コロナ渦不染日記 #45
八月二十九日(土)
○午前十一時すぎ。静岡に入ったあたりから、窓の外に浮かぶ雲が、どんどん大きくなっていく。夏の日差しを受けて、くっきりと浮かびあがる陰影は、あたかも生頼範義氏のイラストのようである。
リクライニングさせた座席に背をあずけ、スジャータのバニラアイス、いわゆる「シンカンセンスゴイカタイアイス」が溶けるのを待つぼくたちを載せ、新幹線は西へとむかった。
○一ヶ月前のこと。
朝、毛づくろいをしていると、相棒の下品ラビットが「ひつまぶしを食べようぜ」と言い出した。「GoToキャンペーンだっけか? あれで名古屋に行こうぜ。ひつまぶし食って、手羽先食って、イナバのやつがすげえって言ってたホテルに泊まろうぜ」
どうやらGoToトラベルキャンペーンのことを調べていたらしく、蕩々とまくしたてることには、このキャンペーンを利用すれば、名古屋までを往復して、しかも、名古屋駅のまうえに建っているホテル「マリオットアソシア名古屋」に泊まるプランが、なんと二万円前後だというのだ。
「おれたちは都民じゃないだろ。だから使えるんだよ、そのキャンペーン」
「ぼくは喫茶店に行きたいな。イナバさんが言ってたお店」
「いいぜ、行こうぜ」
「よし、行こう」
そういうことになった。
○浜名湖の端っこをさっと走り抜け、三河湾を左手に見ながら揺られていると、いよいよ名古屋へ到着。リクライニングを戻した。
○名古屋駅には、以前、一度だけ来たことがあったが、その頃に比べて、あきらかに人出が減っている。外国を含め、旅行者が減っているのだ。とうぜん、動物も減っている。地元にいてはなかなか感じられない、新型コロナウィルスの影響を、強く感じることである。
荷物をロッカーにあずけ、駅の地下街へ進んだ。「ひつまぶしだぜ」下品ラビットの一歩が広くなっている。閑散とした雰囲気のなか、そこだけお客が並んでいる店を見つける。
並んで待つこと、二十分ていど。そのあいだに注文を聞いてもらえたので、席に通されたときには、ほとんど待たずにひつまぶしが出てくる。
ウナギを食べるのは久しぶりである。タレを塗った皮がパリッと焼きあがって、身のふっくらした食感といいコンビネーションになっている。コメにしみこんだタレの量も適切だ。お碗に盛ったウナギごはんが、またたく間に腹へとすべり落ちた。
「おい、わさびを塗るとうまいぞ」
下品ラビットの声は、顔の前にかざしたお碗でくぐもって聞こえる。ものすごい勢いでお碗によそってはかっこむので、ほとんどお碗で顔を覆っているようなものだ。彼の言うとおりにすると、たしかに、脂ののったウナギの滋味に、わさびの爽やかさが拮抗して、これまたいいコンビネーションである。
○満腹した腹をさすりながら、地下鉄に乗りこみ、むかったのは名古屋城。
天守閣には、この災禍の影響……ではなく、耐震性確保に問題があるとのことで、入れなかった。一六一二年に建造された天守閣が、一九四五年に太平洋戦争時の空襲で焼失し、一九五九年に再建されたというから、現在の天守閣でも、実に六十年が建っている。さもありなん。
その代わりに、おなじく一九四五年の空襲で焼失したものの、近年になって復元された、本丸御殿に入ることができた。
尾張藩主の住居、兼、政務の場として、なにより三代将軍家光の宿泊のために作られた「上洛殿」を有する、格式ある建物がオリジナルである。建材はヒノキがメインで、天井の高い廊下にうっすらといい匂いが漂う。装飾は精緻にして豪華、まさに将軍の別荘にふさわしいラグジュアリーさである。
「山風の忍法帳に出てくる『為政者』は、こういうところに住んでたわけだ。いいじゃねえか、金と権力はないよりあったほうがいいな」
などと言っている下品ラビットと中庭を歩いていると、木陰にあやしい影が、ぬき足さし足、歩いているのが目にとまった。
「忍者だな」
「忍者だね」
近づいてみると、忍び頭巾の忍者が、
「やや、こちらはうさぎ殿。暑いなかよくぞ参られたな」
文語調で声をかけてきた。
「適度な水分を取って、熱中症に気をつけてね」
笠をかぶった忍者は、しゃべりに英語なまりがあった。
「写真とってもいいですか」
「よろこんで」
次の瞬間、腰を落としてポーズ、巻物を開いてポーズ、その動きの鮮やかさ、まさに忍びの者であった。
あとでわかったことだが、このお二人は、「忍者隊」のメンバー。笠をかぶった忍者は「〈人読み〉の覚[さとり]」、頭巾の忍者は、腰の太刀からして「〈陽気者〉の三平」であったようだ。
「午後から暑くなる予報が出ておる。くれぐれも気をつけられよ」
丁寧なアイサツに、
「お二方も」
アイサツを返し、その場を離れた。
