青い月
※SNS等のWEB媒体での画像掲載は私的利用の範疇を超える可能性があるのでパワポで描いたとかげアートは消しました。申し訳ございません!!!以後、気を付けます
※映画のネタバレを含みますので「映画すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」未視聴の方はご注意ください。
幻想的な魔法の世界。
5年に一度、魔法使い達を乗せてお空という大海原に、月の光の帆を受け出航するその船が、なんとまあ美しきことよ。
いつか乗った、閉園間際のユニバのハリウッドドリームザライドを思い出しながら、魔法使い達とともに己もふわあっと浮き上がるかのような、無重力の感覚を味わう。
わしはもう開始5分くらいで、完全にすみっコぐらしの世界に入り込んでしまったのだった。
前作からの学び
前作「映画すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」を観た時は、すみっコぐらしの映画がTwitter映画考察系垢で話題となっていたので、どんなものかと、キャラの知識もほぼ無い状態で観に行った。
身構えて観に行ったせいで、わしは当時最初から「この映画を俯瞰的に見てやろう」という立ち位置で、多分あれが神の視点だったのかな、完全にそのすみっコぐらしの世界とは違う世界側に己を置いて、入り込むことなく66分間を過ごしてしまった。
その結果、どのすみっコのことも、ひみつのコのことも、行動動機をバックボーンと抜きにして「この状況下でこいつは最善のことをした、だから評価できる」といった超ドライな感想を抱いた。
ストーリー展開は面白かった。ただ、めちゃくちゃ反省したのは「せっかく初見なんだから、純粋にすみっコの世界に己を置いて見ればよかったやんけ」ということだった。
神の視点から俯瞰する、という視聴方法は、2回目、3回目以降でもできる。なぜかわしは初見であるにも関わらず、初見でしか味わえない体験の機会を自ら捨ててしまっていたのである。
あれから2年、人の気持ちがなかなか理解できないという自分の言い訳でトラブルになったりして、もっと社会的な人間であろう、人のことを考える努力をしよう、という目標を掲げて過ごしてきた。
長らくユニバにも行けていない。
しかし、魔法使い達を乗せた船が星空の海に出航する様を見て、自分も宙に浮くことができているかもしれない!?!?!?という感覚に陥った。
それは2年で自分も変わったのだった。いい意味で。
すみっコぐらしの世界に、入ることが出来たのだと思って、心の中で泣いた。
何かめっちゃひねくれてて、人間関係に失敗して、大切なものも失った、あの頃の自分と、今の自分はもう違うのだ。
まほうのコはどういうコ?
ここからは、映画の中身について。
魔法使いは5人兄弟であった。わん、つー、すりー、ふぉー、そして、タイトルのまほうのコ、末っ子のふぁいぶ。
ふぁいぶは他の兄弟たちよりも体も小さく、魔法も上手く使えない。あひるさんボートにも乗り損ねそうになる。(これは伏線だった) セリフがなくともこのコは「未熟者」であることが明白だった。
「未熟者」であるふぁいぶであったが、わしもふぁいぶもこの幻想的な船の旅は初めてだった訳なので、もう完全にふぁいぶと一緒に「ワァア・・・!お空綺麗・・・!!✨」とおめめをキラキラにしていた。
わしはこの時、この映画の他の誰よりもふぁいぶと気持ちを共有している、とまではいかないが、なんかそんな感じだったので、自分も無重力を感じて鳥肌が立っていた。
ふぁいぶは己が魔法を上手く使えないことを自覚しつつも、他の兄弟達の暖かい計らいにより、すみっコ達にコップやお菓子を魔法で出すチャレンジをする。しかしなかなか上手くいかない。それを別にパーティーのホストサイドの兄弟やどんぐり?も、ゲストサイドのすみっコ達も非難しない。ビックリはしたが。
もし仕事でわしがこんな感じで新人の時にやらかしをしたら、一個二個くらい上の先輩に責められてたと思う。この世界では先輩も得意先も優しい。
しかし、ふぁいぶは多分めっちゃストイックで意識たけえ奴なんだ、と思った。自分がそうだから。
何回か魔法チャレンジしつつ、責められはしないけれども「できなかった」自分」が理想の自分と乖離していたので、テンションが下がる。自分もそうなので同じだなあと思った。
テンションは下がるが、嫌になってやめるとか、逃げたりはしない。「見学させていただくことにした」
これは、めっちゃ偉いなと思った。ふぁいぶは先輩達の魔法おもてなしを見学して、いつかの己の為の財産となっている。向き合っているのだ。
エヴァのシンジ君的なメンタルのやつだったら多分「もう無理だよ、僕には出来ないよ!!」とか言ってどっか行くんだろうが、そういうことをすると後が続かない。新人の時代はもうとにかくトライ&エラー。体験を積み重ねることが大事なのだとわしは思う。
ふぁいぶは見学させていただくし、持参した魔法の書物で勉強を始める。偉いやつだった。
しかし、ねむねむになってしまったふぁいぶは「また」やらかしてしまう。
遅刻遅刻~!!!
