leaf
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
私ね、多様性を認めることが一番大切だと思うわ。本当にそう思うの。今後生きていくテーマが、多様性だってことに最近気が付いて嬉しくなったの。みんな違って、みんな良い。良い言葉でしょう?そんな世界が理想だと思うわ。あなたもそう思わない?でね、私、彼と別れることにしたわ。彼が、多様性を理解してないひとだってことに気づいて、私から別れようって言ったのよ。価値観の違いよね。私もう、彼のことは嫌いだわ。多様性について何も理解していないし、そもそも理解しようとしてないのよ。そんなの私、絶対に認めたりなんかしないわ。
男が男を磨き、女が女を磨く。その後に現れるある種の共感のことを恋愛と呼ぶのではないでしょうか。
回遊性の議論で伝えたかったのは、磯崎新的とも言えるオリジナリティの担保の仕方と、形を作ることから逃げないこと。そこに共感してほしかったわけです。「形をつくる」とは何ですか?という問いは大いに歓迎していて、「形式を形式のまま提出しない」「言葉を言葉のまま提出しない」それが形をつくることの意味です。わかりずらいか。まあ、近代あたりの建築に憧れているだけなのかもしれない。「回遊性の議論」という言葉でまとめているけど、言わずもがな、あの議論の主題は回遊性ではなかった。良いと思っているそのプランは、心地よい空間は、他人から教わったものではないか?無意識のうちに他人の価値観をなぞっていないか?という、ほとんど、建築教育への異議申し立てのつもりで話していた。
磯山さやかのYouTubeチャンネルを登録解除するか8時間悩んでいる。
私、不細工に生まれたかったわ。
Aが飲み会で君の話をした時、地獄を見た。そしてこの間の飲み会でBが君の話題を出した時も、またまた地獄を見たのである。それは、天国の反対の意味の、反・天国的な地獄であるからこそ、真に地獄なのである。
三年生の課題の最終提出が終わったが、僕は二年生のTAをしていたため発表を見ることができなかった。発表を見ていた大学院生に、どうだった?と聞くと、「○○さんがダントツでしたよ」と言われた。この言葉、以前にも聞き覚えがあって、学部三年生の時の合同設計発表会を見ることができなかった時に友達に感想を聞いた時、「○○がダントツだったよ」と言われたことがある。この感想には当時も現在も同じように違和感がある。我々学生は、ダントツかどうか判断できるほど習熟していないと思うのと同時に、建築設計はもっと自由だろうと思うから。同じ課題を出されてもこんなにいろいろな提案が出てくる。そして、どれも良いのである。本当に自由。だから設計の発表会は、先生方の評価軸を学ぶ機会であって作品の優劣をつける機会ではない。だからといって実務のコンペではそんなことは言ってられないのであるが、それでも、ダントツだったというのはおかしいと思う。自由ですよ。そういった理由からこの間ね、「ダントツって提出物のクオリティ(量)がダントツってことでしょ?」ってことを聞き返したの。もう一度言うけど、自由ですよ。なんでもいい。
人間ってみんな、強いな。
優秀な人っていいよね。あたし、優秀なひと、好きよ。優秀なひとって、あたしに対しても優秀でありたい、そう見られたいって思ってるのよ。とっても扱いやすいわ。だから、優秀なひと、あたし、好きよ。
メロディーとユーモア。真理めいたものが、知れました。
大志を抱け。男とか女とか、そういう話をしてもしゃーないよな。話し合いをしていこう、協力して陥れよう。泥沼に一緒にとびこもう。道連れにして、最後に後ろから蹴り落して、ニヤリと笑ってさ。ベロ出して。ベェーって。そして歩き出すんだよな。何もなかったかのように。
今までにないものを僕らは見たいんだよ。今までにないもの。そういうものに感動しない?(太田光)
"どう楽に生きるか"
壁を彷徨う蝸牛に、「おれとおまえ、どっちが幸せかな」と尋ねる。
殺してくれ 殺してくれと 叫ぶ日々(字余り)
人は、人のために生きている。
優しさとは何か考えた。優しさとは、肉体労働である。肉体的な、奉仕である。
問いを立てるということが大切です。最近、ひとつ自分なりの問いを作ることができました。「なぜ僕らはOMAを大味、に感じるのに、前川國男を大味に感じないのか。」というものです。2つの仮説を今は思いついています。ひとつ、配置の核となるものを建築外部に持ち出している。ふたつ、比の美しさによって面やマッスに意味をもたせ、洗練された感じを演出する。
「フランクロイドライトに捧げる歌」(サイモンとガーファンクル)
昔から感じていたことだけど、「凹凸」という漢字が嫌いです。気持ち悪い。
