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コロナ渦不染日記 #40

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八月十一日(火)

 ○汗みずくで目を覚ます。土のしたの巣穴でも、寝苦しいくらいの暑さ。地球自体がのぼせている。

 ○シャワーを浴びると疲れてしまう。エアコンの効いた居間で寝ることにした。

 ○冴木忍『面影は幻の彼方』を読む。

 主人公が特訓を経て新たな力を得る、というのは、成長物語に欠かせない展開として、思春期の少年少女を対象にしたエンタメに必須の構造であろう。いわゆるチート系異世界転生ものでも、チート能力を授かるなり、伽クリエイト/スキルビルドするなりする展開は、これに含まれるだろう。この巻で描かれるカイルロッドの特訓も、一見するとそのような展開に見えるが、あとあと明かされる実情を加味すると、これはもともと持っていた能力に目覚めることだから、成長というより覚醒である。しかも、カイルロッドの力は「封印」されていたものだということまで考えあわせれば、「ようやく本来の力が出せるようになった」のであって、新たに得たものとは言いがたい。
 そして、次巻以降にわかることで、この巻でもほのめかされているが、この「封印」の解除は、けしてカイルロッドにとってうれしいことではないのである。こういうところも、このシリーズが、ジュブナイル/ライトノベルとして、現代にいたるまで、一筋縄でいかない、規格外の作品であることの証左であろうと思う。

 ○夜、いつものオンライン映画会のメンバーで、映画『来る』を見る。

 以前、一度見たことがあったが、改めて見直すと、この映画のテーマが「子供」であったことに気づく。終盤、明らかになる、「来る」ものの正体というか、「それ」を媒介していたものが、「子供たちの無念」である、というのももちろんだが、それ以前に、妻夫木聡氏演じる父親にしても、黒木華氏演じる母親にしても、岡田准一氏演じるジャーナリストにしても、この物語のメインキャラクターたちはことごとく「大人(親)になりきれなかった=子供のままでここまで来てしまった」存在なのである。もちろん、柴田理恵氏演じる霊能力者のように、「親ではないが、親の役割を果たせるくらいに大人である」存在もいるにはいるが、序盤の実家での法事のシーンや、その後の結婚式のシーンなど見るにつけ、あそこにいる「大人」たちも「大人ではない」ことがわかる。
 つまり、これは「大人になれない社会にうごめく、大人になれないものたちの姿」の物語なのだ。だからこそ、この物語の最後は、大人に守られて生きながらえた子供が、「子供の夢を読み取ることができる」ことによって、大人になって終わるのである。
 見終わって感想戦を終え、布団に横になりながら、ダルデンヌ兄弟の映画『ある子供』を思い出した。


 ○本日の、全国の新規感染者数は、七百人。
 そのうち、東京は、百八十八人。東京の検査実施数は、千五百五十四件。

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八月十二日(水)

 ○一日寝て過ごす。

 ○Netflixで映画『人狼』(韓国版)を見る。

 文句なしの、すばらしい「韓国映画」だった。

 ○原作となる『人狼』(2000)を含む、押井守氏の、いわゆる「ケルベロス・サーガ」は、

第二次世界大戦がドイツ・イタリア枢軸国と日本・イギリス同盟の戦いで、戦敗国となった日本はドイツ軍に占領された、という設定

——Wikipedia「ケルベロス・サーガ」より。

 を背景としている。つまり、これらは「ありえたかもしれない(しかしありえることのない)戦後」を描くものであり、もっというと「(押井氏にとっての)ありえたかもしれない安保闘争」である。
 押井氏が、高校生時代に安保闘争にのめりこみ、ある日途絶したことは、有名な話である。彼のおおくの作品の底で、常に、深海の海流のごとく、つめたくたゆたっている「終わらないお祭りの前夜の雰囲気」こそ、この不発に終わった青春そのものであろうことは、想像に難くない。ぼくが、そのことに気づいたのは、押井氏じしんの手による、『BLOOD:THE LAST VAMPIRE』の外伝小説『獣たちの夜』であった。

