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ショートストーリー「中秋の満月」

 彼とは、一緒にいると心地が良い人です。私たちはお互いに深い愛情を持っていました。出会うべくして出会った人だと思います。私は彼のことを「運命の人」、「赤い糸で結ばれた人」と密やかに想っていました。でも彼には気恥ずかしくて伝えてはいません。

 今夜は珍しい中秋の明月であり満月も夜です。私は彼と2人で、いつもの散歩道を、月を眺めながら散歩に出かけました。

 少し猫背気味の彼とは、身長の差は感じることはありません。隣を見ると彼の横顔がすぐそばにあります。私は彼のすぐそばにいることが幸せでした。

 真っ直ぐに道の先を眺める彼の瞳は、薄茶色です。色素が薄いので昼間はサングラスをかけています。彼の横顔は彫刻のように整っています。少し目尻が下がっているので、冷たい雰囲気はなく穏やかな印象の横顔です。

 彼はその印象にそぐわない厳しく、激しい気性でした。若い頃には、随分あちこちで衝突してきたようです。彼の翻訳を生業にしており、人と群れる事もなく、独り狼のように生きているのです。私はそんな彼の生き方も含めて、彼の全てを尊敬し、深い愛情を持っていました。

 私は彼の横顔を眺めるのが好きでした。2人で歩く時は、彼は私の歩調に合わせるように、隣を歩いてくれます。 私は彼がそこにいることを確かめるように、時々、横顔をちらちらと覗き込むのです。

「月明かりが明るいね。」

 彼が空を見上げました。彼の髪が銀色に輝きました。彼の髪は柔らかく綿毛のようで、私はその髪に触れたくなりました。私の指が触れる彼は、真っ白い髪でした。

 私と彼は歳の差がありました。一見親子にも見えるような歳周りです。普段は歳の差を感じることはないのですが、この柔らかな髪に触れた時に、いつも思うのです。

「まだ若く黒髪だった頃の、彼に会ってみたい・・・」

 彼の青春時代に、私はまだこの世に生まれていませんでした。彼が翻訳家とし脚光を浴び、名声を得ていた時代を私は知りません。私が彼と出会ったのは、彼が荒々しい時代を生き抜き、田舎の家で、晩年を生きている時でした。

「こんなところに神社があるんだね。」

 いつも歩く道を歩いていたはずですが、月を眺めながらの散歩なので、見知らぬ道に迷い込んだのでしょうか。私たちの目の前には、月明かりにぽっかり映し出された小さな神社がありました。
 私は神社を見つけると、手を合わせてお参りする習慣がありました。いつもなら私はこう思いながら手を合わせています。

「神様、いつもありがとうございます。今日は神様の土地に来させて頂いております。少しの間、お邪魔します。宜しくお願い致します。」

 私は、基本的に神様に願い事はしないのです。ところが今夜に限って、私は社に手を合わせながら、強く強く願い事をしていました。

「神様 黒髪の頃の、若かい頃のこの人に会いたいです。一眼でいいです。どうぞ願いを叶えてください。宜しくお願い致します。」

 私が手を合わせている時、いつも不信心な彼は、少し離れた場所で私を見守っています。今夜もお参りが終わって振り返った時、彼は私の少し後ろに立っていました。

 小さな神社の境内で、月明かりに照らされて、彼は少し背が伸びたように見えました。丸かった背中が真っ直ぐに伸びていました。

 月明かりに銀色に見えた白髪が、みるみるうちに艶やかな黒髪になりました。薄いシャツがきつそうに見え、引き締まった筋肉が見えました。あっという間にシワもなく、すべすべした弾力のある肌になりました。

 若き日の彼は、私が幾度となく想像していた通りの美しい青年でした。おそらく私はいつの時代の彼に出会っていても、同じように恋に落ちていただろうと確信しました。

 なんだか彼がどんどん大きく背が高くなっていくように見えました。私があれを見上げた時、彼が私の名前を叫んでいました。

 彼が大きくなったのではなく、私の身長が小さくなっていたのでした。どうやら私は彼と同じように若返っていたようでした。私はさらに若く、小さくなっていくようでした。

 私の時間が戻され、この世に生まれる前の、世界に戻って行ったようでした。あなたのいない、真っ暗で暖かい場所へ。


 もう1度、あなたに出会えますように…

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