犬王を観た源氏界隈刀剣オタクの感想
犬王観た方が良い雰囲気をTLから察したので観てきました。
結果観るべくして観た映画だったなァ…と思いましたので、一連のツイート/有識者のRTも含めて記録として残しときます。
※めちゃくちゃ普通に映画『犬王』のネタバレを含みます。
※そしてめちゃくちゃ息を吐くように刀剣乱舞の話をします。
とりあえず犬王を観た後のワイはこんな感じだった。
ワイは源氏兄弟クソデカ感情オタクなので、源氏兄弟が好きな人をフォローしているのですが、そのうちのある一人の方が犬王を観てこられた時に「源氏兄弟のオタクがダメージを受ける箇所がある」とつぶやいておられて、事前情報として「そういう箇所があるんやな」と思って観に行きました。
あと、アニメ平家物語を履修済みだったのと、その公式アカウントが犬王について言及しておったので、舞台となる時代がどんなもんかはなんとなくわかっておりました。
観た結果、自分がこれまで刀ミュや刀ステに対して「ここが好きやわ」と思っていた部分と同じ魂的なものが、犬王にも通っていたわ・・・!と思いました。
源氏双騎的な部分
まず、形式ですわね。
源氏の双騎は『曽我物語』を|瞽女<ごぜ>と呼ばれる盲人芸能者の女が語る物語でありました。曽我兄弟の物語は能、歌舞伎、浮世絵…様々な伝統芸能の形で表現されてますが、瞽女が語り継いで来た、という所が激アツなんす。
盲目であればこそ、瞽女たちがあの美しく儚い兄弟の物語を語ることで、それが彼女たちの生きる糧となり、光となったのだ・・・という所に、わしは既にクソデカき感情を持って居ったのですが。
犬王は『平家物語』を|琵琶法師<びわほうし>と呼ばれる盲人芸能者であり僧である者たちが語りついできた、っていうところから、盲人の|友魚<ともな>が平家物語というか、平家物語にまとまる前の平家の生々しい話を背負った犬王を語る物語、って感じしましたわ。
友魚にとっての光やったんやろうなあ・・・って、双騎観て泣いていたあの頃の感動がもう一度己の体によみがえってきた気がして、勝手に感傷に浸っておりましたよ。
なんかすごいもんな。自分が「この人すごい!この人の伝説すごいねん!」という、推しに対する熱?みたいなのって、誰でも持ってるわけじゃないんよな、って、会社で無趣味な人と喋ってて思うもんな。
推しを推すってのは誰もがやれることじゃないねん。その熱量で己の芸を磨ける人って、そんなぽろぽろ居らんねん。ホントは。
あと、双騎ィ・・・ってなったのは「兄者!」でしたねェ。
あかん、弟者を守って先に死にゆく兄に対する「兄者!」は、源氏のオタクのワイに効く・・・大ダメージである・・・うぉお・・・・・しんど・・・・・・・。
谷一兄者はめちゃくちゃお爺ちゃんで、なんやったら、友魚とは親と子どころか、爺孫くらいの年の差のようにも思えたが、それでも友魚にとっては、琵琶を教えてもらった兄弟子なんよ。伝統芸能の義兄弟なんやなあ、あくまで。
源氏兄弟のオタクのワイは、かねてよりここのnoteにも書いておりますが、源氏兄弟刀は血縁的な兄弟じゃなくて、叶姉妹とか阿佐ヶ谷姉妹といいますか、義兄弟という認識で居りまして、だからこそこの、谷一・友魚義兄弟の「兄者!」が、とても源氏兄弟だなと思ってしまった訳です。
生まれ落ちた時から兄弟なのではなくて、心通わせ、出会った二人が、同じ方向を向いて進む、背中を追う弟と、先にいく兄という、この義兄弟の形に「源氏兄弟やん」を感じてきております。
目の見えない谷一と友魚が、琵琶を通して心通わせ、物語る。見えなくとも、同じ光を見たのだろう、光の見方を学んだのだろう、と思って、泣いてしまう。兄と弟に弱い。ホント・・・。
アニメ平家物語
原作が同じ人ですからね。言いたいことのサビは同じなんやと思います。
犬王が語った平家の話は、アニメ平家物語をついこないだまで観ていたワイの記憶にも新しく、犬王の語りの中で「ああ、生きてたよ!!重盛!!維盛!!帝ォオオオオ!!!;;;;」みたいな、知ってる、知ってるよォオオオ;;;って限界オタクの興奮が。
あれ、犬王が応援上映やったらものすごい声上げてたと思いますよ。アニメ平家物語のビワちゃんのように泣きながら応援してた感じあります。(別にビワちゃんは泣きながら応援上映してません)
