護身術と武道・武術の線引きは修行や習得の目的から来るアプローチの違い
さて、今回の記事は、過去記事にいただいたコメントに触発されて、久しぶりの護身術ネタになります。
ではさっそく始めたいと思います。(^_^)b
武道と武術についての違いは明確な線引きや定義がなされているわけでもなく、どちらも闘うための技法や技術であることは同じで、発祥時には現在の武道も武術だったわけですね。
それが刀を持って斬り合ったり生死をかけて闘うような時代が遠のき、平和で文化的な時代になったもんだから、殺傷技術としての武術が武道化していったと、まぁざっくりだけどそんな感じです。
もちろん物騒な時代であっても、人をむやみに殺傷することを目的としない剣術流派も存在していて、一括りにはできないのだけど、おおむねそんな感じで受け止めてくださいね。
そういう時代変遷とともに、それまでの武術の危険な技をルールで制限して競技化した武道が誕生したことで、武道が一般的な運動競技に変わっていったと考えています。
その先駆けとなったのが柔術を「柔道」と呼び変えて競技化した、嘉納治五郎という柔道の創始者ですね。
嘉納治五郎さんは柔道だけじゃ無く東洋で最初のIOC(国際オリンピック委員会)の委員に選出されるなど、日本のスポーツ界に大きな功績を残した人でもあるんですよ。
柔道の創始者という武道家であっただけでなく、日本体育の父とも呼ばれて教育者の顔も持っていたんですね。
まぁ、嘉納治五郎さんの功績なんぞは2年前のNHK大河ドラマ「いだてん」をご覧になった方には耳タコの話だろうから省きますので、気になる人はご自分でググってみてくださいね。(^_^)b
この嘉納治五郎師の教えでもある、身体の鍛練と精神修養を行える武道として柔道が普及していったことから、武術という「術」より「道」をくっつけた武道のほうが、より上位にあるような認識が浸透したんですよ。
そこで、猫も杓子も術から道へと呼称変更をするということで、武術から一気に武道に変身するという「道」ブームになったという事情があるのです。
今でもその認識は変わっておらず、道を付ければ精神性も高いような風潮があるんですよね。
これには新渡戸稲造著作の「武士道」の影響もあるんでしょうね。
新渡戸稲造が「武士道-BUSHIDO」を出版したのは、日本国内向けでは無く海外の、それも欧州の文化人に日本固有の道徳観や価値観や文化というものを理解してもらおうとしたからでした。
日本の学校教育には宗教教育が無いわけですが、それが欧州では考えられない教育環境だと指摘されて、その代わりになっているものの存在があることに思い至ったことで、武士道を出版することにしたんですね。
たしかに日本人の精神的な支柱として根底にあるのは「武士道」で語られていることと共通するものが多いと思います。
平和な時代だからこそ武士道精神が規範になったと思うけど、そんな影響のおかげで、柔道・剣道・居合道・合気道・古武道・杖道・薙刀道といった武術系の他にも、華道・茶道・香道・歌道といった文化系もあるのですよね。
今でも術を使っているのは、古流派剣術を始めとして手裏剣術や棒術などの武器術主体の古武術と合気柔術に、ブラジリアン柔術といった海外発祥の武術格闘技系くらいなんですよ。
こういった専門系の武術に対して護身術というのは、もっと広い概念で自分の身を護る術なので、それらの専門系武術を横断した技法や術技も護身術として成立するのですね。
とりあえずここまでで、武術から武道になった経緯やその違いを漠然とでも理解していただけたと思うので次は、武道と護身術の根本的な違いが修行や技法習得の目的によるアプローチの違いにある、という点を記事にします。
ってことで、今回は
「護身術と武道・武術の線引きは修行や習得の目的から来るアプローチの違い」という護身術と武道・武術の線引きについての個人的な見解でした。😄
※見出し画像のイラストは、メイプル楓さんからお借りしました。
では!
護身術 いざに備えて のほほんと
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