帰りの船に乗り遅れてしまう。
おい、さっきあひるさんボートに乗り遅れてたろ!!!
先輩達は「さっきふぁいぶはボートに乗り遅れてしまったので、ちゃんと人数を数えてから出発しよう」という、「ふぁいぶの遅刻という課題に対する改善」を実践するのだが、なんと数えた時にそれがたぴおかだったことに気づかないのである!
魔法の世界から出発する時は、最初から「魔法界から出発するメンバー」しかその場に居ないので、多分「ふぁいぶであるかどうかの確認」は要らなかったのだが、今回は「突然やることになったパーティー」というイレギュラーな状況かつ、魔法界じゃないやつに魔法使いのコスプレをさせてるということで、取り違えてしまったのだった。
イレギュラーな状況でも迅速かつ、正確に動けるようになるには、相当普段から意識しておかねばならないだろうが、何せ魔法使い達も「5年に1度の」行事ということなので、まあ間違えちゃうのも仕方ないかぁ・・・という感じもした。
残されたふぁいぶはめちゃくちゃカナシミのズンドコだったが、それは「とかげ」の生い立ちにシンクロしたのだった。
魔法を使えた理由
前作の映画の時はほぼ何のキャラクター知識もないまま観てしまった。その後、フォロワーさんに「このすみっコはこういう事情で~・・・」と主要すみっコについて教えてもらった。
それでわかったのは、まあまあどのすみっコ達もそれなりに、部屋の隅っこでじっとしながら生きるのに納得がいくような「何かしらの理由」を抱えていたのだった。
中でもとかげは「実はとかげではないのです。本当のとかげは、それはそれで出てます」という。なんだそりゃ~!?アイデンティティー大丈夫!??となる。(まあ他のすみっコも大体アイデンティティーに関する悩みを抱えているのだが・・・)
とかげは本当はスミッシーという竜の子なのである。しかし「今は一緒に居られない」
そのとかげの寂しさが、置いてけぼりとなってしまったまほうのコ、ふぁいぶと共鳴する。とかげは自分ちにふぁいぶを引き入れる。そしてとかげの「会いたいけど会えない」という思いの溢れ出たものが家中にあるので、とかげは隠す。
このことは誰にも言えない、秘密なので・・・。
とかげは他の者たちを家にあげる時にも隠すのだろう。が、流石に何日も家にずっといると、ふぁいぶも見つけてしまうのだった。
言えない、けど、そのこころ、とかげとふぁいぶは同じ寂しさで共鳴し合っている。ふぁいぶはとかげの願いをかなえてあげたいと思う。
ここはどう解釈するか分かれそうですが「誰かの願いを叶える為に」魔法を使おうと思ったふぁいぶが、その後初めて?本当に魔法を成功させてしまう。それまでのふぁいぶは、先輩がやってたから、とか、そういう魔法を使えるようにならなければならない、という「そういうものだ」って理由で魔法を使っていたのではないだろうか。
とかげとの交流で初めて、誰かの願いの為に魔法を使うことになったのではないかと。(なんかエヴァンゲリオン破で聞いたような響き)
他人の為なら頑張れる、みたいな感覚。
これはわしは昔から自分の感情表現が苦手というか、今これが「嬉しい」のか「悲しい」のか?とかがわからないから、そう思う。
「自分が幸せになるために」生きる、というよりかは「誰かを幸せにして」生きたいとか。
こんな動機で勉強してた、って言うと、おかしいって言われるかもしれないが、わしは「受験で自分が合格した裏で、泣く泣く落ちてしまった受験生たちがいる。だから、その受験生たちの分も、この学校でしっかりと学び、落第することなく、ちゃんと卒業しなければならないのだ」と思っていた。
