マラソンの新記録更新で貰えた1億円!誰でも可能性はあるけど現実は厳しいよね?
マラソンが得意であれば誰でも可能性がないわけじゃないけど、じゃあ現実問題として新記録を更新できるか?となると途端に非現実的な絵空事になってしまうのが、私たち一般人なんだよね。
でも高地トレーニングで追い込んだり、毎日練習メニューに従って厳しいトレーニングに励んでいるトップクラスの選手たちにとっては、絵空事でも非現実的な妄想話でもないわけだ。
まぁ、1億円の新記録更新の賞金狙いで練習に励んでいるわけではないだろうけど、きつい練習を継続して強くなるためのモチベーションアップには大きく貢献していることは間違いないよね?
この私だって、もう少し若ければ走り出していただろうよ・・・・・・って、もう少しの少しが、少しばかり度が過ぎてやしませんかってぇ~のよ。
もし参加できるとすれば、だけどさ。
年齢をいい加減、熟成させたどころか超熟発酵まで追い込んで、カビなのかハゲかかった薄毛なのか、ようわからんひょろっとした産毛のようなハエモノを頭に乗っけていても、風で吹き飛ばされんで済む程度の、スタートダッシュやらラストスパートやらの、よたよた走法で競い合うのよ。
そうすりゃ優勝者は還暦過ぎのランナーに決まりだ。
還暦過ぎたランナーだけで争うマラソン大会っていうのであれば、年食っていても優勝するのは、必ず還暦過ぎのランナーになるというわけよね?
おっとどっこい、そんな話をしたかったわけじゃない。
私たちの思いの中にも似たようなことがあるよね?
ってことを書きたかったんだよ。
あの人が○○で何千万稼いでいるってよ、とか。
△△は億単位の収入になることもあるようだ、とか。
■■に投資したら何百倍ものリターンになった、とか。
そんなことに心を惑わされたりすることや、うらやんだりすることがあると思うけど、それってマラソンと一緒で市民ランナーで走ることはできても、新記録を更新するほどの走りなんてトンデモナイよね?ってことよ。
人が大きく稼いでいるとか成功しているということに、意味もなく心を動かされる人が多いけど、彼らは彼らなりに頑張ったり運良くだったりで成し遂げたことなんだから、同じ程度の努力をせずに羨むとか憧れるとかっていうのは、ちょいと違うんじゃないのかなぁ・・・って思うわけよ。
マラソンで例えると、天性の素質も含めてトップランナーとしての厳しい練習メニューをこなし、新記録更新が夢じゃないタイムまで記録を短縮した選手が、よっしゃあ~狙うぞ、新記録更新で1億円だぁ・・・の資格があるの。
市民ランナーには、ムリ。
だから市民ランナーが狙うべきは、自分の健康と寿命のためにボチボチ走りながら仲間と楽しく交流して、あわよくばローカルの地区対抗駅伝大会や敬老マラソン大会で上位に食い込んで、お野菜やお魚まるごと一匹などという豪勢な現物支給の賞品をゲットすることだよね?
もっともムリをしすぎると、ゴールがそのまま人生のゴールに変わりかねないので、ムリは禁物だけどね。^^;
夢と希望をあっさり打ち砕いちゃったかもしれんけど、分相応に生きたほうが幸せになれるよってことよ。
しっかり自分の目標や目的を定めて、可能性を高めるための行動を起こすことしか満足する達成感は得られないということね。
なんやらようわからん説明になったかも知れんけど、当たり前であることが一番大事なことなのよ、ということにつなげたかった話なのよ。
当たり前を当たり前のように流してしまわずに、とてもありがたいことだと受け止めることができて初めて、当たり前がありがたいと心底実感できるようになるのだからね?
くどいようだけど、1億円を狙っちゃダメよ。
狙うのはお野菜、お魚丸ごと一匹の、家計に寄与する賞品ゲットなのよ。
それが一般人の市民ランナー的人生の勝ち方になるの、ね?
ってことで 今回のテーマは
「マラソンの新記録更新で貰えた1億円!誰でも可能性はあるけど現実は厳しいよね?」という賞金の話からの人生学でした。
では!
のんびり マイペースが一番 のほほんと。