おなかすいたね


みなさんにとっての魔法の言葉はなんですか。
わたしは学生時代から一途に選び続けている「大丈夫」です。好きというより、魔法に近くて。

まぁ、これは悪く言えば麻薬のようなもんです。魔法のようで麻薬、背中合わせな言葉なんですね。

大丈夫、で乗り切れることが大抵ですが、言い聞かせる他ない時も人生では多いようです。そんな時、実は何気ない言葉で救われる人生もあるんじゃないかと思う、今日この頃です。

あいも変わらず、fantastics澤本夏輝さん。

『おなかすいたね』



我慢強さが長所だった。良い面でない時もあるとはうっすら気付いていた幼少期、なんとなくそのままの自分でここまでやってきた。
その我慢強さは呆気なく崩れ、壊れ、元に戻ることができないものであることなんて先生は教えてくれなかったから。


「大丈夫そう?」

「大丈夫だと思う」

「ほんとに?」


そもそもわたしは長年疑問視していた。人は大丈夫かと問われると大丈夫と答えてしまう生き物だ。大丈夫じゃない、を言えるのであればそれはきっと大丈夫であるから。本当に大丈夫じゃない時は、その声さえも届かないところへ行ってしまっているから。

だからわたしは大丈夫、を人に投げかけることは嫌いだった。大丈夫か心配の感情が生まれる時点で大丈夫じゃなさそう、を感じているわけで、それをわざわざ問いかけて何になる。煽りたいなら気が済むまで煽ればいいが、そいつとの今後はもうないであろう。


「大丈夫だって、ほんとに」

「そっか」


小さい部屋が今日はやけに広く感じた。捨てるように吐いたわたしの余裕のない言葉は、相手に届くことなくそのまま下へ落ちてゆく。まるでガラスを割ったかのようなうるささが耳を刺した。


「ちょっと出てくるね」


明らかにバツ悪そうな表情をして財布だけ握りしめた彼は逃げるかのように出ていった。1番そばにいてくれる人に1番素直でいられない自分に心底うんざりした。

時計の針が進む音がやけにうるさくて、まるで惨めな自分を嘲笑っているかのように鳴り響いた。こんな時間はたった5分の時間が2時間ほどに感じる。

かちゃりとドアが開いたが、そのあとはいつも通り丁寧に鍵を閉める音、手を洗う音、そしてそのまま寝室へ入った音。

素直になれない可愛げのない女、それ以上でも以下でもない。何の価値もない自分がただ静かに、離れていった彼との距離をゆっくりと感じていた。


ぼんやりと風呂に浸かる。
シャンプーもトリートメントもボディーソープも、そういえばなくなったよ、と長らく言ってないことに気づいた。いつの間にか補充されて、水垢ひとつついてない風呂場は少し窮屈にも思えた。

わたしからしたら全てが完璧で、常に一歩下がって、静かに怒ることもなく見守ってくれる存在。でもそれがたまに嫌になる。彼はきっと知らない。

のぼせてぼやけた思考のままリビングに腰を下ろす、もうこのまま眠ってしまおうか。もしかしたら明日朝起きたら彼の姿はもうなくて、荷物もすっかりなくなっているんじゃないだろうか。

とか。


「起きて」

スッと体に入ってきた声は聞きなれた声。少し安心したと同時に、また迷惑な女を演出していたことにも気付かされた。


「何で髪の毛も乾かしてないの?風邪引くよ」

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないでしょ」

「なんで?」

「なんでって…」

「なんでいつも全部わかったような顔して、見透かして、大丈夫じゃないの知ってるのに聞くの、なんで全部わかってるくせに怒らないの」

酷く痛い沈黙。


「わたしはね、そういう優しすぎるところが好きだけど、嫌いなの、自分のことを嫌いになるから、嫌だったの」

ぽろぽろと溢れた涙と同様にその思いは止まることを知らなかった。


「俺が知ってても意味ないからそれは」

その顔もまたいつもと変わらない優しい表情だった。

「俺が大丈夫じゃなさそうってわかっても、自分で大丈夫じゃないって認めてあげられなかったら意味ないじゃん、だからいつも聞いてる、それはほんとに大丈夫?って」

なれた手つきで髪の毛を乾かしてくれる。ドライヤーの風の音でそのあとの会話はほぼ聞き取れなかったけど、心地が良くて、幸せで。


「聞いてる?」

「だってドライヤーで聞こえなかったもん」

少し間があって、振り返って彼の顔を見た。

「ん、そっか」

彼は嬉しそうに笑ってた。その瞳に映ったわたしが笑っていたからだろう。つられてまた笑った。


「なんかおなかすいたね」

彼がうろうろとキッチンへ立って呟いた。本日何度目かの冷蔵庫と睨めっこ。

その日から彼は大丈夫か聞かなくなった。

その日からわたしは大丈夫じゃないと言うようになった。

彼は決まってこう言うようになった、

「なんかおなかすいたね」

彼の作るちょっとした夜食に全てが詰まっていて、涙のスパイスでしょっぱくなった日も、笑顔で甘くなった日も。

わたしは決まってこう言うようになった、

「おいしいね」

これが2人のだいじょうぶの魔法になったお話。

いいなと思ったら応援しよう!