他人がHAPPYなら自分もHAPPYみたいなとこがある。全てにおいてそう、という訳ではないが。
なので、ふぁいぶが(おそらく)初めてちゃんと魔法を使えたのが、とかげとの交流あってこその、とかげの「夢を叶えてあげたい」という気持ちが、めちゃくちゃ勉強と訓練に、ふぁいぶを突き動かしたトリガーとなったものと思った。
ふぁいぶ達魔法使いは「思ったら即魔法という手段を使ってその願いを叶えられる」ので、何かになりたい、こうしたい、長期目標的な、あるいは実現化可能性ごぶごぶの「夢」などを抱かないし、その言葉と縁がない。
言葉自体知らない。これは、なかなか、カルチャーショックですね。
わしなんてもう昨日だって「いつかまたストフェスが再開されたら髭切のコスプレをしてFGO綱さんのレイヤーさんとお写真を撮るのが夢だぜ!!!!!!」ってすぐ夢をボコボコ生産してTwitterの海に放流してますからね。
ただ実際には、ふぁいぶは魔法使いとして未熟者なので、即魔法で願い叶えることはできないのです。それは今は「代わりに願いを叶えてくれる先輩達が居ない世界」であるこの「すみっコ達の暮らす世界」に居てるから、初めてそういう状況に身を置く、だから、ふぁいぶは初めてここで「夢」を抱くのですな。
逆境に立たされると人間成長するよね、っていうハナシなのかもしれません。
ただ、ふぁいぶがあろうことか習得し、成功させてしまったのは「消失の魔法」なのである・・・。
なんでよりによってそれなん!?!となるが
まあ、夢も抱かないし、即願いの叶うような世界で暮らしてきたコ、それが当たり前だと思って育ってきたならば、価値観もカルチャーも、我々とは異なるのは仕方ない。
悩み苦しむ原因が、最初から「無ければ」、そのしがらみから解放してあげることこそ、自由気ままに生きてきた魔法使いの幸せの標準仕様なのでしょう。
でなければ、消失の魔法などというものがビギナーも読むであろう教科書的な魔法書にでかでかと載っているはずはなく。
彼らにとって「在ったものを消失させる」ことは何の悪気もないし、手段の一つに過ぎない。
ただ、わしみたいな刀剣乱舞のオタクにとっては結構きついっす。それを当たり前だと言われちまうと・・・こう、なんというか・・・モノが残って在ればこそ、語られる「物語」があり、それに感動して、わしみたいな感情激薄人間の一喜一憂と情緒が人間らしさを保たせてくれるので・・・。
とにかく消失の魔法に何の悪気もなく、当たり前に使っちゃう魔法使いの価値観とわしの価値観はここでビターンと地雷になる、というか、ショッキングだったわ。
叶うかわからない夢なんて抱いてるから苦しいんだよォ!と言わんばかりに、自由と解放のその魔法をぺんぎん・ねこ・しろくま・とんかつに使ってしまうのです。
無垢ほど怖いものはない。
魔法にかけられた彼ら
夢を強制排除された4人は、翌朝から様子がおかしくなる。なぜなら彼らのアイデンティティーは「夢」で構成されていたものだから。
中でもとんかつは、もぬけの殻のようになってしまった。とんかつにとっての夢は、とんかつに生きる希望を与えるための目標であったから、それを失った彼は「生きる意味がなくなってしまった」のである。
生きていたって仕方がない、死のう・・・みたいな感じだった。(言い過ぎ?)
