第十一話 布施駅のアスファルトは冷たい
会計の時、優華は丸井の前に手をかざし、万札を2枚机に出した。丸井は何も言わず、頭をペコリと下げ、先に店を出た。
外気は酒で壊れた身体をアイシングするかのようにひんやりとした。
「丸ちゃん、今日はおおきにね。」
優華は酔いが回ったのか、おぼつかない足取りで店から出てきた。
「何をいうてんねや。こちらこそご馳走さんやで」
丸井は酔っ払ったフリをして、優華の肩を叩いた。
ささやかながらのボディータッチだ。
酔っ払ったフリをしてどさくさに紛れながら女性を触ることから"ドサイ"と揶揄されていた。
"ドサイ"に嫌な顔一つせず、優華はエレベーターの下ボタンを押した。
ゆっくり開いたエレベーターからバンクシーの落書きがちらっと顔を見せる。
丸井は先に入った優華の残像のようにささっと中に入った。
ビルから出ると近鉄布施駅が見えた。
それは終電が終わり、誰かの帰りを待つかのように寂しく佇んでいた。
優華と丸井は無言で駅沿いを歩く。おもむろに優華は立ち止まり右手を上げた。
タクシーがハザードをパカパカと点灯させながら停車した。
ウィーンと窓を開けた運転手は「姉ちゃん、パスポート持っとんけ?」と尋ねた。優華が、はい、と答えると無造作に後部ドアが開かれた。バンパーには銃弾の後があった。ルーフに取り付けられた表示灯には"生野区タクシー組合"とあった。
東大阪市は嘆きの壁設立以降、あらゆる交通手段を封鎖(阪神高速東大阪線、第二阪奈道路、近畿自動車道は東大阪市の出口を廃止)、徒歩や自転車までも規制対象とした。
しかしながら経済の停滞が表面化したことから市の境に関所を設け、パスポートとマイナンバーカードの提示で自由に出入りできるようにした。(車の場合は車検証も)
この規制緩和でタクシー会社が戸籍やパスポートを持てない人間を密入国させる事件が発覚。(東大阪市タクシー汚職事件)
大阪府と東大阪市はこの事件を受けて、一般タクシー会社の出入りを一切禁止し、代わりに「生野タクシー組合」を設立。東大阪市を出入りできるのを一社にまとめ上げた。
一方、一部では生野タクシー組合が半グレ組織"生野連合"、"弥刀連合"、過激派"あの頃の近鉄復帰戦線"のフロント企業ではないかと噂されている。
タクシーに乗り込んだ優華はタクシーの窓を少し開け、丸井に一枚の名刺を渡した。
何も言わずにそれを受け取ったあと、大阪府道172号線を南に下って行くタクシーを見送った。
丸井はふぅっとため息をつき、歩き出した。
飲み屋街の雑踏の奥から聞こえる機械音、独特の油の臭い、そしてこの"布施嘆きの壁"。
丸井は冷たいコンクリートで作られた壁を触りながらこの奇妙な1日を振り返った。
典型的なアルコール依存症優華との出会い。
彼女は丸井が童貞であることをすぐに見抜いた。
さらに二軒目"サンクチュアリ"でもいいちこに抱いた気持ちを代弁するかのように悟った。
彼女のニコッとした笑顔、目の下のクマ、教科書通りに作られたいいちこ。その全てが思い返される。
彼女は一体何者なのか。なぜ丸井の"陰"の部分を見透かせたのか。
「惚れるな」
日雇い労働者宇賀の言葉が脳裏に蘇る。
この女の口噛み酒を手に入れるだけの簡単な仕事。
東大阪の悲しみを一手に背負った壁に触れた手をグッと握り込んだ。
丸井は大きな決意と共に帰路についた。
この決断が後に大阪がかつて背負った悲しみと時代の渦に巻き込まれて行くとは、この時の彼は知るよしもなかった。
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