今日のわたしいい匂いだよ
はじめてここに書きだめるにしてはパンチの強い内容で、本当は順を追って書きたかったんだけど。
今のわたしの頭の中はこの内容で持ちきりなので、ひっそりと今日も小さな妄想を育てていきます。
fantastics、澤本夏輝くん
『今日のわたしいい匂いだよ』
これはわたしなりの誘い文句だった。
ただの誘い文句ではなく、実際に今日のわたしはいい匂いだった。自分でもうっとりするほどの。
もともと匂いフェチとやらではあったから、人の匂いにも敏感だった。悔しいことに彼からはいつも彼特有のうっとりする匂いが鼻をくすぐった。
最近使ってなかったボディスクラブの蓋を開けたら溶けるような甘い香りが湯気と共に浴室を埋めた。水あかで少し汚れている容器は見て見ぬふり。きっといい女は容器すらも光ってるんだろう。
そういえば友人からもらったヘアオイルも使ってみた。これは韓国で流行ってるらしい、何がいいかはわからないけど勧められたものはとりあえず使う主義だ。この間仕事を頑張ったご褒美に気になってたヘアオイルを自分でも買ったところだった。花の香りはあまり好きではなかったが、なぜか惹かれるものがあった。
今日のわたし、超いい女
そう思った。
布団にすれるたびに香る匂いは甘く、眠気を誘うような落ち着きさえも含む。こんな時に会いたくなるのは決まって彼だった。
あまり多くを語らない静かな男だった。
いつも一歩引いた場所から周りを見ていて、その輪に入るわけでもないがなぜかそこに存在はしているような不思議な人だ。静かに笑っていて、何も語らなくとも"優しくていい人"と口を揃えて評価される男だった。
「どうしたの、こんな遅くに」
コンビニの袋から缶ビールとわたしの好きなアイスが出てきた。あまりにも模範例のような行動に少しむず痒さが残った。
「今日のわたしいい匂いだよ」
部屋着のまま誘うかのように放った。3秒ほどだろうか、彼は缶ビールを持ったまま止まっていた。
「よかったね、シャンプーでも変えたの?」
ふわっと笑う彼はこちらを見ようともしなかった。そんなことよりアイス食べるでしょ、とでも言いたげに近づいてきた。
手持ち無沙汰なわたしに半ば無理やりアイスとスプーンを持たせた彼は、きっと今日何本目かの缶ビールを開けた。
「仕事だった?ごめんね」
「ううん、ちょうど終わって帰るとこだったよ」
「こんな時間まで大変だね」
「そうでもないよ、楽しいし」
そんなふわふわとした内容のない会話が続いた。
わたしはアイスが食べたかったのではない、溶けていくカップの中を見つめながら隣の彼に少し近づいた。
仕事終わりなのに漂う幼い香り。ほのかに残るムスクは彼の愛用している香水だろうか。わたしよりも高い体温が放つ香りに酔いそうになった。
「そろそろ帰ろうかな」
空の缶ビールをわたしに見せてまた優しく笑う。指一本たりとも触れてくれない、こんなに近くにいるのに。
「どうしてきてくれたの」
今何してる?
とだけ送ったのに、どうしてきてくれたの。どうしてきてくれたのに、何もしないで帰ろうとするの。
どうして全部知ってるくせに優しくするの
「今日、ほんといい匂いだった」
少し寂しそうに彼が呟いた。
そうか、わたしとあなたじゃ釣り合わないもんね。あなたは優しいから、誰にでも優しいから、全部わかっててわからないふりをしてくれてるんだね。
それでもずるいよ。
そんな顔でわたしのことを見るなんて、卑怯だよ。残酷だよ。またそうやって責められない優しさで縛るから。
「ねえ」
思わず追いかけた背中。ずっとこうしたかった、と心で囁いた。温かくて大きくてゆっくりとした心音と呼吸音が響く。自分の音と重なるのが嬉しくて、ずっとこのままでいたいと願った。
「ちゃんと布団かぶって寝てね、夜はまだ寒いから」
前できつく結んだ手をそっと包み込まれた。彼の声が背中から響いて伝わる。優しい音だった。彼の匂いを覚えていたくて、深呼吸をした。
肺いっぱいに広がるそれは幸せだとわかった。
「うん、アイスありがとう、気をつけて帰ってね」
小さく震えた手を離した。さっきまで頬から、胸から伝わってた温もりが一瞬にして消えた。
「おやすみ」
一度だけ振り返ってみせた顔は、酒を飲んでも顔色ひとつ変わっていない彼だった。わたしはどうだ、完全にのぼせ切った女の顔をしていたに違いない。目に少しの涙なんか浮かべて。
彼が今日わたしに会いにきたという証はない。飲んだ缶ビールも溶けたアイスのカップも、持ってきたコンビニの袋に入れて持って帰ってしまった。
ゴミ、増えるでしょ
そんな優しさいらなかった。女は形に残したいのだ。
台所に出されたひとつのスプーン、これが彼とわたしの今日の思い出になった。
センスなんてものはないけど、きっといつしか何のことか忘れて消すのだろうけど、自分のスマホに残しておくことにした。
ああ、今日のわたし、ほんとにいい匂いだったんだよ
布団に潜り、微かに残る彼の香りと混ざり合った。