受ける青春。(中村修)
メタとシュールが混在するコントは腹筋を激しく揺さぶる事を請け合い「天竺鼠」
地球上の男全員で、「生きる意味なんて無い。俺たち人類は向上心を持ってここまで文明を発展させてきたが、みんな不幸になっている。生きる意味なんて最初から無かったんだよ」と言った時、女性は皆、「そんなことないよ。生きてるだけで幸せなんだよ」と言った。優しかった。次の瞬間、男は、脱がし、暴れまわり、しゃぶりついた。みんな泣いていた。すすり泣く声が次第に静かになっていく。陽が、のぼる。
シンプルに考えろ。
中学2年生の時分、電磁気の授業に入る前にエルステッドの実験について触れてほしかったと今振り返って思う。エルステッドは、電磁気学の基礎を築いた人で、電流によって方位磁針が動くことを発見した。中学2年生の理科では、電気の授業、磁石の授業があって、その後に電磁気の授業が行われる。電気と磁石を全く別のものとして教えてきた次の授業で、それは互いに影響しますよ、というのである。そこには劇的なドラマがあったはずなのに、それは省略され、授業では当たり前かのように「右ねじの法則」の解説が始まっていた。電磁気の入りのところがスムーズに進みすぎて、しかも周りのみんなは普通に理解してるみたいに授業を聞いていて、内心、みんなわかって聞いてる?と思っていた。
授業終わりに、「何もわからなかった」ことを先生に伝えると、ひとり学年室に呼び出された。学年室では、悩みを聞くみたいなテンションで、「珍しいね、どこがわからなかったの?」という感じの話し方をされたが、内心、「普通に考えてわからんけどなあ。俺がおかしいかなあ。」と思っていた。「今やってる分野、なんの話をしているのかわかりません。電流の周りには右ねじの方向の磁場があるなら、今までやっていた直列回路や並列回路の周りには全て、磁場があるってことなんでしょうか。」みたいなことを言ったはず。
今思えば自分で調べれば良かったなぁと思うんだけど当時スマホもパソコンも持っていないので、それができなかった。
繰り返しになるが、エルステッドの発見をもっと劇的に話さないとダメだと思う。「今までやった2分野は互いに影響を及ぼすんだよ!すごくない?」と言ってくれれば、すげー!ってなって電磁気の授業についていけたはずなのに。当時の人って凄いんだなって。その感動体験が大事だと、私は、思う。
「一生勉強だ」なんて言ってるやつは、本当に一生、勉強やってろな。
2022年2月24日。ロシアのウクライナ侵攻のニュースを知った日、YouTubeで森山良子の「さとうきび畑」を聞いて、泣きました。「夏の日差しのなかで」という歌詞が、突き刺さる。知っている。沖縄の、夏の日差しを知っていることが嬉しい。
如何なる創作物であっても、他人を殺すことがある。建築も、自動車も、戦車も。原爆も。Twitterも。遊びじゃないんだよ。そういう意味では。
笑うということは、諦めないという決意。(吉田知那美)
「世界観」でもない。「自然との仲介役としての道具」でもない。「人体(カラダ)に優しい」でもない。もちろん、「時代の代弁者」でもない。目指している建築って、なに?
インスタグラムの投稿は、雑駁なものを目指しています。今後何を投稿しても許容できるように。雑駁の良さ、なんていうんじゃないぜ?
良い空間というものをもっと明瞭に、良い「空気」と言い換えたのは沖縄の建築家である金城司氏であった。その発言はとても記憶に残っている。
良い空気、それにもうひとつ、良い水が必要だと思う。空気と水と、ふたつ。このふたつを約束するための幾何学を私は建築と呼びたい。
そういう建築を、つくる。
広い床には高い天井が必要だ。
俺を死ね!!!
初めは全体の半ばである。(ギリシャのことわざ)
この資本主義社会のカオスのなか、一見コントロールできないような「人口」に対して、「建物の延床面積を制限すれば人口がコントロールできる」と気づいたことは発明的で、真に天才的だと思ってしまう。
東京は空気が汚いから鼻毛が伸びる。という話は聞いていたが、実際はそんなことはなかった。その代わりにちん毛が伸びている。
君知るや9九飛。あの山田修司氏をも
って「肌に粟を生ずる感」と叫ばせ、
詰将棋界を揺がした白眉の中の白眉で
ある。角捨と千鳥銀と鋭い9七飛を配
して、この9九飛が切さ琢磨されたの
である。超越した何かがある。感動を
覚えさせずにおけぬ何かがある。半期
賞受賞作、嗚呼、君知るや9九飛。
(詰将棋パラダイス)
気がつくと頭数になっていた
無数の哲学より、女性の笑顔が上位である
横の軸が「大味⇔繊細」、
縦の軸が「ダイナミック⇔落ち着いた」。
彼が"マザー"と言う時、それは産業革命を指す.
娘には「花」という名前をつけたい。