とりあえずアニメ平家物語も素晴らしいので貼っときます。↓
これもなかなかにしんどい。何が起きるかわかっているから。平家は滅びる。結末を知った上で、生き生きと描かれるキャラクター達を、メタ的な視点も持ち合わせたビワちゃんが語る。
そして何より、その平家を滅ぼした源氏を、ワイは推しているのです。敵じゃん、って割り切れないよ。
そんな、ハッキリと味方と敵や~んって、思えないよ。
今世界ではどこぞの大国が侵略している訳ですけど、若者はもはや、敵を一概にstrangerだって見れないんですよ。
そういう話も、源氏も推しながら、平家の歴史も履修してってて、日々感じる、自分事なんす。
ツダケンが最高なんよ
最近めっきり特撮オタクワイ、ツダケンにお世話になる率が高まっていたわけですが、またしても、ツダケン。
仮面ライダーリバイスレガシー仮面ライダーベイルではそれはそれはもう、お世話に・・・今も本編でも後方彼氏面ベイルさんが良すぎなんですが。
めちゃくちゃ良い役ですよ。この「お前が始めた物語だろ」な、犬王の父。進撃か。
パンドラの箱っちゅーか、ジョジョの鉄仮面かもしんねえ・・・父は開けちまったんや。芸能の頂点っていう、天下にとりつかれた父。
今、鎌倉殿の13人を観てて、先週丁度、実衣さんまでも天下にとりつかれて狂ってしまってて衝撃やったのですが。天下ってマジで、人を狂わすよなぁって思ったんす。
どんなことをしてでも、何を代償にしてでも、唯一になりたい。No.1になりたい。
子どもを代償にして、芸能の天下に狂う父。ツダケン良すぎた。
竜宮城はあるのか
この方の考察見て、ああ~~~~~~~~~~~なるほどねぇ~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!ってなりましたねん。↓
そんで、急にワイの中で双騎だけでなく、パライソにも接続してしまったんですよ。
ワイはパライソの脚本が一番好きなんですが(2022.6現在のミュ作品すべての中で)、パライソに何で浦島君が編成されたの?っていうところにはこういう解釈をしたんす。
つまり、滅びゆく平家を見て安徳天皇とともに三種の神器を入水させる|二位尼<にいのあま>(平時子)が「極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」「波の下にも都がございます」言うその、極楽浄土が、つまりはパライソであり、竜宮城であると。
で、浦島虎徹はというと
行ったことないけど、あると信じてる。浦島君は刀やので、刀だった時の浦島君は錆てしまうから、海には入れませんし、行ったことないけど!なんすよ。
じゃあ犬王における友魚は?っていうと、友魚はもともと壇ノ浦で漁師してたので、海の底には何回も行ったことがある。
壇ノ浦の海底には、源平合戦の跡がたくさん落ちてて、友魚と父はそれを拾ってくる。けど、それは全然極楽浄土でもなくて、竜宮城なんかなくて、パライソでもない。海の底に落ちてるのは、戦いで失われたつわものどものかつての栄華の残骸と、恨みつらみの平家蟹なんよ。
お宝の山だわ~いって感じでもない。それは冒頭の友魚たちの漁師小屋にハエがぶ~~~~~~んってこれでもかてたかってて、耳ざわりな、まさに「貧しいですよ」っていう音ですやんか。
もし壇ノ浦の海底に竜宮城あったらねえ、あんなハエたかりまくった家に住んでませんわ!!!!畜生め!!!!!なんすよ。
戦争の残骸ってそういうことやねんな、て。
平家滅ぼして勝った側の、源氏の重宝髭切と、その後、どんどん天下に囚われて、身内同士でも滅ぼし合う、源氏系の一族、安達、北条、それらの家に翻弄された鶴丸、ほんで、犬王も歌ってましたけど、この犬王の時代を蹂躙する足利と、足利の宝剣の鬼丸国綱を好きな、ワイ。この辺のことをひっくるめて、創作に活かそうと思いましたね。
竜宮城なんかないって目で見て友魚は知ってしまっているから、目を奪われたんや、という考察、ぞくぞくしましたね。
源氏のオタクのワイは、刀ミュのつはものどもがゆめのあとで膝丸君が「兄者、俺は目に見えるものしか信じない」的なこと言うたこと思い出してましたよね。まさにBE IN SIGHT。目に見えるものだけ、あるがまま。
