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第三話 シケモクは"わびさび"の骨頂

 数分歩いてドヤ街の前の自販機に宇賀を下ろした。
 丸井は縁石に腰掛け、残り少なくなったハイライトに火をつけた。
煙はモクモクと立ち昇り、夜空に消えていった。

 「丸井、送ってくれておおきにやで」
丸井はビクッとして後ろを見た。知らぬ間に宇賀は目を覚ましていた。彼は地面に落ちているタバコの吸殻を当たり前のように拾うとフッフッとゴミを吹き落とし火をつけた。
流れるような仕草が千利休の追い求めた"わび"と"さび"を同時に表現していた。
銘柄すら不明なタバコから立ち上る煙は西成の夜空に上がった狼煙のように見えた。
「なぁ、仕事せえへんか?」
宇賀は丸井に語りかけた。
 「仕事ってなんや。日雇いなんかする気あらへんで」
丸井は牛乳瓶の底のようなメガネから見える目をできる限り尖らせて応えた。
 「ある女の口噛み酒を手に入れるだけや。下手打ってもかまへん。」
 そう言うと宇賀はポケットから名刺を抜き、丸井に差し出した。
丸井はじゃんけんのチョキの間に名刺を挟み込み、書かれている文言を見た。
 「森嶋希を尊敬する会…右大臣…あんた組織の人間なんか」"森嶋希を尊敬する会"。大阪の人間なら誰しもが一度は耳にした事がある。日本で最も崇高な集団として知られ、会員には世界中の著名人が名を連ねるという秘密結社だ。
 「あんたの酒飲みとしてのオーラは他とは違う。深いんや。背負った十字架の深さが滲み出てる。あんたにしかできひん仕事や。この仕事ができるのは心の底から湧き出るような負のオーラ、前向きに生きていけない人間だけやねん。すなわちお前や」
 宇賀はフィルターまで吸った煙草を地面に投げ捨て、こちらを見た。
「報酬は世界一うまい酒を永遠に飲ませたる。全身に染み渡る奥深い酒や。震えるで。西野カナも毛穴から汁出して震えよる」
丸井はこの依頼に対して、内心ワクワクしていた。
名古屋から単身大阪にやってきてからというものの、刺激のない街高槻に辟易としていたからだ。
この日雇い労働者の宇賀が言う仕事は確かに危険かもしれない。
しかし、それは色を失った白黒の世界にスポイトで色を与えてくれるかもしれない仕事だ。
丸井はふぅーっとため息をつき、宇賀を見つめ返した。
「わかった。その仕事やるよ」
丸井は答えた。彼の中で何かが変わる気がしていた。
「ほぉ、硬そうな髪質のくせに意外とノリええんやな。」
丸井はトレードマークの角刈りを弄られ、少し不快に思った。
「この仕事をやる上で1つ約束してほしいことがある」宇賀は続けて言った。
「その女に惚れるな。絶対に惚れたらあかんで」
宇賀は今まで一番強い眼差しを丸井に送った。
 「そんなん知らんわ。おれの息子に聞けや。こいつのレーダーしか信用しやんからよ」
 丸井は強い言葉を吐き捨てた。本物の自分と見つめ合うのが怖くて、虚勢に身を任せた。
 宇賀は何も語らず一枚のメモを丸井に渡した。
 「これが、ターゲットの"ゆうか"や。長瀬駅の飲み屋が行きつけや。カウンターに一人で来るからすぐわかる」
そう言い残し、宇賀はドヤに消えていった。
だんだん小さくなっていくボロボロの作業着がどこか哀しかった。
 丸井はメモを丁寧に四つに折り曲げ、財布にしまった。
夜空を眺め大きく深呼吸し、夜の西成を歩き出した。
「やったるで」
白黒の世界に一滴落ちてきた色が、少しずつ丸井の中を鮮明に映し出そうとしていた

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