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実は吉田松陰と日本をめちゃくちゃ褒めちぎっていたペリー!その理由とは?
ペリーといえば、日本に開国を迫った歴史上の人物として知られていますよね。
でも実は、彼は日本や日本人のことをとても高く評価していたのをご存じですか?
特に彼の心を強く揺さぶったのが、一人の若い日本人との出会いでした。
その人物こそ、幕末の偉人・吉田松陰(よしだしょういん)。
まだ若かった松陰が見せた行動力と熱意は、ペリーの日本観を大きく変えるきっかけとなったのです。
吉田松陰とペリーの「衝撃的な出会い」
時は1854年。
ペリーが率いる黒船が日本に来航したときのことです。
その黒船に向かって、一隻の小舟が近づいていきました。
乗っていたのは二人の侍。
その中の一人が吉田松陰でした。
二人はペリーの船に乗り込むと、なんと「私たちを海外に連れて行ってほしい」と書かれた手紙を差し出しました。
当時、海外渡航は幕府によって厳しく禁じられており、下手をすれば命を失うかもしれない行為でした。
それでも松陰は「海外で学び、日本をもっと良い国にしたい」という強い願いを抱いていたのです。
これに対してペリーは、まずその大胆さに驚きます。
そして彼らの身なりや振る舞いにも注目しました。
「彼らは二本の刀を帯び、上流階級の礼儀正しい態度で堂々としていた」
と、ペリーは後に書き残しています。
ペリーはこの時、松陰たちがただの若者ではなく、教養と高い志を持った人物だとすぐに見抜いたのです。
松陰が手紙に書いた言葉も印象的でした。
「私たちは武器や兵法に長けてはいませんが、本を読んでヨーロッパやアメリカの習慣や教育を少し学びました。五大陸を巡り、その知識をさらに深めたいのです」
と、未来への熱い思いが詰まっていたのです。
ペリーはその情熱に深く感心し、
「この国の人々には大きな可能性がある」
と確信しました。
そして、このエピソードをアメリカ議会の公式記録にまで残しています。
松陰たちの行動が、ペリーにとって忘れられない体験となったのです。
ペリーが見た「日本人のすごさ」
吉田松陰との出会いをきっかけに、ペリーは日本という国や日本人そのものに強い興味を抱くようになりました。
彼は日本滞在中、さまざまな人々や文化に触れ、そのたびに驚きと感動を覚えたのです。
例えば、ペリーが特に感心したのは、日本人の「知識欲」と「好奇心」でした。
条約交渉の際、幕府の役人たちが黒船に乗り込む機会があったのですが、彼らは好奇心いっぱいに船内を見学しました。
大砲の構造を調べたり、ボートのサイズを測ったり、機関室をじっくり観察したりと、まるで子供のように目を輝かせていたそうです。
これを見たペリーは、
「日本人は学ぶことに対して非常に貪欲で、何事にも強い興味を持っている」
と記しています。
この姿勢が、彼に「日本の未来には大きな可能性がある」と確信させた理由の一つでした。
美しい工芸品に込められた才能
さらにペリーは、日本人の「ものづくりの才能」にも驚嘆しました。
彼が日本で目にした絹織物、漆器、陶器などの工芸品は、どれも非常に美しく、中国製の品を上回るほどのクオリティだったといいます。
また、日本の家庭にある建築物や家具の精巧さにも感心していました。
特に、ふすまや障子といった建具の滑らかさや精密さに驚き、
「日本人の技術はまさに一流だ」
と称賛しています。
さらに、日本の町並みについても
「衛生や健康への配慮が行き届いており、アメリカの都市よりも優れている」
と述べています。
女性への尊敬と識字率の高さ
ペリーが驚いたのは、日本人男性に対してだけではありません。
日本の女性たちが、当時の東洋諸国では考えられないほど自由で教育を受けていることにも感銘を受けました。
女性が散歩に出たり、お寺や神社に参拝したりする姿を見て、
「女性が奴隷のように扱われることなく、立派な存在として認められている」
と記しています。
さらに、日本人の識字率の高さにも驚きました。
江戸時代の日本では、多くの人が読み書きができ、女性も文学や芸術に親しんでいました。
このような文化的な高さが、日本という国をより魅力的に見せたのでしょう。
ペリーが出会った吉田松陰だけでなく、日本人全体が持つ知識欲や技術、文化の豊かさに彼は心を打たれたのです。
ペリーが見た「日本の未来」
吉田松陰や日本人全体の知識欲、好奇心、技術力に触れたペリーは、ただ「素晴らしい」と感心するだけではなく、日本の未来に大きな可能性を感じました。
彼は帰国後、アメリカ議会に提出した公式記録の中で、こう述べています。
「この日本人たちの成功を見ると、この興味深い国がどれほど未来の可能性を秘めているかがわかる。」
これは、ペリーが日本の国力や文化をただ評価しただけではなく、日本という国が世界に大きな影響を与える可能性を信じていた証拠です。
ペリーが日本に来る前、アメリカを含む西洋諸国では「東洋は未開で遅れた地域」という固定観念がありました。
ところが、ペリー自身が下田(現在の静岡県下田市)を訪れ、街の清潔さや人々の礼儀正しさ、町全体の衛生管理の行き届いた様子に驚かされます。
彼は「我が合衆国の都市よりも遥かに優れている」とまで述べ、これまで抱いていた「東洋=非文明的」というイメージが完全に覆されました。
さらに、日本人が持つ協調性や秩序ある生活態度、そして女性を尊重する社会文化についても感銘を受け、こう記録しています。
「この国の人々には特別な品格があり、その未来は明るい。」
ペリーは、彼が感じた「日本の未来」は、吉田松陰のような人々によって支えられるものだと考えました。
松陰が命を懸けてまで海外の知識を学びたいと願ったその情熱と勇気は、ペリーに「この国が未来に進む力を持っている」という希望を与えたのです。
そして、吉田松陰が直接教えを与えた弟子たちが、のちに明治維新を起こし、日本を近代国家へと導いていきます。
この連鎖こそが、ペリーが目にした「可能性」の正体だったのかもしれません。
ペリーが見た日本の未来は、吉田松陰という一人の青年の情熱と、日本人全体が持つ好奇心や向上心によって形作られたものでした。
そしてその未来予測は、見事に的中していたのです。
ペリーが唯一ディスった日本のある習慣とは!?
このお話は、土岐総一郎のご人である高橋智明さんの著書、
「ペリー提督は吉田松陰を絶賛していた」〜原典で読む外国人が見た日本〜
でも詳しく紹介されています。
気になった方は、ぜひ手に取ってみてください!
ちなみに、高橋智明さんは瀬田玉川神社の禰宜(ねぎ)をされているそうです。
興味がある方は、直接お話を伺ってみるのも楽しいかもしれませんね。
また、「こんなテーマが聞きたい」「こういう話もしてほしい!」というリクエストがあれば、ぜひ教えてください!
そして、実はペリーが日本について唯一批判的だった“ある女性の習慣”についても興味深いお話があります。
その続きは、ぜひ土岐総一郎のYouTubeチャンネル、
「土岐総一郎の偏見聞録~オトナの裏教養~」 でチェックしてみてくださいね!
→https://youtu.be/xqirriVd6-8?si=Q1eDOYAtOR3fDD5L
動画で語られる裏話や新しい視点が、きっとあなたの好奇心をくすぐるはずです✨