目を失ってから、友魚は犬王に出会った。
見たことないことも語れるようになるには、目は邪魔だった、っていう因果かもしんねえ。目が見えてる友魚のままでは、犬王の話をまず聞かないやろっていうのもそうだが、語れないと思うんだわな。
それこそつはものの膝丸くんと同じで。無いものは無くて、見えぬものは見えぬのだ。
そこになければ、ないですね。(ダイソー店員)
橋の上で出会い、橋の下でさよなら
いや、思いきし某漫画用に描き下ろした原稿引っ張ってきてしまうんですけどね、橋の話ですわ。
友魚と犬王チャン(この時の犬王チャンは脚が生えてきてキャハハハキャッホーである)が最初に出会った、橋の上。ワイは「橋の上じゃんんんん」って思ってましたわ、勝手に、己が最近橋に関する原稿を作画したもんで、超タイムリーじゃん?!となり。
橋は境界なのですわ。
此岸と彼岸、あちらとこちら。世界と世界をつなぐその境界の上で、友魚と犬王チャンが運命的に出会って、各々の特技を見せ合いっこするんですわ。
そんで、二人の世界がつながる。まさに、橋がかかって、犬王は友魚の、友魚は犬王の世界と行き来できる。友達になる瞬間。素晴らしくないですか。素晴らしかったです。この「橋の上」っていうシチュエーションひとつ取っても、ワイの中のクソデカき感情がむくむくと沸き立つには十分な表象。
そんで、友魚はその橋の下で最後、さようなら、ですわ。
橋の下には、要らないものが捨てられるからです。河原ってのは、要らないものが捨てられるとこなんす。先日の大加州刀展の感想でも語りましたがね。
友魚と犬王が初めて舞台したのも、橋の上でしたよね。人々が往来し、世界と世界が出会う場所。橋の上。そこで、人々は新しい能楽に出会ってしまったってワケなんですわね。
橋の上で、っていうのが、めちゃくちゃに、意味があったわ・・・。
推しは推せる時に推せ
これは、推し活オタク達に一時めちゃくちゃ流布した格言ですわね。
要は、友魚はあまりにも犬王という推しを推し過ぎちまって、推せないところまで来たのに、それでも推してしまった、ということなんやろか・・・とか思いながら。
お互いに、お互いが、自分の一部かのように大事になってて、それが世界から無くなってしまったら、死んでるのと同じ、くらいまで行ってしまってたんやろうな。
橋の上で出会った世界が、行き来し過ぎてもう、行けなくなっちゃったら、生きれない、くらいのレベルまで行ってたと思うんやわ。その、お互いの「大切」を、守る手段として、別の手段取ってしもうた。真逆の。
思えば最初っから、犬王は賢明で理性的なところありましたね。友魚の方が即物的と言いますか、感情的と言いますか。犬王の方がむしろ、空気読むっつうか「他人がどう己を評するかわかって瓢箪お化けやってた」まである。視点が、目の見えない友魚よりも、普通に五体満足な一般人よりも、ちょっと違ったとこがある。
友魚は心まで盲目になってしまったから、最後まで庇ってくれた兄者の愛も、社会(というか足利義満の意図)も見えなくなって、600年、生きているのか死んでいるのか、わからねえもんになる。
見えぬものは、見えぬのだなあ。
友魚に死んでほしくない、生きて欲しいって人の気持ち、見えなくなっちまってた。
明石なんですか、先生ェ
これは、マジで思わぬところからの被弾でしたが、刀ミュ制作陣のことなので、あの茶番っぽい小噺すらも、深い意味があるに違いねえって思いましたよね。
ちょっと待ってください。足利尊氏のいとこなんですか先生ェ・・・。
鬼丸国綱の元主だしなという訳で逃げ上手の若君を履修しているところなのですが、足利尊氏はめちゃくちゃ”底の知れない人外のような巨悪”なんですよ。漫画の中で。
まさかの尊氏のいとこなんですか。なんてこった。ああ、だから犬王が「あそこは将軍と繋がっているから」なんですねえ。納得してしまった。
めちゃくちゃ因果・・・( ;∀;)
名を変えたら見つけられないんよ
友魚であり、友一であり、友有なんよ。
名をコロコロ変えて・・・・・・・・おや、この「名がコロコロ変わる」ムーヴ、とても馴染みがあるぞ????????
