コロナ渦不染日記 #111
三月二〇日(土)
○明後日は、ぼくと、相棒の下品ラビットの誕生日なのだが、そのことを、イナバさんがお祝いをしてくれたのであった。
○岬の洋風居酒屋「るみなすキッチン」は、ラーメン屋の二階にある小さなお店である。
「牛タンデミグラス」をはじめとする料理がおいしいのもさることながら、マスターこだわりのクラフトジンの品ぞろえがすばらしい。イナバさんに連れて行ってもらってから、ぼくも下品ラビットもすっかり気に入ってしまった。そこで、三匹でお祝いということになったのであった。
○ぼくと下品ラビットの一杯目は、札幌の〈紅櫻蒸留所〉の「9148」。
9148とは、ジョージ・オーウェルの小説”1984” の[Nineteen eighty-four]を[19][84]をそれぞれ逆にして名付けました。小説では自由のない管理社会が書かれ、SF原点作品として世界で広く読まれています。
歴史を改ざんする役所で働く主人公のウインストン・スミスが、とても薬臭く吐き気を催すような香りのビクトリージンというジンを飲むシーンが描かれている。「不味いジン」が「不自由な管理社会のアイコン」となっており、ビクトリージンを飲みながら、ビッグ・ブラザーにより統治される以前の「自由な時代のおいしいジン」を懐かしむシーンがある。
――紅櫻蒸留所ホームページ「9148について」より。
とあるように、まさしく「自由な時代のおいしいジン」である「9148」は、ジン好きのオーナーが、さまざまな趣向をこらして世に送り出す製品の多様さが魅力である。ぼくたちが、今日、飲んだのは「0396」。写真を見ればおわかりだろう、桜のはなびらをつけ込んだジンである。
お酒を飲めないイナバさんは、ピーチネクターを注文して、三匹で乾杯となった。肴は「桜肉ユッケ」と「おからのつくね」。おからのつくねが、しっとりぽっくりしていてうまい。
○ユッケとつくねを堪能し、名物の「牛タンデミグラス」を注文してから、二杯目をオーダーした。
ぼくは、オーガニック食品のブランド〈ブラウンシュガーファースト〉の「有機ブラックチャイジン」。
紅茶ももちろんだが、シナモンやカルダモン(が入っているらしい)のボタニカルを感じる、さわやかな味だ。特に考えもせず、トニックウォーターで割ったが、炭酸のほうがよかったかもしれない。
一方、下品ラビットは、〈KWV〉の「クラックスランド・ドライジン」を、ソーダとトニックウォーターのハーフで割ったものを選んでいた。
「南アフリカのジンだってから、珍しいよな」
と言いながら、下品ラビットはスマホを取り出して、蔵について調べてみせた。
1918年、ワイン産業の安定を求めて、ブドウ栽培農家によって協同組合であるKWVが設立されました。KWVはアフリカ語で「南アフリカブドウ栽培協同組合」を意味する“Ko-operatieve Wijnbouwers Vereniging Van Zuid-Afrika Beperkt”の頭文字の一部を取ったもの。それ以前は小規模農業として、産業としての認識もなかったワインづくりは、KWVの設立により、国をあげて産業として、ワインの品質向上や輸出増進へと取り組むようになったのです。
――国分グループ本社株式会社「KWV」より。
「ワイナリーが作ってるジンなんだな。ボタニカルにトリュフが入ってるのも、なんとなくヨーロッパ文化の流入っぽいぜ」
「ワインにトリュフっていうからには、フランスかな?」
「南アはイギリスの植民地だったはずだけど」と、これはイナバさん。
この二杯が来てすぐに、名物の「牛タンデミグラス」もサーブされてきた。添えられた米粉パンも名物である。もちもちしたパンでデミグラスソースをぬぐうのがたのしい。
○このあと、ピクルス盛り合わせにチーズ盛り合わせで〆ることにした。この災禍と、それにともなう営業時間短縮要請によって、八時を前に店を出たが、すこぶる満足のいくバースデー・ディナーとなった。
