コロナ渦不染日記 #54
九月二十一日(月)
○秋の連休第三日である。
○昼から出かけて、まずは、浜で、おとといのイベントの主催とミーティング。
連休も三日目に入り、おととい、きのうに比べて、いよいよ人出が増してきたように思われる。商業施設の混雑も、マスクをしていなければ、去年の今ごろとかわりないもののように思える。
○夕方から、町に移動して、高校時代の友人の店で、高校時代の友人連中と飲む。
ぼくは人間動物共学の高校に通っていたので、人間の友人も多い。町でダイニングバーを開いたSも、人間ではあるが、高校の部活で一緒になってから、かれこれ二十年来のつきあいである。
とはいえ、この災禍で、しばらく訪問できていなかったので、ひさびさに会うと、まじまじと顔を眺めてしまう。あのころと変わったところといえば、メガネをやめてコンタクトにしたくらいで、痩せもしなければ太りもしない。外見だけでなく、内面もほとんど変わらない。しいて言えば、じしんの頑固さを受け入れてひらきなおった分、堂々として、時折顔を覗かせることのあった、卑屈なところが薄れたといった感じか。
開店直後の一対一で飲んでいると、友人のゲンちゃん夫婦がやってくる。彼らはネコの夫婦で、妻のリーちゃんとは大学時代からの友人であるが、いずれにしても二十年近くのつきあいであるので、その辺はすでに「およそ」の誤差に溶けている。彼女の、職場がどうにもうまくないので転職をしたいという話にはじまり、直近で転職したぼくの経験談を話し、Sが店を開くまえと開いたあとの苦労の話になり、……気がつくと、時計は午前十二時を過ぎていた。
○トイレに立つ、バイトの子が出入りする、Sが料理する、ぼくとゲンちゃんがタバコを吸いに外へ出る(店内喫煙は不可である)などなど、メンツが入れ代わりしても、会話が途切れることがないのは、やはり二十年あまりのあいだになんとなく作られた関係性がドライブしているからだろう。
関係性自体が動いているから、その場になにかを置かなければ、動きがとまってしまうということがないのだ。「気が置けない」ということばは、まさにこのことをあらわしている。もちろん、関係性の動きの渦中に、あらたななにかを置くことで、あらたな動きがもたらされ、関係性が持続するということはあるから、追加の要素がいらないということではない。
しかし、まだこの関係性がしっかりと作られていない、うまく動いていないところでは、話題や酒や食事といった「なにか」を持ち込み、動きの導線をつくっていかねばらならない。そうした動きの外側に作られて、勝手に動きだしはじめるのが「関係性」というものだからだ。それがない以上、その場をたのしく過ごすためには、単発で終わりがちな話題を、ジャムセッションのように即興でつなげていくことが求められ、これが得意な人と、苦手な人がいるのであろう。
○本日の、全国の新規陽性者数は、三百十二人。
そのうち、東京は、九十八人。
九月二十二日(火)
○昨晩、日が変わるまで飲んでいたので、寝覚めは遅い連休最終日となった。
○朝昼兼用のご飯を食べながら、映画『ドクター・スリープ』を見る。
原作は、スティーブン・キングの同名小説。スタンリー・キューブリック監督によって映画化されたことでも有名な、『シャイニング』の続編である。キングは、このキューブリック映画版を、「主人公である作家がほとんど悪役として描かれている」という点で嫌っており、のちにじしんの脚本でテレビドラマ化している(監督はミック・ギャリス)。
これほどにお気に入りなのは、『シャイニング』の主人公である作家が、キングじしんの内面を投影したキャラクターであると同時に、幼いころに失踪して、いまも行方がわからないという、キングの実父の投影でもあるからだろう。そういう人物を、たんなる悪役にしてしまい、こころの救いなく終わらせてしまったと見えたら、それを不本意と感じたのは、当然であろう。
そして、そういう人物の子の行く末を思うとき、みずからも父となったキングが、みずからの投影として、そして自分の子供の投影としての「〈シャイニング〉を持つ少年」ダニーにその後を描く気になったのも、当然のことだ。
ところが、キングの気持ちはどうあれ、キューブリック監督版の『シャイニング』は、単体の映画としてすばらしいものであった。『レディ・プレイヤー1』で引用されているように、その後の映画と、以後の映画人に与えた影響はすさまじく、簡単に無視できるものではない。というわけで、——映画化された『ドクター・スリープ』は、期せずして、「原作小説『シャイニング』の続編としての小説『ドクター・スリープ』の映画化」と、「映画『シャイニング』の続編としての映画」の両方の要素があわさった、複雑な経緯の作品となってしまった。
『ドクター・スリープ』映画版の全体をつらぬくテーマは、「死を想う」ことである。「いまは(もう)ここにいない人を想う」ことができる「資質」をこそ「〈シャイニング〉」とし、かつて類いまれな〈シャイニング〉の持ち主であったダニーが、約四十年後にホスピスで働いているのは、彼が衰えたりとはいえ、「死を想う」資質を失っていないからだ。前作と比べたとき、いささか唐突に想われる「人の精神を食らう吸血鬼のようなものたち」の登場も、この「死を想う」ことと関係している。人のいのちを食らって長生きするものは、「死を想わ」ない、不誠実な存在だからである。——これは、原作由来の要素であろう。
一方で、ダニーと超能力少女アブラ(その名前は、魔法の呪文「アブラ・カタブラ」に重ね合わされる)が、精神吸血鬼たちとのラストバトルの場に選ぶ「オーバールック・ホテル」は、あきらかにキューブリックの映画版を引用している。格子模様の絨毯の廊下、血のあふれるエレベーターホール、湯船のおばあさん、バーラウンジ、双子の「ずっと、ずっと、ずぅうっと(Forever... and ever... and ever.)」、そして「親子の再会」の際の「父」のビジュアルまで、キューブリック版の続編としての結構を整えることを、強く意識している。
ところで、じゃあ、そうしてできあがった作品が、内容まで複雑なのかというと、そういうことはない。前作の知識は必須であるが、小説版でも映画版でも、どちらかを知っていればいいぐらい。物語の構造はシンプルで、平場とバトルのバランスもよく、精神吸血鬼との超能力バトルは、「夢の中バトル」や「眠らされ誘拐された仲間の体に乗り移っての遠隔代理バトル」など、シチュエーションがこっていて、あきることがない。
なにより「『あの』ダニー少年の成長した姿の冒険」としてとても面白い。前作の知識が必要なことの、もっとも大きな理由はここにある。この映画は、ダニーが「死を想う」人間として、あの事件からどのように生きてきて、いま、どのように生きているかの物語なのだ。そして、それは、いつかの時点でこの世に生まれ出て、死んでいくものたちからこの世を受け継ぎ、さまざまな事件を経験した果てに、いつか、この世を、新たに生まれ出たものたちに残して死んでいく、われわれの物語に他ならない。面白くないはずがないのである。
○ところで、個人的に、『ドクター・スリープ』は、キング版『新・子連れ狼』『そして——子連れ狼・刺客の子』と思う。『子連れ狼』も『シャイニング』も、「実は子供のほうが(のちの)ヒーローであった」というオチで終わる点で、共通するからである。
○夜は、有楽町の「800°」で、いつものメンツでピザを食べる。
きのことサルシッチャの入った「キノコのトリュフチーズブレッド」がうまい。ここにくるといつも食べてしまう。
○本日の、全国の新規陽性者数は、三三〇人。
そのうち、東京は、八八人。
引用・参考文献
イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/)