○うだるような暑さを避けて、地下鉄に乗り込む。次の目的地は、名古屋文化の代表格、喫茶店——のはずだったが、その前に罠が待っていた。
○ぼくたちが下りた駅は上前津。駅を出て北西の商店街へと進み、名古屋喫茶店の名店のひとつ「コンパル」大須本店で一服したあと、大須観音にお参りする予定であった。
ところが、あに図らんや、上前津駅を地上に出ると、こんな光景が広がっていたのである。
上の地図に赤いマークがついているのは、これらすべて、古書店である。そう、ぼくたちは知らずのうちに、名古屋の古書店が集う交差点に出てしまっていた——そして、古本大好き、古書店大好きなぼくにとって、古書店は、時間とお金を費やして喜びこそすれ後悔することなどあろうはずのない、甘美な魔境なのである。
○罠の第一は「つたや書店」。
ここを見るに、昭和二十年から営業しているというから、名古屋城天守閣より旧い店だ。こぢんまりとした店内はエアコンが効いて快適で、その涼を求めてか、それとも日課でもあるのか、常連とおぼしき人間のお年寄りが三人、映画関連の棚に並ぶ本を挙げては、ああでもないこうでもないと映画談義に花を咲かせていた。なごやかな雰囲気ににっこりしていると、
「麦茶ですいませんけれど」
奥さんがお茶を出してくださった。
よく冷えた麦茶を喉にすべらすと、ようやく毛皮の下の汗が引っ込んできた。お礼を言って、茶碗を返し、これはと思った二冊を帳場に出す。
「あらあら、お買い上げありがとうございます。高いお茶になっちゃったわね」
「探していた本でしたから、お茶のついでに譲っていただけてありがたいです」
奥さんの上品な対応にほくほくしながら店を出たときには、完全に「その気」になっていて、特になにも考えずに、次の罠へと飛びこんでいた。
○罠の第二、「星海堂書店」本店は、出だしからあきらかにおかしかった。
本店の外には、文庫百円コーナーと、格安単行本コーナーがあるのだが、そこに、この本が置いてあったのである。
Amazonマーケットプレイスの価格は水物だが、それでもこの値段は半端ではない。しかも、格安単行本コーナーに並んでいたのは、ディスク二枚のうち一枚が欠けているものの、箱付き美品である。
そこを過ぎて、いよいよ店内に入れば、ハヤカワ文庫に創元推理文庫、種々多様なSF、怪奇幻想、推理/冒険小説が並んでいる。まるで四十人の盗賊の宝物庫みたいだ。——ここで、ふと横を見ると、下品ラビットが沈黙している。いつも、ぼくの暴走をとめてくれるはずの下品ラビットが、である。かえって、これはまずい、と、こっちの気持ちにブレーキがかかった。
——結果、以下の本を買った程度で、命からがら、魔境を抜け出したのである。
最後の一冊は、ディスク一枚欠けで、五百円といわれたのである。実は、箱なしディスクなし、本編のみで持っているのだけが、そこまで言われたら買わざるを得ない。マッギヴァーン『ジャグラー25時』は、下品ラビットが握って離さなかった。こういうことは珍しい。
○店を出ると、夏の午後の日差しが耳に痛い。二匹とも、無言で道を行く。
ぼくの目的地、喫茶「コンパル」大須本店に着くと、そのレトロなたたずまいに驚嘆するのもそこそこに、反省会が始まる。
「いくらかかった?」
「最初の店で千円。二軒目で四千円。合計五千円だな」
「まだ初日なのにね……」
「ああ……」
「……古本屋巡りしにきたわけじゃないのにね」
「なんだろうな、これ」
注文したアイスコーヒーは、デミタスカップの中身が冷めぬうちに氷たっぷりのグラスに注ぎ、急速冷凍するしくみで、香り強く味ははっきりとして、噂どおりのおいしさだった。
○その後、大須観音にお参りし、名古屋駅に戻ると、ちょうど日が暮れるころあい。「風来坊」の手羽先を夕飯にして、荷物をロッカーから受け出すと、いよいよ今夜の宿泊先、「マリオットアソシア名古屋」に向かう。
チェックインを済ませ、ポーターさんに荷物をあずけると、二匹で先に部屋へとあがる。あてがわれた部屋は、三十階以上の高層階。どんな部屋かとわくわくしていると、エレベーターホールには客室へ続く廊下の前に、カードキーなしには開かない自動扉がある。
「これ、コンシェルジュフロアってやつじゃないか」下品ラビットがそわそわし出した。
自動扉を抜け、ひっそりと静まりかえった廊下を進む。いかにもアメリカ資本の高級ホテル、廊下が静かだ、などと考えていると、部屋に着いた。窓を開けると、眼下には文字どおり、宝石箱をひっくりかえしたような、名古屋の夜景が広がっていた。
○本日の、全国の新規陽性者数は、八四五人。
そのうち、東京は、二四七人。
引用・参考文献
イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/)