《大宋伝奇之趙匡胤》あらすじ(全48話)<※中国歴史ドラマ>
あらすじ
【英雄・趙匡胤、五代十国の乱世に現る】
: 唐朝末年、農民が武装蜂起し、風立ち雲湧きあがり、世は乱れ始めた。そして軍中の叛将・朱全忠(朱温)が自立して皇帝を称した。西暦907年、朱全忠(朱温)は唐王朝を滅ぼし、後梁を建国した。これにより、五代十国の序幕が引き開けられた。狼煙が四方に起こり、群雄が政権を獲得しようと競争した。神州南北の至る所に、血生臭い風雨が漂い散り、中国はここに大割拠時代へと突入した。
: 西暦923年、河東節度使・李克用の息子・李存勗が後梁を攻め滅ぼし、後唐を建国した。後唐の国力は強く盛んであったが、二度の内乱が発生するなど政権は不安定だった。最後には、後唐明宗(李嗣源)の娘婿である武将・石敬瑭が契丹軍を引き入れて後唐を攻め滅ぼし、後晋を建国した。人民は塗炭の苦しみを味わい、文明は失墜。民衆の誰もが紛争の終結と天下統一を期待してやまなかった。中華の大地は、いつになったら再び繁栄と輝きを取り戻せるのか……!?誰も予想などできなかった。
: 西暦927年、洛陽夾馬営において、禁軍統領・趙弘殷とその妻・杜審萍の間に、芳しい香りに包まれた男児が誕生した。彼の名は香児。後の趙匡胤である。彼の誕生は、乱世を大いにかき乱すこととなる。西暦927年から20年後の西暦947年・後晋の武将・劉知遠が後漢を建国。その頃、成長し21歳となった趙匡胤は、胸に大志を抱きつつも、兵役にも就かず、何もせぬままうだつの上がらない日々を過ごしていた。やがて趙匡胤は、父・趙弘殷の命で、父の義兄弟である復州防御使の王彦超のもとに赴き、そこで難を逃れることにした。これにより趙匡胤は、親元を離れ、乱世に身を投じていくこととなる‥‥‥。
: 西暦948年、後漢の太祖・劉知遠が病死し、河中護国節度使・李守貞、鳳翔節度使・王景崇、永興節度使・趙思綰の三大重鎮が連合して、後漢に対して反乱を起こした。開封はまたしても上から下までの大騒ぎとなり、同時に盗賊が至る所に出現。盗賊たちは焼き・殺し・掠奪を次々行い、悪事の限りを尽くし、百姓は酷い苦しみを強いられた。
: 趙匡胤は、旅先において、戦乱で両親を失った梁京娘という女性に遭遇した。京娘は両親の仇討ちを願い、趙匡胤に助けを求めた。趙匡胤は、一度はその願い入れを保留したが、やがて王彦超と大きな賭けをした。戦乱で両親を失った娘を、故郷にまで送り届けられるか‥‥‥、王彦超は趙匡胤の賭けに乗り、資金を援助してやった。趙匡胤は、王彦超から与えられた資金を手に、京娘のもとに戻って、二人は義兄妹の契りを交わし、趙匡胤は京娘を故郷の永済県に送り届けることを約束。二人は旅を開始し、途中訪れた柴戸村において、後に義兄弟となる鄭恩や張瓊に出会った。
: 趙匡胤は、柴戸村で山賊退治に協力し、柴戸村を後にした。その後趙匡胤は旅路で重病に陥るも、華山・雲台観の陳抎老祖に命を救われた。趙匡胤と陳抎老祖は華山の頂上で熱く語り合い、趙匡胤は陳抎老祖から多くの深く大切な道理・教訓を授かり、大志の実現を強く胸に誓った。併せて趙匡胤は、高懐徳・張瓊・符昭寿・鄭恩の5人と、華山の頂上で義兄弟の契りを結んだ。
: その後趙匡胤・高懐徳・張瓊・符昭寿・鄭恩・京娘の一行は、華山を去って旅を続けた。そして京娘は、道中で偶然にも両親の仇である盗賊・王挡を発見。京娘・趙匡胤たちは、王挡の盗賊集団を倒し、頭領の王挡を捕縛。役所に王挡を連行して、王挡の罪を訴え、正当な方法で処刑し、京娘はついに両親の仇を討ち、恨みを晴らした。
: 王挡の盗賊集団には、王月虹という女性が捕らわれていた。彼女は後唐の武将・王饒とその妻・劉耘の娘であり、幼い頃に戦乱で両親を失い、道士として生活していたが、道観が王挡の盗賊集団によって襲撃された際、捕らわれの身になっていたのだ。王月虹は実は幼い頃、互いの両親が取り決めた趙匡胤との婚約者であり、片割れの玉佩が何よりの婚約の証だった。身寄りを失くした王月虹は、高懐徳・符昭寿によってかつての故郷・開封に送り届けられ、趙匡胤の家に身を寄せることになった。趙匡胤の母・杜審萍は、王月虹の経歴を聞き、また彼女の携帯品の玉佩を見て、すぐに彼女が趙匡胤の幼い頃の婚約者であることを悟った。杜審萍はひとまず王月虹を、趙家の養女として家に留め置くこととした。
: 一方趙匡胤は、京娘を故郷に送り届けた後、王彦超の推薦によって、後漢の大将軍・郭威のもとに身を投じることを決めるのだった。
【郭威、後漢を滅ぼし、後周を建国】
: 王彦超の推薦で郭威の軍に身を投じた趙匡胤は、適当な閑職に就くのを嫌い、敢えて一兵卒として働くことを望み、郭威の外甥・柴栄に気に入られて、その侍衛兵となった。その頃、後漢の重臣・白文珂の軍は、河中城の李守貞の軍を攻撃していたが、敵の激しい抵抗に遭い、戦線は膠着状態に陥っていた。後漢の皇帝・劉承佑(隠帝)は、大将軍・郭威を脅し、強く出兵を要請。これにより郭威軍は、不利な状況を承知の上で、李守貞との戦いに挑まざるを得なくなった。郭威の軍は、柴栄の提案した奇策や兵士たちの粘り強い戦いによってついに李守貞を打ち破り、李守貞は自害して果てた。郭威の軍は勝利の後、開封に凱旋。劉承佑は表向きこそ郭威をねぎらうも、心中ではひどく郭威のことを疑っており、郭威の軍が都を去った後、人質としていた郭威・柴栄の家族を皆殺しにした。
: 将軍・李弘義によって、「家族が皆殺しにされた」と知らされた郭威は激しく動揺。ほどなく、郭威軍の軍中から、劉承佑の密命を受けた間諜・郭崇が見つかった。劉承佑は、「郭威と柴栄が契丹と結託して謀反を企んでいる」と激しく疑い、郭崇を密偵として郭威軍に潜り込ませ、その動きを監視していたのである。劉承佑は郭崇に対して、「逆賊郭威・柴栄を殺せ」と密かに勅命を下していた。劉承佑は、宰相・蘇逢吉の言葉を妄信して疑心暗鬼になり、重臣である史弘肇・楊邠・王章を誅殺するなど、もはや皇帝としてまともな判断ができる状態になく、その猜疑の矛先は大将軍・郭威へと向けられていたのである。劉承佑の密勅の事実を知った郭威は大いに憤慨し、後漢への忠義を捨て、反乱の決意を固めた。
: しかし郭威が率いる兵はたったの3000である。一方で、後漢の都・開封には、5万人もの禁軍兵が控えていた。反乱を起こして開封に攻め込んでも、兵力・士気の差を考慮すれば、到底勝ち目はない。郭威・柴栄らの不安が拭い去れぬ中、果敢に優れた策を建言したのが、当時柴栄の侍衛兵に過ぎなかった趙匡胤である。趙匡胤は郭威に対して、劉承佑の詔書の一部を修正するように進言した、「『逆賊・郭威と柴栄を殺せ』という部分を、『逆賊である郭威・柴栄およびその配下の将軍たちを皆殺しにし、3000の兵を全て生き埋めにせよ』という内容に書き換えるべきだ‥‥‥」と。郭威は目を丸くしつつも、趙匡胤の献策を採用した。趙匡胤の献策の狙いは、兵士たちの怒りを煽り、士気を高めることだった。そして、その狙いはずばりはまった。郭威は郭崇に命じ、劉承佑の密勅を全軍の兵士の前で高らかに読み上げさせた。逆賊である郭家軍を皆殺しにしろ‥‥‥、この驚くべき皇帝の密勅の内容を知った郭威軍の将士たちは、激しい憤怒に駆られ、皆一斉に武力蜂起を叫んだ。
: 後漢の乾祐3年(950年)、郭威軍は後漢王朝に反乱を起こした。郭威は陣営で将士たちに黄袍を着せられ、形式的に皇帝に即位することとなった。郭威軍は一気に開封に攻め込んで、劉承佑は自害。後漢は僅か4年ほどで滅亡した。そして西暦951年、郭威は開封で正式に皇帝に即位。国号を周(後周)とし、年号は広順と改められた。
【柴栄と趙匡胤の絆】
: 郭威が即位し、後周が成立すると、趙匡胤は東西班禁軍行首という禁軍の将校となったが、退屈でやりがいのない職に不満を感じていた。やがて趙匡胤は禁軍将校の職を辞して、義兄弟の高懐徳・符昭寿とともに、澶州節度使・柴栄の赴任先である澶州に赴くこととなった。柴栄は、趙匡胤が「天下の英雄」と見込んだ傑物だった。趙匡胤と柴栄は、澶州の地で再会を果たし、二人は熱く志を語り合った。そして趙匡胤は柴栄を自身の主君と仰ぎ、固く忠義を誓った。
: 西暦954年、後周の太祖・郭威が崩御。遺言によって、郭威の妻の甥であった柴栄が跡を継ぎ、即位した。後周世宗である。年号は顕徳と改められた。趙匡胤は、柴栄の即位後、異例の3級昇進を果たし、鉄騎右廂都指揮使に抜擢された。柴栄に仕える古参の武将である虎捷左廂都指揮使・韓通は、急激な出世を遂げた趙匡胤に激しく嫉妬心を燃やしていた。また韓通の息子の韓珪も、趙匡胤に対して強い警戒心を抱いており、一計を案じて、趙匡胤の後周への忠義心を確かめることとした。
: なお、後漢の皇帝・劉知遠の弟で、劉承佑の叔父である劉崇は、郭威の打ち立てた後周政権に反対・対抗し、西暦951年に河東の地を拠点として北漢を建国していた。西暦954年、郭威が崩御し柴栄が即位して間もない頃、劉崇は遼国(契丹)の耶律璟(遼穆宗)と結託し、後周を攻撃した。柴栄は群臣たちと協議し、北漢・遼との戦いの対策を思案していたが、対策は上手くまとまらなかった。そんな中、禁軍の武将であった趙匡胤は、朝議において大胆にも柴栄の親征を提案し、自身も従軍することを柴栄に強く請うた。柴栄はこれを認め、親征を決意。大臣・韓通は息子・韓珪の策に則り、「趙匡胤を先鋒将軍とすべきだ」と提言。柴栄はこれを認め、趙匡胤は先鋒将軍として柴栄とともに北方に出陣した。
: 趙匡胤はまず、「高平の戦い」において北漢軍を大いに打ち破り、柴栄の危機を救った。高平城を制圧した趙匡胤は、柴栄の命に背いて城内の民の虐殺を厳禁し、無辜の民の命を救った。趙匡胤は勅命にこそ背いたが、その行いを大いに柴栄に誉められ、褒美として柴栄の愛馬である「火龍狗」を与えられ、併せて殿前都虞侯・厳州刺史に昇進した。「高平の戦い」の後、後周軍は北漢の都・太原を攻めたが、奇しくも陣中で疫病が発生し、敵の援軍も駆け付けたため、後周軍は撤退を余儀なくされた。
: 趙匡胤は、北漢との戦いを終え、意気揚々と開封の我が家に凱旋した。その頃、趙家では趙匡胤の婚姻についての問題が浮かび上がっていた。趙匡胤が旅の途中で救い実家に送り届けた娘・王月虹が、実は趙匡胤の幼い頃の婚約者だったからである。趙匡胤には当時すでに正妻の賀舒雅がおり、娘や息子もあった。だが王月虹は、趙家の旧友である王饒の家の唯一の生き残りの娘であり、両家は互いに正式な婚約を結んでいたのだ。それ故に趙家は、王月虹を決して粗略に扱ってはならなかったし、もし王月虹に辛い思いをさせれば、死んだ旧友の王饒・劉耘夫妻に申し訳が立つはずもなかった。当初趙匡胤は、正室の賀舒雅をそのままにした上で、王月虹を自身の側室に迎え入れようと考えていた。しかし趙匡胤の母・杜審萍は、「側室の身分では、大事な旧友の一人娘・王月虹に惨めな思いをさせる」と考え、なんとか王月虹を正室とし、本来の正室である賀舒雅を側室に格下げさせたかった。そこで杜審萍は、考えを巡らせて賀舒雅に相談し、「自ら進んで義姉の王月虹に正室の座を明け渡してやって欲しい」と彼女に頼み込んだ。賀舒雅はひどく衝撃を受け、屈辱と悲しみのあまり精神を病んでしまい、深刻な心の病で寝たきり生活になってしまった。
: 趙匡胤の家事は混乱に満ちた状態であったが、そんな中、西暦956年、「強国・南唐が、北漢・遼と結託して、後周を攻め滅ぼそうとしている」との情報が入った。柴栄は憤慨し、親征して南唐を攻撃。趙匡胤も、混沌とした家事を両親に任せ、柴栄の南唐遠征に付き従った。
: 後周軍は南唐の領内に入ると破竹の勢いで攻撃を進め、すぐに南唐の重要拠点・寿州に到着した。しかし後周軍は、寿州において南唐軍3万による空前の頑強な抵抗に遭い、苦戦を強いられた。そして寿州の戦いにおいて趙匡胤は、柴栄を庇って敵の矢を受け、脚に重傷を負ってしまう……。だが趙匡胤は一命こそとりとめ、寿州での療養中に、賢人・趙普と出会い、友情を結んだ。
: 後周軍が寿州で苦戦する中、滁州には7万の南唐の援軍が到着し、戦況はいっそう厳しくなった。趙普は趙匡胤に対して、「寿州を取らんと欲せば、まず先に滁州を除くべし」と進言し、背水の戦にこそ、活路が見出せるのだと説いた。そして、後周の先鋒軍3万は、滁州の南唐軍7万に決戦を仕掛けた。後周軍は皆勇敢に戦い、趙匡胤も、敵将・皇甫暉を討ち取り、敵将姚鳳を捕虜にするという大手柄を立てた。後周軍は結果として、倍以上の兵力差を跳ね返し、滁州を制圧。南唐軍は大きな被害を受け、将軍・林仁肇だけが2000の人馬を率いて廬州に撤退した。
: 趙匡胤率いる後周軍は続けて瓜州を攻めた。北漢と遼の軍は、破竹の勢いの周軍を見て南唐への救援を取りやめて、撤兵した。残った南唐の軍隊は必死に抗戦するも、苦戦。後周軍は南唐の瓜州を攻め落とし、南唐の東沛州水軍は甚大な被害を出し、撤退を余儀なくされた。南唐皇帝の李璟は完敗を認め、後周との和睦のために江州14州とその地の民22万6千の譲渡を決意。また李璟は林仁肇に命じて長江を守らせた。そして李璟は、直筆の詔書と軍需物資を徐鉉に持たせ、和平の使者として後周陣営に赴かせた。
: 一方趙匡胤・李重進の率いる後周軍は、陽山でも勝利を収め、敵の名将・陳承昭を生け捕りにした。趙匡胤・柴栄は陳承昭を説得して自軍に投降させることに成功。同時に、南唐の使者・徐鉉が後周の柴栄の陣営にやって来た。徐鉉は軍資金10万両、綿絹10万匹、銭10万貫、茶50万斤、米20万石、麦20万石を献上。また徐鉉は、江北14州の割譲、廬・州・蘄・黄の4州の、長江を境とした共同統治を提案。併せて、南唐皇帝は帝号を取り払い、江南国主と称し、後周の年号を使うこと、また毎年貢物を贈り、臣と称することも宣言した。そして徐鉉は、長江を国境とした後周・江南国両国の友好を強く願った。柴栄は、江南国国主・李璟の申し出を大いに喜び、「もはや君臣であり、家族も同然なのだから」と言って、江南国からの献上品をすべて返還した。
: 趙匡胤が戦地でめざましい活躍を遂げていた頃、趙匡胤の正妻・賀舒雅は鬱病で危篤状態に陥っていた。一方趙匡胤の父・趙弘殷は、勝利した後周軍の慰労のために寿州に赴いたのだが、その道中で重病に罹ってしまい、趙匡胤の駐在する滁州城に立ち寄ろうとした。その時分は夜中であり、それが趙匡胤を大いに困らせた。当時柴栄は各城に「宵禁令」(※戒厳令によって夜間の通行を禁止すること、夜間外出を禁止すること)を厳しく下していた。趙匡胤は、柴栄の「宵禁令」を厳守するために、重病の父・趙弘殷を極寒の城外に放置し、決して城内に入れなかった。翌朝趙匡胤は、いの一番に父を出迎えにいくも、趙弘殷はすでに病で亡くなっていた。趙匡胤は衝撃と悲痛のあまり、その場で倒れ込んでしまった。
: 趙匡胤は、柴栄に父の死を報告し、規律に則り葬儀を行うこととした。悲しみに暮れる趙匡胤ではあったが、ほどなく開封の実家に戻り、かつて復州の地で友情を結んだ賢才・沈義倫と再会を果たした。趙匡胤は、趙普・沈義倫という二人の優れた参謀を仲間に迎え入れ、大いに喜ぶのだった。
: それからまもなくして、危篤状態だった趙匡胤の正妻・賀舒雅が死去。趙匡胤は、賀舒雅の遺言により、ついに幼い頃の婚約者・王月虹と正式な婚姻を交わし、やがては男児にも恵まれた。
: 後周賢徳6年(959年)、後周世宗(柴栄)は遼国に親征し、かつて後晋の皇帝・石敬瑭が契丹に割譲した燕雲16州を奪回しようとした。殿前都虞侯・趙匡胤は、行営水路都部署の職を担当。後周軍の兵は瓦橋関まで進み、遼軍の守将・姚内斌らが投降。その後後周軍は、淤口関・益津関を制圧し、寧州・莫州・瀛州の3州も相続いで後周軍が占領した。しかし、陣中で柴栄が突然発病し、後周の大軍は都に戻らざるを得なくなった。
【柴栄の疑心】
: 重病に陥った柴栄の最大の懸念は、幼き皇太子・柴宗訓の将来のことだった。五代十国の乱世、幼帝が国を治め、天下統一の舵取りをできるほど、現実は甘くないからである。柴栄は病のせいで次第に悪夢にうなされるようになり、衰弱を強めていた。
: 一方、後周の重臣・韓通と、その息子の韓珪は、勢力を強める趙匡胤を激しく危険視し、一計を案じて趙匡胤を亡き者にしようと企んだ。韓通は、姚という姓の方士を買収し、姚道士とともに入宮して柴栄に拝謁した。姚道士はまず、病治癒のための祭祀を柴栄に勧めつつ、虚言で柴栄を欺き、「柴栄の悪夢に出てくる謎の人物が、趙匡胤の亡父・趙弘殷である」と暗示した。また姚道士は、「柴栄のことを何者かが呪詛している」と明言し、加えて「四角顔の大耳の男が、謀叛・皇位簒奪を企んでいる」と大ホラを吹いた。四角顔の大耳の男とは、趙匡胤の容姿の特徴とぴったり合致していた。柴栄はひどく疑心暗鬼になり、朝廷の中の、四角顔で大耳の重臣を次々と誅殺した。そしていよいよ、趙匡胤も柴栄の寝室に単身で呼び出された。趙匡胤は柴栄の詰問に遭い、最後は毒酒を飲まされ、失神した。ただ柴栄は、詰問に対して熱く理路整然と答えた趙匡胤の忠義心を強く信じ、毒酒を飲ませたことを後悔。すぐに解毒薬を与えて趙匡胤を解毒してやったので、趙匡胤はなんとか一命をとりとめ、翌日家に帰ることが出来た。趙匡胤の弟の趙匡義や、趙匡胤の部下である趙普・沈義倫・張瓊らは、趙匡胤が柴栄に毒殺されかけたことを知り、激しく憤慨。「活路を見出すには、事を起こすしかない」と考えるようになる。
: 趙匡胤の母・杜審萍は、息子・趙匡胤の身の安全を守るべく、一計を案じた。そして杜審萍は、柴栄の皇后・符茗の父という外戚の立場で、柴栄からの信頼が殊の外厚かった国公・符彦卿の協力を仰ぐことにした。杜審萍が考えた策は、符家との婚姻である。符彦卿は、疑心暗鬼に駆られる柴栄に対し、趙匡胤の潔白と厚い忠義心を説き、併せて、趙匡義と娘の符蓉の婚姻を提案して、柴栄の疑念を晴らすことに成功した。後日、趙匡義は兄趙匡胤と共に柴栄に謁見し、供奉官都知に任じられた。そして、趙匡義と符蓉の婚姻が正式に成立し、趙匡胤はひとまず身の安全を確保した。
: 一方、趙匡義と趙普は、柴栄亡き後、趙匡胤を皇帝に擁立したいと考え、協力し奇策を打ち立て、まずは趙匡胤に都の兵権を握らせることに努めた。まずその作戦の上で最大の障害となるのが、郭威の外甥かつ柴栄の娘婿(駙馬都尉)で、殿前都点検として皇城の兵権を握る張永徳だった。
: 趙匡義・趙普はまず、柴栄の側近宦官である王継恩を通じて、策を実行に移すこととした。王継恩は、本来趙家と親しい宦官ではなかった。だが王継恩は、かつて不注意で皇太子・柴宗訓を怪我させてしまい、柴栄によって処刑されそうになったところを、符皇后(符茗)の妹・符蓉の命乞いによって救われた過去があり、命の恩人である符蓉に深く感謝し、絶対の忠義を誓っていた。そして符蓉が趙匡義に嫁いだことで、趙家は王継恩との間に確かな連絡網を構築することが出来たのだ。
: 柴栄の皇后・符茗は、姚道士の提言に従い、夫・柴栄の病治癒のために、ある夜、祭祀を執り行った。祭祀はつつがなく終わり、符皇后は、宦官の王継恩に、「祭祀で使った祭器をすべて地面に埋めておけ」と命じた。王継恩は、命に従って祭器を土に埋めつつ、その際土の中から木牌を偶然掘りだしたふうを装い、すぐに柴栄に報告した。その木牌には、「殿検做」という3文字が刻まれていた。これは、「殿前都点検の職にある者が、皇帝に做(な)る」という意味を示すものだった。柴栄は大いに不安に駆られた。後晋の高祖・石敬瑭は、もとは後漢明宗(李嗣源)の娘婿(駙馬都尉)であり、殿前都点検の職にあったが、やがて契丹と結託して後漢に謀反を起こし、後晋を建国したのである。木牌が示す意味は、実際に起こりかねない危惧すべき事態だったのだ。柴栄は激しく不安に駆られ、疑心暗鬼になり、ついには張永徳を殿前都点検の職から外し、検校太尉・同中書門下平章事に昇進させた上で、併せて澶州節度使に任じた。柴栄は張永徳を澶州の地に左遷して、不安を取り払ったのである。趙匡胤は、張永徳の後任として殿前都点検の職に就き、皇城の禁軍の兵権を握ることに成功した。
: 趙匡胤は張永徳の送別に出向き、張永徳はついに開封を去った。趙匡胤に対抗しうる後周の将軍が一人消えたものの、趙普・趙匡義が懸念すべき最大の敵はもう一人残っていた。後周の太祖・郭威の娘婿(駙馬都尉)で、柴栄の従兄でもある李重進だ。李重進は、侍衛親軍司を統轄し、京城の禁軍兵12万を所有しており、その数は趙匡胤の所有する兵力を大きく凌いでいた。趙普・趙匡義は、柴栄の疑念を侍衛馬歩軍都指揮使・李重進へと向けさせ、李重進を都から排除したいと考えた。その願いは、趙匡胤の参謀・沈義倫も同様にあった。そこで沈義倫は一計を案じ、趙匡胤がおもむろに紙に書いた「李重進」という文字に「反」という一文字を付けたし、壁に貼り付けた。沈義倫の意図を汲み取った趙普も大いに賛同し、同様に「李重進 反」という四文字を紙に書き、壁に貼り付けた。この紙に書かれた「李重進 反」という四文字は、「李重進が謀反を起こそうとしている」ということを明示するものだった。趙匡胤は一計を案じ、趙普に命じて、密かに「李重進 反」と書かれた紙を、開封の街中に張り出した。騒ぎは大きくなり、柴栄の耳にも入った。柴栄は、大将軍・李重進の謀反の噂に再び疑心暗鬼になる一方で、病をますます悪化させ、遂には危篤状態となってしまった。
: 柴栄は臨終の間際、最期の力を振り絞っていくつかの遺言を残した。
: ①幼き皇太子・柴宗訓を次期皇帝とし、符皇后(皇太后)に聴政を命ず。
: ②符彦卿を太傅に任命して、宰相の魏仁浦とともに新帝を補佐させる
: ③韓通を同平章事に任じ、皇城と汴京全体の軍務を統轄させる。
: ④符彦卿と韓通を輔政大臣に任命する。
: ⑤侍衛馬歩軍都指揮使・李重進に、揚州刺史を兼任させる。そして李重進は、任地・揚州に赴いて、南唐軍の侵攻を防ぐこと。
: ⑥殿前都点検の趙匡胤は、帰徳節度使として宋州に赴き、地方の平安を監督し、守ること。
: また柴栄は万一に備え、重臣の韓通に「趙匡胤に謀反の兆し有れば、その一族を皆殺しにせよ」との密詔を残した。後周顕徳6年(959年)6月、5年半皇帝を務めた英雄・柴栄(後周世宗)は39歳の若さで世を去った。そして7歳の息子の柴宗訓(後周恭帝)が跡を継いで即位した‥‥‥。
【陳橋の兵変】
: 柴栄の崩御後、息子の柴宗訓が即位した。高懐徳は、柴栄の残した密詔の「趙匡胤に謀反の兆し有れば、その一族を皆殺しにせよ」との内容を韓通から知らされ、愕然とした。柴栄の死からまもなく、趙匡胤は帰徳節度使として宋州に左遷されることになった。輔政大臣の韓通は、都の軍務を取り仕切るなど強大な実権を握り、後周の有力武将である趙匡胤・李重進・張永徳を危険分子と見なし、盛んに符太后に讒言して、彼らを失脚させようと目論んだ。輔政大臣・符彦卿の懸命な説得により、趙匡胤はなんとか無事を保っていたが、冤罪をかけられ都に召喚されるのは時間の問題であった。高懐徳は宋州の趙匡胤のもとを訪れ、趙匡胤の身に危険が迫っていることを伝え、柴栄の密詔も暴露。そして、「天下の民のために、自ら決起するべきである」と強く説き伏せ、趙普・沈義倫もこれに続いた。しかしそれでも趙匡胤の後周王朝への忠義は固く、趙匡胤は、頑として高懐徳・趙普・沈義倫らの進言を聞き入れなかった。
: その頃、揚州刺史・李重進が北漢・遼・南唐と結託して反乱を企んでいるとの情報が大臣・韓通の耳に入った。韓通の息子・韓珪は、宋州の趙匡胤を監視し、彼に二心がないという確信を持ったので、「趙匡胤を李重進討伐軍の元帥にすべきだ」と父に提言し、韓通もやむなくこれに同意し、符太后に上奏して、趙匡胤を都に呼び戻すこととした。
: 一方揚州の李重進は、自分に謀反の疑いが着せられていることを知り、激怒。新帝・柴宗訓や符太后にほとほと愛想を尽かし、ついには後周に対して反乱を起こした。
: 都・開封に召喚された趙匡胤は、符太后によって殿前督検点に任命され、「元帥として軍を率い、李重進の反乱軍を討伐せよ」と厳命された。兵を率いて出発した趙匡胤は、揚州に兵を進めて李重進を攻撃しようとはせず、ただ都の西北の陳橋駅に駐屯し、事態を静観していた。輔政大臣の韓通と、御史中丞の劉温叟は、「趙匡胤に反逆の意思あるのではないか」と疑い、符太后に上奏。符太后は大いにこれを憂慮した。そこで韓通は、「趙匡胤の忠誠心を直接試してみるべきだ」と符太后に説いた。
