刀ステ綺伝感想~福岡遠征の巻~
ネギ丸という名前を改めまして「ネギおじ」で統一することにしました。よろしくお願いします。
さて、今回初めて一人で福岡サンパレスホールに来ました。
舞台『刀剣乱舞』綺伝いくさ世の徒花のゲーム先行でお席をいただいてましたので。初めてですわ、舞台刀剣乱舞を生で見るのも。ミュしか行ったことなかったので。
いやあ随分遠くまで来ましたね。物理的にも、心理的にも。
まさか自分がこんな、ガチめのお芝居を観る為に遠征するような人間になるなんて、大学生の頃はマジで引きこもって狩りゲー徹夜野郎でしたよ。舞台観劇なんて軟弱な趣味、とか、とにかくイキっていたのですあの頃は。
それがもう今や、こうしてクソデカき感情をしたためないといけないくらい、ひとつひとつの芝居、脚本に、内面から湧き出て来るものがある。
すごいことですよ。刀剣乱舞という単なるゲームと侮るなかれ。
一人のイキりオタクの人生を、今も変え続けているのです。
では本題の感想にいきます。
※ネタバレ注意
※大千穐楽までストーリーを知りたくない人は見ないでください。
■偽物くんの偽物くんというギミック
まずこの話をします。なぜなら今回の福岡遠征には長義とたゃ(まんば)のもちもちマスコットを連れて来ておりました。今回のわしは山姥切を推して参る所存で臨んでおりました故・・・。
先日刀剣乱舞無双のクソデカ感情を投稿しましたが⇓
まあ~~まだ記憶に新しい、山姥切感情を思い出しましたね。「偽物くんの偽物くん」を見抜く、山姥切長義ですね。
やはり何度浴びても良い。やはりこれこそが、長義独自の本能なんだと思いました。刀剣男士は歴史を守ることが本能、と言わしめただけある。
長義だけが感じる「不快」、古今さんも感じ取れない違和感。冒頭から何となく、まんば関係の何かが臭っているなあとは感じました。
まあ、休憩時間中のツイート、その頃わしは黒田孝高になりたい!!とかほざいておりました。
ちなみに(n回目)というのは本当で、コロナで改変となった徒花の記憶の時に既に結構黒田如水に入れ込んでましたので、次にハンドルネームを新しく作るタイミングには「シメオンにしよう!」とさえ言っております。
あと、なんか膝丸のことも出て来て、結構ヤバかったです。
まあ詳しい黒田感情はこちらで叫んでいました⇓
そんなこんなで、黒田官兵衛もとい黒田如水もとい黒田孝高もといドン・シメオン(多い)に感情を揺さぶられていたという自分が既に出来上がっていた状態で臨んだので、長義が「怪しい・・・」と思っていたのと同じように自分も怪しい・・・とは思っていたのですが、「偽物くんの偽物くんというギミック」をここで使うとは、という驚き。
いや、驚きではないかもしれません。
刀ステの黒田官兵衛ならこれくらいやる という、謎の納得感が、今はあります。
そして、黒田官兵衛の今回の動きの意図が見えた今ならば、山姥切長義に対してこの「偽物くんの偽物くんというギミック」を長義の目の前にお出ししたのは超納得。餌ですね。釣りです。釣り。今回の黒田官兵衛は釣りをしに来ました。
長義はその餌に見事に食らいついて釣り上げられた。まんまと「乗った」訳ですね。そしてそれを、いまだ帰らぬ旅人のまんばに対する、長義の本音という形で「乗った」ことをお返事する。
聡いですね、長義はやっぱり。そう思っております私は。だから好きなんだと。黒田官兵衛←→山姥切長義の駆け引きを見せられましたね。別に特にこの二人が直接話さなくても、ですよ。多分感覚としては、この二人はボードゲームをしていた。盤上の駆け引きな感じで。他の人の言動とか、状況から相手の真意を探る、腹の探り合いをしていた感じ。賢いやつらにしかできんことやわ。(わしは賢くないので無理~(∵))
絵を描く時間があれば、チェスしている黒田官兵衛と山姥切長義の絵描きますよね。黒田官兵衛が手にもつのはガラシャの駒。山姥切長義はガチガチに守る。本丸の中にある、山姥切国広っていうキングを取らせないようにする・・・んだと思う。チェスのルールを学びたまえ、わし。
■踊る篭手切
噂に聞くムーンウォーク篭手切!!これか!!!この目でしかと確認しました。
そんで、わしはKING OF PRISMのオタクでもあるので、篭手切江の中の人である大見拓土くんが🐷禁(舞台KING OF PRISMの意)で仁科カヅキ先輩をやられていてブレイクダンスしていたイメージが脳裏によぎっていたので、篭手切の殺陣はしばしばブレイクダンスに見えたというか「コイツ…踊ってやがる…!!!」ていう、時間遡行軍側のモブ雑魚敵みたいな感想を抱きながら、その華麗なるキックなどを眺めておりましたね。
楽しんでいるのです。篭手切江、恐ろしい子・・・!