わしはとんかつが最終的に「誰かに食べられたいと思っている」と知った時に、え、それ、食べられたら「死ぬ」のでは???とか思ったが、食物として生まれたからには、食べられることこそ彼らの価値。
わしの価値観ですみっコの夢を本当に理解することは不可能だと思っている。
しかし何とか己の価値観でとんかつを理解しようとした時、そうだ、わしだっていつか死ぬとわかっているからこそ、今を最大出力で生きようと思っているのではないか。自分ができる限りのことはやろうと思ってるのではないか、プロセスにこそ価値があるのだわ・・・とか色々考えながら納得した。
そんなちょっと死の概念が脳裏にちらつくとんかつと、それに追随しつつめちゃくちゃ自我強めで堂々としているえびふらいのしっぽのことが好きで最推しなので、なんとか魔法を逃れた(神回避)えびふらいのしっぽの運には歓喜したが、相棒であるとんかつが何かもう銀魂のマダオみたいになっちまって・・・OH・・・つらい。
ぺんぎんについてもきな臭く、実はぺんぎんではない(のかもしれない)。ぺんぎんは己の在り方が曖昧なことを自覚していて、そのアイデンティティーにいつか決着をつけたい。
ぺんぎんが鏡を見てる時、わしは仮面ライダー龍騎EPISODE FINALのことを思い出していた。ぺんぎんが魔法にかかって態度悪めのやつになった時、これはリュウガに自我を乗っ取られた城戸真司のそれか???と思った。
城戸真司は他のライダーのように欲望がはっきりとはしていなかった朧気に「人を守りたい」という願いを持って戦っていたわけだが、その己の願いも、そんなんでいいのか・・・とか、めちゃくちゃ葛藤して、本当の自分の願いは何なのだろうか、何の為にライダーをやるのか、とか探しながら戦いに身を投じて、最終的にああなった。
ぺんぎんは己の出自を明確にしたいと自分探ししながら生きていたが、鏡の中のぺんぎんはもう全て投げ捨ててしまいたかったのだろうか、とか思っていたらもうほとんど城戸真司に見えていた。
しろくまは、寒いはずなのに暑い暑いと扇風機を出してくる。風呂敷はその姿に表情すら変えないものの、その心は死んでいたことだろうよ。生まれた時からおくるみとして見守ってきて、この南の大地に共に旅してきたこのコ、いつでも温めてやったこのコがこんな・・・つら。
ねこについては、己の食欲に従順なおデブになってゆく。夢という枷から解放された自我が求めるのは「食いたいだけ食いたいものを食う」という生物の基本的欲求。とんかつと違って生物であるねこは、それこそ自由気ままな猫となってゆく・・・。
ふぁいぶはとんでもないものを消失させてしまいました。
この時の絶望感といったらまあーーーーしんどかったですね。
気付いてしまったのですからね。過ちに。
青と青
しかしなんやかんやで、皆わりとすぐ夢を取り戻して元に戻る・・・!