: 都では、緊急に軍が召集され、劉温叟を勅使とする後周の派遣軍が、陳橋駅にいる趙匡胤の監視・偵察に赴いた。事態を事前に知っていた趙匡義は、兄趙匡胤に危険を知らせたが、趙匡胤は決して動揺しなかった。劉温叟は、符太后の用意した酒を趙匡胤に下賜し、それを飲むかどうかで、趙匡胤の忠誠を試すこととした。「下賜された酒は毒酒に違いない」と考えた趙匡義は、大胆にも兄の身代わりとなって下賜品の酒を飲もうとしたが、趙匡胤は落ち着いてこれを制止し、自らの口で、堂々と酒を飲み干した。劉温叟ら朝廷の勅使は、ひとまず趙匡胤の忠誠を信じ、陳橋駅を去った。幸い、酒に毒は入っておらず、趙匡胤の身体は無事だった。しかし趙匡胤は、何度も朝廷に疑われ、次第に国への忠誠が薄らぎつつあり、ついには趙匡義・趙普・沈義倫らの意見に従い、天下のために、自ら立ち上がろうという意志を固め始めた。
: 一方韓珪は、再度探りを入れ、趙匡胤に謀反の意思があるという確証を得て、なんとしてでも趙匡胤を誅殺しなければならないと考えた。韓珪の父・韓通も、趙匡胤の野心を信じて疑わず、策を用いて趙匡胤を殺そうと企んだ。折しも趙匡胤は、仮病を使っていた韓通を見舞うために、張瓊と二人でわざわざ陳橋駅を抜け出し、韓通の屋敷を訪ねて来ていた。韓通・韓珪の親子は、趙匡胤をもてなすふりをして、そのまま一気に趙匡胤を抹殺しようと考えた。しかし、韓通の家を訪れた趙匡胤は、韓通と熱く語り合い、意気投合。韓通はかつての趙匡胤との因縁を捨て、仲直りし、義兄弟の契りまで結んでしまう始末で、結局婦人の仁により趙匡胤に手を下せず、趙匡胤を無事に逃がしてしまった。韓珪は、危険分子・趙匡胤を誅殺する絶好の機会を失ったことを激しく後悔し、嘆いた。都から陳橋駅に再帰還した趙匡胤は、いよいよ決起に向けての準備を開始した。
: 一方趙匡胤を殺し損ねた韓珪は、それでもいまだに諦めきれず、宦官の王継恩を通じて符太后に密奏書を送った。その書には、「趙匡胤には明確な謀反の意志あり。もしこれを殺さねば、周王朝は滅ぼされ趙家の天下になってしまう‥‥‥」と書かれていた。符太后は驚愕し、側近宦官の王継恩に命を下した、「急ぎ符国公府に赴き、符彦卿・符昭寿親子に命を伝え、二人に禁軍兵を招集させて陳橋駅に赴かせ、逆賊趙匡胤の一党を皆殺しにさせよ」と。王継恩は拝命し、皇宮を出たが、符国公府の手前まで行って屋敷の中には入らず、そのまま恩人の符蓉がいる趙府へと急ぎ赴いた。王継恩から事情を知らされた符蓉は、都を出て、陳橋駅に急いで向かった。差し迫った事態を一刻も早く趙匡胤に知らせるためである。
: 陳橋駅の将士たちは、誰もが趙匡胤の即位を強く期待していた。一方趙匡胤は、信頼する重臣の趙普・沈義倫と密談を行い、ついに皇帝即位のための大芝居を打つことに決めた。趙匡胤は、後周に背き、天下のために自らが皇帝に即位することを決意しており、もはや迷いなどなかった。だが唯一の彼の懸念は、都に突入した自軍の将士たちが暴徒化することだった。都を攻撃した際、兵士が無辜の民に乱暴狼藉や略奪強姦を働けば、今までに反乱を起こした歴史上の逆賊たちとなんら区別がなくなり、趙匡胤の決起軍も所詮は不仁不義の逆賊になってしまう‥‥‥。趙匡胤は事前に参謀の趙普・沈義倫としっかり話し合い、決起の上で「約法三章」を軍規として固く制定することを取り決めた。一方で、趙匡胤の弟・趙匡義や武将の高懐徳・張瓊も、趙匡胤の擁立計画に向けて準備・相談を行い、来るべき明日に備えていた。
: そしてついに「陳橋の兵変」の当日となった。張瓊・高懐徳らの武将は、趙匡胤の即位を強く求め、趙普は、表向きこそそれに反対しつつも、張瓊・高懐徳らの意見が上手く展開するように進め、将士たちの「趙匡胤即位への待望」はますます強まっていった。そこで趙普は、決起に際して、「約法三章」の軍規を制定し、それを厳格に遵守することを将士たちに要求した。一部の将士たちからは、都攻撃の際に乱暴掠奪が出来ないことに対して不満の声が出たが、高懐徳の一喝により誰も「約法三章」に異は唱えなくなり、ついには将士が一丸となって、ただ「趙匡胤の皇帝即位」だけを強く願うようになった。高懐徳は、決起した趙匡胤の軍を迎え入れるために、一足先に開封に戻り、手はずを整えておくこととした。
: 趙匡胤擁立の声が全軍に轟く中、趙匡胤はいよいよ幕営から姿を現し、表向きは皇帝即位を固辞するそぶりを見せた。しかし趙匡義・張瓊・沈義倫らは、合図によって予め用意していた黄袍を趙匡胤に強引に着せ、趙匡胤の皇帝即位の既成事実はついにここにできあがった。それとちょうど同じ頃、趙匡義の妻・符蓉と宦官の王継恩が陳橋駅に到着し、符太后の密詔を公表した。その密詔には、「逆賊・趙匡胤とその配下の将士たちを全員誅殺せよ」と書かれていた。全軍は怒りに燃え、張瓊・呂余慶をはじめ、将士たちは皆口を揃えて、「反乱だ!!反乱だ!!」と大きく叫んだ。趙匡胤は、ここが頃合いであると見極め、ついに意を決し、全軍の願意を受け入れ、皇帝即位を宣言。そして趙匡胤は、将士たちに決起の上での軍令「約法三章」を下し、厳格に遵守することを要求した───。
: ①都の皇帝・柴宗訓は幼く無知であるが、かつての主君である以上、敬意は忘れず、無礼は働かぬこと。
: ②朝廷の文武大臣たちは皆、かつての同僚であり、兄弟のような仲であるのだから、決して無礼を働いてはならない。
: ③都の民は、実の家族も同然である。それ故、都突入後も、焼き・殺し・掠奪(※強姦も含め)などの不当な行いをしてはならない。なにより優先すべきは都の平安である。
: 趙匡胤とその臣下たちが起こした「陳橋の兵変」は、天下のために起きた重要な兵変であり、五代十国の頃に頻発した多くの兵変と較べ、本質的に大きく意味するところが異なっていた。まさに「陳橋の兵変」こそが、五代十国の乱世に終止符を打つ大きな転機になったのである。
: 趙匡胤は、幕舎において義妹の符蓉が手料理した縁起物の料理「鯉魚焙麺」を食べ、大いに勇気づけられ、出陣への決意をより強く固めた。趙匡胤は、沈義倫を使者として即刻汴京に送り、併せて張瓊に数万の大軍を与えて、汴京を攻めさせた。沈義倫は、朝堂において、群臣たちが注目する中、符太后と柴宗訓に対し、堂々と趙匡胤の皇帝即位を公表。そして、「天意に従い幼帝は趙匡胤に譲位すべきだ」と強く要求した。符太后は、悲惨な運命を大いに嘆いて止まなかった。宰相の魏仁浦は、もはや後周の命運が尽きたと悟り、沈義倫に味方して、「符太后・柴宗訓の身の安全のために、趙匡胤に皇位を譲るべきだろう」と提案した。一方、その他の重臣たち、特に御史中丞・劉温叟や、翰林院大学士・雷徳驤、輔政大臣・韓通らは激しく憤慨し、趙匡胤の即位を断じて認めず、沈義倫・魏仁浦を罵った。その頃、京城の各門を監督していた高懐徳は、張瓊率いる数万の決起軍の到来を知り、速やかに門を開け、決起軍を城内に引き入れた。反乱軍の城内乱入を知った韓通は、息子韓珪と共に急ぎ応戦の支度をし、趙府の使用人の女を一人斬り捨てた後、張瓊率いる決起軍と対峙した。韓通は、息子の韓珪に対し、「周室の旧臣を頼って再起を図れ」と命令し、戦場から韓珪を逃がした。韓通と張瓊の軍は乱戦状態になり、張瓊は「約法三章」を破り、韓通を誤殺してしまった。張瓊は韓通の身体を探り、柴栄の残した密詔を奪い取ると、京城に入った趙匡胤に急ぎ献上した。しかし趙匡胤は、張瓊が「約法三章」を破って韓通を殺害したことに激怒し、罰として張瓊を処刑しようとした。幸い趙普・符昭寿・高懐徳の必死な命乞いによって、ひとまず張瓊は牢に収監されたが、兵変に流血が伴ったことを、趙匡胤は強く遺憾に感じ、憤りはすぐに収まらなかった。
: 趙匡胤は都に入ると、京城内の騒ぎの鎮静化と人心の安定によくよく努め、兵変が起きたにも関わらず都は比較的平穏な状態を保っていた。ほどなく趙匡胤は、後周恭帝(柴宗訓)から正式に譲位を受け、名実ともに皇帝に即位。宋太祖の誕生である。趙匡胤は、符茗を周太后に、柴宗訓(後周恭帝)を鄭王に封じ、誓書鉄券を与え、洛陽で貴人としての暮らしを送ることを許した。後周の旧臣たちは、従来の官職を維持され、翌日以降も、いつも通りに参朝することを命じられた。
: 「陳橋の兵変」は成功し、五代十国の乱世は、終焉に大きく近づいた。趙匡胤は、かつての節度使としての任地である宋州の地名や、古代の歴史上の宋州の地の縁故にちなみ、国号を「宋」と改めた。ここに、約320年続く宋王朝の幕が切り拓かれたのである‥‥‥。
【宋王朝の黎明。二李の乱の平定】
: 趙匡胤は陳橋の兵変を経て、後周の柴宗訓から譲位を受け、正式に皇帝に即位。約320年続く宋王朝を切り拓いた。なお趙匡義は、兄・趙匡胤の即位に伴い、避諱のために趙光義と改名した。趙匡胤の即位は、殆どの文武百官から支持を得、政権は安定した状態を維持した。後周の宰相・魏仁浦が宰相の地位を引き継ぎ、趙光義・趙普・沈義倫・呂余慶・高懐徳・符昭寿・楚昭輔ら、その他官員たちの官職も順当に定められた。
: ただ、翰林院大学士・雷徳驤や、御史中丞・劉温叟は、後周王朝への忠義が異常なほどに厚く、趙匡胤の即位を謀反・簒奪であると認め、激しく批判した。左司員外郎・盧多遜は、岳父の劉温叟の頑強な態度を改めさせようと説得を試みたが、逆にひどい口喧嘩になってしまう始末だった。劉温叟は趙匡胤に服従するのを嫌い、澶州節度使・張永徳に密書を送り、趙匡胤の建てた新政権に対して反乱を起こすように要請した。
: 張永徳は、後周の駙馬都尉・大将軍であり、柴栄の命令で澶州に赴任していた。張永徳は、かねてより趙匡胤との親交があったので、劉温叟からの要請に悩みつつも、最後は、反乱を起こさずに趙匡胤に服属することを決意。自ら汴京に赴いて趙匡胤に謁見し、趙匡胤を主君と仰いで厚く忠誠を誓うとともに、劉温叟の密書の内容を告発した。趙匡胤は、反乱を扇動した劉温叟の罪を咎めず、後周の忠臣であるとして許した。劉温叟は、趙匡胤の寛大な心に強く胸打たれ、ついに恭順を決意。自ら勤政殿に赴いて趙匡胤に謝罪し、一件落着。趙匡胤は、劉温叟の帰順を大いに喜び、御史中丞&翰林学士に任命した。
: 趙匡胤は、給事中&端明殿学士の呂余慶を和平の使者として北漢・遼の両国に派遣した。呂余慶は趙匡胤の期待に応え、北漢の君主・劉鈞と遼の君主・耶律璟に対し、宋との和親の利を強く説き伏せ、無事両国との友好関係の構築に成功した。一方後周の有力将軍であった潞州昭義軍節度使の李筠は、新政権に抵抗し、宋に対して反乱を起こした。李筠の反乱軍は澤州に赴き、北漢の軍と合流。なんと北漢の君主・劉鈞は、最初宋との和親を約束しておきながら、一転して前言を翻し、李筠の反乱軍に協力したのである。北漢皇帝・劉鈞は、宰相の衛融とともに、5000の兵を率いて援軍にやって来ていた。しかし劉鈞は、味方した李筠側が非常に不利な状況にあると知り、2000の兵を率いて本国にとっとと撤退。宰相の衛融に3000の兵を預け、事態を静観した。趙匡胤は自ら大軍を率いて李筠の根拠地である澤州を攻撃。李筠は符茗と柴宗訓を利用して、各地の節度使に援軍を要請しようとしたが、符茗は李筠への協力・呼応を拒否し、宋王朝の利益を第一に考え、逆賊・李筠討伐の檄文を出すほどだった。李筠は激怒したが、もはや後の祭りであり、無勢で多勢の宋軍に抗戦するも、むなしく戦死した。趙匡胤は、北漢の宰相・衛融を捕虜とし、鞭と飴を用いて衛融を屈服させ、己の大志を説き伏せ、ついに衛融を宋朝の臣下に取り込むことに成功した。一方、澤州攻めにおいて手柄を立てた張瓊は、趙匡胤に功を認められ、侍衛馬歩軍副都指揮使&京城巡検に任じられた。
: 揚州の地で反乱を起こしていた李重進は、協力者と目論んでいた李筠があっけなく敗死したことに愕然。李重進は対応に苦心し、呉越国や南唐と結託して何とか宋朝に対抗しようとした。趙匡胤は、呉越国や南唐を味方に付けるべく、腹心の戸部郎中&翰林学士・沈義倫を商談・和平の使者として両国に派遣した。沈義倫は南唐に赴き、南唐の皇太子・李煜からの歓待を受け、南唐は宋との永遠の友好を約束した。沈義倫は続いて、呉越国に赴き、呉越国王・銭弘俶と丞相・沈虎子に対し、堂々と宋との和親を説き伏せた。呉越国王・銭弘俶は、李重進からの協力要請を受けどう対処すべきか悩んでいたが、宋の皇帝・趙匡胤の厚い誠意に強く胸打たれ、李重進への非協力・宋との友好を固く決心した。これにより呉越国は、信頼に足る宋の強力な味方となった。沈義倫は宰相の沈虎子を通じ、呉越国王から5千両もの黄金を与えられた。沈義倫はその全ての黄金を主君・趙匡胤に献上し、一切自身の懐には入れなかった。なお沈義倫は、帰路にて目の当たりにした揚州・泗州(※南唐の旧領だが、その後後周の領地に編入されていた)の被災民の救済こそが焦眉の急であると趙匡胤に説き、呉越国から与えられた黄金ならびに軍の食糧を用いるように勧めた。趙普・魏仁浦はそれに反対したが、趙光義は沈義倫の献策に賛同し、救民が何よりも大事だと説いた。趙匡胤は沈義倫・趙光義の意見に賛同し、急ぎ被災民救済を進めること決定。趙匡胤は沈義倫を才徳兼備で民想いの稀に見る良臣であると大いに称賛した。
: 一方、韓通の息子・韓珪は、父の仇討ちと後周王朝の再興のため、李重進の反乱軍に身を投じた。李重進は知勇兼備の韓珪の投降を大いに歓迎し、二人は宋に対抗するための策を練った。一方趙匡胤は、なんとか穏便に李重進を服従させたいと考えていた。枢密直学士&左諫議大夫・趙普は親友の吏部郎中&右諫議大夫・楚昭輔を揚州への使者に推挙し、彼に「揚州で内応工作を働くように」と促した。
: 楚昭輔は揚州の李重進のもとに赴き、趙匡胤の詔書を伝えた。詔書の内容は以下の通り‥‥‥、「仁徳を広く施すことこそ、すなわち黎民の福である。また君臣が心を同じくすることこそ、すなわち国家の幸である。今、李重進のかつての顕著な功績や社稷への貢献を思い、特別に『誓書鉄券』を授け、その忠誠を表彰する。そして李重進の従来の侍衛馬歩軍都指揮使・加官太傅の職を免じ、新たに平盧節度使に任じ、即日青州に移動させる。その途上、都入りし、皇帝に謁見せよ」。
: 李重進は趙匡胤の勅書を拝命し、趙匡胤の命に応じるかを悩むも、韓珪らに、「趙匡胤に従ってはならない」と強く諫められた。一方で楚昭輔は、李重進の腹心の武将・安友規に内応工作を仕掛け、安友規を密かに買収しようとした。安友規は楚昭輔の内応工作に応じつつ、楚昭輔から受けた密談を主君・李重進に密告。李重進は怒り、楚昭輔を殺そうとしたが、裏切ったはずの安友規に命を助けられ、安全な場所に匿われた。安友規は、主君李重進或いは宋の皇帝・趙匡胤、そのどちらに就くか迷い、優柔不断な心境になっていたのである。
: 楚昭輔の失踪を知った宋の朝廷は動揺。趙光義は、趙匡胤に対し、「大臣・廬多遜を密偵として揚州に潜り込ませ、揚州監軍の安友規に内応工作を仕掛けるべきだ」と説いた。趙光義は、自身の信頼する腹心の盧多遜に活躍の機会を与え、手柄を立てさせようと目論んだのである。安友規は廬多遜の旧友であり、人選としては最適だった。趙匡胤はこれを許可し、廬多遜を密かに揚州に派遣した。乞食に身をやつした廬多遜は、安友規のもとを訪ね、宋に寝返るよう強く説得した。安友規は、廬多遜の説得を受け入れ、宋への投降をついに決断。匿っていた楚昭輔や自身の家族全員を連れ、乞食の変装をして揚州を脱出し、急ぎ汴京に赴き、趙匡胤に謁見した。趙匡胤は、命の危険を冒して大功を立てた廬多遜を褒め、翰林学士に昇進させた。また趙匡胤は、安友規の投降を大いに喜び、彼を滁州刺史に任命し、揚州攻め(李重進討伐)の先鋒を務めさせることにした。
: 一方李重進はいよいよ決意を固め、全軍をもって挙兵し、宋に対して反乱を起こした。趙匡胤はもはや武力行使せざるを得ないと考え、大軍を率いて親征し、揚州の李重進討伐に赴いた。揚州城の城壁の手前に兵を進めた趙匡胤は、敵将・韓珪の弩が放った強烈な勢いの矢に射られそうになったが、寸でのところで張瓊に助けられ、無事を保った。やがて、呉越国王・銭弘俶は、自ら2万の援軍を率いて、宋の揚州攻めに協力した。趙匡胤は、呉越国の援軍を大いに喜び、自ら陣頭指揮を執ろうとしたが、周囲に諫められ仕方なく取りやめた。宋の8万の軍と呉越国の2万の軍を合わせた10万の大軍は揚州城を厳重に包囲し、李重進の軍は一気に苦境に陥った。李重進は、夜襲を仕掛けて窮地を打開しようとしたが、それも失敗に終わった。李重進は窮地を脱するべく、一縷の望みを賭け、100の騎兵を与えて韓珪を南唐の都・金陵に派遣し、江南国国主・李璟に再度救援要請を行うこととした。
: 李重進は当初、江北十四州を餌に南唐に協力を依頼していたが、賢明な江南国国主・李璟は、あくまで状況の静観に徹していた。李重進によって派遣された韓珪が、再度南唐に救援要請を行ったが、李璟は李重進側の形勢不利を明察し、救援を拒否した。そして宋軍は揚州城に猛攻を仕掛け、ほどなく揚州を制圧。李重進は戦死した。高懐徳・張瓊・符昭寿ら武将たちは、趙匡胤に対し、「揚州制圧の勢いに乗じて南唐を攻めるべきだ」と提案したが、趙匡胤はそれを容れず、軍を汴京に引き返した。趙匡胤は、都に帰還した後、疲労のあまり、病に倒れてしまった。趙光義や符蓉は、趙匡胤の病によって、少しずつ、彼の後継者のことを意識しだすようになった。病に苦しんでいたのは、趙匡胤だけではなかった。宰相&枢密使&右僕射の魏仁浦は、病を理由に辞職を願い出ており、後任の宰相に趙普・呂余慶・沈義倫を推挙し、枢密使の地位は趙普に引き継がせるべきだと勧めた。趙匡胤は、ひとまず魏仁浦の宰相職を維持し、一方で枢密使の職を解いて負担を軽くしてやり、新たに趙普を後任の枢密使に任命した。趙普は自身の腹心の部下である李崇矩を推薦し、李崇矩は枢密副使となった。
【文治主義への転換】
: 京城巡検の張瓊は、ある夜の巡邏職務の最中に宰相・魏仁浦の家に押し入り、大騒ぎを起こし、魏仁浦に強引に酒を迫った。魏仁浦は大いに憤り、趙匡胤に張瓊の横暴を報告した。趙匡胤は激怒し、張瓊を厳罰に処そうとしたが、慌てた魏仁浦が懸命に張瓊のことを取りなし許しを乞うたので、張瓊が宰相府に直接出向いて魏仁浦に誠意を持って謝罪することで、事件は一件落着となった。張瓊は京城巡検の職を解かれ、侍衛馬歩軍都指揮使の職に専任することとなり、俸禄1年分を没収された。
: 趙匡胤は、武断政治から文治政治への転換、科挙の強化を当面の急務と考えていた。ある日趙匡胤は、趙光義・王継恩と共に「微服私訪」を行い、街で民情を視察した。その際趙匡胤は、偶然大臣の太府卿・衛融に出会った。趙匡胤は衛融に対して問うた、「ある者は、『武将の権力を削減し、文官が主導で治国を行えば、天下の民百姓は皆安心し幸せになれる』と言うが、君はこれに関してどう思うかね?」と。衛融は答えた、「かつての五代を顧みると、最初の梁国と先の後周王朝を除いて、唐国の李存勗・李嗣源・李従珂の三帝、晋国の石敬瑭・石重貴の二帝、漢国の劉知遠・劉承佑の二帝、彼らの父系の先祖は皆、西域沙陀部の人間であり、姓氏さえも持ちませんでした。彼らは中原に入った後、漢人の姓氏を使用し始めました。彼らは文を軽んじ武を重んじた結果、一時の強盛を成し、国を建てることこそはできたものの、国自体はすぐに滅びてしまったのです。私の旧主君の北漢皇帝劉崇と劉鈞も、沙陀部の人間ではありましたが、漢文化の重要性を知っていました。陛下は天下統一の大計以外に、文治の重要性を熟慮し、策を講じるべきでしょう。文治を発展させることが、中原を振興し、末永く国を統治するための根本的な計略となり得るのです‥‥‥。」と。また衛融の言に続き趙光義も、前漢の陸賈と劉邦の故事を例に出し、陸賈が残した「馬上で天下を取れても、馬上で天下を治めることはできない」の名言を指摘し、趙匡胤に対して、文治政治の重要性を説いた。衛融は趙光義の言に賛同し、続けて意見を述べた、「朝廷が改まり、代が移り変わるとき、武力を用いて皇権を奪取することは致し方ないでしょう。ですが絶対に武力で国を治めてはなりません。先の歴史上の梁・唐・晋・漢・周の教訓がそれを強く表しています。」と。趙匡胤は、衛融・趙光義の二人の意見を聞き、大いに喜んだ。そして趙匡胤は、「我が大宋は、民をもって国の根本とし、文をもって国を治め、武をもって国を安んじ、仁をもって天下を治めることを国是としよう」と表明した。
: 趙匡胤は、自身の子どもたちの教育にも力を入れ始め、自身の師匠である辛師傅を教育係につけた。趙匡胤の娘の趙媖媖と趙婷婷は学問に熱心で定着も早かったが、皇長子の趙徳昭は極端に勉強嫌いで遊び好きであり、不真面目な性格だった。趙匡胤は趙徳昭を厳しく叱りつけ、反省を促した。そして趙匡胤は、早くも自身の後継者問題に関して、少しずつ不安を抱くようになった。
: 趙匡胤は、文治主義への転換、「右文抑武」の基本国策を文武百官に宣言し、併せて誓碑殿を建立し、殿内にとある石碑を秘密裏に建立した。その石碑には、3つの守るべき重大な決まりが書かれていた。
: ①柴氏の子孫が罪を犯しても、罰を与えてはならない。万一柴氏の子孫が叛逆を企てた時に限り、該当人物を投獄し、自害を命じることは出来るが、それでも処刑だけは行ってはならない。
: ②文官や読書人の言論の自由を許し、その言に咎があっても処刑してはならない。
: ③宋の皇位を継ぐ趙家の子孫は代々この決まりを遵守しなければならず、掟に背けば天罰を受ける。
: 趙匡胤は礼部の官員に命じ、「代々の即位した新皇帝は、誓碑殿の誓碑を一人で拝み、石碑に刻まれた掟を遵守すること。誓碑殿の誓碑は皇帝以外盗み見てはならない。」という重要規定を作らせた。
: 建隆2年(961年)正月が訪れた。国中はお祝いの雰囲気に包まれ、趙匡胤は崇元殿で大臣たちに謁見し、宮中で醸造した美酒を特別に大臣たち皆に振舞い、無礼講として直言を許した。そんな中、翰林学士・雷徳驤は、無礼講をいいことに、朝堂において大衆の前で堂々と先の後周王朝を懐かみ、反詩を読んで見せ、場を一気に凍り付かせた。雷徳驤は、張瓊の命によってその場で捕らえられた。翰林院学士承旨・陶谷と、御史中丞・劉温叟は、「不敬罪を犯した雷徳驤を厳罰に処すべきだ」と説いた。趙匡胤は、雷徳驤の態度に内心激怒し、雷徳驤を処刑したいと考えたが、あえて雷徳驤の罪を問わず、家に送り返してやった。趙匡胤は、文官の言論の自由を許し、文治の国策を推し進めるという信念を固く維持するために、一時の怒りを堪えて大局を重んじ、雷徳驤を許したのである。
: 一方趙匡胤は、内政だけでなく天下統一の覇業にも意識を向け始め、趙普・趙光義らと議論を交わした。宋は西暦961年の時点では開国から1年程しかたっておらず、周囲には、北漢・遼・党項・後蜀・南漢・武平・南平などの諸国を敵として抱えていた。趙匡胤は、遼の軍事力を強く恐れており、宋軍はとても遼に敵わないとすでに明察していた。北漢を相手にすれば、その友邦でもある遼国を敵に回すこととなり、とても勝算はない。奇襲を仕掛けて速戦速決に徹すれば、北漢を滅ぼせぬこともないが、北漢という緩衝国を滅ぼせば、宋は嫌でも遼とより広く国境を接し、遼はますます大きな脅威となり、宋・遼両国の直接的な対立は絶対に避けられぬこととなる。遼との激突は、趙匡胤がなによりも強く危惧していることだった。そこで趙匡胤は、「先に南を制圧し、その後北を制圧する」という「先南後北」の天下平定の大計を打ち出し、趙普・趙光義もこれに賛同した。また趙匡胤は民の暮らしの安定にも強く心を砕いていた。趙匡胤は各地に詔書を出し、「開墾を奨励し、税賦を軽減し、被災地の救済に尽力すること」を公表。加えて地方の官員にも詔書を出し、「官吏は民の暮らしの安寧を第一に考え、父母官としての役目を果たせ。もし民を粗末に扱えば、その者の職を解任する」と厳命した。
: さて、趙匡胤・王皇后(王月虹)は、10年以上前に別れた京娘のことを懐かしみ、捜し出して宮中に呼び寄せることとした。そして必死の捜索の末に、京娘はついに見つかった。京娘は宮中に招かれ、皇帝となった義兄の趙匡胤と感動の再会を果たした。
: 京娘は、両親の仇討ちを成した後、汴京に赴き、張という男に嫁ぎ、ほどなくして汴京を離れ、山村に移り住み、張闖という男児を産んだ。だがその幸せも束の間、京娘の夫の張は戦死してしまった。夫を亡くした京娘は、約1年の間、女手一つで息子の張闖を育て、日々慎ましく生きていた。そんなところを趙匡胤に見つけ出され、宮中に招かれたのであった。京娘は入宮して王皇后や杜太后に謁見し、正式に杜太后の養女&趙匡胤の妹となった。趙京娘は、義兄・趙匡胤によってすぐに燕国長公主に封じられた。趙光義の妻・符蓉は、夫の趙光義が親王に封じられないうちから、血縁のない京娘が公主に封じられたことを恨めしく思い、不満を垂れた。趙光義はすぐに強く符蓉をたしなめたが、自分自身も、内心では親王に封じられることを強く望んでいた。
