第二話 タバコはフィルターまできっちりと
タクシーが止まった。やっと目的地に着いた。精神と時の部屋かと思うほど、この1時間は長かった。
宇賀が吐き出す吐息は2歳未満の子供ならショック死するほど臭い。
タクシーの運転手はダッシュボードから取り出した有機溶剤作業者用の防毒マスクを装着している。
「ここがワイの街や。震えるなぁ。ただいま、西成」
大阪市西成区。度重なる暴動と薬物が蔓延する日本最大のスラム。酒、暴力、性が全てを支配する街。
大阪府から特別危険区域に指定された大阪トップクラスのスラム街だ。
ブルーシートが立ち並ぶ横では老婆が売春の呼び込みを行なっている。道端にはワンカップ大関の空き瓶とフィルターまできっちり吸われたタバコの吸殻が散乱していた。
「おい、おっさん。ここで止めてくれ。なんぼや?」
防毒マスク越しに運転手は料金を告げた。
「あん?12000円?このタクシーだけハイパーインフレ起きとんかい。ジンバブエもびっくりやで」
宇賀は一枚の名刺をタクシーの運転手に見せた。
「金は払わへんで。こんなぼったくり料金。どうしても金欲しかったらここに問い合わせてくれや」
運転手は名刺を見て、驚いた表情を浮かべ、すぐに扉を開けた。
「料金は結構です。お手数おかけして申し訳ありませんでした」
深々と下げた運転手の頭を1発叩いた宇賀はタクシーを降りた。
「兄ちゃん、金玉が4つになる薬買わへん?」
タクシーを降りてすぐにフードを被った少年が左手の人差指と中指の間に挟んだパケをヒラヒラさせながら丸井に声をかけた。
突然の出来事に戸惑いを隠しきれない丸井を退け、宇賀が少年の胸ぐらを掴んだ。
「おい、クソガキ。俺は金玉8個あんねん。それ飲んだら半分に減ってまうやんけ。残りの4つ分の金玉の落とし前どないしてくれんねや?おう?殺して埋めてその上でお前のおかんとたこ焼き食うぞコラ。」
少年は走って逃げ出した。
それを見た宇賀は地面に落ちている吸い殻を口に咥え火をつけた。
丸井は初めて西成の地を踏んだが、どこかしっくりする感覚を胸に抱いていた。
こういう街を求めていた。
人が己の欲望に逆らわず、真っ直ぐ生き、何もかもを吐き捨てれる街。西成はその全てを兼ね備えていたのだ。
商店街の入り口に位置する飲み屋に宇賀は入店した。丸井も後に続き暖簾をくぐった。
20代前半くらいの若い女が3人カウンターの中にいた。宇賀が一番角の席に座ると吉四六のボトルが目の前に置かれた。
「おう、丸井。ワイの奢りや。脳みそ飛び出すくらい酒飲めや」
宇賀はすでに泥酔状態だ。言葉も汚い。いったいどこの教育機関で言葉を学んだのだろうか。丸井は疑問と不快さに顔をしかめながら、濃いめの水割りで宇賀と乾杯した。
「資本主義に乾杯や」
宇賀はそう言うと、中に指を入れながらグラスを持ち、丸井の方に傾けた。
「俺は死ぬまで労働者や。せやけどな、搾取されるだけの人生なんかごめんやで。いつか資本家の頸動脈引きちぎったるんじゃ」
丸井は高らかにグラスを掲げ、水割りを一口飲んだ。
三本目の吉四六が空になった。宇賀は酔い潰れて寝ている。
入店して2時間半、日本プロ野球と極左組織について語り尽くした。丸井は宇賀のボキャブラリーの多さ、意外な博識に驚いた。時間はあっという間に過ぎていき、気がつけば宇賀は寝静まっていた。
「元気くん、いつも友達連れてきてわこんなんやねん」
若い女が丸井に喋りかけた。ショートカットで耳にはでかいピアス。指輪のタトゥーを入れている。頭の悪そうな女だった。
指輪のタトゥーを入れた人間の知能は14歳から発達していないという統計結果から義務教育をしっかり受けていない事はすぐにわかった。
そんなことより、宇賀の名前が元気ということに驚いた。不健康、破廉恥、無礼なこの男は本当の意味で"名前負け"していると感じた。
「靴の中にお金入ってるはずやから、勘定だけすませて連れて帰って」
指示通り丸井は宇賀の靴を脱がした。
鼻につく香りは確実に有害物質の"それ"だった。
靴の中にはピン札の一万円札が6、7枚敷かれていた。
「(ピン札?日雇い労働者のくせになぜなんや)」
疑問と危険な香りを鼻に受けながら一万円札数枚を抜き取り、支払った。
「おおきに。あー、元気くんの家な、1個目の角曲がったドヤやから。どっか捨てたって。勝手に起きて帰るから。ほな、またきてねー」
丸井はやけに軽い宇賀を背中に担ぎ、目的地に向かった。
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