名前めっちゃコロコロ変わってることがむしろキャラクターのアイデンティティやんけみたいな刀のこと7年間推してましたわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーワイ。
名前が変わったら見つけられない。名は体を表す。
友魚とは一体、なんぞや。
友一とは一体、どこの誰。
友有とは一体、何者か。
最終的に、彼は己を「ただの、壇ノ浦の友魚」と名乗る。
壇ノ浦っていう、歴史の敗北者である平家の怨念が沈むあの、竜宮城もクソもない、ハエがたかりまくった漁師小屋の、あの壇ノ浦に帰ろうとするんだわ。
600年後のあの車が行きかう交差点、あれってもしかして壇ノ浦?犬王は友魚のことを「壇ノ浦の」友魚としてわかんねーし、「壇ノ浦の友魚」のことを語る者は居なくて、「壇ノ浦の友魚の物語」は形として残らなかった、としたら、犬王が探しまくって600年かかるの、わかりますやん。
ワイが推してる源氏兄弟にも、めちゃくちゃ名前があって、コロコロ変わってて、どれが兄者やねん、どれも膝丸なんか、って、最初は戸惑ったんですけど、それは、それぞれの名を冠する兄者なり膝丸の物語が語られ残っているから。で、その形が、複数あるが、刀というモノにまとわりついて残ってる。刀というモノと、物語が一緒に伝来して残ったから、だから見つけられる。神社とか寺とか、めっちゃ行って「これも兄者か、これも膝丸くんかぁ~」てなる。
じゃあ、友魚の物語は、誰も語らないから、残ってないから、伝来しなくて、見つけられへんのか?
ちゃいますねん。
ワイらが「映画犬王を通して友魚の生き様を見届けた」から、ラストで犬王は友魚を見つけられたんですよ、現代で。そう2022年。映画犬王が公開されたからですよ!!!!!!
っていうのが、多分この映画のサビやと思いました。
めちゃくちゃこれ、刀剣乱舞そのもののテーマ性からの視点やので、メタ的に。でも「見つけた」んだよな。
それは、彫刻のように。石のかたまりの中から形を彫っていく、その形がまるでずっと昔からその石の中にあったかのように、外堀を彫ってって、見出すんよな。
2022年の観客が、犬王という映画の中で友魚を見つけたから、物語が認知されて、2022年の世界で友魚の場所がやっと確定されて「壇ノ浦の友魚」を、犬王が探しに行けたんよな。
まさに「こちらにも参加させる」犬王の能楽そのものやんけ。
ワイらが参加して、犬王という映画が完成したんやんけ。て思いました。
ちなみにこの解釈も、源氏兄弟クソデカ感情、量子力学的に認知できるとかいうクソ極大オタク解釈にまとめてあります。↓
血が滾る
これはまじで発声応援上映向け、なんよ。ほんとに。キンプリの応援上映オタクでもあるワイとしても、とても体がうずくというか。
もはや、犬王観てる間ずっと実は暗闇の中で手と足はリズム刻んでしまってましたからね。手に持ってた飲み物、ちょっと揺らしてしもうたよ。
血が、キングオブプリズムのオタクの血が、湧くのよ。体が覚えているのよ。この感動、知ってる、ってな。初めて見る映画やのに、犬王の楽しみ方を昔から知っているかのようだったよ。
すべてが詰まっていましたね。
血が滾るとはよく言ったもんだ、このてけさんのツイ見て「同じ血が通っている・・・犬王と刀剣乱舞には・・・」と思うと同時に、ワイの中にあるキングオブプリズムの血も混ざりあって「この血に刻まれた記憶が、犬王は映画館で観なければならないと言っている・・・・」と思いましたね。
そんで多分もっと根本的なことで、結局、DNA的に好きなんす。
祭が。
ワイのルーツは岸和田っていう、祭に生き、祭とともに死ぬことも辞さない魂が通う地。友魚の生き方を、否定もできない。そういう生き方を義とする血が通っているのだ。だから最終的に、推しを、祭を、終わらせたくねえって思いながら、死ぬ。そこに悔いが残らないように、推しを推せる時にできるだけ推したい。