: 趙匡胤と王皇后(王月虹)は互いに深く愛し合い、信頼し合っていた。王月虹は、皇帝として仕事に明け暮れる夫・趙匡胤に日々寄り添い、優しく励まし、進んで相談にも乗った。宰相・魏仁浦は、「皇室の繁栄のために後宮に他の嬪妃も置くべきである」と説いたが、趙匡胤は理由を付けてそれを受け入れなかった。なぜなら趙匡胤は、王皇后(王月虹)ただ一人だけを深く愛してやまなかったからである。
: 趙匡胤と王月虹の二人は、趙京娘を張瓊に嫁がせようと考え、好意でどんどん婚姻の計画を進めた。京娘は趙匡胤のことを強く恋い慕っており、他の男性には嫁ぎたくないと考えていたが、趙匡胤・王皇后・杜太后の好意や期待を無碍にすることはできず、張瓊との結婚を受け入れた。その後、張瓊と京娘は婚礼を挙げ、正式に夫婦となった。初婚の夜、京娘は、義兄・趙匡胤への叶わぬ愛情に胸を締め付けられ、一人涙を流していた。張瓊も無論、京娘の本当の気持ちは深く分かっていた。張瓊はただ、不器用なりに、苦しむ京娘を温かく慰めてやることに力を尽くすのだった‥‥‥。
: 開封府尹・沈義倫は、趙匡胤の定めた文治の国策に従い、文廟・武廟を建立し、併せて国子監の修繕も完了させた。趙匡胤は大臣たちと共に国子監の建物に赴き、孔子廟にて礼拝。国子監の学生を大いに激励し、「将来国の大任を担う人物になるように」と強い期待を掛けた。次に趙匡胤は武廟に赴いた。武廟には、張良・姜子牙・孫臏・白起らが祀られていた。趙匡胤は、孫臏を見ると不機嫌になった。その理由は、孫臏の兵法に記載された計略・手段が悪辣・残忍にして不仁であり、孫臏が廟に祀るような聖人ではなかったからだ。また趙匡胤は、白起も名指しで批判した。白起はかつて、40万の捕虜を生き埋めにした不仁不義の残忍な武将である。仁による統治を重視する宋王朝が、このように残虐非道・不仁不義な武将を武廟に祀る訳にはいかなかったのだ。趙匡胤は、孫臏・白起の両名をすぐに廟内から撤去するように命じた。そして趙匡胤は枢密使・趙普に対し、歴代の名将の経歴を念入りに調べさせ、武廟に祀る武将をしっかり厳選するように命令を下した。
: 翌日沈義倫は、勤政殿を訪れ、趙匡胤に対して進言した、「文を重んじんと欲せば、必ず先に武を抑えよ」と。趙匡胤はその言に理解を示しつつも、「天下統一を成し遂げていない以上、武を軽んじることは出来ない。文武両用、これが目下の最善策である」と説いた。沈義倫はその言に一定の理解を示しつつ、趙匡胤に対して、「天下の利益のために私心を捨て、『結義兄弟』を贔屓しないように」と強く説いた。趙匡胤の結義兄弟は、皆武将だった。趙匡胤が結義兄弟を贔屓し、甘やかせば、その他の大臣・文官たちから非難の声があがるのは必然で、それがひいては趙匡胤の主導する文治への転換にも悪影響を及ぼすことになるのは目に見えていた。そして沈義倫は、「趙匡胤と王皇后が、張瓊と趙京娘の婚姻を主宰したこと」を明確に批判し、その行いが適切でなかったと断言した。沈義倫の実直な諫言を趙匡胤は大いに喜び、美酒を特別に与えて褒賞とした。また沈義倫は、趙匡胤に対して、国の根本である司法を重視するように説き、公正実直で優れた人材を百官の中から選出し、「判大理寺事」に任命するよう促した。趙匡胤はその意見に納得し、翰林学士・雷徳驤を判大理寺事に抜擢することを提案。沈義倫は趙匡胤の人選に強く賛意を示した。
: 枢密使・趙普も、沈義倫と同様に、兵権を握る禁軍の武将たちに強い危機感を抱いていた。殿前都点検・高懐徳や、侍衛馬歩軍都指揮使・張瓊、侍衛馬歩軍副都指揮使・符昭寿らは、禁軍の兵権を握る有力な武将であり、皆趙匡胤と固い絆で結ばれた義兄弟だった。趙普は、なんとかして彼らの兵権を取り上げたいと考え、一計を案じ、仮病を使って趙匡胤の注意を引き付けた。趙普の病を知った趙匡胤は、趙普の家に直々に見舞いにやって来た。趙普はその機会を利用し、「自身が心の病であり、それを治すためには目下の大きな不安を取り除くしかない」と趙匡胤に対して説いた。そして趙普は、「本来一番信頼できそうな、禁軍の兵権を握る武将たちこそが、実は最大の危険分子である」と趙匡胤に対して強く訴え、「危険な武将たちを排除するように」と必死に請うた。趙匡胤は高懐徳・張瓊ら自身の義兄弟の忠誠を深く信用しており、「彼らに二心などない」と信じて疑たこともなかったが、趙普の諫言を受け、一抹の不安が心に宿りはじめた。
: 趙匡胤は不安になり、信頼できる実の弟の趙光義を勤政殿に呼び出し、趙普の諫言した内容に関し、腹を割って相談した。趙光義は、趙普の意見に賛同し、開国後に功臣を粛正した劉邦を例えに出した。趙匡胤は、「自分は決して劉邦のように功臣を粛正したりはしない」と断言したが、事は極めて重大であると考え、趙光義を趙普の屋敷に派遣し、よくよく相談させることにした。趙普と趙光義は、腹を割って話し合い、策を練った。そして「武将たちを排除できなくても、最低限彼らから禁軍の兵権を取り上げることができれば合格だ」と考え、一計を案じ、科挙にかこつけて武将たちを粛清しようと目論んだ。
: 建隆2年(961年)、宋朝が創立して最初の科挙が行われることとなった。趙普は科挙の主考官に翰林院学士承旨・陶谷を推挙。趙匡胤は、陶谷の品性の卑しさを疑い、その人選に賛意を示そうとしなかった。しかし趙普は、陶谷の確かな能力を説き「重用せずとも用いることはできる」と趙匡胤に対して訴えた。結果、趙匡胤は趙普の進言を受け入れ、翰林院学士承旨・陶谷と、翰林学士・廬多遜を第一回科挙の主考官に任命した‥‥‥。
: 翰林院学士承旨・陶谷は、出世欲・物欲が非常に強い男で、品性の卑しさは周知であった。ただ陶谷は、学識に優れ、したたかな性格であり、趙匡胤の即位式の際は、自ら率先して詔書を起草。その功で、宋に王朝が移り変わっても翰林院学士承旨の職を維持し、官界での高い地位を保っていたのである。
: 宋朝第一回の科挙の主考官に任命された陶谷は、推挙者の趙普によって「くれぐれも不正なく努めるように」と釘を刺されていた。しかし陶谷は、裏で受験者およびその親族から多くの賄賂を受け取り、自身に袖の下を渡した受験生を、不正に優先的に合格させようと目論んだ。科挙における不正は、「公薦」と呼ばれ、科挙の歴史が始まって以来、後が断たなかった。況や、欲深い陶谷が、不正なく主考官を務めろといわれても、無理な話であったわけである‥‥‥。
: さて、もう一人の主考官・廬多遜は、都虞侯・趙光義の推挙によって主考官に抜擢された大臣である。廬多遜は、度々自分に目をかけてくれた恩人・趙光義に対して深く感謝しており、強く忠誠を誓い、その腹心の部下となっていた。また廬多遜にとって陶谷は、自分が進士に合格した際の主考官であった。廬多遜自身は優れた賢才だったので、不正をせずとも試験に合格したのだが、自分が科挙に合格した際の主考官ということだけあって、陶谷にはなにかと世話になっており、廬多遜は陶谷のことを「恩師」と呼んで慕っていた。趙光義は、陶谷の声望が芳しくないことをよく知っており、「陶谷には表だけ敬意を向けて、その実は距離を置くように」と廬多遜に忠告した。廬多遜は、趙光義の言いつけに従い、陶谷の悪事・不正に決して加わろうとしなかった。しかし陶谷があまりにも自信ありげに強く説得したため、廬多遜も半ば強引にその不正の「ぐる」にさせられる羽目になった。
: 開封府尹・沈義倫は勤政殿に参内し、趙匡胤に上奏した、「こたびは我らが大宋第一回の科挙であり、利害関係は重大で、意義も非常に大きいと思います。陛下も無論十分に科挙のことを重視なされているとはいえ、臣はやはり心配でなりません。臣の心配は『公薦』なる現象が起きることであります。陛下はご存知ないかもしれませんが、歴代の王朝の科挙には、皆等しく『公薦』というものがありました。これは大臣たちが、主考官に対して賢能の士を推挙することであります。ですがこれらの大臣は、大抵自身の親類や友人を推薦し、しかも推薦のときは、往々にして手厚い礼物を贈ります。」と。趙匡胤は驚き言った、「それではまるで、主考官を賄賂で買収し、進士の称号を買うのと同じではないか!!」と。沈義倫は「まさしくその通りであります」と述べ、さらに言を続けた、「歴代王朝の進士は、多くが役人の家の出身であり、本当に合格者としての資格がある者は、あまり多くありませんでした。また一方で、貧しい家の出身の進士は、数こそ少ないものの、往々にして真の学識を備えており、国家の棟梁の才となり得る者が多いのです」と。
: 趙匡胤は沈義倫の忠言に強く賛意を示し、宰相の魏仁浦を勤政殿に召した。趙匡胤は魏仁浦に対して言った、「科挙は公正を期してこそ、天下の人心を得られるものである。しかし朕が聞くところによると、先の王朝より久しく、所謂『公薦』なるものがあるそうではないか!?これは試験を腐敗させ、賢才に蓋をしてしまうこととなる。本朝においてはこれを絶対に許してはならない。悪しき風潮を是正するべく、朕に一つの方法がある。『今回の科挙において、大臣たちの子弟は皆受験してはならない』と決めるのだ。大臣の子弟は、官吏になるのがそれほど難しくない。どうして貧寒の士と科挙において争う必要があるだろうか!?すぐに詔を出して天下に宣布しよう」と。魏仁浦は拝命した。しかしその結果、魏仁浦は息子の魏昊の受験機会を奪ってしまうことになる。だが天下の利益のために、私情を捨て、公を優先するのは致し方のないことだった‥‥‥。
: 趙匡胤の「大臣たちの子弟は皆受験してはならない」との詔が宣布され、廬多遜は大いに焦った。賄賂はすでに受け取っているのに、大臣たちの子弟が受験できないとなれば、合格させてやるすべもないからである。しかし陶谷は少しも動揺せず、一切悪びれる様子もなく、巧妙なやり口で密かに不正を完遂しようとした。
: さて、第一回の科挙はひとまず無事に終わった。主考官・陶谷は進士(合格者)名簿を密かに改竄し、廬多遜とともに参内して、趙匡胤に進士名簿を提出して、承認を求めた。しかし趙匡胤は、腹心の趙普による探り・監視を通して事前に主考官・陶谷の不正を熟知していた。趙匡胤は陶谷・廬多遜の二人に対してひどく怒りつつも、特別に陶谷の顔を立てて、悔い改めてやり直させる機会を与えることにした。陶谷は、自分の不正がばれて激しく焦り、保身のために、賄賂を贈ってきた受験生とその親族たちを全て裏切って、もとの正しい進士(合格者)名簿に戻し、公表することとした。これにて陶谷の科挙不正は失敗に終わり、宋王朝の第一回科挙はなんとか不正によっての腐敗を免れた。
【趙匡胤、武将らと酒を酌み交わし兵権を解く】
: 第一回科挙は無事に終わった。しかし、趙匡胤は増長する武将・武官たちに対して危機感を募らせており、趙光義や趙普と一計を巡らし、自身の結義兄弟をはじめ、武将・武官たちに特別な殿試を受験させることにした。張瓊・符昭寿・鄭恩は、武人一筋で、字すらまともに読み書きできず、教養に乏しかった。高懐徳は、趙匡胤の主宰する殿試には自分たちの生死がかかっているかもしれないと考え、義弟たちをたしなめ、「試験までのわずかな期間、しっかりと勉強して最大限準備するように」と促した。一方、趙光義・趙普を筆頭に、朝廷の文官たちは、趙匡胤に対して「増長する武官たちを粛清するように」と強く訴えていた。趙匡胤はその訴えに理解を示し、「明日の殿試で不合格になった武官は誅殺する」と宣言した。殿試に生死が掛かっていると知らされた高懐徳・張瓊・符昭寿・鄭恩ら武官たちは皆大いに驚き、戦々恐々とした。
: そして、趙匡胤の主宰のもと、陶谷・廬多遜が主考官となり、武将たちを対象とした殿試が行われた。趙匡胤も、武将たちに混ざって殿試を受験することにした。試験の科目は、詩・賦である。試験開始後、武将たちの多くは難解なお題に苦戦した。受験者の中には、不正行為をしようとしてばれ、連れ出される者や、難解のあまり体調不良になる者もいた。そんな中、試験はひとまず終わり、しばらくして採点も終わった。そして、まず先に落第者の名前が読み上げられた。落第者は、張瓊・王坤・李崇矩・劉廷譲・符昭寿・石守信・鄭恩・韓重斌・高維・馬彦である。枢密使・趙普は、落第者を捕らえて殺そうとしたが、趙匡胤は待ったをかけた。そして趙匡胤は陶谷・廬多遜に対し、「落第者がこれだけのはずがない。朕の成績はどうなのだ?」と問うた。陶谷・廬多遜は「陛下の答案は大変素晴らしく、科挙の首席である状元・探花・榜眼の位をも超越している」と答えた。しかし趙匡胤は「試験の規則によれば、字数不足の者は皆一律に不合格のはずだ」と言い、自分の答案を皆の前で詠みあげさせた。すると、規定の文字数である300字には程遠い、たったの20文字しか書かれていなかった。陶谷と廬多遜は、主君・趙匡胤を落第者扱いすることを畏れ多く感じ、わざと落第者名簿に名前を載せなかったのである。趙匡胤は陶谷・廬多遜に問いただした、「文字数不足の解答なのだから、朕も不合格なはずである。なのになぜ落第者の名簿に朕の名前がないのか?」と。そして趙匡胤は、「不適切な採点で君主を欺いた」として、陶谷・廬多遜を厳しく叱りつけた。さらに趙匡胤は趙普に対して、「試験の文章の出来が悪い落第者を誅殺するならば、朕も殺さねばならんな‥‥‥!!さぁ、一緒に殺してくれ!!!!」と皮肉を吐いた。趙普や受験場の武将・衛兵たちは大いに委縮した。そして趙匡胤は、物騒な衛兵たちを立ち退かせ、受験者たちのために酒宴を開いて、場の恐々とした重苦しい空気を振り払った。
: 重苦しい試験が終わり、一転して楽しい酒宴が幕を開けた。趙普は、武将たちから兵権を奪い取る絶好の機会を失ったことを大いに悔しがり、『韓非子』の作中の故事を趙匡胤に説いて、近くの危険分子を暗示し、なんとか情勢逆転の可能性を探ろうとした。しかし趙匡胤は、「それは故事ではなく教訓だ」と興ざめし、趙普に罰杯を与え、黙り込みを決め込んでいた趙光義にも罰杯を飲ませた。そして趙匡胤は、自身の義兄弟や武将たちとともに、昔話に花を咲かせた。高懐徳ら武将たち一同は、趙匡胤の大恩に深く感謝し、命を懸けての厚き忠誠を強く宣言した。
: 趙匡胤は武将たちに問うた、「皇帝の玉座の座り心地はどんなものか分かるか?」と。張瓊は答えた、「皇帝になれば良いことづくめ。言うまでもなく玉座の座り心地は極上でしょう!!」と。
: しかし趙匡胤は言った、「皇帝になれば、何も悩みなく過ごせるものだろうか?むしろ皇帝には悩みばかりだぞ。第一の憂慮は、天下が治まらず、国家が長期に渡って貧窮し弱体化することだ。第二の憂慮は、不作となれば、百姓が飢え苦しむことだ。第三の憂慮は、官吏が清廉でなく、賄賂が横行することだ。第四の憂慮は、辺境に災いが在り、外敵が国土を侵すことだ。第五の憂慮は、文教が興隆せず、子孫の学問が廃れることだ。第六の憂慮は、賦税が繁雑・苛酷であり、民が耐えられず命を落とすことだ。第七の憂慮は、田畑が荒廃し、飢えた民が流浪を強いられることだ。第八の憂慮は、国庫が乏しくなり、財務が立ち行かなくなることだ。第九の憂慮は、盗賊が蜂起し、刑罰がうやむやになって廃れてしまうことだ。そして第十の憂慮は‥‥‥、いや、くどくどと話すのはよそう‥‥‥。」と。
: 高懐徳は言った、「陛下はかつて、兄弟たちを率い、各地で戦いに明け暮れました。そして今となっては、日夜政務に忙しくしておられます。それは偏に、大宋の民に安寧で幸せな生活を送らせるためではなかったのですか?」と。趙匡胤は言った、「そんなことはたいした負担ではない。歴代の王朝の皇帝も、皆同じだったじゃないか?朕はただ、悩ましい悪夢を思い出したのだ。ある日、武将の内の一人が、不忠の叛徒に擁立されて黄袍を着せられ、皇位に就くのだ。これは『陳橋の兵変』を再現する悪夢にほかならぬ‥‥‥。よく見てみれば、黄袍を着ているのは朕ではなかった。朕が生まれた日は、まだ後唐の時代だった。殿帥の陳鎧は謀反の心を抱き、兵を率いて皇宮に攻め入った。明け方から夕暮れ時まで激戦が続いた‥‥‥。最終的に陳鎧は、我が父趙弘殷の放った矢に当たって落馬し、部下の馬に踏み殺された。陳鎧とその部下は皆命を落とし、謀反の徒は一族までをも滅ぼされた。朕の悪夢は、それと通ずるところがある。それ故朕は、不安で寝食もままならぬ有様だ。」と。
: 高懐徳や張瓊ら武将たちは言った、「我々は陛下に忠実です。謀反を起こすことなどありません!!」と。趙匡胤は、武将たちの顔を眺め、悪夢に出て来た黄袍を着た人物の顔が、誰と一致するかを確認しようとした。宴席の一同は委縮しきり、戦々恐々として頭を下げた。趙匡胤は言った、「この悪夢は最も残酷であり、最も現実的なものだ。皇帝の地位を望まぬ者などこの世にはおらぬ。」と。高懐徳は言った、「すでに天下は安定を保っており、その盤石さは揺らぎようがありません。誰が大胆不敵にも皇位を奪おうとしたりするでしょうか。」と。また張瓊は言った、「謀反の徒に思い当たる者があれば、直接名前を出してください!!」と。趙匡胤は言った、「誰もがその悪夢の人物になり得るはずだ」と。臣下たち一同は驚き委縮し、「天に誓って二心を抱いたりはしない」と強く弁明した。趙匡胤は問うた、「もしある日、部下がそなたらに黄袍を着せようとしたら、どのように対処すべきであるか?」と。高懐徳は言った「そのようなことは、考えるだけでも恐れ多く、不敬極まりないことであります。陛下、どうか我々に生きるための道を残してください‥‥‥。」と。その他の臣下たちも、高懐徳らの言に続き、「生きるための道を残してください」と趙匡胤に懇願した。
: 趙匡胤は言った、「そなたらは先ほど、『朕への忠義のためなら、死をも惜しまぬ』と申したな。そなたらは皆、昔も今も将来も、朕の大切な兄弟だ。安心しろ‥‥‥。朕は兄弟を殺したりはしない…‥‥。乾杯しよう。」と。そして趙匡胤は杯を持って言った、「朕はこの一杯の酒をもって、そなたらに敬意を表する。朕は今後、文をもって治国を行う。治国が上手くいかねば、朕とて死を免れぬ覚悟だ。だが朕は、そなたら武将たちを生かし、幸せで満ち足りた生活を享受させてやる‥‥‥。この杯の中の酒を飲み干し、そしてそなたらは兵権を解いてくれ。部下の将に兵権がなければ、下克上もあり得ず、『陳橋の兵変』の再現を憂慮する必要もない。朕の心の病が解かれ、大宋の施政における難題も解決される。朕もそなたらを猜疑の目で見ずに済み、本当の兄弟のように心から親しく交われるのだ。皆どうだろうか‥‥‥!?」と。しばらく無言の時間が続いた。そして趙匡胤は言葉を続けた、「今日ここに、兵権を解き、朕と真の兄弟になりたい者は、この杯を飲み干そうではないか!!」と。臣下たち皆は、趙匡胤の苦衷を理解し。またその申し出を大いに意気に感じ、快く杯を飲み干して、兵権を返上した。符昭寿は、兵権返上を惜しがったが、高懐徳・張瓊にたしなめられ、決意を固めざるを得なかった。まもなく、高懐徳・張瓊・符昭寿ら武将たちは、趙匡胤に上奏書を提出し、正式に兵権を返上した。趙匡胤は大いに喜び、安心した。趙匡胤は、殿前都虞侯を武将の最高位(殿帥)とし、趙光義を引き続きその任に充てることとした。そして、張瓊を歩軍都指揮使(禁軍都指揮使)に、符昭寿を防御使に任じた。趙匡胤は、武将たちの兵権を取り上げつつも、彼らを引き続き重用し続ける姿勢を取ったのである‥‥‥。
【杜皇太后の遺言、金匱の盟】
: 杜太后の万寿節(60歳の誕生日)の式典が間近にせまり、趙匡胤・趙光義らは準備に取り掛かることとなった。洛陽太守・淮陽王・太師の符彦卿は、古くからの親交を結ぶ杜太后の誕生祝いに訪れるために、洛陽から汴京に赴き、子の符昭寿・符蓉や、娘婿の趙光義らと再会を果たすことになった。趙光義は、自身が親王に封じられないことを強く不満に思っていた。そこで趙光義の意を受けた符蓉・符昭寿は、父・符彦卿に「趙光義封王」の件を杜太后に対して提議させ、杜太后から「趙光義封王」の件を皇帝・趙匡胤に取りなしてもらおうとした。しかし符彦卿は、入宮して杜太后に謁見するも、杜太后の面前ではすっかり恐縮してしまい、「趙光義封王」の件を口が裂けても言い出せなかった。
: 符彦卿は、自分が「趙光義封王」の件を杜太后に提議し、それが趙匡胤の知るところとなれば、趙匡胤の趙光義への猜疑心が強くなると考え、あくまで臣としての本分を守り、杜太后の説得を取りやめた。趙光義も、符彦卿の苦渋に満ちた言を聞き、ひとまず親王への希望は捨てようとした。しかし符彦卿は、「最近汴京に来た杜太后の実弟・杜審肇を上手く利用できるのではないか?」と趙光義・符蓉に助言した。
: 杜審肇は、杜太后の実弟ではあるものの、粗野で学のない農夫に過ぎず、とても朝廷の官職にありつけるような人間ではなかった。杜審肇は、実の甥の皇帝・趙匡胤に対し、何の遠慮もせず堂々と馴れ馴れしい口をきき、大胆不敵にも「自身を役人にして欲しい」と頼み込み、それが実姉の杜太后に知られて、こっぴどく叱られる有様だった。趙光義・符蓉は、叔父の杜審肇を手厚く歓待し、おだてて上手く味方に取り込んだ。符蓉は、「『趙光義封王』の件を杜太后に提議して欲しい」と叔父の杜審肇に念入りに頼み込んだ。杜審肇は快く承諾し、実姉の杜太后に対し、「自分が役人になれないのはかまわない。だが甥のことが不憫でならない。どうか趙光義を親王に封じるよう、陛下(趙匡胤)に頼んでやって欲しい」と強く懇願した。
: 杜太后も、趙匡胤が実弟の趙光義を親王に封じないことを気に掛けており、信頼する趙普を参内させて相談した。滋徳殿に参内した趙普は杜太后の信頼に感激しつつも、断言した、「これは皇家の大事であります。全て陛下自身がお決めなること。臣の立場で進言することはできません。これは臣としての道であり、臣は規則に反することはできません。もし決まりに背けば、それはもはや不忠です。どうか太后様、お許しください‥‥‥。」と。
: 趙普が滋徳殿に参内したという情報を聞きつけた趙光義は、趙普を見つけ出し、自身の封王の件の妥当性に関してやんわり問うた。そして趙光義は、「どうか私の封王のことを陛下に口添えして欲しい‥‥‥。」と念入りに趙普に頼み込んだ。趙普は、「陛下の実弟なのですから、封王はいずれ必ず行われるでしょう」と明言しつつも、「私はただ規則に従い事を行うだけです。」と言葉を濁した。趙光義は、趙普の協力が得られそうだと見込み、喜んだ。一方趙普は、その足で趙匡胤に召され、勤政殿に赴いた。趙普は、趙光義が杜審肇・杜太后を利用して趙匡胤に封王の件を働きかけようとしていることを報告。そして趙普は趙匡胤に対して意見した、「宋朝は開国まもなく、封賞などの制度整備が不十分です。それ故、殿帥(趙光義)の封王は時期尚早でしょう。それに、皇室の人間が血筋を拠り所に富貴を追求するのは、忌み嫌うべき行為であります。」と。さらに趙普は、自身で見聞きした趙光義の大胆不敵な言動をすべて趙匡胤に上奏した。趙匡胤は大いに驚き、また実弟の趙光義に対して幾ばくかの危機感を覚え始めた。
: その後趙匡胤は、滋徳殿に赴き、杜太后に謁見。趙匡胤は杜太后に、「弟の趙光義の封王の件を引き延ばしているのは、私なりの様々な深い考え・意図があってのことです。」と説いた。杜太后も趙匡胤の説明に納得し、趙光義の封王延期に快く理解を示した。
: その後、杜太后の万寿節のお祝いは滞りなく行われ、都中が喜びに沸き溢れた。だが、宴が終わって後、杜太后は持病を悪化させ、重病に臥せってしまった。そして趙匡胤は、洪太医の診療によって、もはや母が手遅れであることを知らされた。
: 符蓉は、杜太后が病になり、夫・趙光義の封王の件が棚上げになったことに焦りを感じていた。そして符蓉・符昭寿は、父・符彦卿に対し、「杜太后に『兄終弟及』による継承を説き、趙光義を皇太弟にしてもらえるように取りなしてもらうべきだ」と提言した。「兄終弟及」とは、「皇帝が死んだ後、その弟が皇位を継承すること」だ。符彦卿は嫌がったが、符蓉は腹心の盧多遜を利用して歴代の「兄終弟及」のことを調べさせ、符彦卿を必死に口説いた。そこで符彦卿は、ついに覚悟を決め、病床の杜太后への見舞いにかこつけて、杜太后に「兄終弟及」のことを提言することとした。
