『羅小黒戦記』と複雑性との共存
普段は現代中国の文学や文化についての堅苦しい論文や批評を書いている者ですが、最近ちょっと疲れてきて、あまり複雑に考えすぎずにもう少し軽めの文章を書いてみようと思ってnoteをはじめました。
とりあえず、先日『羅小黒戦記〜ぼくが選ぶ未来〜』(中国語: 罗小黑战记)を観たので、ネタバレなど気にせずに感想を書いてみようと思う。
この作品それ自体突出して優れているわけではないが、ウェルメイドなアニメ作品ではある。ストーリーやテーマは良く言えば普遍的だが、悪くいえばありきたりなものになっている。
中国のアニメはついにこのレベルまで来たか、という文脈依存的な驚きがたぶんこの作品の評価を上げているところがあるのも否めない。
ただそれとは別に、いくつか気になる点があった。
まず、ストーリーにはある種の逆転が用意されている。
小黒が最初に出会ったフーシーは、人間に囲まれ、捕まえられそうになった小黒を危機から助け、さらに居場所を提供し、家族のような温かさを提供した者として描かれている。それに対して、ムゲンはそのような居場所を壊し、家族をばらばらにした悪人として描かれている。
これはあからさまな「善人対悪人」の構図として機能している。「ああ、これからムゲンと彼が所属する妖精会館と戦うんだな」という予想をするように仕向けている。
しかし、物語が進むにつれて、この構図が反転していく。
善人だと思われていたフーシーとその仲間は実は人間世界を壊して、妖精の住む世界を取り戻そうとする悪人、原理主義的なテロリスト集団のような存在であることが明らかになっていく。
そして、ムゲンも無口な悪人で、権力の手先だと思われていたのに、実は心優しい人で、人間と妖精の平和を守ろうとしていたことがわかってくる。
善悪がここで逆転してしまうのである。
これを踏まえて、最初の小黒が人間に襲われていたシーンを再考してみると、その人間たちの目が妙に虚ろだったことの理由がわかってくる。
後に地下鉄でムゲンとフーシーの仲間たちの戦っているシーンがあるのだが、フーシーには人間を操る仲間がいて、彼に操られた人間も同様に目が虚ろだった。つまり、小黒が襲われていたのもフーシーたちが彼の信頼を得るための策略だったのだ。
しかし、上のように善悪の逆転が起こっているが、それは単に逆転したわけではない。
これはムゲンの立ち位置に現れている。彼は妖精会館のために働いているが、決して妖精たちに好かれているわけではなく、彼らの中に溶け込んでいるわけではない。実際、映画の最後でムゲンは妖精会館に入ろうとしない。彼のことを快く思っていない存在が大勢いるからだというのがその理由である。
妖精会館という権力機構は決して一枚岩の善として描かれているわけではない。小黒は最後にそこに入るのではなく、ムゲンと旅することを選び、妖精会館に背を向けて歩き出す。
逆にフーシーたちは無情なテロリストであることが最後に明らかになったわけだが、彼らも完全な悪として描かれているわけでもない。居場所を奪われたこと、人間たちの醜い欲望と暴力に絶望していたことなど、いずれも小黒が共感する感情である。
ムゲンも小黒に対して、フーシーたちが悪かどうかについては、結論を急がずに、自分の心で決めることが重要だと諭している。
フーシーたちが起こした地下鉄事故は、2011年に温州で起きた列車衝突脱線事故を思い出させるようなものだった。凄惨な記憶を呼び起こすこのような描写にもかかわらず、フーシーたちのようなテロリスト的な存在を完全に否定することはしない態度は、少なくとも中国ではかなり珍しいものだと感じた。
このような、物語の構成を通して、善悪の逆転から善悪の判断そのものの保留を訴えるところが『羅小黒戦記』を特別なものにしているように思う。
最後に、(妖精会館側の)妖精の人間たちに対する態度も複雑なものである。
彼らは確かに人間たちによって居場所を奪われ、かつての力を失い、自らを隠しながら人間社会のなかで暮らさなければならなくなったが、だからといってフーシーたちのように人間世界を否定するわけではない。
人間、もしくはフーシーが正しく指摘したように、近代以降の強大なテクノロジーを手に入れた人間によって、すべてがどうしもなく、急速に、見知らぬものに変化していく。
フーシーたちは過去のユートピアのイメージにとらわれて、それを暴力的に恢復することを望むわけだが、ムゲンのような人間を毛嫌いする妖精たちがスマホをいじっているシーンなどが象徴しているように、妖精たちは単なる共存ではなく、人類社会の生活様式に取り込まれている。
彼らは好むと好まざるにかかわらず、そうなってしまうのが世界の趨勢である。妖精たちだけでなく、人間もまたそのような趨勢と共存しなければならない。
そもそも「金」属性で、金属を操るムゲンや小黒は、鉄筋で構成された近代都市の存在を前提してはじめてその力を最大限に発揮できる。
結局、妖精も人間もノスタルジーに囚われることなく、現実がどんどん作り変えられていくという現実自体と折り合いつけつつ生きていくしかない。そこに善悪や理想といったものが入り込む余地があまりない。
人間社会、そしてそのテクノロジーなどを単に良い、悪いということを決めつけられないような、さらには何か確定した立場に対して徹底的に距離を取り、判断を宙吊りするような判断(!)が作品全体を通底しているように感じる。
この意味で、このアニメは「妖精と人間の共存」という表面的なテーマだけでなく、むしろ「複雑性との共存」というべきテーマを描いているのではないかとも思えるのだが、よく考えてみたら違うもの同士が一緒にいることで複雑性が増していくわけで、共存とはそもそも複雑性との共存でしかないかもしれない。
ここまで書いてはじめて気づいたのだが、このような態度は実は中国を代表するSF作家である陳楸帆のいう「SF的リアリズム」と深く共鳴している。それについてはこの前論文を書いたのだが、そもそもこの文章は論文を書き疲れたために始めたものなので、このへんにしておきます。
興味ある方は中国文芸研究会編『野草』第105号所収の拙論文を手に取っていただければと思います。
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