「人生の充電時間」たっぷり遊んだそのあとに。
昭和の子どもの遊び
子どもの頃、住んでいたのは六畳二間の団地でした。
両親と私と弟の4人で暮らしていました。
当時の団地には、たくさんの同世代の子どもがいました。
遊びはいろいろありました。仮面ライダーごっこ、靴隠し(謎の歌で、隠される靴を決める)、探偵(探偵と盗人チームに分かれて捜索する)、坊さんが屁をこいた(いわゆるダルマさんが転んだ)。缶蹴り石蹴りも何種類かありました。蝋石で道に落書きしたりと楽しかったです。
外遊び
母が専業主婦をしていたので、よく子どもの遊びに参加していました。
原っぱで野球をしたり、ザリガニ釣りに行ったり、川の土手を段ボールで滑ったり、ゲイラカイトで凧揚げしたり、とかなりアクティブに遊んでいました。
ザリガニ釣りでは、金網をくぐり抜け、某所の私有地内で釣りをしますが、
時に警備員に追いかけられるというスリリングなものでした。
子どもは慣れているので、警備員の気配を感じ、逃げ出すのですが、
夢中でザリガニと格闘していた母が捕まりました。
「何をしてるんだ!」
怒鳴られた時には、周囲にたくさんいたはずの、子どもは誰もいません。
「ザリガニ釣りです」
と正直に答えましたが
「あなた大人でしょう!」
とこっぴどく怒られたそうです。
まあ30過ぎのオバちゃんが、棒切れの先に、駄菓子屋のスルメをぶら下げて、市有地でザリガニ釣りしているなど、今考えると恐ろしくてならない光景です。
「気がついたら私1人になっていて、あの時は本当に怖かった。」
母は今も語っています。
家遊び
インドアでは将棋、オセロゲーム、トランプ、カルタ、たまに花札もしました。
お絵描きは父の職場から貰ってくる、テーブルと同じ大きさの巨大な製図の裏側に
思いっきり絵を描いて遊びます。
時にテーブルの上に、ハウスバーモントカレーの箱を真ん中に並べてネットに見立てて卓球もします。
でも当時流行っていた人生ゲーム、野球盤ゲームは家にはありませんでした。
かわりに折りたたみ式の小さいボードゲーム「黄金の国々ゲーム」がありました。
人生ゲームと比べたら見劣りしますが、それなりに面白くて繰り返し遊びました。
いまでも正月になると、母が子どもたちに、これで遊びなさいと古ぼけた「黄金の国々ゲーム」をどこからか出してきます。でもみなスマホでゲームをするので、誰も遊ぶことはありません。
ある日母が、スライムを買ってきました。
「これはアメリカの大統領も遊んでるんだって」と私と弟にくれました。
そういえばルービックキューブも出始めに購入していましたね。
誰よりも母が目の色を変えて格闘していました。
結局、母が遊びたかったようでした。
「暗闇ごっこ」
我が家のダントツ一番人気の遊びが「暗闇ごっこ」でした。
これは時々やってくる親戚の子どもにも大人気でした。
もちろん余分な部屋もないので「暗闇ごっこ」は全員参加です。
ただ単に明かりを消して、狭い団地の部屋の中をうろうろと徘徊するだけですが、
家が狭いので、かなりのドキドキ感がありました。
父が参加すると、「おまえは誰や〜」とお化けになりきるので、
私たちは「きゃー」と逃げ出します。するとあちこちで家具にぶつかるので、
お化けとは違う恐怖がありました。
いまも暗闇ごっこの話になると、よくあんな狭い家で、むちゃなことをして怪我人が出なかったもんだねと語り草になっています。
「人生の充電時間」
私と弟は、こんな遊びをして大きくなりました。
今思うと、どうも母自身が遊びの達人だったようです。
そして母自身も遊びに夢中になっていたようです。
「あんたたちのおかげで、すいぶん遊んだし、子どもの本もたくさん読めたわ。」
実は本当のところ、仕事を続けたかった母でした。
家の事情で弟の出産を機に退職をせざる得なかったのです。
仕事が大好きで泣く泣く仕事を辞めた母でしたが、
その後、たっぷり子どもと遊ぶ専業主婦時代を過ごしたようでした。
私が中学生になり、40歳になった母は、再び仕事に復帰しました。
その後、定年退職まで、バリバリと働き続けました。
あれだけ母が仕事で頑張れたのは、
充電していた時間があったからかもしれないなぁと思います。
長い人生における充電期間は
悪くはないですね。