: 符彦卿は重い口を開いて言った、「本来、歴代王朝は、天下社稷の安定のために、嫡長子に皇位を継がせるのが普通でした。そうすれば宮廷の醜い闘争を避けることができ、天下を安定させることができたからです。」と。杜太后は言った、「まさにその通りだ。大宋も本来は皇子が父帝の皇位を継ぐべきであろう。」と。
: しかし符彦卿は言った、「老臣の恐れ多き直言をお許し下さい。もし我が大宋の天下を安定させたいと思うのなら、『国は長君に頼る』の原理を実践すべきでしょう。太后様、唐末の大乱より、諸侯が割拠し、皆次々と王を称しました。皆、聖人たちの定めた旧制を軽んじ、智雄だけを頼りに、覇を唱えんと激しく争い合いました。後唐の頃、禁軍の将軍・陳鎧が李嗣源を強引に擁立して反乱を起こし、李嗣源は李存勗の死後、皇帝に即位しました。本朝の皇帝陛下は英明であり、天命を受け、大宋の天下を切り拓きました。朝廷に内乱が起こることもまずないでしょう。ですがたとえそうであっても、老臣の無茶で道理に外れた直言をどうか大目に見て下さい‥‥‥。もし先の後周王朝の後継者が弱弱しい幼子でなければ、滅びることはなかったでしょう‥‥‥?そしてもしそうならば、どうして大宋が周朝に取って代わることが出来たでしょうか?陛下はまさに壮年にして血気盛んであり、皇長子が即位できる成人になる頃も、まだまだお元気であられることでしょう。ですが、臣の直言をお許しください。皇長子の才智では、後周の柴宗訓(恭帝)とたいした差はありません。どうして開国の弟君・趙光義様と較べられましょうか!?『社稷を固めんと欲せば、国は長君に頼れ』です。私は聞いたことがあります。太后様の故郷には、一対の『二龍潭』なるものがあるそうですな。この二龍潭は明らかに天意です。大宋の立国には、必ず一双の龍が続けざまに出現することでしょう…‥‥。言い過ぎました。これにて失礼します‥‥‥。」と。杜太后は、親友・符彦卿の忠誠心を強く心に受け止め、考えを決めた。
: その後、杜太后は自身の死が目前に迫っているのを悟り、趙匡胤と趙普の二人のみを滋徳殿に呼び出し、秘密の遺言を授けることとした。杜太后は趙匡胤にのみ遺言を伝えるのではなく、一族同様に信頼する腹心・趙普にも遺言を聞かせ、証人とすることにしたのだ。杜太后は、自分の遺言が無事に果たされるよう、念には念を入れたのである。杜太后は趙匡胤に問うた、「我が息子よ、そなたはどのように皇帝になったのか?」と。趙匡胤は答えた、「父母の福と、先祖の徳のおかげです。」と。しかし杜太后はそれに否定的な見解を示した。そして杜太后は言った、「最も主要な理由は、後周世宗の子が幼過ぎたことだ。柴宗訓は幼過ぎ、朝廷をまともに取り仕切ることができなかったのだ。南平を思い出してみなさい。南平の今日があるのは、王位が兄から弟に引き継がれたからだ。先の後漢の皇帝・劉承佑が即位したときはたった18歳であり、若すぎたために、即位数か月で三鎮節度使の乱が発生してしまった。また劉承佑は、忠臣と奸臣を区別できなくなり、その岳父と宰相の讒言を信じ、多くの重臣を殺してしまった。楊邠・王章・史弘肇、さらに郭威の家族を殺害した。郭威は兵を起こし、汴京に攻め入った。劉承佑はあまりに若すぎたために、無鉄砲にも応戦し、最後は戦乱の中で死亡した。あのとき劉承佑は、皇帝に即位してまだ3年も経っていなかった。皇太后ならば皆、天下を自分の子孫たちに伝承させたいと願うもの。だが母が見るに、どの子に継がせようと、趙家の天下であることは変わりない。嫡子相続の制に従えば、そなたは皇位を長子・徳昭に継がせるべきだ。だが徳昭はあまりに幼過ぎる。息子よ……。そなたと光義は、どちらも母が産んだ大切な我が子だ。母はどちらかを依怙贔屓したりはできない。そして母は熟慮の末に決めたのだ。やはりそなたの百年のちの死後、皇位を弟の光義に継がせるべきだろう。そして光義の百年のちの死後、今度はそなたの息子・孫に皇位を継がせればよい。そうすれば天下は太平となり、安定する。何も問題はないはずだ。息子よ、覚えているか……?母の生家(故郷)の安溪門前には、二つの龍潭があった。母が思うに、あれは天意であろう。この対の龍は、私の二人の子どもが国を建て、二人が順に即位するという兆しであろう‥‥‥。息子よ、どう思うか?」と。
: 趙匡胤は母の遺言に感嘆し、必ず母の遺言に従うことを約束した。杜太后は、自身の遺言を趙普にも聞かせ、それを署名付きで書き記させることとした。そして杜太后は趙光義を滋徳殿に召し出し、遺言を伝えようとした。しかし趙普は強く反対して言った、「事は重大であり、大宋の天下社稷にまで関係します。決して誰にも知られてはなりません。特に趙光義だけには、絶対に知られぬほうがよいでしょう。大臣たちが一旦、『趙光義が将来即位する』と知れば、必ずある者がその歓心を買おうと目論み、皆もそれに続いて趙光義のご機嫌取りをするでしょう。これは陛下への不忠に繋がりますし、朝政の大局にとっても非常に不利であります。太后様、臣が思うに、まず先に皇位継承の詔書を密封し、金匱の中に隠し、陛下が管理するのです。そして、危急のときに再び世に公表するのです!!太后様、いかが思われますか?」と。杜太后は趙普の考えの周到さに感心し、すべて趙普の手配に任せることとした。宋建隆2年(961年)6月、宋太祖(趙匡胤)の母・杜太后(杜審萍)は、大宋の天下を憂い、重大な遺言を残して崩御した。享年60だった。杜太后は昭憲皇太后に封じられ、国を挙げての盛大な葬儀が営まれることとなった。
: 符蓉は杜太后の死の直後、趙普に対して、亡き皇太后の遺言のことに関して単刀直入に問うたが、趙普は敢えて正直に答えず、話を適当に逸らした。趙光義・符彦卿・符蓉・符昭寿は、杜太后が趙匡胤・趙普に「兄終弟及」の遺言を伝えたのかどうか、それがはっきりと分からず、気が気でなかった。そこで符蓉は、趙匡胤の側近宦官にして自身の耳目でもある王継恩に命じて、杜太后の遺言の有無を探らせた。
: 一方、李重進の反乱軍の潰滅後、行方を暗ませていた後周の重臣・韓通の息子・韓珪は、趙匡胤率いる杜太后の葬列に急襲を仕掛け、趙匡胤を道連れにして殺害し、亡父・韓通の仇討ちを果たそうとした。しかし、韓珪の急襲は失敗に終わり、韓通は将軍・張瓊によって捕らえられ、処刑されそうになった。しかし趙匡胤は、韓珪の忠孝の心に感じ入るところあり、自分を暗殺しようとして襲ってきた韓珪を、特に罰することなく釈放してやった。韓珪は失意と屈辱の内に解放され、以後出家して道士になり、世をさすらうこととした。
: 趙普は、杜太后の遺言に一定の理解こそは示しつつも、遺言の内容自体には強く反対しており、趙匡胤に対して、「『兄終弟及』の考えを改めるように」と強く説得していた。だが趙匡胤の気持ちとしては、母・杜太后の遺詔に従い、弟の趙光義に皇位を継がせることを望んでいた。また趙匡胤は、弟・趙光義の才覚や能力からすれば、次期皇帝の任に足りうると考えており、「兄終弟及」に関して大きな抵抗感は抱いていなかった。ただ趙匡胤は、趙普に母・杜太后の遺詔の妥当性を否定され、内心では悩みつつあった。そこで趙匡胤は、皇后・王月虹に、母・杜太后の遺詔の件を相談した。すると王月虹も、趙普と同様に「兄終弟及」に強く反対した。王皇后は、「皇位は嫡男が継いでこそ国が安定するもの。それに、陛下が皇位を譲る時期になれば、嫡子たちは皆成人しているはずだ」と説いた。さらに趙普は趙匡胤に対して、「一連の『兄終弟及』の論議の影の主導者は全て趙光義である。趙光義が符彦卿を利用して、杜太后を突き動かしたのだ。」と断言した。趙匡胤は、趙普・王月虹の「兄終弟及」への強い反対意見を受け止め、やがて自身の心にも迷いが生じるようになった。
: 趙光義・符蓉・符彦卿は、「杜太后の遺言を受けた趙匡胤が、自分たちに猜疑心を抱いているのではないか」と感じ、気がまともに休まらなかった。趙光義は、何とかして兄・趙匡胤の猜疑心を取り除きたいと考え、策を巡らした。一方で趙匡胤は、弟の趙光義に少しばかりの警戒心を抱き、趙光義の殿前都虞侯(殿帥)の職を解くこととした。
: その後、趙匡胤は趙普と趙光義を勤政殿に召した。趙匡胤はまず、趙光義の殿前都虞侯(殿帥)の職を解き、逆に開封府尹&同平章事に昇進させた。同平章事は地位上では宰相と同格であり、まさに大きな出世だった。また開封府尹も、皇帝直轄の大変な重職である。ただこれによって、趙光義は完全に朝廷の文官となり、兵を指揮統轄する一切の権限を失った。一方、趙光義の後任の殿前都虞侯(殿帥)には、張瓊が就任した。そして、張瓊が務めていた侍衛馬軍都指揮使の地位は、節度使・張永徳が兼任することとなり、侍衛司は枢密使・趙普が管轄することとなった。趙光義は、「自分にはそんな大任は耐えられません。むしろ地方の刺史か節度使に任じ、現地で務めに励ませてください。」と懇願した。無論これは、兄の猜疑心を解くための、趙光義の苦渋の懇願である。一方、無論、趙匡胤もその懇願は受け付けなかった。いくら趙光義に警戒心を抱いたとしても、趙光義が実の弟であることに変わりはない。趙匡胤には、大切な弟を粗末に扱うような真似は断じてできなかったのである。結局、趙光義は兄・趙匡胤の命を受け入れ、開封府尹&同平章事に昇任した。そして趙光義の妻・符蓉には、楚国夫人の称号が授けられた。一方で、趙光義の前任の開封府尹であった沈義倫は、趙普の推薦によって、集賢院大学士となった。趙匡胤は、沈義倫を宰相にしたいと願ったが、趙普のやんわりとした反対により、ひとまず時期を延ばすこととした。
: その頃、宦官・王継恩の従兄(※王継恩の父の姉妹の嫁ぎ先の親戚関係)である賈琰は、仕官の道を求めて汴京に来ていた。賈琰は宮中の門前で従弟の王継恩と再会し、「仕官を斡旋してくれるように」と懇願した。だが王継恩は、「宦官が政治に関与するのは宮中の規則に反する」と言って、断腸の思いで賈琰の頼みを断った。賈琰の仕官の道は、はかなくも閉ざされそうになった。しかし賈琰は、偶然出会った楚国夫人・符蓉の助けで、開封府における職を得た。賈琰は、手始めに開封府に持ち込まれた訴訟案件を適切に解決して趙光義の信頼を得た。そして賈琰は趙光義の腹心の部下となり、開封府に移り住んだ。
: 賈琰は王継恩にとっての命の恩人だった。王継恩は、自身が従兄・賈琰の力になれないことを心苦しく思っていたが、趙光義・符蓉の手配のおかげで賈琰が開封府において職を得ることができたので、大変嬉しがり、安堵し、趙光義・符蓉に感謝を伝えるために、出宮の機会を利用して趙府を訪れた。趙光義・符蓉は、杜太后の遺詔の有無を王継恩に強く問いただした。王継恩は、杜太后の残した「兄終弟及」の遺詔の存在をはっきりと認めた。そして王継恩は、「趙普と王皇后が『兄終弟及』の遺言に強く反対し、皇帝・趙匡胤に考えを改めさせた」と密告し、「杜太后の遺詔の件にはこれ以上深入りしないほうが身のためだ」と趙光義に忠告した。趙光義・符蓉は、杜太后の残した「兄終弟及」の遺詔の存在を知り、驚き動揺した。符蓉は、「杜太后の遺詔がある以上、次期皇帝になる夢は絶対に諦めるべきではない」と趙光義に強く説き、「杜太后の遺詔を果たしてこそ、本当の孝行になる」と訴えた。趙光義は身震いし、心中には様々な感情が湧きおこっていた。そして、表向きは血気にはやる妻・符蓉をなだめつつも、心中では、めらめらと皇位への野心を燃やし始めていた‥‥‥。
【内政の充実。武平・南平の平定】
: 趙匡胤は、地方節度使の権限を縮小し、中央集権化を推し進めようと図った。趙匡胤は、地方の権知州事&知県事を中央から皇帝が直接派遣することにした。そして彼らに、中央に従わない各地の節度使に関して、直接上奏・報告する権利を与えた。趙匡胤は、欽差の官吏たちに、特権の乱用や傲慢を禁じ、公徳心をもって公務に励むよう促した。
: 権知鎮州事に任命された沈義倫は、鎮州の王彦超のもとを訪れ、節度使特権の返上を求めた。沈義倫はかつて、王彦超の部下として働いていたことがある。沈義倫は、かつての上司から歓待を受けた。だが鎮州節度使・王彦超は、自身の特権返上に消極的だった。折しも鎮州の街では、王彦超の軍による民への暴行・傷害事件が発生していた。出家して道士となっていた韓珪は、世直しのために各地を放浪しており、鎮州で偶然にも王彦超の軍の横暴を目の当たりにした。被害者の施店主は憤慨し、権知鎮州事・沈義倫に軍の横暴・不法行為を強く訴え出た。沈義倫は施店主の無念を晴らそうとしたが、王彦超は話を受け付けようとしなかった。一方で流浪の道士・韓珪は、事態を重く受け止め、趙匡胤に対して鎮州の状況を密かに報告した。趙匡胤は事態を深刻に受け止め、御史中丞・劉温叟に尚方宝剣を授け、欽差大臣として鎮州に派遣した。そして劉温叟・沈義倫は、協力して王彦超の軍の横暴・不法行為をきっぱりと証明。罪を犯した王彦超の軍の将士たち18人は処刑された。趙匡胤はこれを機に、地方節度使の専横に、より危機感を募らせた。そして趙匡胤は、趙普の建言に従って、地方節度使の権限縮小と中央集権化を急ぐとともに、刑律の公平化・厳格化を図った。
: 趙光義は、枢密使・趙普が公然と自分に対抗する姿勢を取るようになったことに対して、強く危機感を抱くと同時に、仲の良かった趙普を強く疎み始めるようになった。趙光義の腹心・賈琰は、「杜太后の遺詔がある以上、当面の急は陛下の腹心・趙普を排除することだ」と説いた。趙光義も、趙普を排除したい気持ちは強かったが、それが非常に難しいこともよく分かっていた。そこで賈琰は進言した、「目下、大尹(※趙光義)は、治国に有益な献策を多く行って、陛下の歓心を得ることが大事です。陛下の歓心を得られれば、趙普に取って代わり、その権勢をも凌駕することができます。」と。趙光義は大いに感心し、賈琰の進言に基づき、「天下を平定するためには、国力を高める必要がある。そして国力を高めるためには、まず農桑を何よりも振興すべきである。」と趙匡胤に上奏した。唐末の大乱より、農耕は廃れ、民は飢えと貧しさに苦しみ続けていた。趙光義の上奏は、混乱した世の立て直しのための核心を突く、大変現実的・合理的な、優れた献策だった。趙匡胤・趙普は、趙光義の上奏に強く賛同した。そして趙匡胤は、農耕の振興を国是の1つにするとともに、禁苑内に田畑を開き、自ら耕作に励むことし、また田畑の敷地内に観稼殿を建てた。王皇后(王月虹)も、夫・趙匡胤の農耕を献身的に手伝い、更には自ら率先して養蚕も行った。さらに趙匡胤・王月虹(王皇后)は、後宮の費用の節約のために、多くの宮女に暇を出し、手厚い退職金を与えて故郷に帰らせた。王月虹は、自身の側近宮女である薛鳳嬌にも暇を出そうとした。しかし薛鳳嬌は、頑なにそれを拒み、王月虹に傍仕えし続けることを望んだ。しかし薛鳳嬌が宮中に残ったのは、王月虹への忠義からではなく、「皇帝・趙匡胤の賜愛を得たい」という野心からであった。だが趙匡胤は、王皇后(王月虹)ただ一人だけを愛し、他には一切の皇妃を置かなかった。薛鳳嬌が、いくら趙匡胤の寵愛を得たいと望んでも、それは現実的に不可能な話であった。
: 趙光義の妻・符蓉は、杜太后の「兄終弟及」の遺詔の実行を阻む最大の障害は、趙普と王皇后(王月虹)の二人だけだと考えていた。符蓉は夫を皇帝にするという夢を諦めきれず、どうしても二人を排除したかった。だが、朝廷での強い権勢を持つ趙普をすぐに排除することは難しい。そこで符蓉は、まず趙匡胤の寵愛する王皇后(王月虹)を失寵・失脚させようと目論み、一計を案じた。その策略の鍵となる人物は、宮中の宦官で自身の耳目である王継恩、そして王皇后の側近侍女である薛鳳嬌である。符蓉は、薛鳳嬌を利用して王皇后を陥れようと図った。薛鳳嬌は、王継恩にうまく騙され、その助言に従って趙匡胤の寵愛を得ようと懸命に力を尽くした。
: 一方趙光義は、腹心・賈琰の才覚・能力を高く評価し、趙匡胤のお墨付きのもとで、彼を開封府推官に抜擢した。賈琰は感謝感激するとともに、自身の旧友の姚恕という人物を趙光義に対して推薦した。姚恕は優秀な人物で、もとは工部の役人だったが、上司といざこざを起こして出奔し、職を求めていたのである。趙光義は姚恕のことを気に入り、開封府判官に任じて、自身の腹心の部下とした。
: さて、翰林学士・廬多遜は、武平からの上奏文を趙匡胤に献上した。その上奏文には、「武平節度使の周行逢が亡くなり、子の周保権が11歳の若さで跡を継いだ」との報告がなされていた。11歳の子供が、武平14州を管理できるわけがない。趙光義は、「これは宋が武平を簡単に奪取するための絶好の機会だ」と趙匡胤に説き、「廬多遜を武平に偵察に赴かせてはいかが?」と提案した。趙匡胤はそれに賛同し、即刻廬多遜を勅使として朗州に送り込み、武平の軍政を詳細に視察させ、その状況を報告させることとした。また廬多遜は、武平の視察を終えた後、併せて南平にも赴き、その状況を偵察し、趙匡胤に報告することとなった。
: 趙匡胤は、天下統一に心を傾けるだけでなく、内政の充実にも強く心を砕いていた。ある日趙匡胤は、朝議の場において、「文・仁・徳」の三つに重きを置いた内政を国是にすることを強く宣言し、改めて群臣たちからの大きな賛美・共鳴を得た。また趙匡胤は、開国より使用していた「建隆」の年号を改元することを宣言し、諸大臣に意見を求めた。そこで趙普は、「乾徳」という元号を提案し、当年(※西暦963年)より採用されることが決まった。しかしこの「乾徳」という元号が、数年後に大きな問題を引き起こすこととなる……。
: 父周行逢の死後、新任の武平節度使となった周保権だが、11歳の子供に統治能力はなく、支配下にあった衡州刺史・張文表に反乱を起こされてしまい、慌てて宋朝に反乱平定のための協力を要請した。趙匡胤は援軍を派遣することを決定し、侍衛馬軍都指揮使・張永徳を湖南行営前軍都部署に任じ、5万の兵を率いさせ、すぐに南進させ、周保権を救援させることにした。また趙匡胤は、南平節度使の高継衝に命じ、「宋軍進軍の際に、道を必ず貸すように」と要求した。ほどなく、大きな戦闘も経ることなく、武平・南平は完全に宋の支配領域の中に組み込まれ、趙匡胤は大いに喜んだ。
【鄭恩・王月虹の死】
: さて、趙匡胤の4人の結義兄弟の末弟・鄭恩が、北方の契丹(遼)との国境沿いの防衛任務を終え、汴京に帰還した。鄭恩は、契丹付近の辺境防備のために、後周の頃から、実に4年5か月と17日間も北方で任に当たっていたのだ。鄭恩は、趙匡胤によって都に呼び戻されると、手厚い慰労と歓待を受け、すぐに禁軍の教頭(師範)に任じられた。鄭恩は趙匡胤の熱い心遣いに大いに感激し、深く感謝してやまなかった。趙光義とその腹心の賈琰・廬多遜は、鄭恩の帰還と台頭を強く警戒した。賈琰・廬多遜は、「鄭恩を排除し、さらに王皇后も排除できる」という一石二鳥の計略を献策した。趙光義は二人の献策に賛意を示し、策を実行に移すこととした。
: まもなく、鄭恩を歓迎する酒宴が開かれ、宴は盛況の様相を呈した。そんな中で廬多遜は、酒に酔ったふりをしつつ、「陶谷らが陰であなたの酷い悪口を言っている」と密告した。酒に酔っていた鄭恩は激怒し、公衆の面前で、「陶谷は、陛下の即位の際に詔書を起草した功がなければ、今の地位にいられるはずもなかっただろう」などと暴言を吐き、翰林学士承旨・陶谷を激しく罵倒し、野蛮な振舞の限りを尽くした。趙匡胤は興を冷まされて激怒し、鄭恩の禁軍教頭の職を解任。そして、鄭恩を宴の場から追い出し、謹慎処分とした。
: 鄭恩は素面に戻った後、自分の犯した過ちを激しく後悔し、趙匡胤の信頼を取り戻したいと考え、趙匡胤の弟・趙光義に助けを求めた。趙光義は、したたかな助言をした、「自分が皇兄に君の許しを請うのはあまりよろしくないから、ここは皇兄の信頼厚い皇后様(王皇后・王月虹)に頼るのがいいだろう。君はかつて盗賊に捕らわれていた皇后様を救った功績があり、皇后様とは旧知の仲だ。皇后様に頼み込んで、陛下にうまくとりなしてもらえれば、君は原職の禁軍教頭に復帰できるし、『雨降って地固まる』というように、陛下との絆がより深まるはずだ。」と。しかし鄭恩は心配した、「私は罪人の身です。むやみに宮中に出入りはできません。」と。そこで趙光義は、妻の符蓉と王皇后の側近侍女・薛鳳嬌を用いて、鄭恩と王皇后が会って相談できるように手配しておくことにした。鄭恩は趙光義に深く感謝した……。以後鄭恩は、宮女の薛鳳嬌を通じて福寧宮で王月虹との密会を重ねた。鄭恩は王皇后に対し、「陛下に許してもらえるよう取り計らってほしい」と懇願した。優しく慈悲深い性格の王月虹(王皇后)は、鄭恩の懇願を快く受け入れ、夫・趙匡胤に、鄭恩の許しを請うた。趙匡胤も鄭恩を許すつもりではあったが、「時期尚早だ」として、すぐには鄭恩を復職させなかった。その後趙匡胤は、宮女の薛鳳嬌によって、「鄭恩と王皇后がたびたび不義の密会をしている」と知らされ、大いに驚き、また二人の関係への猜疑心を強めた。その後薛鳳嬌は、策に則り、王皇后と趙匡胤の最も大切な婚約品である片割れの玉佩を密かに盗み出し、それを気づかれぬようにこっそりと鄭恩の服の中に紛れ込ませた。
: 宮女・薛鳳嬌の影での悪事・工作は、大胆さを増していった。薛鳳嬌がなぜここまで陰険な悪事を働き、主人の王皇后を裏切るような真似をしたのか……!?これには深い事情がある……。薛鳳嬌はもと呉越国の出身だった。役人だった父と母を無実の罪で殺されてからは、仇である呉越国王を恨み、呉越国を討ち滅ぼして父母の仇を取ることに執念を巡らせていた───。さて、まだ後周の世宗(柴栄)の頃、薛鳳嬌は皇后の符茗に側近侍女として仕えていた。当時、趙光義と趙普は、主君の趙匡胤を皇帝に擁立したいと考え、趙光義の妻・符蓉の伝手で、宦官の王継恩を買収し、「殿検做」と刻まれた木牌を使って、世宗が殿前都点検の張永徳に猜疑心を抱くように仕向け、結果として趙匡胤が後任の殿前都点検となり、ついには皇位に就く転機を得た。薛鳳嬌は、密かに王継恩の動きを監視し、趙匡胤即位の転機に関する秘密の一部始終を熟知していた。そして、王朝が後周から宋に移り変わったとき、薛鳳嬌は密かに「殿検做」の木牌を盗み出し、自分の手元に隠し持った。薛鳳嬌が「殿検做」の木牌を隠し持つ理由───。それは、後周の恭帝(柴宗訓)・符茗(符太后)が、「殿検做」の木牌を盾に、趙匡胤に対してその不義・野心の罪を追求すれば、後周の旧臣たちの反感を引き起こし、新帝・趙匡胤と新王朝・宋に対して、大きな不利になると考えたからである。その後薛鳳嬌は、符茗(符太后)にかわって、王月虹(王皇后)に傍仕えしながら、趙匡胤の寵愛を得る機会を窺った───。
: そして先に述べたように、やがて薛鳳嬌は、趙光義の一派に利用されて、主人を裏切る悪事に手を染め王皇后と鄭恩を陥れた。併せて薛鳳嬌は、「殿検做」の木牌を盾に趙匡胤に対して賜愛を迫りつつ、趙匡胤に向けて、自身の真心からの愛情を打ち明けた。趙匡胤は、薛鳳嬌が自分のために重大機密を隠蔽してくれていたことを知り、深く恩を感じた。そこで、勤政殿にて趙匡胤は、薛鳳嬌から「殿検做」の木牌を受け取り、その見返りとして薛鳳嬌に寵愛を授け、二人は男女の交わりを結ぶ仲となった。
: 薛鳳嬌と一夜の情を交わした趙匡胤は、翌朝体調不良で朝議を欠席した。趙匡胤がわけもなく朝議を欠席するなど、開国より初めてのことだった。趙匡胤は、寵愛を与えた薛鳳嬌を嬪妃に封じ、勤政殿で仕えさせることにした。王皇后は、侍女の薛鳳嬌が趙匡胤の寵愛を受けたことに対して激しく驚き、動揺した。趙京娘(燕国長公主)は、病で朝議を休んだ義兄・趙匡胤や、動揺して寝込んでしまった王皇后の体調を気遣いつつも、同時にそれらが不忠不義の侍女・薛鳳嬌のせいであると知り、激怒した。趙京娘は、「薛鳳嬌は、義兄・趙匡胤をたぶらかした卑しい女狐だ」と断定し、彼女を福寧宮に強引に呼び出したが、趙匡胤の寵愛を勝ち得た薛鳳嬌は、一切悪びれる様子もなく、傲慢不遜な態度を取った。趙京娘の激しい怒りはますます大きくなり、ついには王皇后の面前で、自ら薛鳳嬌に私刑を与えた。趙京娘に平手打ちにされ、流石に目を覚ました薛鳳嬌は、王皇后と趙京娘に反省の意を示し、許しを請うた。王皇后は、激しい怒りと屈辱を感じつつも、それを抑え込み、薛鳳嬌を許してやるしかなかった。
