自分の「好き」と向き合いたい
ここ最近、感性が鈍ったと思う。美しい景色を見ていても、昔の自分の目にはもっと綺麗に写っているのだろうなと思う。一部の感情を失ったのかもしれない。
こうなった時期を考えるとおそらく原因は去年の春ごろから。環境変化についていけず、心だけが取り残されたからである。
高校の卒業と同時に外出自粛で家族以外の人間と話す機会が減った。大学受験の失敗や、人からの言葉によって一人で泣いていた。大学生活は気がついたら5月ごろから始まっていたが正直実感はなかった。家族には「宅浪している感覚だね」と言われた。確かにそんな気分だった。
少しずつ外に出られるようになり、本当に気分が落ち込んでいる時は「久しぶりに会おうよ」とLINEをして友人と出かけた。助けを求めるようでもあった。遊んだ日はもちろん楽しい。だが日々の『無』の時間が長すぎて、満たされた心が萎んでいくのがやけに早かった。そんなことが三ヶ月に一回ほどのペースであった。私の心は口の閉じていない風船と似ているように思えてきた。絶えず空気を送り続けなければ萎んでしまう。
最近はずっと行きたかった場所に一人で行った。英語の勉強が順調に続いている。それなのに晴れた心はそう長くは続かない。自分は人と関わって傷つくのを恐れているくせに、結局人を求めているのだろう、と思い虚しくなった。
そして無差別に人と関わる環境がなくなり、他人以上友人以下から受ける刺激がなくなった今、自分の考えが凝り固まってしまいそうで心配になる。感性が鈍ってしまった、新しい刺激が欲しい、といつも思っている。しかしその考えはあまりにも受動的である。そして受動的な人間にって、今の世の中はとても生きにくい。単純な話、積極的な人間になれば多少は生きやすくなるだろう。(それが難しいことだけれども)
何か新しいことを始めたかったからnoteを始めた。実際この挑戦は良かったことだと思う。自分から友達を誘うことだって、自分にとってはなかなか頑張ったと言いたい。(「yaoから遊びに誘うなんて珍しいね」と何回か言われた) 趣味に磨きをかけるのも、時々散歩に出かけるのも自分なりの日々の楽しみ方だった。
noteをはじめ、去年の半ばごろから始めた私の生き方は確実に悪い方向には向かっていない。一時期はどん底だった生活は、右上がりには転じていると思う。しかし去年の今頃の自分と比べると、昔の自分が思い描いていたものではないように思えてくる。ここで問題なのは、過去の私がどんな自分を思い描いていたのかも忘れてしまったということである。
過去の自分の理想なんて忘れてしまったから、もう一度夢を描き直すしかない。昔の自分が何を持っていて、何を望んでいたのかがわからなくなってしまった今、それを取り戻すよりも、今の自分が望む方向を見据えることの方が大切である。
最近ずっと、新しい自分を探していた。多分自分は感性が豊かで面白みのある人間になりたいのだと思う。
自分が将来やりたいことも探していた。海外で働きたい、グランドピアノがある大きい家に住みたい、漠然とした大きな目標ならある。しかし自分の「好き」と「得意」を考え出すと途端に難しくなってくる。それを考えるのに手っ取り早いのは図書館に行き、自分が興味を持った本棚に「好き」が隠れている、というものらしい。実際私は自然科学系の本棚を見てしまう。きっと私が理学部に入学したのは間違いではないのだろう。でも理学部の私にとって重要なのは、さらに興味のある分野を絞らなければならないということである。私は自分の「好き」と向き合おうとすると、研究とか仕事とかお金のこととかがちらついて先に進めない。「好き」の自問自答に答えが出ず、嫌気がさしている。
感性が豊かで面白みのある人間になりたい。ひとまずの目標はそこである。そのためにどんな努力をすればいいか、これから考えてみたい。これが今年の目標のうちの一つである。
いつもの記事とは違って少し暗めの話題になりました。自分の中のモヤモヤしたものを言葉にするって必要なことだな・・・と思っています。結局何が言いたいのかはまとまってはいなくて、ただ自分の中に浮かんでいた不安と虚しさを吐き出したかっただけです。もしかしたら同じことを思っている人がネットの海のどこかにいるのではないかと思っています。