観客が居て完成する映画
さっきも書いたけど、この犬王という映画のサビはきっとこれであるわ。
観客という我々が「ワキ」。
橋の上を行きかう旅人。せわしなくあちらこちらの世界を行き来しながら、ふと足をとめて映画観る。
キンプリも、応援上映が作っていった「観客とともに完成した作品」やと思ってます。
犬王にも、この血が流れていると思った。そんでそれは、能楽なんや。きっと芸能ってこういうことや。
最近はパリピ孔明でもこの辺のクソデカ感情の解像度を上げていたところなので、自分的には超タイムリーでしたね。しがないラウンジの歌姫エーコさんが自分探しの為にストリートで歌った時に気づく、何の為に歌うのか。
道端で足をとめる民草が居るので、完成するし、民草に「聞いてくれ!!!俺たちはここに居るぞ!!!!!!」って主張して、それを受け取る民草、応える民草、そんで、自分も踊り出してしまったりなんかする民草。他の民草にも「犬王めっちゃおもしろいんよ!!!」って布教しまくる民草。
推しを推すということだ。血は滾り、体は勝手にリズムを刻んでしまう。
ワイはあの映画館の中で確実に犬王の民草だった。
もう一回観た方が良いよねこれ
見逃してるとことかめちゃくちゃあるし、解像度がそない高くない部分とか、絶対もう一回観て確かめた方が良いんだよ。
気づかなかったです。民草レベル1なので。確かめてぇ・・・。
藤若ちゃん(世阿弥)の掘り下げができる・・・スピンオフやと思って読みたい・・・。
赤であることの意味とか、もう一回意識して観たいですよね。赤って、平家の象徴でもあり、燃え滾る血の色。目の見えない友魚が耳で見た世界の色、あんなに色とりどりなんだ。
平均台からのバレエはまじであそこだけgifにして流しといて欲しい。何回も見たいという意味で。
草薙剣だけでもう無理やったが
血を吸わされて、ガタガタしてた刀居ましたね。もうねー刀剣乱舞クソデカ感情ワイはあれは大層興奮いたしましたわよ。
あああ、物語をたくさん持ってる琵琶法師たちをたくさん刈り取ってその物語を注がれる、モノとしての刀。
物語はモノにまとわりついていくものだから、あの刀が物語を注がれて血があふれ出して・・・めちゃくちゃワイの中の髭切の解釈そのもの過ぎて興奮してしまいましたよ。
髭切のこと、間桐桜やと思ってる節ありますからねえ・・・物語を注がれまくった、聖杯の器だよォ・・・(闇のオタク)
いやもう、友魚の視力とお父ちゃんの命を刈り取ってしまた草薙剣くんさん(別名、|天叢雲剣<あめのむらくものつるぎ>)が既にそうでしたけどね。あの剣は誰が今代の天皇かを示す、名と同等かそれ以上の「所持者が何者か」を表す象徴なんすわー。
剣の意味が、クソデカすぎる。草薙剣くんさんが背負ってる物語があまりにもデカすぎる。
そんでそれは、源氏における髭切で、北条・足利における鬼丸国綱である。というのが限界源氏界隈オタクの解釈。
要は、天下取りの象徴っていうこと。わかりやすい。あれは人を狂わす。あの剣そのものを見たら失明してしまう、ってのは、まさに盲目的になってしまう。友魚の最期の運命に導いてしまう。
友魚自体が天下に狂って天下しか見えない盲目になってしまった訳ではないが、むしろ天下に狂っていったのは犬王のパパですけど。
血吸い刀も、草薙剣も、犬王という映画の中で、刀たちはそういう、影響力っていう目に見えぬものを形にしたようなアイテムとして描かれていたような。それこそが刀、なんですわねえ。
友達って何なんやろうね
橋の上で偶然出会って、行き来する。同じ方向に帰って行かなくても。