: その日の夜、鄭恩は、王皇后に会うために再び福寧宮を訪れた。鄭恩は、「自分のことを許してもらえるよう、もう一度陛下に取りなして欲しい」と王皇后に頼んだが、王皇后にはなす術がなかった。そんななか、密会現場を確認するために、趙匡胤と王継恩が突然福寧宮を訪れた。趙匡胤は、鄭恩・王皇后の密会現場を直接抑え、激しい驚きと怒りに駆られた。そして王継恩が理由を付けて鄭恩の身体確認をすると、なんと衣服の中から、趙匡胤と王皇后の最も大切な婚約品である片割れの玉佩が見つかった。趙匡胤は、鄭恩・王月虹の二人が不義の関係にあると強く誤解し、怒髪冠を衝くほどに怒りに震えた。そして、二人に弁明する機会を与えぬまま、鄭恩を自らの手で斬り殺し、王皇后のことを「この淫婦め!!」と罵倒し、怒りに任せて宮内の机を剣で真っ二つに叩き割った。王皇后(王月虹)は、一連の出来事に非常に大きな衝撃を受け、激しく動揺・悲嘆し、そのまま病で臥せってしまった。王皇后の病は日に日に悪化し、王皇后はすっかりと憔悴しきってしまった。
: さて、薛鳳嬌の趙匡胤への愛情は本物だった。ただ薛鳳嬌は、趙匡胤と一夜の男女の契りを交わし、嬪妃に封じられながらも、皇帝の真実の愛を得ることなど絶対に無理だと強く悟っており、心は絶望状態にあった。また薛鳳嬌は、知るべきでない多くのことを知りすぎたため、王継恩に死を強要されることになった。覚悟を決めた薛鳳嬌は宮中で入水自殺を遂げたが、「殿検做」の木牌は趙光義一派には渡さず、趙匡胤に直接渡し、一方で王継恩には、「木牌は燃やした」と嘘をついた。秘密裏に木牌が手元に渡されたおかげで、趙匡胤は多くの危惧すべき状況を回避することができた。趙匡胤は、薛鳳嬌への恩と一夜の男女の情を鑑み、王皇后の考えにもしたがって、彼女を父母の墓の隣に丁重に葬った。
: 鄭恩排除に成功した趙光義の次なる標的は王皇后(王月虹)だった。王皇后を潰すために暗躍したのは、趙光義の妻・符蓉である。符蓉は一計を案じ、叔母という身分を利用して、趙匡胤の長女・趙媖媖に近づいた。そして符蓉は、媖媖の実の母・賀舒雅の死は、全て王皇后(王月虹)が原因であると密告した。趙匡胤の糟糠の妻・賀舒雅の死因に触れることは、趙匡胤・王月虹の間では忌避されていた。なぜなら、王月虹の登場が、賀舒雅に窮屈さや恥辱・怒りを与え、彼女に心の病を発生させてしまい、最終的に賀舒雅が死ぬことになってしまったからである。これは趙匡胤・王月虹の二人にとって、到底忘れられることではなかった。媖媖は実の母の死の真相を知り、強い衝撃を受け、急ぎ福寧宮に向かい、怒り狂いつつ病気療養中の継母・王月虹(王皇后)を激しく罵倒した。そこに趙匡胤がやって来た。趙匡胤は、娘の媖媖が王皇后に対して口汚く暴言を吐くのを見聞きし、激怒。怒りに任せて娘の媖媖を平手打ちにした。それでも媖媖は暴言をやめようとはしなかった。趙匡胤は怒り狂い、もう一発媖媖を殴ろうとしたが、京娘や王月虹に遮られ、なんとか拳をおさめた。しかし王月虹は、一連の出来事に強い衝撃を受け、卒倒してしまった。
: 王月虹の病状は悪化の一途を辿った。王皇后(王月虹)は、散々に義娘の媖媖に罵倒されながらも、少しも媖媖のことを恨まず、むしろ彼女の心の傷を強く気遣い、心配した。そして王皇后は、夫・趙匡胤に「二度と媖媖に意地悪したり、叱ったりぶったりしないで」と念を押して頼み込んだ……。趙匡胤は、媖媖が誰から賀舒雅の死因を聞いたのか強く怪しみ、徹底的に調査しようとした。しかし王月虹は、「媖媖を困らせてはならない」と考え、この件への調査を控えるように趙匡胤に促した……。
: すべては趙光義の計画通りだった。次に趙光義は、媖媖と宰相・魏仁浦の息子・魏咸信の婚姻を趙匡胤に対して提議した。趙匡胤は、「媖媖が宮中にいればまた王皇后と諍いを起こしかねない」と考え、趙光義の提案に従い、義妹・京娘(燕国長公主)に命じて、急ぎ、媖媖の婚儀の準備をさせることとした。王月虹は、「あまりに突然な媖媖の婚姻は、きっと自分を憎む媖媖との距離を遠ざけるためではないか?」と勘繰った。趙匡胤は図星を突かれたが、あくまで否定した。王月虹は、継母として、娘の婚儀の準備ができないことを口惜しがってやまず、ただひたすらに、媖媖の幸せを強く願うのだった。
: 趙媖媖は永慶公主に封じられ、いよいよ正式に宰相・魏仁浦の息子・魏咸信に嫁ぐことが決まった。婚儀の前日、またしても趙光義の妻・符蓉が暗躍した。符蓉は、「媖媖と魏咸信の結婚は王皇后のための『衝喜』である」と媖媖に対して強く断言した。「衝喜」とは、「家に重病人がいるとき、喜び事や祝い事(※例えば結婚式を挙げること)によって疫病神を追い払うこと」である。媖媖は、「自分の婚姻が憎き仇・王皇后のために利用された」ということを知って激怒し、王皇后が病気療養する福寧宮に再び押し掛け、王皇后を罵倒した。しかし王皇后はそれに少しも怒らず、趙匡胤との結婚記念の品である非常に大切な自身の玉佩を、結婚祝いとして媖媖に贈ろうとした。しかし媖媖は、王皇后の贈り物に強い不快感を示し、玉佩に難癖をつけて叩き割った。王月虹はまたしても激しい衝撃を受け、卒倒してしまい、ついに危篤状態となってしまった。
: 翌日、趙媖媖(永慶公主)と魏咸信(※宰相・魏仁浦の息子)の婚儀は滞りなく行われ、都中はお祝いの雰囲気に包まれたが、一方でその日の夜、趙匡胤の皇后・王月虹の死は、目前に迫りつつあった。死の間際、王月虹は趙匡胤に対して遺言した、「必ず国家・百姓を最重視して下さい……。また女色と小人を遠ざけて下さい……。そして、『道徳経』の中の『夫慈、戦うをもってすなわち勝ち、守るをもってすなわち固めよ』の文を覚えておいてください……。さらに、陛下は以後、各国平定の戦いにおいて、殺戮と流血を少なくして下さい……。」と。趙匡胤はしかと王月虹の遺言を受け止めた。また、王月虹は最後に力を振り絞って言った、「私は6年間、陛下と夫婦として過ごしました。6年間ずっと、陛下の恩寵を受け、本当に幸せでした。」と。そして、趙匡胤の名前を何度か呼び、息絶えた。
: 乾徳元年(※963年。西暦上は年を跨いだ964年1月)12月、趙匡胤の皇后・王月虹が崩御した。孝明皇后と諡号され、国葬をもって弔われた。趙匡胤は、皇后・王月虹の死に激しい悲痛を感じ、一か月以上朝議を欠席する有様だった。その間に乾徳元年(963年)12月は過ぎ、新年(乾徳2年)が幕を開け、正月15日の元宵節も過ぎ去っていた。趙匡胤は、「国事と民の暮らしを最重視すべきだ」という趙普の諫言を受け、ついに重い腰を上げ、悲しみから幾分か立ち直り、再び政務に熱を入れるようになった。
【宰相・趙普の誕生。趙普・趙光義の対立】
: 宰相・魏仁浦は、重病を理由に辞表を提出。趙匡胤はこれを受理し、宰相の地位は空位となった。趙匡胤は、信頼する腹心の枢密使・趙普を、ついに宰相に任命し、政事堂を管轄させた。一方で、趙普一人の専断を防ぐために、副宰相格の地位に沈義倫・呂余慶を抜擢。沈義倫は三司使(※三司の長官)に任命され、一方呂余慶は参知政事に任命された。趙光義は、趙普に歩み寄って親しく接し、彼を自身の味方につけ、利用しようと目論んだ。そこで趙光義は、判官・姚恕を使いに出し、自身の秘蔵の宝物である秦代の玉雕を趙普に贈った。趙普は恭しくそれを受け取ったが、それはその宝物が「趙光義が大臣たちを篭絡しようと図った罪証」になると考えたからだ。趙普は、朝廷の臣下の最高位・宰相の地位に上り詰め、腹心の部下・李崇矩も枢密使となり、政・軍の二部門の管轄権限を手中に収めていた。あとは、折を見て沈義倫を三司使から外し、自身の親友・楚昭輔をその後釜に据えれば、財の部門の管轄権限も手に入れることができる。趙普にとって、もはや朝廷で恐れるものはなく、趙普は強い満足感に浸っていた。ただ、趙普が権力を手にしたいと願った理由は、決して私欲からではない。すべては、自分が政治を主導して国の発展を促進し、皇帝・趙匡胤に最大限の忠義を尽くすためだった。趙普の主君・趙匡胤への忠義心は、とてつもなく厚く、その真心には少しも曇りはなかった。その一方で趙普は、日に日に野心を高め増長する趙光義のことを激しく警戒していた。それ故趙普は、決して趙光義の味方にはなろうとせず、あくまで彼と対峙する姿勢を維持した。
: 新任宰相・趙普は、政事堂で熱心に政務に励み、各地からの上奏文に積極的に目を通した。そして、各地の状況報告に矛盾した点や不審な点があることに気づき、「欽差大臣を派遣して、各地の民情を視察すべきだ」と趙匡胤に対して建言した。趙匡胤はそれに賛成し、参知政事・呂余慶を欽差大臣に任命。呂余慶に命じて、春の種播きの時期における各地の百姓の農桑の状況を視察させることとした。
: 呂余慶はある村で、百姓たちが役人に不当に虐げられているのを目撃した。また呂余慶は、その際折しも、世直しのために各地を放浪する道士・韓珪(華山真人)と偶然知り合った。呂余慶・韓珪の二人は意気投合し、民の救済のために、一緒に各地を視察して歩くこととした。呂余慶はまず、趙匡胤に上奏した、「各地の百姓の多くは皆、田地を持っていません。ある者は天災が理由で、地租を納められず、さらに土地を借りることもできず、ただ各地を流浪することを強いられています。田地の殆どは横暴な官吏の手中にあり、これらの役人は大量の土地を占有する一方で、田畑の数を少なく見積もって報告し、租税逃れをしています。加えて戦乱が理由で、大変多くの無主の田地があります。人々は田地を奪い合い、時には暴力沙汰となることもあります。」と。趙匡胤は、各地の百姓たちが深刻な事態に苦しんでいると知り、大いに驚いた。そして趙匡胤は、すぐに詔を下し、緊急に対応策を練ることとした。宰相・趙普は上奏した、「詔を下し、改めて度田を行い、余剰の田地や無主の田地を再分配するべきでしょう。また併せて、故郷を遠く離れた人々を原籍に戻し、耕作者が皆、再分配される田地を所有できるようにするのです。さすれば、百姓たちが他郷で禍害を被るのを避けられましょう。」と。さらに三司使・沈義倫は上奏した、「臣が思うに、我が国の目下の実情に照らせば、農民に自ら荒地を開墾させるのがよろしいかと。新たに開墾した田地は、3年間租賦を免状するのです。また臣が考えるに、適切に租賦の調整を行い、貧富の区分を明確にするのがよろしいかと。我が国の子民を貧富の状況に照らして五段階の戸籍に分け、田地を多く所有する者には、より多くの賦税を納めさせるのです。」と。趙匡胤は趙普・沈義倫の建言に強く賛同し、すぐに詔書を下して度田を進行させ、枢密使・李崇矩に度田政策を主持させることとした。
: 李崇矩は準備を整え、度田政策振興のためにすぐに徳州に赴いた。李崇矩は徳州の地で、妻の従弟・胡贊と再会した。胡贊は、後周が建国された後、工部員外の職にあったが、人に陥れられ、失職。その後胡贊は商人の稼業で生計を立てつつも、仕官の道を諦めてはいなかった。そこで胡贊は、李崇矩に賄賂として宝玉を贈り、宰相・趙普のもとで働けるように推挙してもらった。胡贊は徳州から汴京に赴き、趙普に気に入られてその部下となった。そして胡贊は、政事堂枢機使の職を与えられた。
: 一方、呂余慶・韓珪の二人は、商河県に視察に赴いていたが、そこで役人たちの不正・横暴の噂を耳にし、すぐに調査・取り締まりを実行することとした。商河知県事・李瑤は、権力を傘に私腹を肥やそうとし、多くの田地を不法占有した。さらに李瑤は、多くの田地を有する富豪たちから賄賂を受け取り、彼らの利権を維持してやった。また度田官&左贊善大臣の申文緯は、当地で下官の李瑤から賄賂を受け取り、度田政策を李瑤に一任し、彼の不法行為を黙認した。その一方で申文緯は、職務放棄をして遊びや酒色に耽り続けた。呂余慶・韓珪は、李瑤・申文緯を捕らえると、厳しく尋問。そして、商河県の酷くお粗末な度田状況を趙匡胤に報告した。趙匡胤は、「朝廷の派遣した知県事・度田官が、百姓を虐げ横暴の限りを尽くしている」と知って激怒し、李瑤・申文緯を厳罰に処した。
: 開封府尹・趙光義は、賈琰・姚恕に命じ、各地で広く賢才を集め、自身の側近を強化していた。しかし翰林学士・廬多遜は、「そういった側近たちも肝心なときに大きな役には立たないでしょう」と説き、「重臣・符彦卿を洛陽から汴京に呼び寄せ、軍権を握らせるべきです。さすれば必要な時に、我らの大きな助けとなります。」と趙光義に建言した。しかし趙光義は、「自分が符彦卿を汴京に呼び寄せれば、陛下(趙匡胤)の猜疑心を強めることになる」と考え、その意見に積極的ではなかった。しかし廬多遜は、「文人ばかり集めても、軍権が手中になければ、万一の時に杜太后の遺詔を遂行することができません」と趙光義に対して強く説いた。そこで趙光義は、符蓉・符昭寿らと協力して符彦卿を説得し、「帰京し隠居する」という名目で符彦卿を汴京に呼び寄せ、符彦卿に、杜太后の遺詔の存在を打ち明けた。趙光義は、「上手く事を運んで岳父の符彦卿に軍権を握らせ、自身が宰相・趙普と対抗する際の強力な味方にしたい」と考えていた。汴京に帰京した翌日、符彦卿は勤政殿に赴き、趙匡胤に謁見した。趙匡胤と符彦卿は、昔話に花を咲かせた。その後符彦卿は、老いを理由に、汴京での隠居を願い出たが、趙匡胤はそれを承諾しなかった。むしろ趙匡胤は符彦卿を依然として重用するつもりだった。趙匡胤は、趙光義に符彦卿のことを相談したが、趙光義は「身内を重用しすぎるのはよくないでしょう」と心にもないことを言って、趙匡胤の歓心を買い、猜疑の根を摘み取った。そこで趙匡胤は、符彦卿を侍衛馬歩軍都指揮使に任命しようとした。しかし宰相・趙普は、符彦卿の影響力が大きすぎること、侍衛馬歩軍都指揮使の職がすでに廃止されていることの二つを理由に、趙匡胤の意思に反対した。しかし趙匡胤は意見を曲げず、「侍衛馬歩軍都指揮使の職を設けるか否かは、適任者の有無によって臨機応変に決めるべきだ」と説き、参知政事・呂余慶も趙匡胤の意見に賛同したため、趙普も自身の反対意見を押し通すことはできなくなった。
: さて趙光義は、賈琰・姚恕らと相談し、趙匡胤の許可を得たうえで、古びた開封府を改築することにした。趙匡胤は、「開封府の改築を許すが、くれぐれも倹約せよ」と趙光義に命じていた。しかし趙光義は、巨額の資金を費やして開封府を大改築し、裏庭には自身と妻・符蓉が住まうための屋敷を建て、趙府を離れてそこに移り住む有様だった。出来上がった新しい開封府は、まさに豪華絢爛極まりないものだった。宰相趙普は、開封府の修築に巨額の費用が費やされたこと、趙光義のもとに多くの賢才が集結していること、趙光義と符彦卿が裏で通じ合っていることなどを知り、驚愕した。由々しき事態であると考えた趙普は、符彦卿の侍衛馬歩軍都指揮使任命の詔書宣布を急遽取り止め、福寧宮にて趙匡胤に謁見した。趙普は、「符彦卿の侍衛馬歩軍都指揮使任命を取り止めてください」と趙匡胤に諫言した。趙匡胤は、「朕は符彦卿を厚く信頼している。それに君主に二言があってはならぬはずだ」と言って、趙普の言を聞き入れようとはしなかった。しかし趙普はなおも諫言した、「後周世宗(柴栄)は、陛下(趙匡胤)のことを深く信頼していました。しかし陛下は世宗を裏切ったではありませぬか?」と。趙匡胤は怒髪冠を衝き、激怒のあまり机を勢いよくひっくりかえした。趙普はやや怯んだが、それでも諫言をやめなかった。そして趙普は、「巨額の費用を投じて改築された開封府が皇宮のごとく豪勢な様相であること、趙光義が広く多数の賢才を集め自身の側近を強化していること、趙光義と符彦卿が裏で通じ合っていること、趙光義が自身を買収するために、大変貴重なの秦代玉雕を賄賂として贈ってきたこと」などをすべて密告した。そして趙普は、趙光義の増長と彼の皇位簒奪の野心、さらに将来起こりうる兵変の危険性などを、趙匡胤に対して強く訴えた。趙匡胤は、趙光義の深い野心に愕然とした。趙匡胤は宰相・趙普の諫言と厚い忠義に強く感謝し、考えを改めた。そして、符彦卿を洛陽に帰らせ、趙光義から遠ざけることで禍の芽を摘み取った。
: 趙匡胤は、趙普の諫言を受け、弟・趙光義への猜疑心を強めていた。趙匡胤は趙光義を勤政殿に呼び出し、「曹丕と曹植の『七歩詩』」の故事を用いて、趙光義を厳しく脅し詰問しつつ、「朕は曹丕ではないし、そなたは曹植でもない。兄弟の絆は、皇帝の地位よりも大切なものである」と叫び、趙光義に根本的な改心を促した。
: 趙光義は、趙匡胤に叱り脅され、強く衝撃を受け、胸に大きな恐怖を抱いた。趙光義は、「自分の身の安全を守り、大事を成すためには、もはや皇帝になるしかないのだ」と決意を強く固め、皇位への野心を胸で爆発させた。また趙光義は、趙匡胤に諫言して自分の命を奪いかけた趙普を激しく恨み憎み、以後彼を不俱戴天の仇と見なして、必ず排除することを強く決心した。
: 翌日趙匡胤は、豪華絢爛だと噂の開封府を、自ら視察した。改築後の開封府は、皇宮を凌ぐほどに豪華絢爛であった。趙匡胤は、開封府の改築を許したものの、あくまで費用の節約を厳命していた。それにも関わらず、あまりに豪華に改修されていたので、趙匡胤は驚きと怒りを隠しきれなかった。趙匡胤は趙光義に費用の出所を詰問したところ、趙光義は、「裏庭に自身の邸宅を新築するために、以前住んでいた旧府邸を売り払って費用を捻出した」と白状した。趙匡胤は激怒した。趙光義の旧府邸は、もとはといえば張永徳から譲り受けたものである。それを売り払った以上、道理に基づけば転売で得た資金は趙光義のものではなく、張永徳のもののはずである。趙匡胤は、弟・趙光義の身勝手さに激怒し、厳しく罪を追求した。そこで趙光義は、苦肉の策を用いて自身の罪を懺悔し、趙匡胤に対して深く謝罪し、改心を強く誓った。趙匡胤も、深く反省し憔悴しきった様子の弟・趙光義を見て、強い憐みの情を覚え、特別に罪を許してやることにした。これによって趙光義は、なんとか窮地を脱することができた……。
【後蜀征討。趙匡胤と徐蕊の縁】
: 趙光義が窮地を脱した数日後、趙匡胤は群臣たちを勤政殿に集め、天下統一の大事を議論した。西暦964年当時残っていたのは、十国のうち、江南国(南唐)・呉越・後蜀・北漢・南漢の5か国であった。そのうち最強だったの江南国であり、それに次ぐ強さだったのが後蜀であった。趙匡胤の考えでは、江南国・後蜀の2か国を滅ぼせば、それ以外の3か国は簡単に滅ぼせるという見込みだった。開封府尹・趙光義は趙匡胤に進言した、「どの国を先に滅ぼすかは別として、すべて速戦速決にこだわるべきです。ただし速戦速決のためには、水路と陸路の併用が必要不可欠です。そこで、水軍を組織し、訓練を強化すべきかと存じます。まずは、戦艦を多く建造することが重要課題となるでしょう。」と。宰相・趙普は、趙光義の意見に同意した。さらに趙普は進言した、「臣が思うに、まず先に江南諸国を滅ぼすべきです。さすればその他各国は、江南滅亡の噂を聞いただけで肝を潰し、我が国に降伏するでしょう。」と。一方で参知政事・呂余慶も進言した、「陛下、臣が思うに、現在は急いで出征すべきではないかと存じます。まず先に国力を発展させるべきです。その後、気勢をもって天下を平定するのです。少なくとも、出陣には必ず大義名分が必要です。大義名分があればこそ、人々を心服させられます。今は、出陣の大義名分が充分でありません。」と。枢密使・李崇矩は意見した、「大義名分の有無は、ただの契機に過ぎません。往々にして作り出すことは可能です。速戦速決は当然良きことです。しかし我が大宋一国で、周辺の数国と相対し、気勢をもって天下を平定しようというのは、現実的にほぼ不可能であるでしょう。できることならば、段階を分けて事を進め、必ずしっかりと準備し、必戦必勝を期すべきです。」と。趙匡胤は自身の考えを述べた、「近年来、朕は何度も考えていた。天下統一を成し遂げたいと思うならば、戦国時代の秦国のやり方を模倣するべきだろう。『先に巴蜀を攻める』、すなわち先に後蜀を制圧するのだ。蜀国は昔から、国と民が豊かな天府の国だ。秦国は当時、巴・蜀の間の対立を利用し、『出兵して蜀を救援する』という名目で巴を制圧し、その後蜀国の疆域を奪取し、国力を大幅に増大した。そして秦は六国を統一した後、後顧の憂いを断つことができたのだ……。」と。そして趙匡胤は、「将来降伏してきた各国の国主とその家族・臣下が住まえるように、明日より人を集めて豪邸500間を修建しておくのだ」と宰相・趙普に命じた。趙普は趙匡胤の命に反対して言った、「臣が思うに、どの国の君主であろうとも、皆真心から帰順しているわけではありません。そのように親切に款待すれば、おそらく我が大宋の臣民は、心に不平不満を抱くでしょう。」と。呂余慶は反論した、「そうとは限りません。陛下のこの挙は、空前の心理攻撃であります。一国の君主が厚待を得られれば、必ずその他の国君の心に揺さぶりをかけることが可能です。これにより、各国君主の闘志を瓦解させることができるしょう。」と。趙匡胤は引き続き最善策を議論することとした。
: 趙光義は、趙匡胤が後蜀を攻めるつもりであると知り、腹心の賈琰を密かに成都に派遣し、蜀国の状況を偵察させることとした。賈琰は出立に際し、自身の同窓生である宋琪を趙光義に推薦した。趙光義は宋琪のことを気に入り、開封府の吏員となった。しかしこの宋琪という男、本当は枢密使・李崇矩のもと部下で、李崇矩によって趙光義のもとに送り込まれた密偵・内応者であり、本来は趙普派の人物であった。無論当時、趙光義はそのことについて知る由もない。
: さて、賈琰は密偵として後蜀(成都)に潜入。そこで、蜀国の貧しさや、君主の無道さ、民の不満などを目の当たりにした。あわせて賈琰は、後蜀皇帝の寵妃・花蕊夫人(徐蕊)を街で目にした。そして、「花蕊夫人(徐蕊)が、亡き王皇后(王月虹)と容姿が瓜二つである」という、驚きの事実を発見した。1か月余り後、賈琰は成都から帰還した。そして賈琰は、後蜀の近況を報告しつつ、亡き王皇后の生き写しである花蕊夫人の存在についても強く言及した。趙光義は、賈琰が手土産に持ち帰った花蕊夫人の肖像画を見て強く驚き、そして喜んだ。そして趙光義は、急いで福寧宮に赴き、趙匡胤に後蜀の事情を説明し、「国王孟昶は益州の天然要害に頼って武備を怠り、政治を顧みずに遊び耽っています。大軍で後蜀に攻撃を仕掛ければ簡単に滅ぼせるでしょう」と訴え、後蜀攻めを強く勧めた。また趙光義は、孟昶の寵妃・花蕊夫人(徐蕊)が、亡き王皇后(王月虹)に酷似した容姿の持ち主であることを趙匡胤に報告し、さらに、花蕊夫人の生い立ちについても詳細に説明した。趙匡胤は、驚き・喜びを隠せなかった。当時、江南国の御史中丞・杜著と、江南国の彭澤県令・薛良は、ともに宋に投降し、江南平定のための策を趙匡胤に授けており、趙匡胤の気持ちは若干江南征伐に傾いていた。しかし、趙光義から後蜀の状況や花蕊夫人のことを聞かされた趙匡胤は、自身の決意を固め、後蜀攻めに舵を切ることとし、準備を急いだ。
: 後蜀の皇帝・孟昶は、遊興に耽るばかりの無能で、政治的見識が非常に乏しかった。後蜀の宰相・李昊は、「宋が大軍で後蜀を攻めようとしている」と報告したが、孟昶は事態を極めて楽観視し、特に対応策を練るでもなく、寵妃・花蕊夫人とともに遊び、彼女の歓心を買うことしか考えていなかった。花蕊夫人は国の大事を憂慮する見識高い烈女で、孟昶に忠言して、宋に対抗するための策略を練るよう請うた。そこで孟昶も一計を案じ、江南国(南唐)ならびに北漢・契丹と結託して南北から宋を攻撃し、宋の大軍に対抗しようと考えた。花蕊夫人(徐蕊)は、自身の叔父で江南国の翰林学士承旨である徐鉉に文を送り、江南国に強く協力要請を行った。
: さて、江南国では西暦961年に名君・李璟が病死し、その皇太子・李煜が跡を継いで、皇帝に即位していた。李煜は琴棋書画や詩詞歌賦の才能には溢れていたが、政治的見識に乏しく、自身の最愛の皇后・周娥との遊興に耽っていた。ある日、周娥皇后は、200年前に失われた唐玄宗作の『霓裳羽衣曲』の楽譜の残譜を、偶然にも李煜の御書房で発見した。周娥は大いに興味関心を募らせ、ただ残譜だけを頼りに、『霓裳羽衣曲』を復原することに成功した。ただ周娥は、原曲の終曲部が、糸遊が飄然と遠方へ去るようにだんだんとゆったりとしていくのが好ましくないと感じており、敢えて迅速な韻律に改編し、心を興奮させる曲調に仕上げ、最後は不意に曲がぴたりと止まるよう組み立てた。李煜は、周娥皇后の編曲の素晴らしさに感嘆し、喜びに乗せて詩を吟じることとした───。
: ★~『浣溪沙』~★ 朝日はすでに三丈の高さに昇る(紅日已高三丈透)//金炉は次第に獣の薫香を放つ(金炉次第添香獣)//赤き綿の地衣が、歩みに乗せてしわを寄せる(紅綿地衣随歩皺)//佳人の滑らかな舞に、金の簪(佳人舞点金釵溜)//酒に酔い、時に指先で花蕊をつまみその匂いを嗅ぐ(酒悪時拈花蕊嗅)//偏殿から遠く聞こえる簫と鼓の奏で(別殿遥聞簫鼓奏)……