○本日の、全国の新規感染者数は、一五一六人(前週比+一九七人)。
そのうち、東京は、三四二人(前週比+一二人)。
三月二十一日(日)
○Kindleで、木葉功一『セツ』全十巻を読む。
木葉功一氏の作品は、初連載作品である『キリコ』から、一貫して「他人とコミュニケーションを取ることに不器用な人間が、そうした状況を打破するまでの苦闘を描く」ことをテーマとしている。『キリコ』は、他者と協調できない野獣のような刑事と、彼の兄を殺した、感情のない殺人マシンの、コミュニケーションを求める不器用さとそこからの脱却をテーマとしている。烈しい暴力描写にいろどられた、刑事と殺し屋の追跡と闘争と恋愛は、コミュニケーションのアレゴリーなのである。また、比較的まとまりのいい『クリオの男』も、「古物に残留する記憶の世界に潜り込む」超能力をガジェットに、人の余人に知られざる気持ちにタッチして、そのわだかまりをときほぐすことがドラマのカタルシスとなっていた(この物語構造は、ちょうど「(夢幻)能」のそれと同じである)。
その点は、『セツ』も変わらない。主人公である、元オリンピック金メダリストにして新米刑事の「天翔セツ」は、クライマックスで「犯罪者も刑事もおなじもの」と断じる。これは、両者が、ともに「他者にたいしてこころを閉ざしてしまっている」からである。犯罪者は他者を獲物としてしか見ず、刑事は犯人を犯罪としてしか見ず、相手が「人」であることを忘れているし、なんなら両者ともに、自己をも「人」であることを忘れてしまっている。そして、彼らが他者に対してこころを閉ざすのは、人が社会のなかで生きていくためのアンカーとして持つ「自我」と、生物として否定しようのない「自己」としての「命」がむすびついているからで、その「業」からは、人であるかぎり、なかなか抜け出せないのである。
つまり、人は人だからこそ「孤独」なのであるが、その「孤独」を耐えがたいと思うゆえに「孤立」し、犯罪を犯すのだが、自分が人であること、他人もまたおなじ人であることを思うからこそ、その「孤立」の奥にある「孤独」に手を伸ばすことができる――最終的にそう結論するセツは、だから木葉功一氏の作品の、ある種の集大成のような人物である。いわゆる商業誌での活躍を(ご病気もあろうが)ストップした木葉氏が、私的な出版レーベルのコンテンツのおもてに出したのもむべなるかな。
○そして、このようなテーマの作品と作者に、ぼくが惹かれるのは、とりもなおさず、ぼくじしんが「孤独」とともに生きているからである。ぼくはうさぎであるが、人間の社会で生きることを選んだ知性生物である以上、人間とおなじ、知性と理性の限界としての「孤独」をうけ入れざるをえないのだ。
かつて、マンガ原作者の小池一夫氏は、「孤独と孤立は違う」とツイートした。
ここ一年のあいだの、新型コロナウィルスの災禍によって、人と人が、知性生物どうしが、以前のようにはコミュニケートできなくなっている状況において、だれもかれもが「孤独」との対面を余儀なくされているように感じる。そして、そのことを忌避するからこそ、「孤立」していくようにも感じられる。「孤立は、その身の内に怪物を育て」るとする小池氏の発言をふまえるならば、緊急事態宣言下の制限された生活において、人々を蝕み、暴走させるのは、この「孤立」かもしれない。
病、そしてその原因との戦いは、いつか終わるかもしれない。しかし、「孤立」との戦いは、人が人であるかぎり、そしてぼくたちのような知性生物が人間型の知性を持つかぎり、終わらない。なぜならば、「孤立」を生む「孤独を恐れるこころ」は、知性を持ち、個を意識するかぎり、なくならないからだ。
○本日の、全国の新規感染者数は、一一一九人(前週比+一三二人)。
そのうち、東京は、二五六人(前週比+一七人)。
引用・参考文献
イラスト
「ダ鳥獣ギ画」(https://chojugiga.com/)