木曜日は本曜日
嗚呼、ひどい思い違いをしていた。
以前、花村萬月著『鬱』に出てくる文章を引用して、「創作者が既存概念をこわす」ことに対して疑問を投げかけた。
それは、日頃教授が言っている「批評性があるか」という評価指針に対しての異議申し立てであった。創作者が既存概念こわそうとするのは、その行為が気分爽快だから、という理由なの?というような、後ろめたさがあったというわけである。
(詳しくは↓に書いてる。サッカーの話は飛ばしてネ)
今回はそこに、また新しい考え方が持ち込める気がして、文章を書き始めたわけである。ひどい思い違いをしていた可能性がある。
最近、YouTubeで好きなチャンネルの、好きな企画があるので、それを共有したい。チャンネル名は「東京の本屋さん ~街に本屋があるということ~」で、企画の名前は「木曜日は本曜日」という。
著名人が人生を変えた本を3冊ずつ紹介するという企画で、それが非常に面白い。リンクを載せておく。
改めて書くと、花村萬月の小説『鬱』の中で、「いちばんの快感は、他人の意思、あるいは意志をねじ曲げることである。」という文章が出てきた。
その快感が私たちの創作理由だとしたら、それほどナンセンスなものは無いのでは?
と、思っていた。
しかし「木曜日は本曜日」で、人生を変えた本を楽しそうに語る彼らの目の輝きを見ると、あながちその快感は一方的な押し付けではないようである。
例えば、劇作家の本谷有希子さんは、笙野頼子著『母の発達』を読んだ感想をこう話す。
「母というテーマはもう表現しつくされた、と思っていたときに出会って、もう頭殴られたかんじだった。」
他の人の動画を見ても、皆、自分の価値観を壊された衝撃を嬉々として話している。
「木曜日は本曜日」で本との出会いを語る人々の目は、一種のマゾヒストの目であって、壊されることを望んでいる目だ。
つまるところ創作についての既存概念を破壊したいというその心は、受け手側の破壊されたいという願望へのリ・アクションである。
だから、君は思う存分、既存の概念を壊していい。自分自身の中身を表現して、気分爽快、気持ちよくなっていい。我々はそれを望んでいるし、見てみたい、聞いてみたいと思う。
壊せるもんなら壊してみろ。
壊してよ。壊して..