三国史記と日本書紀

一昨年書いたもので、内容忘れると自分で書いていて何を書いたのか読みづらかったので、下記から年代の図を取り出して貼り付けた。

『日本書紀』は年代の記載のない日本の伝承を天皇在位の紀年体に起こしたもので、年代が明記されている朝鮮半島の『百済記』、『百済本記』、中国の『魏志倭人伝』との整合性でかなり苦労した痕跡がある。681年から始めて編者が2世代かかって、飛鳥時代から奈良時代に入って、720年に完成している。結局、整合性を諦めて、ありえない年代記述となっている。倭の五王が記載された『宋書』についても参照したと思われるが、その記載については無視している。『新羅本紀』については明記されていないが、HPで書いた通り、参照した痕跡が残っている。

また、明示はしていないものの『梁書』も参照している。神功皇后紀
に註記される『魏志』の「倭女王大夫難斗米派遣」を原文の「景初二年」ではなく、『梁書』に記載される「景初三年」にしている。ただし、「明帝景初三年六月」と記載していて、明帝は景初三年一月に崩御しているので、この記述はありえない。ただし、難斗米を謁見したのが明帝と書いているのは日本書紀の註記のみになる。『三国志』『魏志』の『東夷伝』には明帝が謁見したとは書いていない。本伝の明帝紀には倭の使者への謁見記載はない。『梁書』もまた同様。『梁書』は「景初三年に至り、公孫淵誅されし後、卑弥呼は初めて使を遣はし、朝貢す。」と書いているので『三国志』に書いてある「景初二年六月」は公孫淵が滅ぼされる景初二年八月と比べ早すぎるという編者の意見を込めている。1936年に盧弼によって書かれた『三国志集解』もこれを踏襲し、学会では「景初三年」が定説になっている。ただし、『三国志』『魏志』『韓伝』に「景初中(237~39)、明帝は密かに帯方太守劉昕・楽浪太守鮮于嗣を遣って海を越えて二郡を定めさせ、諸韓の国の臣智に邑君の印綬を加賜し、その次席には邑長(の位)を与えた。」とあるので「六月に郡に詣り、天子に詣り朝献するよう求めた。」という記述は公孫淵滅亡前にこの太守と会ったということで「景初二年六月」が早すぎるという根拠は仮説にすぎない。洛陽で謁見するのが十二月で、半年もかかっていることから原文通りで辻褄が合う。

『百済記』、『百済本記』、『新羅本紀』は現存していない。新羅が滅んで、高句麗の継承を自称する高麗の時代、1145年に完成した『三国史記』に『百済本紀』、『新羅本紀』としてまとめられている。ただ、『百済記』、『百済本記』の逸文が残っていない箇所もあるので、そのまま原文が残ったわけではない。『百済記』、『百済本記』の存在そのものを疑う説もあるが、『日本書紀』の応神天皇紀に残る『百済記』逸文は『三国史記』にも残っているのでそれはありえない。

<應神天皇>
八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
応神天皇在位8年春3月、百済人が来朝した。百濟記に言う。「阿花王が立って貴国に無礼をした。それでわが枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓の地を奪われた。このため、王子直支を天朝に遣わして、先王の好を修交した。」

日本書紀 巻十

<阿莘王>
六年,夏五月,王與倭國結好,以太子腆支爲質
阿莘王の在位六年、夏5月、王と倭国が好を結び、太子腆支をもって人質にした。

三国史記 百済本記

邪馬台国論争でも自説の結論のために情報の物量でマウントをかけてくる人がいる。ただし、いくら情報の物量が多くても、根拠の経緯がしっかりと明示できなければ、邪馬台国がソマリアにあったというような説も笑えない。そんなことがわかるように「邪馬台国ソマリア説」を書いた。


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