: 李煜の吟じたこの素晴らしい詩は、後世に名高い『浣溪沙』である。周娥皇后は、自身の歌舞の真髄に迫真したその詩に激しく感動し、夫・李煜の詞作がますます精美に進化していくのを強く称賛した。周娥皇后は、夫・李煜の吟じた詩を書き記して残そうとした。しかし李煜はそれを止めると、愛する周娥皇后とともに熱い口づけと抱擁を交わした。
: さて、李煜がお楽しみを終えた後、江南国宰相・李景達は、後蜀皇帝からの国書を李煜に献上した。李景達が後蜀との連携を李煜に提言する一方で、徐鉉は、姪・徐蕊の救援要請に反して、宋朝との連携を李煜に提言した。江南国と後蜀の間には旧恨があったので、李煜は後蜀との連携を望んでいなかった。
: さて、枢密使・李崇矩は、密偵を蜀に潜り込ませ、後蜀の軍防図を入手することに成功していた。宰相・趙普は、先に江南国を攻めることを趙匡胤に提案したが、趙匡胤の後蜀攻めへの決意は固く、あくまで趙普の言を退けた。
: その頃、平章事・楚昭輔のもとに、彼の同郷の旧友である趙彦韜がやって来た。この趙彦韜という男は、後蜀の兵部検正であり、宰相・李昊の命で汴京に密偵に赴いた後、一度成都に戻り、「宋が蜀を攻めるつもりである」と報告した。その後、趙彦韜は、戸部郎中・孫遇とともに、援軍要請のために使者として北漢へ赴く手筈であった。だが趙彦韜は、後蜀皇帝・孟昶が酒色に耽る無能な君主であることを憎み、後蜀を見限って宋に投降することを決意。同行者の孫遇を騙してしびれ薬を飲ませ、孫遇を引き連れて汴京に戻って来ていた。趙彦韜は、汴京に着くと義兄・楚昭輔のもとに赴き、宋への投降を表明。楚昭輔は、趙彦韜を宰相・趙普のもとに派遣し、趙彦韜は、後蜀皇帝・孟昶が北漢皇帝に渡す手筈だった密書を趙普に明け渡した。趙普は由々しき事態であると感じ、すぐにその密書を趙匡胤に届け出た。「後蜀が北漢と結託して宋を攻撃しようとしている」との事実は、宋にとって、後蜀征伐の正当な大義名分になり得るものだった。趙匡胤は大いに喜び、趙彦韜を疎密都承旨に任じた。一方趙匡胤は、江南国からの投降者である杜著・薛良に難癖を付けて激しくその不忠不義を責め立て、杜著を処刑し、薛良を廬州への流刑とし、奴婢に落とした。
: 趙匡胤は、処刑した叛臣・杜著の首を手土産に、三司使・沈義倫を使者として江南国に派遣した。また趙匡胤は、江南国の水害を聞きつけ、救援物資として10万石の糧食を江南国に送り届けるとともに、先の後周対南唐の「淮南の戦い」で捕虜になった南唐(江南国)の民・将士を、全て江南国に返還した。さらに趙匡胤は、直筆の親書を李煜に送り、宋・江南国の友和を促した。江南国国主・李煜は大いに喜び、宴を設けて使者の沈義倫を厚く歓待し、後蜀攻めを目論む宋朝への協力を強く約束した。一方、趙彦韜に騙される形で宋への投降者となってしまった孫遇は、流れに身を任せて宋朝のために働く決心を付けた。そして孫遇は、参知政事・呂余慶の命を受けて後蜀に赴き、蜀の地形を詳細に調べ上げて地図を作成し、併せて後蜀の皇宮に宋の使者として赴き、孟昶に宋朝への投降を勧めた。孟昶は、「降伏しなければ宋が30万の大軍で攻めてくる」と知って驚愕したが、断じて降伏しようとはせず、徹底抗戦を決め込んだ。
: さて、江南国の中立を維持することに成功した趙匡胤は、ついに後蜀への出兵を開始することに決めた。そして趙匡胤は、高懐徳を西川行営兵馬都部署に、張瓊・符昭寿を西川行営兵馬副都部署に、楚昭輔を監軍にそれぞれ任命し、水陸計10万の大軍を率いさせ、後蜀討伐を開始した。また趙匡胤は、陳承昭に一万の水虎捷軍を授けて長江を巡視させ、南唐の万が一の侵略もしっかりと防いでおいた。さらに趙匡胤は、軍全体に厳命を下し、後蜀侵攻後の放火・掠奪・強姦・民虐殺を固く禁じた。
: 乾徳2年(964年)11月、宋太祖・趙匡胤は10万(※公称:30万)の大軍を派兵して後蜀を激しく攻めた。後蜀の14万の大軍は、多勢と天然の要害を頼りに防戦するも、宋の大軍の猛攻には耐えられず、2か月の戦闘を経て壊滅的な被害を受けた。後蜀軍の中に、投降する者、逃げる者は後が絶たなかった。後蜀軍の主将・王昭遠は、奮戦むなしく生け捕りにされ、後に斬首されてしまう始末だった。そして乾徳3年(965年)正月、宋の主将・高懐徳が先鋒として大軍を率いて成都の城下にまで迫り、張瓊・符昭寿らが率いる大軍もこれに続いた。宋の10万の大軍は、幾度の戦いを経るも、被害は多くなかった。一方後蜀の14万の大軍は、数度の戦いで甚大なる被害を受け、離散・投降する者も数多おり、もはや3万7000の軍勢しか手元に残っていなかった。後蜀軍の兵力・士気は急落し、到底成都を守りきれる状態にはなかった。宰相・李昊をはじめ、群臣たちは皆投降を強く勧めた。孟昶も、もはや起死回生は不可能であると考え、宋に対して投降を表明した。孟昶と花蕊夫人は、亡国の運命を激しく嘆き悲しみつつも、自分たちの悲運を受け入れるしかなかった。花蕊夫人は、夫・孟昶のために艶やかな舞を披露し、二人は一時の感傷に浸り、亡国の悲しみを慰め合うしかなかった。
: 乾徳3年(965年)正月、後蜀は宋に滅ぼされた。趙匡胤は、君主・孟昶の奢侈な暮らしに憤慨し、献上された宝物を叩き壊して戒めとした。宋に降伏した後蜀のもと皇帝・孟昶は、命を助けられ、亡国の君主でありながら、宋に歓待され、豪邸を賜って住むことを許された。一方趙光義は、花蕊夫人(徐蕊)を目にし、その容姿が亡き王皇后に酷似していることを確認。花蕊夫人があまりに王皇后とそっくりだったため、趙光義は大いに驚いた。同時に趙光義は、「なんとか花蕊夫人を皇兄・趙匡胤のもとに送り込み、皇兄の歓心を買いたい」と考え、一計を案じた。
: 孟昶・花蕊夫人が汴京に到着してから数日後、二人は趙匡胤が設けた宴に招待された。孟昶は宴席ですっかり怯え、委縮しきってしまい、ただひたすらに、宋の皇帝・趙匡胤にこびへつらった。趙匡胤は、孟昶が音楽への造詣が深いと聞き、彼に宴の余興として演奏を行うように命じた。しかし孟昶は、緊張と動揺のあまり、まともに返答すらできない有様だった。そこに、孟昶の妻・花蕊夫人が助け舟を出し、花蕊夫人が琵琶の演奏を披露することでその場は収まった。花蕊夫人が素晴らしい演奏を披露し、趙匡胤は大いに感動した。次に趙匡胤は、花蕊夫人の詩才を試した。花蕊夫人は、臆することなく、皮肉を交えながら亡国の悲しみを見事に詩で表現して見せた。趙匡胤は大いに喜び、その詩才を賞して花蕊夫人に酒を下賜した。花蕊夫人は、酒を豪快に飲み干して見せ、趙匡胤はそれを見て感心し、花蕊夫人を「女傑」と評した。趙匡胤は、気分を良くし、孟昶を秦国公に封じようとしたが、花蕊夫人は夫・孟昶に代わって、趙匡胤の厚意を拒否した。そして花蕊夫人は、琴を叩き壊し、壮烈な遺言を残して自害しようとしたが、趙匡胤が寸でのところでこれを制し、花蕊夫人は一命を取り留めた。
: 趙匡胤は、花蕊夫人を療養させ、花蕊夫人も体調を回復した。趙匡胤は花蕊夫人に対して、死ぬことの簡単さ、生きることの難しさ、恨みを捨て天下安寧を願うことの大切さを強く説いた。花蕊夫人も趙匡胤の見識・志の高さに理解を示し、自身の愚かさを恥じて自害を取り止めた。花蕊夫人はただ、自害しない条件として、「夫・孟昶を殺さないこと」を強く趙匡胤に懇願した。趙匡胤は当然その願いを受け入れ、さらには孟昶を秦国公・中書令&検校太師に任じ、厚遇してやることにした。孟昶は宋での厚遇に大満足し、亡国の悲しみなど忘れ、愉快にのんびりと豪邸での暮らしを楽しんだ。その様子は、さながら三国時代も蜀の後主(劉禅)のようだった。
: 一方趙光義は、なんとかして花蕊夫人を皇兄・趙匡胤のもとに送り込みたいと考えていたが、穏便な策を思いつかなかった。開封府吏員・宋琪は、「孟昶を暗殺して花蕊夫人を未亡人にしてしまえばよい」と提案したが、証拠を残さずに暗殺するのは難しい。そこで開封府判官・姚恕は提言した、「親友の程徳玄は、神業ともいえる卓越した医術を持つ有能な医者です。彼は毒にもよく通じでいます。そこで、程徳玄に頼んで秘毒を用意してもらい、その秘毒をもって孟昶を毒殺してしまいましょう」と。趙光義は姚恕の提案に賛同し、程徳玄を買収して、彼から、「殺しても何ら証拠が残らない極秘の毒薬」を受け取った。趙光義はその極秘の毒薬を極上の酒に混ぜ、その毒酒を「陛下から下賜された美酒だ」と偽り、孟昶に飲ませることに成功した。その毒薬は、服用から一時後に死に至る遅毒性のものだった。孟昶は毒酒を飲み干し、「極上の美味い酒を飲んだ」と有頂天の気分だったが、それから一時後、妻の花蕊夫人との会話中に俄かに苦しみ出し、激しく悶絶した。孟昶は、「趙匡胤の下賜した酒に毒が入っていたに違いない」と花蕊夫人に遺言し、激しく吐血した後にぽっくり死んでしまった。
: 宋琪からの密告を受けた趙普は、趙光義が孟昶を毒殺したという事実を知っていたが、様々な利害を考慮し敢えてその事実を趙匡胤に知らせず、ただ暗示するにとどめた。一方趙匡胤は、孟昶の急死に驚愕しつつ、趙普の状況報告から、「趙光義が下手人として最も疑わしい」と考え、趙光義を勤政殿に呼び出して激しく詰問した。趙光義は詭弁を弄してひとまず嫌疑を逃れた。だが趙匡胤の心境は晴れず、宋朝の潔白のために、孟昶の急死の真相を徹底的に調べることとした。併せて趙匡胤は、「孟昶の不審な死が、旧後蜀の地の民に強い動揺と疑念を与える」と深く危惧し、参知政事・呂余慶を知成都府事に任じ、御史中丞・劉温叟と共に、成都の状況視察に赴かせることとした。また宰相・趙普の推薦により、翰林学士承旨・陶谷は、楚昭輔の後任の成都監軍に任じられた。呂余慶・劉温叟・陶谷の3人は、成都に赴き、現地で軍の横暴・犯罪など取り締まりを厳格に行った。
【呂余慶の災難。趙光義と趙普の暗闘】
: 趙匡胤は、未亡人となった花蕊夫人(徐蕊)を宮中に入内させた。花蕊夫人は、自堕落・放蕩で国を滅ぼした亡夫・孟昶を憎んでいたが、孟昶の自分への一途な愛情には強く感謝し、孟昶とは固い夫婦の絆で結ばれていた。花蕊夫人は亡夫・孟昶への貞節を貫き、趙匡胤の側室になることを固く拒絶していた。趙匡胤は、亡き王皇后の生き写しである花蕊夫人に少なからず惹かれ、好意を抱いていたが、花蕊夫人の強い操観念を知り、敢えて不純な下心を起こそうとはしなかった。趙匡胤が、花蕊夫人を入宮させたのは、まず彼女の安全を守るためだった。趙匡胤は花蕊夫人(徐蕊)を新たに金城夫人に封じ、宮中で蜀国の史書を修訂させることとした。徐蕊は、「趙匡胤が不純な動機で自分を宮中に召したのではない」と知り、ひとまずその命に従って、宮中で蜀国の史書の修訂を行うこととした。趙匡胤はまた徐蕊に対して「自分が天下の民に不利益なことをしようとした際は、すぐに直言をもって諫めて欲しい」と頼んだ。徐蕊はこれを拝命し、ひとまずその場は収まった。趙匡胤は福寧宮を離れ、以後花蕊夫人が福寧宮にて起居することとなった。徐蕊が嬪妃ではなく夫人に封じられたのは、趙光義・符蓉にとっては意外だった。だが符蓉は、「皇帝(趙匡胤)は強引な手段を用いず穏便に徐蕊を嬪妃にしたいのだ」と考え、「すぐに徐蕊は皇帝の嬪妃になるであろう」と見込んだ。
: さて、成都監軍だった平章事・楚昭輔は、旧後蜀の皇宮の財宝を多数横領し、更には将士たちの掠奪も黙認したため、皇帝・趙匡胤や宰相・趙普の激しい怒りを買い、成都監軍を解任されて汴京に帰還していた。楚昭輔は、趙普のもとに贖罪に出向き、趙普に激しく叱責された。楚昭輔は必死に謝罪し、ひとまず趙普もこれを罪に問わなかった。だが、趙普・楚昭輔の二人の間に、徐々に亀裂が生じ始めていたことは明らかだった。
: 趙光義は、宰相・趙普の専横を危惧し、「三司使・沈義倫を宰相に抜擢すべきだ」と趙匡胤に提言した。ただ趙匡胤は、腹心・趙普のことを深く信頼しきっており、また趙普と沈義倫の意見が対立して国事が滞るのも恐れ、敢えて複数名の宰相を置くつもりはなかった。一方趙匡胤は、徐蕊が宮中で病床に臥せっているのを強く心配していた。そこで趙光義は、自身の孟昶毒殺に協力した有能な神医・程徳玄を皇兄・趙匡胤に紹介した。程徳玄が入内し、徐蕊の治療に当たると、徐蕊の病状は一気に改善した。趙匡胤は、有能な程徳玄を強く気に入り、太医院の侍医に任命した。そして程徳玄は、以後宮中において、趙光義の耳目としても働くことになった。
: さて、呂余慶・劉温叟・陶谷の3人は、趙匡胤の命で成都に赴き、平定後まもない混乱した蜀の情勢を見事に鎮静化した。だが陶谷は、呂余慶の妻・霍氏と呂余慶の娘婿・牛徳水が、現地で横領を行っている証拠を見つけ、それを呂余慶も「ぐる」であると勝手に決め込み、宰相・趙普に、「呂余慶が成都の皇宮の財物を横領している」と密告した。陶谷からの密告を受けた宰相・趙普は、朝議の場で趙匡胤に上奏し、知成都府事・呂余慶に横領の嫌疑が掛かっていることを告発した。趙匡胤は呂余慶の潔白を信じつつも、疑念は拭い去れず、御史中丞・劉温叟に尚方宝剣を授け、呂余慶の横領の嫌疑について現地で調べさせることとした。また趙匡胤は、三司使・沈義倫を代理の知成都府事に任じ、成都に赴任させた。これにより趙普は、自身の最大の競争相手である沈義倫を遠地に追いやることに成功。さらに、もう一人の競争相手である呂余慶をも排除できる算段であり、心中大いに愉快であった。開封府尹・趙光義は、沈義倫の遠地赴任と呂余慶の失脚により、趙普の専横が更に強まることを危惧し、急ぎ呂余慶救出のための策を練った。趙光義は、「呂余慶の横領の嫌疑を調査する御史中丞・劉温叟が最大の重要人物になる」と考え、廬多遜(※劉温叟の娘婿)を通じて劉温叟を買収しようとした。劉温叟は、表向きは趙光義から贈られた銭5000貫を受け取りつつも、あくまで厳正な調査に徹した。
: 楚昭輔は、罪を犯して信用を失った身ではあったが、いまだ出世欲に溢れ、成都に赴任した沈義倫の後任として、自らが三司使の職に就くことを強く願っていた。楚昭輔は、冷淡無情な親友・趙普に愛想を尽かし、趙光義の陣営に身を投じることを決意し、趙光義のもとに自ら出向き、「自分を沈義倫の後任の三司使(計相)に推薦してほしい」と懇願した。趙光義はそれを受け入れつつも、「宰相・趙普にも推薦の件を頼んでおけ」と楚昭輔に命じた。それは、「自分が楚昭輔を三司使に推挙すれば、宰相・趙普の疑念を招き、必ず彼がその推挙に反対する」と考えたからだ。趙光義の考えは極めて周到だった。楚昭輔は政事堂に赴き、同様に趙普に対しても「自分を沈義倫の後任の三司使(計相)に推薦してほしい」と懇願した。趙普の楚昭輔への信頼はすっかり失われていたが、旧交を鑑みて特別にもう一度楚昭輔を信じてやることにし、趙匡胤に対し、楚昭輔を沈義倫の後任の三司使に推挙した。併せて趙光義も、趙匡胤に対して、楚昭輔を沈義倫の後任の三司使に推挙した。趙匡胤は、趙普・趙光義による推薦を許可し、よって楚昭輔は晴れて三司使に就任することができた。楚昭輔は趙光義の大恩に深く感謝し、以後趙光義への忠誠を強く誓い、自身の蓄えた千両の金貨を礼として趙光義に差し出した。しかし趙光義は、贈り物の気持ちだけ受け取り「その金を全て趙普に差し出すべきだ」と楚昭輔に命じた。それは、自身の味方となった楚昭輔に、宰相・趙普との関係を引き続き維持させ、趙普側の情報を仕入れて自分の策略を優位に進めるための、趙光義の奇策だった。楚昭輔は、趙普に対し、「三司使に推挙してくれたお礼です」と言って千両の金貨を差し出し、併せて趙普に屋敷の改築を勧めた。宰相・趙普は、金の出所や楚昭輔の魂胆に強く猜疑の念を抱きつつも、楚昭輔の心意気を信じ、仕方なくその金を受け取り、一方で楚昭輔に対して、「国家のために私欲を捨てて職務に励め」と厳しく忠告した。
: さて、呂余慶の妻・霍氏は、趙光義に密書を送り、助けを求めた。霍氏の文によれば、「成都での横領はすべて自分(霍氏)と娘婿の牛徳水が犯したことで、呂余慶は一切事情を知らなかった」とのことであった。趙光義は安堵した、「これならせいぜい呂余慶は監督不行き届きの罪に過ぎず、厳罰に処されることもない」と。開封府吏員・宋琪は進言した、「陛下(趙匡胤)は元来呂余慶への信頼が厚く、また劉温叟も厳正に牛徳水を調査しています。霍氏の密書を陛下にお見せすれば、きっと呂余慶の潔白を証明し、呂余慶を窮地から救うことができるでしょう。呂余慶が無実なら、沈義倫も都に帰還できます。よって、宰相・趙普の一人天下も阻止できます。」と。しかし開封府推官・賈琰と開封府判官・姚恕は、「もし大尹(趙光義)が陛下(趙匡胤)に霍氏の密書を見せれば、陛下は『大尹が大臣たちと結託し、良からぬことを企んでいる』との疑念を抱くでしょう。」と意見し、宋琪の意見に強く反対した。しかし趙光義は、「呂余慶を救出するためにも、何か事を起こさなくてはならない」と強く考えていた。だが賈琰は、「あくまで事態の変化を静観し、時機を見て行動を起こすべきだ」と説いた。
: 宰相・趙普は、帰京した陶谷によって、「成都で横領の罪を犯したのは、呂余慶の妻・霍氏と二人の娘婿・牛徳水だけである」と知らされ、やや驚き動揺したが、もはや後戻りはできなかった。弱肉強食の官界にあっては、「毒を食らわば皿まで」である。宰相・趙普は、陶谷と結託し、呂余慶排除のために躍起になって策を巡らした。趙普は呂余慶に横領罪の濡れ衣を着せ、「成都の呂余慶を斬首に処すべきだ」と強く説いた。しかし趙匡胤は、呂余慶のことを未だに強く信じ、処罰には慎重を期していた。趙匡胤は、ひとまず呂余慶・霍氏・牛徳水の三人を汴京に召喚し、調査の進展を期待することにした。まもなく、御史中丞・劉温叟は、呂余慶・牛徳水を護送して汴京に帰還した。劉温叟は、「呂余慶に監督不行き届きの罪はあるが、彼は横領の首謀者ではなく、呂余慶が霍氏・牛徳水の犯行に携わった証拠も一切ない」と趙匡胤に対して報告した。一方で刑部侍郎・陶谷は、牛徳水を激しく拷問。牛徳水は苛酷な拷問に耐えきれず、「横領の首謀者は岳父・呂余慶である」という嘘の証言をしてしまった。趙光義は、獄中の呂余慶の安否を強く心配し、部下の姚恕に命じて連絡を取ろうとしたが、刑部の牢の警備は陶谷によって厳重に固められ、とても獄中に入り込める余地はなかった。陶谷は獄中の呂余慶に自白を強要したが、呂余慶はただ監督不行き届きの罪を認めるだけで、「自身が横領の首謀者である」とは決して認めなかった。趙匡胤も呂余慶の潔白を強く信じており、信頼の証として、獄中の呂余慶に対し、特別に御酒を賜った。皇帝が臣下に美酒を賜るのは、滅多にあることではなく、趙匡胤の呂余慶への信用が非常に厚いものであることは、それだけ一目瞭然だった。趙普・陶谷は、「陛下(趙匡胤)が呂余慶を許すのではないか」と察し、少なからず動揺したが、それでも決して手は緩めなかった。賜酒の翌日、呂余慶は勤政殿に召喚され、趙匡胤に謁見した。呂余慶は真摯に反省・謝罪し、監督不行き届きの罪を認め、自身への厳罰を請うた。趙匡胤は、最終的に自身の賜酒の意図を汲み取った呂余慶の様子を見て、ひとまず安堵した。一方趙匡胤は、「呂余慶の妻・霍氏が趙光義に密書を送り、助けを求めていた」との情報を得て、勤政殿で趙光義を審問した。趙光義は臆することなく趙匡胤の審問に答え、むしろ「趙普・陶谷が結託して呂余慶を陥れようとしているのであり、本来呂余慶の横領の嫌疑は完全な冤罪だ」と強く断言した。趙匡胤も、厳正にして慎重な審議が必要であると考え、趙普(※宰相)・陶谷(※刑部侍郎)・雷徳驤(※判大理寺事)・劉温叟(※御史中丞)を勤政殿に召し、彼ら四人に刑部・御史台・大理寺までも総動員し、呂余慶の横領の嫌疑に関して調査・審問することとした。
: 陶谷は、霍氏を巧みに買収し、呂余慶を横領事件の首謀者に仕立て上げようとした。しかし霍氏は夫・呂余慶を決して裏切らず、自分で罪を請け負う姿勢を見せ、苛酷な拷問を受けても絶対に嘘の供述はしなかった。趙光義は、趙普・陶谷の強引・横暴なやり口に激怒し、なんとしてでも呂余慶を救うべく、行動を起こすことにした。呂余慶への処罰は、朝議の場の群臣たちの意見によって決定されることが予想された。そこで趙光義は、部下の賈琰・廬多遜・姚恕にそれぞれ命じて、朝廷での影響力の大きい重臣、楚昭輔・劉温叟・雷徳驤を味方に付けようと躍起になった。賈琰は楚昭輔と、廬多遜は劉温叟と、それぞれ連絡を取った。姚恕と雷徳驤は、暢春楼(妓楼)で偶然知り合い友人となった仲であり、姚恕は雷徳驤のもとに赴き、連絡を取った。だが無論、これらの情報は、すべて内応者の宋琪を通して趙普側に筒抜けであった。趙普は、楚昭輔が趙光義側と連絡を取っていることに驚いた。また趙普は、「雷徳驤が妓楼通いに明け暮れている」という事実を知り、この弱みを利用して雷徳驤を抑え込もうと考えた。翌日、趙普は雷徳驤を政事堂に呼び出し、妓楼通いのことを説教し、併せて「呂余慶の処分を決める朝議において、自分の意見に味方しろ」とごく僅かに暗示した。雷徳驤は趙普に説教されて気分を悪くし、気晴らしのために劉温叟のもとに行き、二人で酒を飲むことにした。雷徳驤は趙普を嫌い、「朝議の場では、呂余慶を擁護するべきだ」と劉温叟に説いたが、劉温叟は「あくまで公正無私を貫くだけだ」と言って、お茶を濁した。
: さて、一連の調査・審問を経て、いよいよ呂余慶への処分を決める崇元殿での朝議の日がやって来た。刑部侍郎・陶谷は、「牛徳水の供述により、事件の首謀者が呂余慶なのは明らかです。故に呂余慶を処刑すべきでしょう」と説き、御史中丞・劉温叟も、「官吏の綱紀粛正のため、呂余慶は見せしめとして死罪にするのが妥当です」と説いた。一方で判大理寺事・雷徳驤は、「牛徳水・霍氏は、陶谷によって苛酷な拷問を受け、嘘の供述を強要されており、牛徳水の供述はとても信用できません。また、呂余慶への死罪は断じて適当ではないでしょう。」と説いた。開封府尹・趙光義は、陶谷が拷問の手段を用いたことを痛烈に非難し、一方宰相・趙普は、陶谷が拷問の手段を用いたことを強く擁護した。翰林学士・廬多遜は、「呂余慶を首謀者として断定できない以上、死罪とするのは妥当ではない」と説いた。陶谷は廬多遜の意見に強く反対し、あくまで呂余慶の死罪を説き、二人は激しい口論となった。趙匡胤がこれを制して廬多遜・陶谷の口喧嘩はおさまった。その後、趙光義は強く意見した、「呂余慶は宋朝や陛下(趙匡胤)への忠心厚く、宋の建国に貢献し、宋建国後も重臣として懸命に職務に勤しみ、幾度も著しい功績を立てました。その功績は計り知れぬほど大きなものです。また呂余慶が首謀者であるという確証がない以上、どうして厳罰に処すことができましょうか?ここは功と罪の釣り合いを考慮し、呂余慶は参知政事からの降格処分にするのが妥当でありましょう」と。一方で宰相・趙普は、あくまで呂余慶の横領罪を深刻視し、呂余慶の斬首を強く説いた。そして最後に、三司使・楚昭輔が妥協案として意見した、「呂余慶の昔日の功を鑑み、死罪を免じて登州沙門島に流刑とし、反省を促せばよいでしょう」と。趙匡胤は、楚昭輔の意見を気に入り、自身の決定を述べた、「貪財に耽った牛徳水の罪は許しがたく死罪に処す。だが一方、呂余慶が横領事件の首謀者という確証はなく、また呂余慶は国家社稷に大きな功績を残した重臣なので、監督不行き届きの罪のみを問い、その妻・霍氏と合わせて特別に死罪を免じ、普済寺にて謹慎処分とする。そして呂余慶・霍氏には、普済寺で経典釈文を校勘させ、深く反省を促すのだ。」と。趙匡胤の決定に群臣の殆どが納得し、一同の「陛下は英明なり」の声で、張り詰めた雰囲気の朝議はひとまず幕を下ろした。
: 朝議の後、宰相・趙普は、政事堂において、楚昭輔が呂余慶の命乞いをしたことに憤怒していた。趙普は楚昭輔に対し、趙光義側との関係などについて、厳しく問い詰めた。楚昭輔は懸命に弁明を行い、ひとまず窮地を脱したが、趙普の楚昭輔への猜疑心はますます深まった。宰相・趙普は本来、一連の事件を通じて、「呂余慶を排除し、沈義倫を遠地に転勤させ、趙光義を抑え込む」という一石三鳥を目論んでいたが、結局は一石一鳥に終わってしまい、大いに悔しがった。呂余慶は死罪を免れ生きながらえている以上、遅かれ早かれ朝廷に復帰するはず。その際、呂余慶が再び趙普の脅威となるのは容易に想像しうることだった。
