡を見ていた。何を考えていたかと言われると、具体的なことは何も考えていなかった。ただぼんやりしていた。
 港につくと、ちょうど往復一時間くらいだった。イメージしていたよりもあっさりしていたが、母はこのくらいのあっさりした感じがいいんじゃないかな、と勝手に思った。

 今、わたしの手元には母の遺骨の入ったペンダントがある。
 実家で一度中身は確認してあるが、自宅に帰ってきて部屋に持ち込んでから、まだケースを開けていない。それは、悲しいとか寂しいとかいう方向の感傷というよりも、この状態の部屋を見られたらお母さんに怒られそうだな……という感覚によるものだ。母は綺麗好きだったが、わたしは残念ながら自分の部屋が荒れていてもあんまり気にならないのだ。子どもの頃からそれでよく怒られていた。
 もう少しすると、妹とああでもないこうでもない言いながら探したプリザーブドフラワーのジュエリーケースが届くはずなので、とりあえず母にはそこにいてもらう予定である。移動時には、母には目を瞑っていてほしい。そっと。

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