 ここに描かれるのは、架空の人物に仮託されているとはいえ、いささか恥ずかしくなるくらい赤裸々に語られる、押井氏の青春の姿である。学生運動に身を置くことで、自分がなにものかになれるかもしれない高揚感は、まさしく、その時代を知る人間の実感であり、憧れを込めて美化されたものであろうと感じられる。だから、主人公が学生運動のさなかに出会う「日本刀を持ったセーラー服の少女」こそ、萩尾望都『ポーの一族』のバンパネラたち同様、「過ぎ去った懐かしい(青春の)日々」の象徴であることは、同作の、切ないラストシーンから明らかである。
 途絶されたからこそ、そこに至るまでの高揚感は胸を去らないし、その先を憧れを持って描いてしまう。だから、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だけでなく、『劇場版パトレイバー』二作品も、『アヴァロン』や『ガルム・ウォーズ』もまた、「終わらないお祭りの前夜の雰囲気」そのものを描くものであった。そして、その集大成といえるのが、「架空の安保闘争」を描いて「終わらない祭りの前夜」の世界を作り上げたのが、「ケルベロス・サーガ」であろうことも、想像に難くない。

 ○しかし、これを実写映画にするにあたり、『人狼』韓国版は、「朝鮮半島を取り巻く米露日中の緊張を背景に、ついに南北朝鮮の統一へむかう」二〇三〇年代の未来の物語とした。原作の展開を、そっくりそのまま未来の出来事としたのである。韓国において、「市民の闘争」は過去のできごとなどではないから、「ありえたかもしれない(しかしありえることのない)過去」を語ることに意味はない。むしろ、未来の物語とすることで、現在の韓国と北朝鮮の諸問題を背景にした、絶望の未来と未来の希望を描くことができる。「韓国映画」であることの意味として、これは非常におおきい。これがまず、この映画のすばらしい点である。
 二〇〇〇年の『人狼』はまごうかたなき傑作である。だからこそ、そのまま実写化することに意味はない。だが、前述のコンセプトがあれば、完全実写化することに、「完全実写化すること」以上の意味が生まれる。私見だが、こういう「意味」を持たない「実写化」は、どうしたって原作を超えることができない。つまり、この「実写化」は、原作に比肩する「語る意味」を持ったものになっている。これもまた、この映画のすばらしい点である。

 ○そういえば、監督のキム・ジウン氏は、『グッド、バッド、ウィアード』で、『続・夕日のガンマン』を翻案するに、韓国映画にふさわしい要素をいくつも加えて、本歌取りに成功していた。


 ○冴木忍『野望は暗闇の奥で』を読む。

 導き手イルダーナフを失い、不安に満ちたカイルロッドの旅路を、丁寧に描くパートがすばらしい。そして、これと並行して、カイルロッドの「正体」と、彼の「実父」に関する謎が、いよいよ明らかになっていくパートは、さながら怪奇小説のような、不気味なディテールが際だって、この物語が和田慎二『ピグマリオ』よりも、竹宮恵子『イズァローン伝説』よりも、ラヴクラフトの「あの小説」に近いものであることが明らかになっていく。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、九百七十九人。
 そのうち、東京は、二百二十二人。東京の検査実施数は、六千百四十件。


八月十三日(木)

 ○朝一番、ヤフオクでヴァーナー・ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』を落札する。


 ○冴木忍『悲しみは黄昏とともに』を読む。

 エンターテインメントとして、最大の衝撃が用意されているのが、シリーズ全九巻中、なかばをすぎたこの第六巻である、というのも、このシリーズの特徴である。そして、この最大の衝撃をほぼなかばに持ってきて、残りの三巻を用いて、衝撃の余波を描きながら、このあまりにも大きすぎる「出来事」をどう受け止めていくかを語るところに、このシリーズのテーマがある。「苦難」を避けてとおれない「人の生涯」を語ること、つまり「限界」とともに生きることを描くのが、この物語なのである。

「泣きたい時は泣いていいんだぜ」
 泣けないイルダーナフがそう言った。

——冴木忍『悲しみは黄昏とともに』より。

 この二文のすさまじさがわかる年齢になってしまったことが、今回再読しての最大の衝撃であるように思う。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、千百七十六人。
 そのうち、東京は、二百六人。東京の検査実施数は、四千三百六十二件。

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→「#41 夏休み後半」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/

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