: 趙匡胤は普済寺で蟄居する前の呂余慶を勤政殿に召し、二人で暫しの別れを惜しんだ。趙匡胤は呂余慶に対して、変わらぬ厚い信頼・期待を伝え、呂余慶も趙匡胤の厚愛に深く感謝した。趙匡胤は、呂余慶を数年で朝廷に呼び戻すことを約束した。一方呂余慶も、朝廷復帰までの間に、自分の罪を改めてよく反省し、しっかりと仏門で修練を積むことを強く誓った。これにより、呂余慶は災難を脱し、事件は一件落着をみた。そして「雨降って地固まる」かのごとく、趙匡胤・呂余慶の二人は、君臣の絆を強く深め合った。
【更なる内政の充実。雷徳驤の憤死】
: さて、符蓉は度々福寧宮を訪れ、徐蕊と世間話をしていた。符蓉は、義兄・趙匡胤を「情義に厚い一途で優しい皇帝だ」と褒め称え、徐蕊に趙匡胤の側室となるよう勧めたが、徐蕊は断固それを拒否し、あくまで亡夫・孟昶への操を貫いていた。符蓉は、徐蕊が取っ付きづらく、利用することが難しい人物だと考え、次第に他に利用できそうな女性はいないかと考え始めた。
: 宰相・趙普は、空位となった横海軍節度使に陶谷を抜擢することを、趙匡胤に対して強く進言した。ただ趙匡胤は、文官である陶谷にその任は務まらぬと考え、それに反対した。趙普はそれでも強く説得し、度が過ぎた発言をしてしまい、趙匡胤の激しい怒りを買う羽目になった。趙普はすっかり反省し、雷雨の中、皇宮で立ちすくんでいた。徐蕊は雨中を散歩している最中、偶然雨に打たれる趙普を発見した。趙普は徐蕊に助けを求め、徐蕊は趙匡胤のもとに出向いて、趙普と趙匡胤の仲直りを上手く取りなしてやった。趙匡胤は、徐蕊の仲立ちを大いに喜び、機嫌を良くし、陶谷の横海軍節度使任命も許可してやった。
: 趙光義は、陶谷の横海軍節度使就任を知って激怒した。開封府吏員・宋琪は、趙光義に対して、「陶谷の横海軍節度使就任を阻止するべく、陛下(趙匡胤)を直に説得すべきだ。」と説いた。趙光義は、もちろん陶谷の横海軍節度使就任を阻止したかった。だが、宋琪の度々の献策が、自分に不利な状況を形成していく事実に直面し、趙光義は密かに宋琪のことを趙普側の間者なのではないかと強く疑い、調べを進めた。そして賈琰の調査により、宋琪は趙普側の内応者であるということが分かり、以後趙光義は、宋琪を遠ざけ始めることとした。趙光義は、勤政殿に赴き、趙匡胤に対して、陶谷の横海軍節度使就任への反対意見を述べ、併せて宰相・趙普の専断・独善を痛烈に批判した。しかし趙匡胤は、宰相・趙普の忠誠を信じて疑わず、その言を退けた。それでも趙光義は、「宰相・趙普だけに親密に接し、彼を重用しすぎるのは良くない」と説いた。趙匡胤はその言に一定の理解を示しつつ、「朕が最も心から信頼しているのは、血の繋がった実弟のそなた(趙光義)である。」と述べ、改めて兄弟の親密さを訴えた。趙光義は、皇兄・趙匡胤の信頼の深さを強く実感し、安心感を覚え、ひとまず説得を諦めるしかなかった。
: さて、趙光義の腹心の部下で、開封府総管でもあった安忠は、武芸に優れ、忠義に厚い男だったが、バッタ一匹踏み殺せない軟弱な性格であり、趙光義は、安忠の勇気・力量に疑念を抱き、「肝心なときに彼は役に立たぬのではないか!?」と考えた。はてさて話は打って変わり、汴京の東郊外に、葛覇なる男がいた。葛覇は大変な孝行息子で、病気の母を救うために、街に出て自分を身売りし、奴婢になる代わりに金を得て、母の治療費に充てようとしていた。だが街で身売りをしている際、偶然出会った将軍・符昭寿に、葛覇は酷く侮辱され、二人は喧嘩になり、激怒した葛覇は符昭寿を殴りつけてしまった。その後葛覇は、符昭寿の部下たちによって暴力的仕返しを受け、捕らえられ、さらに符昭寿によって開封府に突き出された。開封府尹・趙光義は、葛覇の激烈な性格や、元来の腕っぷしの強さ、孝行心の厚さなどを見込み、彼を利用しようと考え、ひとまず自身の裁きで葛覇を牢に入れた。獄中の葛覇は、趙光義と賈琰に騙され、母がすでに死んだと告げられた。怒り狂った葛覇は、「母を救えなかったのは趙光義のせいだ」と決め込み、仇敵・趙光義への復讐のために、牢中で武術の修練に励み、武術の腕を格段に上げた。その一方で趙光義は、賈琰に命じて葛覇の母を救出させ、葛母を治療して重病から救った。これらはすべて、趙光義の計画通りだった。その後、武術の手練れとなった葛覇は、牢から解放され、母が趙光義によって命を救われたことを知り、大いに感激した。葛覇は趙光義を大恩人と敬い、以後趙光義の部下となり、命をささげて忠誠を誓うことを宣言した。これにより趙光義は、葛覇という強力な腹心の侠客を得ることに成功した。
: さて趙光義は、腹心・賈琰の策に従い、趙匡胤に対して、「国家の繁栄のために、商業の発展に注力すべきだ」と進言した。趙匡胤は、趙光義の献策に強く賛同し、天下の百姓を「士・農・工・商」の四部門に分け、まず商人の正当な身分を確立し、商人の世間的な体裁の悪さを払拭した。また趙匡胤は、国内の銅銭の量に限りがあり、銅銭自体が携帯に不便であることも問題視し、それが農工の発展の足枷にもなると考え、唐代の「飛銭」の制を導入することにした。「飛銭」とは、為替手形の俗称のことで、唐代に確立された貨幣制度の一種だった。「飛銭」の制では、地方の商人が都市で物を売った際、代金を役所(※「便銭務」)に納め、その領収書を半分にちぎり、一方は売主が持ち、他方は地方政府に送付されるという仕組みになっていた。そして、商人は帰郷のうえ、地方政府に出向き、2枚の領収書をつき合わせて、商品の代金を受け取れる手筈になっていた。この「飛銭」の制は、実に合理的で信用度も高く、影響力も大きかったので、導入直後から多くの商人がこぞってこれを利用し、結果、宋の商業は飛躍的に繫栄した。そして「飛銭」の制の導入から30年余り後、宋では世界史上最も早く、紙幣「交子」が登場した。この中国、ひいては世界の紙幣制度の先駆けとなったのは、趙匡胤が導入した「飛銭」であったといえるだろう……。
: 趙匡胤は、趙光義・趙普・王継恩らとともにお忍びで開封の街の視察に訪れた。趙匡胤は、「飛銭」の導入によって商業が発展し、民の暮らしが豊かになったことを大いに喜んだ。だが趙匡胤は同時に、武官の横暴や重臣・雷徳驤の妓楼通いといった朝廷の風紀の乱れを直に目の当たりにし、やるせない思いに襲われた。趙匡胤は、判大理寺事という朝廷の重職にある雷徳驤が、日頃から酒色に耽り、妓楼に通い詰めていると知って激怒した。宰相・趙普は、雷徳驤の淫乱・放蕩を厳しく責め立て、「雷徳驤の判大理寺事の職を解任し、横海軍節度使・陶谷を都に呼び戻してその後任とするべきだ」と趙匡胤に説いた。趙匡胤はその意見に理解を示し、陶谷を地方から汴京に呼び戻し、彼を刑部侍郎&判大理寺事(※代理)に任命し、大理寺・刑部を動員して雷徳驤の一件を調査させることとした。
: 雷徳驤は、趙匡胤・趙普に自身の妓楼通いを知られても、それを小事と考え、たいして悪びれる様子もなかった。ただ雷徳驤としても、胸の一抹の不安は拭い去れず、開封府に出向いて、趙光義に助けを求めた。趙光義は、雷徳驤の潔白を証明するために自ら趙匡胤に対して釈明を行った。趙匡胤も、趙光義から事情を聴いて、ひとまず雷徳驤を許してやることとした。一方趙光義のもとに、再び厄介な人物がやって来ていた。趙匡胤・趙光義の母・杜審萍の弟で、自分たちの叔父にあたる杜審肇である。無鉄砲で粗野な性格の杜審肇は、いまだ役人になる希望を捨てられず、趙光義に対し、「自分を役人にしてもらえるように皇帝・趙匡胤に取りなして欲しい」と強く懇願した。趙光義も叔父の懇願を無碍にはできず、叔父・杜審肇の任官の件を趙匡胤に請うた。趙匡胤は、叔父・杜審肇の任官に消極的だった。だが、趙光義が強く叔父の任官を推したので、有能な官吏を通判として補佐役の部下に付けることを条件に、趙匡胤は、叔父・杜審肇を地方の知州事に任官することを特別に許可した。ほどなく杜審肇は澶州知州事に任命され、澶州通判・姚恕とともに任地に赴いた。趙光義にとっては、信頼する腹心・姚恕を地方に出向かせるのは断腸の思いであったが、無能な叔父・杜審肇を補助してやるためには、致し方のないことだった。姚恕は出立の前に友人の雷徳驤と酒を酌み交わし、互いに別れを惜しんだ。姚恕は雷徳驤に対し、杜太后の「兄終弟及」の遺詔のことや、宰相・趙普が雷徳驤を陥れようと策を巡らせていることを、洗いざらい打ち明けた。雷徳驤は、杜太后の遺詔の存在に大いに驚き、併せて陰険な趙普への激しい憎悪の念を煮えたぎらせた。
: さてその頃、宰相・趙普によって、皇帝・趙匡胤の父母を埋葬するための永安陵の土地選びが水面下で進められており、洛陽郊外の大まかな場所はすでに決定されていた。趙普は「皇長子・趙徳昭に、最終的・具体的な永安陵の位置を決定させましょう」と提言し、趙匡胤もこれを許可した。趙匡胤は15歳となった皇長子・趙徳昭を山陵使に任命し、永安陵の土地の視察・選択のために、洛陽に赴かせた。その後、判大理寺事・雷徳驤は、趙光義に授けられた策に従い、朝議の場において、憎き宰相・趙普の罪を告発した。雷徳驤は趙匡胤に対して断言した、「宰相・趙普が、執事・李可度に命じて、皇城郊外の民の土地・家を強引に安価で買い付けた」と。しかし趙匡胤は、「でたらめを言って朕の信頼する宰相を誹謗中傷した」と言って、雷徳驤に対して激怒し、雷徳驤を崇元殿から叩き出しして、朝堂の外で20回引きずり回しの刑に処した。酷な刑を受けた雷徳驤は、ぼろぼろな身体で朝堂に連れ戻され、趙匡胤から激しく叱責された。公衆の面前で大恥をかかされた雷徳驤は、衝撃・屈辱・失望により、心身ともに甚大な打撃を受け、そのまま病床に臥せってしまい、宰相・趙普への激しい恨み・憎しみを抱きつつ、危篤状態となった。
: 趙匡胤は、「雷徳驤が宰相・趙普を弾劾したのは、裏で趙光義が指図したからである」と見抜き、趙光義を勤政殿に呼び出して詰問したが、趙光義は、「雷徳驤と結託したことはない」ときっぱり言い切り、その事実を懸命に否定した。一方で趙光義は、「雷徳驤の告発は事実である可能性が高い」と趙匡胤に対して訴え、同時に「宰相・趙普をこれ以上重用し続ければ、趙普は驕り高ぶって更に専横を極めるはずだ」と趙匡胤に対して厳しく忠告した。趙匡胤は、実の弟・趙光義と宰相・趙普が互いに憎しみ合い、激しく対立する様子を見て、辛く悲しく思っていた。趙匡胤は、実弟・趙光義に対し、「国のために、頼むから宰相・趙普と以前のように仲良くしてくれ」と強く懇願した。趙光義はひとまずうわべだけは承諾したが、宰相・趙普への恨み・憎しみは心中で増すばかりだった。
: 翰林学士・廬多遜は、岳父・劉温叟と共に、病床の雷徳驤を見舞い、雷徳驤の病状が極めて深刻なものであることに、驚きを隠せなかった。廬多遜は趙匡胤のもとに赴き上奏した、「雷徳驤は、宰相(趙普)を弾劾して陛下の怒りを買い、朝堂の外で引きずり回しの刑に処され、ほどなく重病に臥せってしまいました。読書人は確かに自身の体面を最も重視しています。体面を自身の命よりも重視することさえ当たり前です。雷徳驤の病状は極めて深刻で、もはや危篤状態にあります。」と。趙匡胤は、太医・程徳玄に命じて、雷徳驤の病を治療させたが、雷徳驤の病は回復しなかった。趙匡胤は、自身の代理として趙光義を雷徳驤の屋敷に見舞いに赴かせた。一方危篤状態の雷徳驤は、「自分を陥れた仇・趙普を倒せ。」と息子の雷有隣に命じ、併せて「開封府尹・趙光義様は、将来皇位を継がれるはずのお方だから、彼を頼りなさい」と雷有隣に遺言した。ほどなく、趙光義が雷徳驤の屋敷にやって来た。雷徳驤は趙光義に対し、息子・雷有隣の将来と、仇敵・趙普への復讐を託し、そのまま息絶えた。雷有隣は、父の恨みを晴らすことを胸に固く決意し、趙光義に厚い忠誠を誓ってその腹心の部下となった。
: 趙匡胤は、雷徳驤の死を知って大いに驚き、ひどく嘆き悲しんだ。また趙匡胤は、「文人・雷徳驤の体面を考慮せずに度の過ぎた刑を科し、彼に大きな恥辱を与えてしまい、それが雷徳驤の直接的な死因となった」と考え、事態を重く受け止め、自身の犯した過ちを強く後悔・反省した。
【趙匡胤、苦衷の決断。皇長子・趙徳昭の成長】
: さて、趙光義の妻・符蓉は徐蕊と親交を結ぶために、度々福寧宮を訪れていた。何度か断られるも、やっと来訪に応じられた符蓉は、徐蕊に装飾品の礼品を贈ろうとしたが、その際不注意で徐蕊の筆立て(筆筒)を落としてしまった。そしてその筆立ての底面には、「乾徳四年鋳」と書かれていた。当時は宋の乾徳3年(965年)である。「乾徳四年鋳」とは、一見するとありえないことのように思えた。だが符蓉の見間違いとは到底考えられなかった。妻・符蓉から事情を聞き、「ひょっとしたら『乾徳』という年号が、前蜀でもともと使われていた年号かもしれない」と考えた趙光義は、腹心の翰林学士・廬多遜に前蜀の年号を調べさせると、見事にその年号が見つかった。その「乾徳」の年号は、46年前の西暦918年、前蜀皇帝・王衍が、皇位を継承した際に制定した年号で、約6年間前蜀の年号として使われていたものだった。崇元殿での朝議の場において宰相・趙普は、自身の学のなさを趙匡胤に責められ、すっかり委縮しつつ、懸命に釈明した。趙普はその後、必死に責任逃れをしようと、この事実を事前に知っていた翰林学士・廬多遜を責め立てた。だが廬多遜は、皮肉に富んだ口撃で趙普に巧みに反論し、趙普は窮地に追い込まれた。その後趙普は、廬多遜に責め立てられ、思わず逆上してしまった。趙光義は、慌てふためく趙普に皮肉めいた非難の言葉を浴びせ、趙普はぐうの音も出なかった。趙匡胤は、場を収めるべく、罰として宰相・趙普の顔面に自ら墨を塗った。宰相・趙普は酷い醜態を晒し、群臣たちから呆れられ、嘲笑される始末だった。趙光義・廬多遜・賈琰は、宰相・趙普を痛快にやり込め、彼に派手な醜態を演じさせたことを大いに喜んで、その夜祝杯を挙げて嬉しさの余韻に浸った。一方趙匡胤はというと、失態を犯した宰相・趙普への厚い信頼は依然として変わらず、「乾徳」の年号を来年・再来年も使い続けることを強く宣言した。また趙匡胤は、宰相・趙普に強く反省を促すと同時に、「趙光義・廬多遜らを恨んではいけない」と命じた。趙普は、趙匡胤の揺るがぬ信任に深く感謝し、以後自身の行いを改めることを強く誓った。
: さて、皇室寝陵の移動・建設準備の視察のために洛陽に赴いていた山陵使・趙徳昭は、自身の任務を適確にこなし、仕事を無事に終えて汴京に帰還していた。趙匡胤・趙普は、皇長子・趙徳昭のめざましい成長ぶりに目を細めた。また趙普は趙匡胤に対し、趙徳昭の婚姻と封王を強く勧め、「趙徳昭を晋王に封じ、貴州防御使に任じてはいかがですか」と提言した。趙匡胤は、趙徳昭の婚姻・封王の件はひとまず棚上げにした。
: その頃、長雨によって黄河沿岸において水害が勃発し、青州・鄆州では甚大な被害が発生し、民は家や家族を失い、困窮・流浪を強いられていた。水害の被害は、杜審肇・姚恕が赴任していた澶州も例外ではなかった。ただ澶州知州事の杜審肇は、酒色に耽って遊び惚け、ろくに仕事をせず、被災民の救済のことなど眼中になく、朝廷への水害報告も怠る始末だった。世直しのために各地を放浪していた韓珪は、澶州の甚大な水害を深刻視し、趙匡胤に文を届けて澶州の被災状況を詳細に報告した。趙匡胤は事態を大いに憂慮し、陳承昭を工部侍郎&左神武統軍に任命し、尚方宝剣を授け、欽差大臣として被災地である澶州・青州・鄆州の救済に赴かせ、併せて現地の職務怠慢者への免職処罰権、そして朝廷への即時報告権を与えた。また趙匡胤は、宰相・趙普の提言に従い、皇長子・趙徳昭を貴州防御使&欽差副使に任じて、欽差大臣・陳承昭に同行させることとした。欽差大臣の陳承昭と、欽差副使の趙徳昭は、黄河沿いに到着し、すぐさま水害の状況を調べた。そして澶州では范県にまで水害が及んでいると知り、改めて被害の深刻さに強く驚いた。陳承昭・趙徳昭は、范県に赴き、范知県に事情聴取を行った。范知県は、澶州知州事・杜審肇と澶州通判・姚恕に救済を要請していたが、全く対応してもらえず、范県は困窮しきっていた。范知県から窮状を聞かされた陳承昭・趙徳昭は大いに憤慨し、趙匡胤の命を受け、職務怠慢の澶州知州事・杜審肇と澶州通判・姚恕を解任・捕縛し、汴京に護送した。汴京に護送された杜審肇・姚恕は刑部大牢に収監され、審問と裁きを受けることとなった。趙匡胤は、重罪を犯した杜審肇・姚恕の二人を法に従って処刑したいと考えたが、杜審肇は亡き母・杜太后の唯一の弟で、自身の実の叔父であった。血縁を考慮すれば、趙匡胤は杜審肇を決して殺せなかった。朝議の場では、二人への処分を巡って喧々囂々と意見が入り乱れたが、最終的に趙匡胤は、「叔父・杜審肇を免官して庶民に格下げし、姚恕は処刑する」との判決を表明した。これが、趙匡胤にできる最大限の厳格な処罰であった。一方で趙匡胤・趙普は、被災地の救済で大いに活躍した皇長子・趙徳昭の著しい成長ぶりに大いに感心し、その能力・気概の高さに目を細めた。
【趙匡胤、宋華洋と再婚する】
: 3年の歳月が瞬く間に経ち、西暦968年となった。趙光義の妻・符蓉は、いまだに子がなく、しばしば大相国寺で子授け祈願を行っていたのだが、その際偶然、一人の見覚えのある可愛い女子を見つけた。彼女の名は宋華洋。宋朝の滑州節度使&使相・宋偓の娘である。二人は9年前、杜太后の万寿節で出会ったことがある。符蓉は、純朴で愛嬌に溢れる宋華洋のことを大いに気に入り、彼女のことを利用できるのではないかと考え、一計を巡らし、「宋華洋を義兄・趙匡胤の皇后に推挙したらどうか」と思い至り、趙光義にも相談した。趙光義・符蓉は、「御しづらい徐蕊に代えて、自分たちの新たな味方を皇宮に送り込みたい」と考えていたから、すぐに意見が一致し、趙光義は皇兄・趙匡胤に対して、宋華洋との再婚を提案した。趙匡胤は、王皇后(王月虹)を失って以来5年間、後宮に一切の嬪妃を置かず、独身を貫いていた。それは偏に、王月虹(王皇后)への愛情が異常なまでに大きすぎたからだ。趙匡胤は、自身の再婚の件を先延ばしにしようとしたが、趙光義ら群臣たちがあまりに強く勧めるので拒否し続けることもできなかった。
: 趙匡胤は覚悟を決め、ついに宋華洋と再婚することとした。このとき趙匡胤は42歳、宋華洋は17歳という25歳の年の差であった。婚礼の夜、趙匡胤・宋華洋の二人は、9年前の杜太后の万寿節で出会った際の思い出を語り合い、新婚初夜は良好な雰囲気に包まれた。皇后となった宋華洋は、邇芙殿にて起居することとなった。宋華洋(宋皇后)は天真爛漫で人懐っこい性格だったので、夫・趙匡胤や、趙京娘(燕国長公主)、趙婷婷(※趙匡胤の次女)らともすぐに仲良くなった。また宋華洋(宋皇后)は、楚国夫人・符蓉とも良好な関係であり、宋華洋は、彼女に敬意と感謝を示していたが、符蓉がいやに恩着せがましく接してくるので、だんだんと彼女への警戒感を強め始めた。一方で符蓉も、「素直で純朴すぎる宋皇后(宋華洋)は、自分の味方として上手く御するのが難しい」と感じだし、当初の目論見が狂ったことでやや頭を悩ませた。
: さて、宰相・趙普は、巨額の費用を投じて自身の屋敷を新築した。その邸宅は豪華絢爛で、京城において開封府と並んで比類なきものであり、趙普は極めて上機嫌になり、新築祝いに多くの朝廷の大臣を呼び寄せた。雷有隣は、「超普の邸宅新築費用の出所が極めて怪しく、また趙普は横領を行い、賄賂を受け取って不正に私腹を肥やしている」との情報を得て、「宰相・趙普を弾劾する絶好の機会である」と感じ、急ぎ開封府尹・趙光義に密告した。だが趙光義はあくまで冷静だった。趙光義は部下の雷有隣をなだめて言った、「大山を揺り動かさんと欲せば、激しき落雷のごとく大きな勢力が必要だ。」と。そして趙光義は、「今はまだ機が熟していない。暫し耐え忍び、趙普のもっと大きな罪証を見つけ、そのとき行動を起こすべきだ。」と雷有隣に説いた。雷有隣は、自身の軽率さに恥じ入り、趙光義の言いつけに従った。
: なお、開封府尹・趙光義は、自身の部下・宋琪が、趙普側の内応者であることを熟知しており、彼を仲間内から遠ざけ、一時は龍州の知州事に転勤させることに成功していた。宋琪は龍州で無事に勤めを終え、汴京に帰還し、趙光義のいる開封府に挨拶に出向いた。趙光義は、宋琪が趙普側の間者であることを逆手に取り、策を弄して趙普を罠にはめることに成功し、大いに心中ほくそ笑んだ。
【北漢との激闘。名将・楊継業の奮戦】
: さて、もと北漢の宰相である中書舎人・衛融は、北漢にいる従弟・恵磷から密書を受け取り、それを趙匡胤に届け出た。この恵磷という男は、同窓の北漢宰相・郭無為の推薦を受けて、北漢の供奉官となっていた。恵磷は、従兄・衛融に密書を送り、北漢国主・劉鈞の死と、その養子・劉継恩の即位を報告した。新たに即位した北漢皇帝・劉継恩は、粗暴な性格で定見がなく、朝令暮改を繰り返し、群臣の不平不満が募っていた。宰相・郭無為は、新帝・劉継恩との間に確執が生じ、君臣で激しく対立するようになり、恵磷の説得によって、劉継恩への謀反を決意していた。また恵磷は、盟約を結んでいた北漢と遼の関係が悪化状態にある旨も伝えた。恵磷は、北漢を見限って宋に投降することを決意し、宋側の内応者となることを申し出た。併せて恵磷は、北漢の名将・楊継業の失脚の事実も報告し、「今こそ、宋が北漢を平定する最高の機会ですから、ぜひ出兵していただきたい」と宋朝皇帝・趙匡胤に強く促した。趙匡胤は恵磷の密書を読み、大いに喜び、衛融に命じて恵磷に返信することとした。趙匡胤は返書の中で恵磷に対し、「宰相・郭無為を説き伏せ、彼とともにできるだけ多くの北漢の文武大臣を宋に帰順させよ」と命令した。また趙匡胤は、返書の中で、帰順した文武大臣たちへの厚遇を固く約束した。
: 趙匡胤は勤政殿の縁側に、趙普・李崇矩・楚昭輔を呼び出し、北漢征伐に関して協議を行った。宰相・趙普は強く進言した、「北漢国主・劉継恩と宰相・郭無為は極めて不仲であり、郭無為が北漢の朝廷から排除されることは目に見えています。それゆえ郭無為は宋側の内応者にはなりえないでしょう。また『先南後北』の天下平定策を打ち出したのは陛下(趙匡胤)御自身であります。どうして簡単にその方針を変えられましょうか。」と。枢密使・李崇矩も、宰相・趙普に賛同して言った、「内乱によって国力を衰退させてから北漢を攻撃しても、決して遅くはないでしょう。」と。三司使・楚昭輔は進言した、「北漢への出兵には、莫大な兵力と軍需品・糧食が必要です。戦に備え、早急に準備をしておかなければ、恐らく開戦までに準備が間に合わぬと思われます。」と。趙匡胤は楚昭輔に堂々と反論した、「兵は神速を貴び、敵の不意を突いてこそ、勝利を得られるのだ。すべての準備が整うまで悠長に待っていれば、きっと戦機を誤ることとなる。」と。宰相・趙普は、それでも北漢征伐への反対意見を述べた、「帝王の出兵には、大義名分が必要です。我が宋と北漢は比較的良好な関係を維持しており、目下出兵の理由がありません。」と。趙匡胤はそれでも強く反論した、「朕が即位したばかりの頃、北漢国は『李筠の乱』に協力して援軍を送り込んだ。これが、北漢征伐のための確かな大義名分である。」と。
: さて宋開宝元年(968年)9月、北漢では内乱が勃発し、即位したばかりの暗君・劉継恩は、在位2か月ほどで近臣によって殺害されてしまった。北漢国宰相・郭無為は、暴君・劉継恩の死を喜び、劉継恩の同母異父弟で、劉鈞の養子でもあった劉継元を新帝に擁立し、そのまま即位させた。この北漢の新皇帝・劉継元は、無能で粗暴な皇兄とは違い、英明で見識の深い君主だった。即位した劉継元はまず、宋の侵攻という深刻な問題に直面した。開宝2年(969年)正2月、宋の将軍・李継勲は、4万の大軍を率いて北漢を攻撃した。北漢の大将軍・馬峰は必死に防戦するも、苦戦を強いられた。北漢皇帝・劉継元は、「北漢の6万の大軍をもってすれば防衛できる」と強気な姿勢を見せたが、北漢の承旨学士・李惲はその強硬姿勢に厳しい見解を示した、「李継勲の4万の軍は宋の先鋒部隊に過ぎず、後続として宋の更なる大軍が来襲することは間違いありません。」と。そして李惲は、恵磷の策に嵌められ謀反の冤罪で大牢に収監されていた将軍・楊継業の潔白を、劉継元に対して猛烈に主張し、楊継業を再起用するよう強く劉継元に説いた。群臣たちもこれに続き、楊継業の冤罪とその再起用を強く劉継元に訴えた。劉継元は群臣たちの説得に従い、すぐに楊継業を牢から釈放し、朝堂に召し出した。劉継元は、群臣たちが見つめる中、楊継業の冤罪をきっぱりと晴らした。そして劉継元は、楊継業に国姓である「劉姓」を授け、また彼を建雄軍節度使に任じて、楊継業を北漢の大将軍に復帰させた。楊継業は、新帝・劉継元の大恩に深く感謝し、劉継元への厚い忠誠を誓った。更に劉継元は、大将軍・楊継業を、対宋軍戦における南面行営都部署に任命し、京城の禁軍2万を授け、敵を撃退させることとした。楊継業は喜び勇んでこれを拝命し、急ぎ軍を率いて出陣した。また劉継元は、承旨学士・李惲に自身の親書を預け、救援要請の使者として遼国に赴かせた。李惲は遼国の都・上京に赴き、皇宮の宣政殿にて遼・穆宗(耶律璟)に謁見した。李惲は巧みに耶律璟を説き伏せ、これによって北漢は遼国の援軍を得ることに成功した。