ずっと友達であるならば、久しぶりに会った時に、別によそよそしく敬語で話すこともなく、ヨッ!て声かければ良い。
そういう関係なんだなぁ~友達。
依存じゃなくて、もっとこう、互いに互いの大事なもんあって、世界と世界が偶然出会う感じ。ホントこれももう、橋の上っていうのが、全てなんよ。
出会ったのが橋の上っていうのが。
勝者の歴史
これは刀ミュと刀ステがずっと主張していることですわな。ほんでワイが好きな刀ステの黒田官兵衛が目指しているところでもあると思われる。
結局、なんで髭切や膝丸の物語がこんなにもたくさん残っていて、モノとしも複数の刀が残っているかって、源氏が勝者だからっていう、これに尽きる。
勝者の歴史は残る。
政治的な力ですやんか。
映画犬王においては、足利義満に都合の悪い平家物語は残らない。
大河鎌倉殿の13人においては、曽我物語は頼朝の都合の良いように美談にされたということです。
歴史はそういうもんだ。
歴史がそういう性質を持っていて、そういう語られないどこかの誰かの、敗者の記録も、敗者にすらなれない民草の虚しさも内包しているってことに、自覚的であるかどうか。
学校では教わることのできない、教養ってことかなあ。
本当にこれは、この2022年に観れて良かったと思う。学校で習ったことしか教養がない自分に、今このnote書けるだけの教養、全く備わってなかったもんな。
何より、理系やので、学校で習った歴史の記憶はもう全然覚えてねえ・・・。(それは単に授業態度が不真面目だったからでは??)
色気の話
色気が凄かったわけですが、色気どころかストリップ始まったのですよ。
びっくりしたんよ。ええ!
でも0.2秒後には「まあ推しを推す時、オタクは何の臆面もなく踊り出すわな」って自分を振り返りました。
自分もほぼ毎日ドンブラザーズの武器を振り回しながら踊ってから寝てますので。ドンブラザーズ最高!の気持ち?踊るしかなくね?ってなります。
色気がとにかくすごくてぇ・・・・
最終的な感想
色々書いたけど、結局、ワイ自身も友魚な気がするんすね。
いや、ストリップはしません。ドンブラザーズの武器もって踊る程度です。
犬王を観てください、っていうのは単に犬王よかったーおもしろかったーという感情だけではなくて、犬王の推し方が超羨ましいって感想なんですわ。
あんな風に生きれたら、楽しすぎやろ。脳汁出るやろ。俺はここに居るぞー!ってなあ。それで自由にし過ぎて、お咎めを食らってしまったわけですが、でも確実に、あの能楽を観た民草の心は動かされ、踊り出す始末だわよ。
自分が人を踊らせたいと思ってるわけではなくて、自由な主張ですよ。己の持ってる技術をもってして、全身で表出するっていう自由さに対する羨ましさですよね。
刺激を受けた。非常に。
琵琶は引けんけど、絵は描くので・・・ってことです。
2023.11 追記
犬王を観てから1年以上経ってるの、マジかよ・・・!
まだ新鮮な感想を持ってるくらいですが
去年のコナンのミステリーツアーの舞台が丁度関門海峡だったのですが、山口県にある「赤間神社」にて、ここ、めちゃくちゃ友魚の概念の場所じゃん!!!!!!?という社を見つけました。
芳一堂 という、耳なし芳一の像が祀られており、ラジカセ(?)から延々と平家物語の語りが流れてくる・・・!
しかもちょっとうっそうとした木々の中にあるので、赤間神社の表のきらびやかさとに、対照的に、ここだけ独特の雰囲気があります。
あと、赤間神社の社務所の受付の台のところに、平家蟹も居ます。
もはや「犬王!!!犬王の聖地巡礼してる気分!!!!!!!」と、他のツレ達を置いてけぼりにして一人で興奮したのを思い出しました。
山口県に行く機会がある犬王オタクは、ぜひ赤間神社、芳一堂と平家蟹を見てくれ・・・・・・・・・・・・・!