ここは篭手切くんのすていじだよ。存分に踊っちまえよ、ってなってきましたね段々。プリズムショーか???いやでも、超おもしろかっこいいよこの殺陣・・・!!
わしは殺陣に興奮していたのでした。
■とにかく殺陣
刀ステは殺陣を見に来ている、殺陣の為に金を払っている。もはやこのチケット代、遠征費用は、ほぼ殺陣鑑賞代じゃないのか、と思っているくらいには、殺陣がすごいので。
殺陣でそれぞれの刀の印象や性格、その時の心情までも表されているように思う。今回の舞台はプロジェクションマッピングとアニメーションで、まじで街中でジャンプしたり移動しながら戦っているかのように見せていてめちゃくちゃ楽しかった。興奮して殺陣の間はずっと鳥肌が立っていた。
最近のわしは特撮のオタクなので、生身の人間がやるアクションに対して、以前よりも目が肥えてしまったが、CGを存分に使うニチアサ特撮のアクションにも全然劣らない、舞台全体を使った動きの大きな、迫力のある殺陣アクションに、やっぱ現地見に来てヨカッタ~!と感動した。
特に、長義が敵の頭上に飛んで刀を振り下ろしてとどめをさすシーンは、そういう長義の性格というか、まさに上から目線でプライド天元突破な長義らしい印象を得る。長義っぽい、気持ち良すぎる長義アクションだった。
あと、ガラシャ様と歌仙が終盤で対峙するシーン。やはりクライマックスであるので、激しくぶつかり合う。まるで刃こぼれしていそうなくらいの気迫。もはや見えたよ、刃こぼれが!!(大興奮オタク)
歌仙が攻撃を当てれば、その次にはすぐガラシャ様の刃が通る。ガラシャ様の攻撃が入れば、歌仙がまたすぐし返す。交互に互いの攻撃が入っていって、互角に渡り合っていることがわかる戦闘シーン・・・激アツだったずぇ・・・。
ガラシャ様の宝塚的衣装がひらりひらりと舞い、中傷以上負傷状態の歌仙の無骨さが際立ち、画的にも良かった戦闘シーンでありましたね。互いの最大限の力でぶつかり合っているんだぁ・・・と思った。
■鬼ごっこ(歌仙感情)
そんなガラシャ様と歌仙の戦い、画的にも素晴らしい上に、とてもエモーショナルでもあった。
「あなたが私の鬼なのね…」が好きすぎてよぉ・・・。
まあこれは普段からわしが鬼丸国綱の二次創作をしていることによって「鬼という概念はどういう心理状態から生まれるの?」とかを哲学的に日々考えているから、という事情も相まっている。
このガラシャ様の発言は、きっとこれは人生をかけた鬼ごっこなのだ・・・幼馴染の忠興とたまが、幼子のように鬼ごっこをしているのだ・・・とか思いました。
歴史改変の核だとか、皆を楽園に導かねばならないだとか、そんな大儀名分などは置いておき、とにかく、今目の前にいるこの”鬼”が、私を追ってやってくる、だから、逃げる。ふたりで鬼ごっこをしているのだがら、最後まで、鬼以外の誰にも邪魔はさせないのである。
地蔵行平がガラシャの手を引いて逃げまくったことで、結果的にこの「忠興とたまの鬼ごっこ」は、今回やり遂げられた形となる。最後たまは、忠興の刀に捕まる。ふたりは満足そうに花畑をの向こうに行く。
またプロジェクションマッピングのすばらしさを語るが、奥行がすごくて、正面の席じゃなかったのにも関わらず、どこまでも続く花畑な感じがして、めっちゃ広!と思った。
遠くに行ってしまう忠興とたまに、ボロボロの歌仙が地に這いつくばって項垂れる姿を、あのシーンのことを、わしは一生忘れないでしょう・・・。
和田琢磨の演技力の業を見た。多分きっとこれも、配信じゃなくて現地で見たことが、財産となる。本当に、一枚の写真のように、あのシーンが脳裏に焼き付いてしまったのです。
これがあったから、歌仙は最後、修行に行ったんやなあとわかる。それだけ大きなことだ。歌仙にとっても。重要な別離であった。
刀剣男士の修行っていうのは、今の主(=自分を顕現してくれた審神者)にお仕えすることを誓う儀式のようなもの。だから、お別れのケジメを、歌仙はこの時つけたんだろうなぁ、と思った。
鬼の役目を忠興の名代として果たした歌仙には、もうあの花畑のシーンでは、自分自身が忠興で、たまが己のもとから離れていく、みたいな、疑似的な忠興が感じたのと同じ感情を味わったようにも思う。
たまが自分から離れていくという寂しさ、そのおそれの心、人間の弱さを知ることは、その感覚は、他のどの刀でもわからない、地蔵行平でもねえ、歌仙兼定にしかわからない感覚なんやろ?
