10年が経ってみて
あの日から10年。テレビとか新聞とかでも散々取り上げられているけどね。
今でも鮮明に覚えてある10年前の今日。
おいらは長野県の菅平スキー場にいました。
ファミリーゲレンデの四人乗りリフトに乗ろうとしたらリフトが暫く止まってたんだよね。
何かな?と思ってたけど揺れは感じなかった。
で、滑り終えて駐車場の方へ向かうと電話で話している人の声が。
仙台の方で震度7とか言う言葉が耳に届いたんだ。ふーん大変だなあと思い宿に戻り何気なくテレビを見たら、、、
一瞬何が起きたのか理解できなかった。
それから長い1日が始まったんだよね。
スキーの準指導員検定
そもそも平日になぜスキー場にいたのかと言うと、スキーの準指導員の検定が週末にあるので前乗りで来ていたんです。
もう頭の中は明日明後日の滑りをどうしようかと言うことで一杯いっぱいで、これまで頑張ってきたことを試すためにいろんなことを犠牲にしてきたと言う思いが強かってんだよね。
夕食時にはテレビでは津波の凄まじい被害がどんどん放送されており、翌日から応援に来てくれると話をしていた友人たちも家に帰ることができないとかの連絡が流れ続けていたんだな。
ちょうど八方尾根スキー場ではスキーの全日本選手権が開催されており、その大会が中止になったと言う連絡も来たりしてもう頭の中は混乱の極みだったことを鮮明に覚えてるんだ。
検定に出る人たちはほぼ勢揃いしていて、菅平は被害もないので開催されるはずと信じていたんだけど情報が錯綜していてどうやるかは全く不透明だったな。
東京都連のホームページには検討中という案内も出ていて、まさか中止?って。
でも、情報を総合すると中止になるみたいな感じで、とても納得がいかなかった思いがあったことも鮮明に覚えている。
正直ふざけるなって感覚ではあったな。
まさか長野でも
悶々とした夜を迎えて色んなことを考えて眠りにつかなかったんだよね。
ネットの世界では夜中になってもまだ会社から出ることができないとか、想像しているよりもひどい状況なのがどんどん分かってきて、少し落ち着いてうとうと眠り始めた時に、携帯電話がビービーと鳴り始めた直後にものすごい揺れが襲ってきたんだ。
長野県の栄村を震源にした地震が菅平にもものすごい揺れをもたらしたんだな。
眠りながら建物が壊れるのでは?と言うくらいの揺れが。
もう明日の検定がどうのと言う状態ではない感じだった。それからまた浅い眠りについたけど余震が次々に起こり携帯電話はビービーなりっぱなしのまま朝を迎えたんだ。
同じ宿に宿泊していた女子大生は食堂に集まって眠らずに一夜を過ごして朝一番で帰宅したみたいだったよ。
検定当日
昨晩遅くに東京都スキー連盟のWebサイトに検定中止の案内が出ていたのである意味諦めますついて迎えた朝。
ものすごく良い天気で、雪も最高。こんな日に検定できるのは幸せだったろうななんて思いつつ、同宿の検定受験者と話すと彼女は検定中止を知らなかったようでびっくりしていたっけ。
取り敢えず開校式はやるみたいと言うアナウンスが入ったので普段着のまま集合橋に。
仲間たちは意外と言うか思った通りというか、それほど以外でもない様子で冷静に見えたね。
リフト券の払い戻しなどの手続きの話とか色々聞いてそのまま滑らないで帰路についたんだ。
今考えると検定が中止になるのは当たり前な状況だったんだけど、震災被害が直接感じられない長野県で天気が良くてこの一年の努力を、、なんで考えていたのはまぁそんなもんなのかと。
ニュースが大騒ぎ
帰路の途中で家に帰ったら食器とか割れまくっているのかとか考えながら走っていたんだけど、どうも原子力発電所がとんでもないことになっていると言うニュースが流れて来た。
でも、まさかあんなことになるなんて全く想像もしなく、我が家のことだけが心配だったけど、流れてくるニュースはかなり深刻だったな。
アナウンサーが興奮して何が喋っていたことを覚えている。
家に帰るとお皿が一枚だけ割れていた程度の被害で一安心だったよ。
でも、それからは津波と原発のニュース一色に。
行方不明者の、情報が刻々と新しくなる度に被害状況の大きさを感じざるを得ないし、原発のこともどうなるのかとテレビに釘付けだったな。
それからフクイチの事故のことは既知の通り。
日本という国が本当に災害の多い国であることを実感した日だったな。
その後
月曜日の朝は電車もまともに動いておらず近所の駅に限らず長蛇の列が、この様な中でも皆出勤していることにとても違和感を感じるというか、、日本人って本当に真面目だなと思っていた。
おいらは、早々に出勤は諦めていたよね。
その日からは前後の記憶も曖昧なんだけど原発が爆発したこと、計画停電で大変だったことなどが走馬灯のように頭の中を巡っている。
特に原発のことはその後に発刊された本とかWebサイトとかを読み漁ったっけな。
地震は天災だったけど原発事故は半分は人災だったと今も確信しているんだよな。
想定外とか予見できないとかいう言葉がたくさん踊っていたな。
コマーシャルもほぼ公共広告機構のポポポポーンというメロディーに、支配されてたっけな。
あれから10年
おいらは震災の年のゴールデンウィークに南三陸に行ったんだ。
まだ震災の被害が、そのままに残っていてビルのの5階の窓に木材が突き刺さっていたら、家の土台が残るだけの景色とかは言葉では言い表せないほどの愛憎記憶として頭の中に残っているんだ。
被災地のガソリンスタンドは手動でモーター回して給油してたっけな。
それから一年を除き毎年のように被災地を訪問しているけど人工的な高台とかはできているけど復興しているとは程遠い現実を見せつけられている。
10年一昔という言葉はあるけど、まだまだ震災は継続してるよね。
人は強いから、、忘れることができるから表面上は変わっているように見えるけど、フクイチ近くの街を車で走ってみるとバリケードに、囲まれた家がたくさんある姿を見せつけられると終わってない、まだまだ震災は継続してると感じざるを得ないな。
津波の被害は時を経ると復活することはできるし、その年数も長いけども徐々に戻ってくるよね。
でも原発の事故については廃炉まで40年の計画といっているけど、それもどうなることやら。
汚染した土は今はフクイチ近くに保管されているけど、あれは中間保管施設という建前になっているので、何年かあとは福島県から別の場所に持っているという約束になっているんだよね。
絶対に無理だと思うけど、。そうでもしないと処理が先に進まないということなんだよね。
時が解決してくれるのも身を潜めてじっと待っている日本という国のあり方、東京電力のあり方、一体日本って本当に先進国なんだろうかと考えてしまうんだよね。
これからの10年
さて、これから10年を経過した時に一体どんな景色がまっているのだろうか。その時には東南海沖地震も発生しているかもしれないし、千葉県沖にはまだ地震が起こる可能性が高い場所があるという話もあるし、、、
フクイチは一体どうなっているのか。
多少作業は進むのかもしれないけど、人類が未だかつて経験したことのないデブリの処理。
その時にまだ原発というものが世の中に存在しているのかね。
三陸から福島までの町並みはどうなっているのだろうかね。
これからも毎年の様に東北には足を運ぶような気がしている。
また10年後に考えてみようと思った。