児童向けアニメの良い所ですね、ストレスタイムは最小限です。
これがFateとかだったら最低5話分は元に戻らなかった。いや、Fateなら「まんまもとに戻る」とか無いだろうな。何かと引き換えに、歪んだその人が「新たに生まれる」んだわ・・・。(偏見)
なんやかんやで元に戻るし、なんやかんやでちゃんと迎えに来てくれるんよ。
流石に「あれ!?!末っ子居れへんやん!!!!!!」となって何もしないわけがなかったし、巻き込まれ事故のたぴおかもちゃんと送ってあげますよ。
「願ったら即魔法で願い叶う」のルールが適用できない(帆は月の光のパワーなので、魔法使い側の意思でどうこうできるものではない)場合には、流石に彼らも動くわけですね。いくら自由気まま~~~とは言え、家族居らんくなるのはカナシミ・・・、という価値観なのですわ。
まあ、前作の「ひみつのコ」は、そういう存在が居なかった・・・てわけですが・・・・・・。
(ひみつのコの闇がここで効いてくるという罠)
とにかく、とかげやえびふらいのしっぽ達の頑張りにより、失われたかと思われた4人の夢は復活し、魔法使い達の頑張りにより、無事に船は5年を待たずしてお迎えに来てくれた(たぴおかも帰ってきた)ので、万々歳よかったね!!!!!!!!!!
というところで終盤は、それはまた美しき、青、青、青の世界。
湖の青、夜空の青、青いとかげの、夢は夢のままだけれども、夢があるから、頑張れる。それは、まだまだ”青い”若葉の魔法使いにとっても。
綺麗だなあ、青の世界に輝く星よ・・・。
最後に魔法について考える
わしは大学で化学を学んでいた時に知った「あまりにも高度な科学技術は魔法と見分けがつかないのである」という言葉が好きで、これ以外のnoteやtwitterでも度々このことを言っている。
科学技術が発達した世界で、もはや専門としてその仕組みを理解していない限り、今「我々が便利と思って使っているもの」のほとんどはブラックボックス化していて、なぜそれが使えているのか、どういう原理で動いているのかがわからずに使っている。
今わしはメーカーの人間であるので「保有技術を他社や他国にむやみに使われないように(軍事利用的な意味も含めて)わざとブラックボックス化する」ということも、権利を守り、社会を守り、平和の為にとも思うので、アリだと思っている。
これも過去の記事で書いたことあるが、実際、化学と宗教がまぜこぜになっていたような時代、いわゆる、金を成そうとした「錬金術」が流行った時代には、錬金術師というのは魔法使いとも言えた。
ええーそんなステッキをひょいと振れば、何もないところからお魚を泳がせたり、ケーキを分割してお出ししたり、公園のメッチャ重そうな銅像に自我を与えて散歩させられたりしちゃうのですか!?!?!?!というすみっコぐらしの魔法使い的なことは出来なかったけども(大道芸師とかそっちか?)
少なくとも今の化学では「金じゃない元素からなる化学物質に金ができることの一部をやらせることが出来る」という技術ならある。わしは配位化学をやっていたので、おおざっぱに言うとそういう化学が専門だった。それがつまりは錬金術なのだ、と師たる教授などは仰っておられたな。
わしはそういう何か牧歌的な?学問の姿勢が好きであった。
だがそれは、昔昔の錬金術師、いやもうもっと前から、人間達が「夢」を見て、叶うかどうかわからんが、とにかくその星に向かって歩んできた歴史であり、「夢のリレー」の結果なんだと思う。
卒業論文なりを書くのに、いくつもの引用文献を参照した。
これまでその分野の研究者たちが夢見て何度もトライ&エラーしてきた結果少しずつ少しずつわかってきたことが理論体系化してきて、教科書なりにまとめられて、集合知の結晶として「今我々は便利な生活をしている」のだと。
まあ自分も、化学をやっていた端くれで、今はメーカーのサラリーマンで、人々の便利の為になるモノを作る仕事に従事しているわけで
弊社はとにかくクソデカきことと取引先がクソ多いことが取り柄だけども、それはそれまでに先人達が少しずつ少しずつ帆を広げて、船をでかくして、それまで行けなかった海にも航海に出て築かれてきた航路なんだろう。
少なくとも、船員としてその船に乗り込むことを許されたわしにもまた、ちょびっとでも船を前に進める責務があるし、何より、自分は人のために魔法使いになれたらいいなあって思いますね。
いちにんまえのまほうつかいになることがゆめ。