あなたが私の鬼なのね、だからね・・・。
■囚われているこころ(地蔵感情)
ガラシャ様が地蔵行平を解放するシーンで、わしの情緒はまたあのかつて原作ゲームの方で慶長熊本に初めて行った時の「ユッキーは俺が絶対に幸せにしたるからな!!!」という使命感に燃えた、まさにあの時のように、メラメラと燃えてしまったのですね。
当時の感情はすごすぎて漫画描きましたよね⇓
激アツでしたよね。創作審神者なんて一生描かないやろ、と思っていた節もあったわしが、明確に、さに刀じゃないとこの感情の行き場がない!表出できない!!救えない!!!と思った、あの当時の感覚を。今回また思い出してしまいましたよ。
俺が責任をもって、この囚われ刀に寄り添いますよ。地蔵行平が複数の刀を携えて顕現している理由について、これからも考え続けます。考えることをやめない。そう。刀剣乱舞無双で面影くんが黒影くんと向き合えたように、ユッキーにも、己の囚われているもの、もう一振りの、太刀の地蔵行平にも、向き合わせますよ、ガラシャ様。
流石、姉上だし、やっぱり、人のことをよく見ておられる。ガラシャ様もまた、賢いお方だったのだよ。本質が何か、考え続けた人だよ。考え続けたあまり、なぜ忠興様は、なぜこの世界は、なぜ私は…ってなってしまって、結果、白堕ちしてしまったんよ。
きっと馬鹿な女であれたら、ただの、謀反人の娘として死んでいただけ。そんな戦国の女、たくさんいたやろうて。女の人生っていうのは、歴史の闇に葬られがちで、残ってないんよ。でも、ガラシャ様は歴史なんよ。この意味は相当でかいんやって、年々わかってきました。
でもそのガラシャ様が、囚われていたからこそ、考え続けたし、考え続けたからこそ、デウスの国まで作れてしまったよ。それこそもう、二次創作という、普段から「物語をおくれ・・・」している、自分という創作オタクのそれ。
囚われた心が考え続けて行きつく先は、公式からも逸脱したおろかなるただの妄想に過ぎなく、しかしその果てに「己の理想のはらいそ」があるんじゃないかと、道を探しながら、創作しているよ。
ただただ与えられた状況を受け入れて「そうあるべき」だから「そうします」っていう、オウム返しみたいな、脳死の女では、居られなかったのよ。信仰に走ったのは、それがその時、限られた情報の中でたまたま得られた打開手段に過ぎなく、信仰に出会っていなかったとしても、別のものでも、ガラシャ様はガラシャ様になっていたと思うのよ。
蛇のようににらみつけて、冷静に人と状況を観察して、忠興を愛しながらも、憎んでしまう、己のどうしようもない、心のままならなさにもがき苦しみ、考えて考えて、行動に移してしまう人。他人に運命を委ねない。そんな人が、地蔵行平の手には引かれる。だからこそ逆に、地蔵行平だけは特別で、あの逃避行の間だけは、ただの「姉上」で居たかったのだろう・・・か。
人なのだから。理屈ではない。多面的なんだわ。
心理学的ペルソナの話、しばしば好きでしますけど、弟の前では、武家の女でも、当主様でもなく、ただ「弟にとっての姉上。家族」でしかない、心理的安全性のある関係。それこそ、男だとか女だとか、そうあるべきとか、性の固定観念すらも前提にしない関係、とまで言ってもいいかもしれない。七海ひろきさんと星元裕月さんだからってのもある。生の芝居だから、ゲームで味わった以上の、特別さを感じる。人の多面的で、曖昧な境界を、このお二人がガラシャと地蔵行平を演じることで感じ取れた感がある。
素晴らしかった。
手を取り、手を取られ、守り、守られ、刀剣男士と調査対象という枠組みからも離れたところで築かれる、どこか、遠くに行けてしまう気がする、夢見心地な逃避行は、ファンタジックな感じ。
ピーターパンかもしれん。
鎧も装束も、任務も役割も、男も女も、人とモノも、何もかも捨てて、どこかへ行ってしまおうよ、みたいな。創作ってさあ、そういう幽体離脱的な感覚ですよね。
本当に随分と、遠くに来てしまったな。
随分と、気持ちよくなってしまった。
地蔵行平の漫画、また描こうと思いました。