かつての乙女は武闘派に。
か弱き乙女時代
看護学生のころ、課題で障害者の本を読み作文を書くことがありました。私は元来、闘病記や障害者の本を読むことが苦手で、とんでもなく嫌でたまらないので、当時の彼氏(のちの夫)へ下請けに出し、課題を提出してもらいました。
「子どもに障害があることをが分かればどうしますか」という授業中のディスカッションでは、「中絶します」と回答していました。当時20代の私には、出産も障害者も未経験で、正直「怖い」という感情が先立っていました。「知る」ことが怖かったのです。
それ「か弱い乙女かよ!」と当時の私に、ツッコんでやりたいです。
荒波に放り出される
そんな私に知的障害を持つ子どもが生まれ、夫は専門書を買い込み勉強するように勧めてきました。しかし現実を受け入れられない私は、看護学校で学んだ知識以上に知ることを拒みました。健常な成長発達以外の子どもの成長なんて、想定外だったのです。「知る」のが怖かったのです。
そな私も夫が亡くなり、防波堤がなくなると、そうは言っていられなくなりました。息子が生まれて10年間、手付かずだったことに取り組まざるを得なくなりました。
それは知らないことばかりでした。だから勉強するしかありませんでした。これまで学びを忌避してきた自分の人間性の未熟さを思い知りました。夫の死をきっかけに、子どもの障害に正面から向うことができたのです。どうやら私は息子の障害を受容するまでに、10年の時間を要したということでした。
そんな私に「学生時代、嫌だ嫌だと言っていたから、〇〇が生まれたんじゃない?」と母が言いました。なるほどそういう考え方もあるのか。避けていることが巡っていきている・・・
避けていたことが巡ってくる現実
実は看護実習の時に「呼吸は健康なら普段意識しないことだけど、呼吸器疾患で、息をすることが苦しくなるって、つらいだろうな。絶対になりたくないな」と思っていました。その後、30代から私は喘息と診断されました。2度ほど誤嚥し呼吸ができなくなり、「このまま死ぬのかなぁ・・・」となったこともあります。
嫌だ嫌だと思ってきたものが、私に巡ってきているのです。皮肉なものです。そのように自分を顧みてから、私は変わりました。
嫌なことが起きると、ネットを検索し、図書館に走り徹底的に調べます。時に専門知識を持つ人を探して聞きに行きます。得れるだけの知識で武装した上で、
「かかってこいやー」とどっかのレスラーのように、立ち向かうイメージを持つのです。
かつての乙女は武闘派へ
「分からないことが不安を増長させるなら、1つ1つ調べて打ち消してやる!きやがれ!!」と武闘派の悪役レスラーに徹するのです。よく相談を打ち明けられることがありますが、自分ならどうだろうかと、徹底的に知識を深めるのです。そして諦めない。なんだかの突破口があると信じるのです。
しかし時に法律や制度など、どうしようもない壁にぶち当たったりすると、だんだん荒くれ者になっていくのです。オバちゃんからオッさんに・・・
「貴野さんは、人の悪口は言わないけれど、社会に吠えてるよね!」と友人に言われました。社会に吠えてるかもしれないけれど、穏健派の博愛主義者だからテロ活動なんてしないよん。
日常はか弱きアラフィフ
そんな私は、いまだに息子と大人気ない本気の喧嘩もしますし、朝晩の咳き込みがありますし、体調も良くはありません。それでも「生きていくしかない」のです。
呼吸が止まるまで、生き続けてやる。(当たり前やん!とまたツッコむ)
というところで、
本日はレタスの特売があるので、そろそろ買い物に出かけます。