: 名将・楊継業を起用し、遼の援軍を得た北漢軍は、宋軍の先鋒・李継勲の軍を撃退し、さらには勢いにのって追撃し、宋の領土である晋州・絳州までをも制圧した。宰相・趙普は撤兵を進言したが、趙匡胤はその進言を聞き入れず、強硬に親征を宣言した。開封府尹・趙光義も、皇兄・趙匡胤の親征に強く賛意を示した。しかし中書舎人・衛融は、趙匡胤の親征に反対し、「ひとまず内応者・恵磷からの知らせを待つべきだ」と強く説いた。趙匡胤も衛融の言を受け入れ、ひとまず事態を静観することとした。
: 2か月後、北漢の宋側の内応者・恵磷から、遼穆宗(耶律璟)の死を伝える密報が届いた。耶律璟は粗暴な性格であり、周囲の恨みを買い、近侍によってあっけなく殺害されてしまったのだ。耶律璟の死後、耶律賢(※遼世宗の息子。遼穆宗の従甥)が即位。遼の国内では動乱が続き、北漢の援助などにかまってはいられず、遼軍はついに戦地から撤退した。趙匡胤は、遼軍の撤退を天が与えた絶好の機会であると考え、親征を決意。3日後の出陣を宣言した。趙匡胤は、三司使・楚昭輔を北征諸路転運使に任じ、「3日以内に、親征に必要な全ての軍需品・糧食を準備し、その調達・運搬の責任を負うべし」と命じた。楚昭輔は、「とても3日では準備できません」と訴えたが、趙匡胤は「なぜもっと前もってちゃんと準備していなかったのだ」と激怒し、「3日以内に軍需品・糧食を全て準備できなければ処刑する」ときつく楚昭輔に忠告した。楚昭輔は大いに焦って、政事堂に赴き、宰相・趙普に助けを求めたが、趙普は楚昭輔の要請を断固拒否し、彼をたたき出した。楚昭輔には何ら打つ手なく、「万事休す」とはまさにこのことだった。だが開封府尹・趙光義は、「窮地に陥った楚昭輔に助け舟を出してやれば、楚昭輔は自分に大恩を感じ、以後本当に忠実な手先となって働いてくれるだろう」と考えた。そこで趙光義は一計を案じ、開封府の蓄えを惜しまず差し出し、楚昭輔の軍需品・糧食の準備を大いに手助けしてやった。これにより楚昭輔は、なんとか3日以内に軍需品・糧食を準備することができ、絶体絶命の窮地を脱することができた。自分の危機に何ら手助けをしてくれなかった宰相・趙普と、自分の危機を懸命に救ってくれた開封府尹・趙光義。この二人を天秤にかけ、楚昭輔がどちらに忠誠を誓うかは一目瞭然であった。
: 宋開宝2年(969年)4月、趙匡胤は20万の大軍を率いて北漢を攻撃。宋の大軍は濾州に入ったが、その直後長雨が続き、18日間進軍を中止せざるを得なくなった。その後趙匡胤は急いで進軍したが、団柏谷において北漢の大将軍・楊継業の奇襲攻撃を受けた。宋軍はこの奇襲攻撃に頑強に抵抗し、楊継業の軍は敗れ、太原(※北漢の都)に向かって撤退した。しかしそれでも楊継業は、要道の汾河橋にて再び堅く守りに徹し、宋軍に勇敢に抗戦した。だが趙匡胤は、激闘の末、再度楊継業の軍を打ち破った。これにより楊継業は、再撤退を余儀なくされ、趙匡胤率いる宋軍は、北漢の国都・太原の城下にまで迫った。宋軍は四方を囲み、猛攻を開始。しかし楊継業は善戦し、太原を1か月守り抜いた。趙匡胤は将軍・楊継業の能力に惚れ込み、「必ず楊継業を自身の配下にして、天下統一事業を手伝わせたい」と強く願った。趙匡胤率いる宋軍は、楊継業らの抵抗に苦戦し、太原攻めに手を焼いていた。一方で北漢は、密かに遼に使者を派遣し、打倒宋軍のための援軍を要請した。「北漢が遼との再連携を図っている」と知った趙匡胤は、陳承昭に命じ、かねてより進めていた太原城水攻めの準備を急がせた。水攻めは、太原城内の無辜の民の命までも犠牲にする戦法であり、本来上策とはいえなかった。そのため趙匡胤は、太原城内に矢文を送り、北漢皇帝・劉継元に対して「三日以内に開城して降伏しなければ、太原城を水攻めして北漢を滅ぼす」との最後通牒を突き付けた……。
: 北漢の宰相・郭無為は、暗君・劉継恩の不慮の死に乗じて聡明な皇子・劉継元を新帝に擁立した人物である。宰相・郭無為は本来、友人の供奉官・恵磷に唆されて宋側の内応者になりかけていたが、それは暗君・劉継恩が憎かったが故であり、自分の推戴した新帝・劉継元には厚く忠誠を誓っていた。郭無為は、宋側の内応者をやめ、しばらくは新帝・劉継元のために力を尽くして働いていた。だが郭無為は、宋が北漢に最後通牒を突き付けたことで流石に怖気付き、皇帝・劉継元に対して宋への降伏を強く説いた。楊継業・李惲は、郭無為の唱える降伏論に断固反対し、宋への徹底抗戦を説いた。また皇帝・劉継元も宋への降伏を良しとせず、郭無為の必死の説得に従おうとはしなかった。失望した宰相・郭無為は、自害するふりをして劉継元を脅迫し、降伏論を飲ませようとしたが、承旨学士・李惲は郭無為の死諫の芝居を見破り、降伏論を封じるべく本当に郭無為を刺し殺した。加えて、宋側の内応者・恵磷も誅殺され、北漢の方針は、「降伏拒否の徹底抗戦」と決まった。
: 趙匡胤はついに覚悟を固め、太原城の水攻めを決行した。張瓊は、小舟隊を率いて太原城を攻撃した。北漢皇帝・劉継元は、城楼に登って戦いを自ら指揮し、大将軍・楊継業も必死に反撃した。宋軍は全力で太原城を攻めたが、折悪しく大雨が降り、深刻な損失を受けた。戦地・太原の辺り一面が大水に溢れ、宋軍の水攻めにまで甚大な悪影響を及ぼしたのである。
: かつて後周世宗が寿州を攻めた際、趙匡胤は決死隊を率いて渡河を行った。だがそのとき、折悪しく暴風雨に見舞われ、趙匡胤は兵を退かざるを得なかった。趙匡胤には、水攻めに関しての苦い経験があった。だからこそ趙匡胤は、今回の太原水攻めはなんとしてでも成功させ、その暗い過去を払拭したかった。目下、太原城の城壁はすでに崩れ落ちているのに、戦機を逸することはできない。趙匡胤は興奮し、「自ら水攻めに出陣して将士たちを激励し、太原を一気に陥落させよう」と考えた。しかし宰相・趙普は、趙匡胤の出陣に猛反対し、「行くなら私を殺してからにしてください」と諫めた。その後、陳承昭や高懐徳らも趙匡胤の出陣に反対。趙匡胤は、ひとまず陣頭指揮を諦めるしかなかった。また折悪しく、宋軍の陣中では疫病が流行し、死傷者も非常に多く出た。さらには、「遼の大軍が援軍に駆け付けようとしている」との情報も飛び込んできた。趙匡胤は、「これ以上犠牲を増やすわけにはいかぬ」と考え、苦渋の撤兵を決意した。趙匡胤の北漢への親征は、非常に残念で口惜しい結果に終わってしまった。一方これにより北漢は絶体絶命の窮地を脱し、あと10年ほど、その命脈を保つことになった……。
【張瓊の死】
: 北漢征伐に失敗し、趙匡胤は無念のうちに帰国した。さて開封府尹・趙光義は、杜太后の「兄終弟及」の遺詔を履行するためには、宰相・趙普を打倒するだけでは十分ではないと考えた。趙光義は、なんとかして兵権を手中に収め、万一の時の備えにしたいと考えた。目下、宋朝で京城の兵権を握る主要人物は4人。一人目は、水虎捷軍都指揮使・宋偓だが、彼は趙匡胤の岳父であり、用いることは不可能である。二人目は侍衛馬軍都指揮使・張永徳である。彼は趙光義とかねてより懇意の仲であった。三人目は、侍衛歩軍都指揮使・高懐徳。彼は趙匡胤の義兄で、皇帝への忠誠厚い人物だ。そして四人目は禁軍都指揮使・張瓊である。趙光義は、張瓊が最も利用しやすいと考え、彼を買収しようと考えた。趙光義は、開封府推官・賈琰を駙馬府に派遣し、酒20壺と銭千貫を贈って張瓊を抱き込もうと考えた。しかし張瓊は皇帝・趙匡胤への忠誠一筋で、趙光義からの不正な贈り物は断じて受け取らなかった。趙光義は、「張瓊は御しづらい人物であり、利用するのは難しい」と考えた。賈琰は趙光義に対して、「張瓊を排除して符昭寿を後任の殿帥に据えるべきだ」と提案し、ある密策を提案し、趙光義はそれを受け入れた。
: 趙光義・賈琰は、宦官・王継恩に密命を下し、ある夜に後宮に放火させた。後宮の一部から出火している様子を見た張瓊は大いに慌て、宮中の規則を破り、兵士たちを率いて後宮に突入して、必死の消火活動にあたった。これにより後宮偏殿での火事は、被害が最小限に食い止められた。趙匡胤は、張瓊の迅速的確な消火活動を称賛し、褒美として銭千貫を与えようとした。しかし趙光義はこれに反対し、「張殿帥(張瓊)の褒賞を取り止め、逆に彼を罰して下さい」と請うた。趙光義はその理由を説いた、「張殿帥(張瓊)は確かに消火に功がありますが、朝廷の重大な規則に背きました。勝手に兵を率いて宮中に押し入るという重罪を犯したのにも関わらず、これを褒賞すれば、他日良からぬ事を考えた他の輩が、またも兵を率いて宮中に押し入る可能性があります。」と。知制誥・廬多遜もこれに賛同して言った、「古来より、いかなる外臣も、無断で兵を率いて宮中に押し入ってはならぬものです。張殿帥(張瓊)は消火のためとはいえ、陛下の許しを得ずに宮中に兵を率いて押し入り、朝廷の重大な規律に違反しました。これは絶対に重罰に処さねばならぬ案件です。」と。張瓊は怒って反論した、「陛下の許しを待ってから消火に当たれば、後宮の火事の被害が甚大なものとなっていたのは明らかだった。」と。趙光義は強く説いた、「『宮中に兵を率いて入ってはならぬ』というこの重大な規律は、すべて禁軍の謀反を防ぐためにあるものです。もし張瓊を罰しなければ、叛逆の心を抱いた近臣が、同じ口実を借りて宮中に兵を乱入させ、大禍を引き起こすでしょう。」と。張瓊は激怒し、自分に対していわれのない誹謗中傷をした趙光義のことをひどく罵った。趙匡胤も趙光義・廬多遜の意見を聞いて考えを改め、張瓊を罰さざるを得なかった。趙光義は趙匡胤に対して言った、「張瓊は死罪に相当する罪を犯しましたが、過去の大きな功績を鑑みて、目下の殿前都虞侯の職を解くのが妥当のように思います。後任の殿前都虞侯には、別の者を立てればよいでしょう。」と。趙匡胤は、張瓊の殿前都虞侯の職を解き、新たに軍巡鋪指揮使に任命した。軍巡鋪とは、皇城・京城の防火・消火活動を管轄する計200人の小部隊のことである。張瓊は降格処分を不満に感じ、大酒を飲んで憂さを晴らした。趙京娘(燕国長公主)は、夫・張瓊が不当な降格処分を受けたことに憤慨し、義兄・趙匡胤のもとに赴いて、夫・張瓊の無実を訴え、降格処分の撤回を請うた。趙匡胤も、張瓊の潔白と厚い忠誠心は強く理解していた。だが趙匡胤と張瓊は、20年来の義兄弟という親密な関係にある。たとえ故意ではなくとも罪を犯した張瓊を許せば、周囲に対して示しがつかない。そこで趙匡胤は、ひとまず張瓊を降格処分にしつつも、殿前都虞侯の職位は空位のままにしておき、張瓊が後日手柄を立てた際、殿前都虞侯の原職に復帰させるつもりであった。京娘は、義兄・趙匡胤の真意を汲み取り、ひとまず安堵した。
: さて、趙光義・廬多遜・賈琰は、趙匡胤の張瓊への揺るぎない厚い信頼を強く察し、「符昭寿を後任の殿前都虞侯(殿帥)に据えるためには、張瓊を葬り去るしかない」とまで考えるようになり、一計を案じた。その頃、張瓊は軍巡鋪指揮使の職にありつつも、鬱蒼とした日々を過ごし、部下たちと大酒に明け暮れていた。張瓊の侍従・孫岩は、酒の席において、ごく些細な失言によって上官の張瓊の激しい怒りを買ってしまい、張瓊に酷い虐待を受け、張瓊を激しく恨み憎むようになった。賈琰は、この孫岩に目を付け、彼を利用しようと一計を巡らせた。賈琰は偽名を使って孫岩に接近し、孫岩を巧みに唆し、買収した。孫岩はすっかり賈琰に取り込まれ、賈琰の指示に従い、御史台に赴いて、張瓊の謀逆の罪を告発した。孫岩は御史台において、「張瓊が100人の私兵と大量の武器を家に隠し込み、謀反を企んでいる」と証言した。宰相・趙普は、孫岩の告発を信じようとしなかった。一方で趙光義は、「張瓊の謀反の嫌疑の背後には黒幕がいるのではないか?」ともっともらしいことを言ってみせた。趙匡胤は事実確認のため、勤政殿に孫岩と張瓊を呼び出し、対質させた。だが張瓊は、自分を誣告した部下の孫岩に対して激怒し、無作法にも勤政殿においても孫岩を激しく殴りつける有様で、厳かな対質は全く体を成さなかった。趙匡胤は事情聴取のために、張瓊を厳しく詰問した。張瓊は必死に弁明したが、埒が明かなかった。趙匡胤は張瓊に対して激怒し、張瓊を刑部大牢に収監した。一方で趙光義は趙匡胤に対して進言した、「張瓊の白黒をはっきりさせたいのなら、一度駙馬府を直接調査するべきでしょう。」と。趙匡胤はその言を受け入れ、趙光義・趙普・劉温叟とともに駙馬府を厳しく調査した。するとなんと、駙馬府から大量の私蔵武器が押収された。趙京娘は大いに驚き、義兄・趙匡胤に対して強く訴えた、「夫・張瓊は、悪人に騙されて僅かに魔が差しただけでしょう。どうか張瓊のことを信じて下さい。」と。趙匡胤は愕然としつつ、御史中丞・劉温叟に命じ、張瓊謀反疑惑の事件について徹底的に調べさせることとした。
: 一方、事態を強く深刻視した趙京娘は、夫・張瓊の安否確認と正確な事情聴取のために、刑部大牢に赴き、強引に張瓊のもとを訪ねた。趙京娘は夫の張瓊に差し迫った状況を説明し、「全て正直に事情を話して欲しい」と強く請うた。ただ、義兄・趙匡胤への忠義一筋の張瓊が、謀反の心など抱こうはずもない。張瓊は、「自分は孫岩の栽臟によって陥れられたのだ」と主張し、決して無実の罪は認めなかった(※「栽臟」とは、盗品または禁制品をこっそり他人の家や荷物の中に入れておいて、冤罪を着せることである)。趙京娘は、夫・張瓊に真相を吐かせ、なんとか彼の命を救いたかった。だが無実潔白の張瓊に、嘘でたらめの供述などできるはずもない。張瓊は、自分の宿命に絶望し、妻の京娘に熱い愛情を伝えた後、ただ自分の潔白を義兄・趙匡胤に証明するために、自刎して命を絶った。
: 張瓊の自害を知り、趙光義・賈琰はひとまず喜んだが、心中の不安は拭い去れなかった。趙光義・賈琰は、張瓊謀反疑惑の事件を完全な迷宮入り事件にすべく、部下の葛覇に命じて、事件の重要証拠人である孫岩を口封じのために抹殺した。宰相・趙普は、「一連の事件の黒幕が趙光義である」と信じて疑わなかった。だが孫岩が口封じのために殺され、事件の確証がなくなってしまったので、ひとまず趙普はその嫌疑を告発せずに、矛を収めるしかなかった。
: 趙匡胤は、事件の真偽を明確に調査せぬうちに忠臣を死に追いやってしまったことを激しく後悔し、強く自責の念に駆られた。国法において皇帝は治外にあるが、公理に基づけば皇帝といえどもその罪は許しがたいものである。趙匡胤は、旧駙馬府の義妹・京娘(燕国長公主)のもとを訪れ、京娘に深く謝罪した。そして趙匡胤は贖罪のために、黄袍を自分の身に見立て、自らの手で一刀両断に切り裂いた。趙京娘は、義兄・趙匡胤の深い後悔・謝罪の意思を汲み取り、趙匡胤を許した。趙匡胤は、自らの軽率さ・激情により、鄭恩に続いてまたしても自身の結義兄弟を失う結果となった。趙匡胤の悲痛は、筆舌に尽くしがたいものであった。
【符昭寿の死。韓珪の新たな門出】
: 開宝3年(970年)、宋では再び科挙が実施されることとなった。主考官を務める宋琪は、刑部侍郎・陶谷をはじめとして多くの大臣から多額の賄賂を受け取り、一部の受験者を不正に合格させ、その一方で優秀な人材を相次いで落第させた。合格発表がなされると、受験者の魯梁・徐士廉らは選考における不正を激しく疑った。さてその頃、世直しのために各地を放浪し、汴京に戻って来ていた道士・韓珪は、主考官・宋琪や大臣・陶谷らの、科挙選考における不正を密かに調べ上げ、合格発表の日に、黄榜(※進士試験合格者の掲示)の前に集った受験生のもとに現れ、当科挙選考における深刻な不正を堂々と摘発した。魯梁・徐士廉をはじめとする受験生は皆憤慨し、韓珪と共に御史台に赴いて科挙の不正を告発し、科挙のやり直しを強く要求した。趙匡胤は事態を重く受け止め、不正を犯した主考官・宋琪を解任し、新たに主考官に廬多遜を任命して、不正対策を厳重に行ったうえで、科挙の再試験を実施した。殿試は無事に終わり、厳正なる選考の結果、受験生の魯梁が状元となった。魯梁は、沈義倫の愛弟子であり、もとは国子監の学生であった人物である。重臣・沈義倫の愛弟子・魯梁が状元となれば、当然自身の脅威になり得る可能性がある。趙普の心中はあまり穏やかではなかった。科挙の主考官を無事に務め上げた廬多遜は、趙匡胤に称賛され、褒賞として1年分の追加俸禄を得た。一方趙匡胤は、不正を犯した翰林学士・宋琪の一切の職を免じて庶人に落とし、不正に関与した翰林学士承旨&刑部侍郎・陶谷を翰林学士承旨&刑部員外郎に降格した。宰相・趙普は、期待をかけていた自身の腹心・宋琪と陶谷が、大それた罪を犯したことに、驚きと怒り・失望を隠せなかった。趙普は自身の屋敷に陶谷を呼びつけ、厳しく叱責して改心を促した。一方で開封府尹・趙光義は、憎き趙普の失態や腹心の部下・廬多遜の活躍により、大変気分を良くした。
: 御史中丞・劉温叟は、廬多遜を宋琪の後任の科挙主考官に推挙する一方で、科挙の不正撲滅のための対策にも注力していた。趙光義は、「劉温叟に感謝・慰労の意を表す」との名目で、部下の賈琰を御史台官署に派遣して、劉温叟に礼物の贈り物をした。趙光義はかつて、呂余慶を救うために劉温叟を買収しようと銭5000貫の賄賂を贈ったことがある。今度は2回目の贈り物であり、進物箱の中には金銀珠宝が大量に入っていた。劉温叟は清廉実直な大臣であり、他人からの不正な贈り物は決して受け取らなかった。ただ劉温叟は、趙光義の贈り物に限ってはその顔を立てて形式上は受け取っていたが、進物箱には固く封をして自宅で厳重に保管し、いずれ全て朝廷に寄付しようと考えていた。劉温叟は賈琰に対し、「自分は大尹(趙光義)の面子を重んじて贈り物を一応受け取るが、決して私用することはない。いい迷惑だから、もう二度と贈り物はしないでくれ。」と強く暗示した。腹心・賈琰から事情を聴かされた趙光義は、「自分が劉温叟を買収しようとした事実が、皇兄・趙匡胤の耳に入り、厳しい追及を受けるのではないか?」と強く心配した。だが賈琰はいたって冷静で、趙光義に対し、万一の窮地を打開するための奇策を授けた
: 劉温叟は、宰相・趙普に対し、趙光義から贈られた二度の巨額の贈り物の件について相談した。宰相・趙普は驚き、また「趙光義が朝廷の重臣を買収しようとした」という事実を強く深刻視し、すぐに勤政殿に出向いて、趙匡胤に対して、趙光義の罪を告発した。趙匡胤は、勤政殿に趙光義を召喚し、厳しく事情聴取を行った。しかし趙光義は、賈琰の策にもとづいて、臆することなく巧妙な弁解を行い、皇兄・趙匡胤を騙して窮地を脱することに成功した。
: 趙光義は、自分を危機に陥れた趙普に反撃するために、今度は自身が「宰相・趙普の新築した邸宅があまりに豪勢すぎる」と趙匡胤に対して密告した。趙匡胤は、高懐徳とともに、新築の宰相府を訪ねた。するとその宰相府があまりに豪華絢爛であったため、趙匡胤は驚きと不信感を少なからず抱いた。また、「新築の宰相府が、枢密使・李崇矩が趙普のために用意したものである」と知った趙匡胤は、趙普・李崇矩の結託を確信し、併せて、趙普の勢力の増大を強く実感した。
: 趙普の地位が高まるにつれて、その権力は当然増大した。宰相・趙普は、功に拠って次第に傲慢な性格に豹変した。実は趙匡胤も、早くからすぐに趙普の豹変には気付いていた。趙匡胤は、趙普の自分への忠誠心こそ深く信じていたが、同時に「趙普が異常なほどに権力欲の強い人物である」ということも強く実感していた。自分が生きているうちはまだ良い。だが自分の死後、誰も宰相・趙普を制御することはできない。趙匡胤は、趙普と趙光義の長年の暗闘に強く胸を痛めつつ、宋の将来への不安を強く感じ始めた。
: 翌開宝4年(971年)、宋は南漢を征伐し、容易くこれを滅ぼした。南漢皇帝・劉鋹は宋軍の捕虜となり、汴京に護送された後、王侯に封じられた。これにより十国のうち、残ったのは江南国(南唐)・北漢・呉越国の3か国のみとなり、趙匡胤の天下統一の大志は、また一歩実現に近づいた。
: そして翌開宝5年(972年)となった。その頃、洛陽にいた将軍・符昭寿は、日々酒色に溺れ、街で美女を見つけさらっては強姦するなど、不法の限りを尽くしていた。符昭寿はある日、街で極上の美女を見つけ、例のごとくさらい、強姦しようとした。その頃、世直しのために各地を放浪し洛陽を訪れていた道士・韓珪は、偶然にも符昭寿の荒淫無道な不法行為を目の当たりにし憤慨。符昭寿を監視し、符昭寿に強姦されそうになっていた美しい女子を救出した。その美女の名は姫燕珏、彼女は洛陽の一介の民である。韓珪は姫燕珏に対し、「符昭寿によって父親はすでに殺された」と打ち明けた。姫燕珏はひどく嘆き悲しみ、父の仇を取ってその無念を晴らすべく、韓珪とともに汴京に赴き、御史台を通して趙匡胤に謁見し、符昭寿の大罪を趙匡胤に対して告訴した。さらに韓珪は、符彦卿にも数多の汚職不正の嫌疑がかかっていることを告発。趙匡胤は事態を非常に重く受け止め、御史中丞・劉温叟を洛陽に派遣し、符昭寿の起こした事件並びに符彦卿の収賄不正について詳細に調査させることとした。趙光義は符彦卿・符昭寿父子の危機を知って大いに焦り、洛陽にいる二人に差し迫った状況を急ぎ伝え、併せて廬多遜を劉温叟の屋敷に出向かせ、事態の穏便な終結に一縷の望みを賭けた。廬多遜は、いくつかの理由を並べ立てて、岳父・劉温叟に対し、「符彦卿・符昭寿父子への調査には手を緩めて下さい」と強く説得した。ただ、剛直無私な劉温叟が、そんな説得を受け入れるわけがない。劉温叟の考えはただ、噓偽りのない公平・正確な調査をすることだけである。
: 訴訟事件の調査のため、劉温叟は洛陽に赴いた。符昭寿は劉温叟を歓待して、彼を巧みに抱き込もうとしたが、鉄面剛正な劉温叟はその歓待を決して受けようとしなかった。劉温叟に自分の好意を踏みにじられた符昭寿は激怒し、劉温叟に不遜な言を吐き、傲慢無礼な振舞いの限りを尽くした。そこに符彦卿が現れ、野蛮な振舞いをする息子・符彦卿を強く𠮟りつけ、その場から下がらせると、劉温叟に懇ろに相談し、息子・符昭寿の犯した罪を隠し立てし、必死に息子・符昭寿を庇い通そうとした。その一部始終を目撃した韓珪は憤慨し、「あくまでも符昭寿の犯した罪を世間に示し、彼を正当に裁くべきだ」と劉温叟・符彦卿に対して強く説いた。符彦卿は、韓珪の無礼な言に激怒した。魏王・符彦卿は、息子・符昭寿を贔屓し守り通すために必死だった。
: 趙匡胤は、義弟・符彦卿が罪を犯し、気が休まらなかった。趙匡胤は訴訟事件の徹底調査を決意し、高懐徳を符彦卿の後任の洛陽留守に任じ、併せて劉温叟に尚方宝剣を授け、強い自己裁量権を与えた。趙光義は、荒淫無道で放蕩の限りを尽くす符昭寿が、自身の大業の大きな足手纏いになると考え、部下の葛覇に命じ、符昭寿を暗殺することにした。一方、趙光義の妻・符蓉は、兄・符昭寿と父・符彦卿をなんとか救いたいと考え、宋皇后(宋華洋)に対して、「符彦卿・符昭寿の二人に法外の恩赦を賜るよう皇帝・趙匡胤に取り成して欲しい」と強く懇願した。しかし宋皇后は、後宮が政治に関与するのを良しとせず、「あくまで符昭寿・符彦卿の罪を公正・厳格に裁くべきだ」と考え、符彦卿・符昭寿のための取り成しは決して行わず、趙匡胤にも自身の率直な考えをきっぱりと伝えた。趙匡胤は、宋皇后の道理をわきまえた公正無私な姿勢を強く喜んだ。
: 趙光義は、部下の葛覇を洛陽への使いに出し、符彦卿に対して、表向きは符昭寿の逃亡を勧めた。父に逃亡を命じられた符昭寿は、最初それを嫌がったが、事態が非常に緊迫していることを知り、生き延びるためにやむなく逃亡を開始した。一方符彦卿は、趙匡胤の命令によって洛陽留守の任を解かれた。そして符彦卿は、汴京に護送され、自宅謹慎して反省に努めることとなった。なお符昭寿は、逃亡中に泊まった宿で、葛覇に暗殺されそうになった。ところが、韓珪が寸でのところでこれを救出したため、符昭寿は一命を取り留めたものの、無事韓珪のお縄にかかった。葛覇は暗殺に失敗し、負傷して開封府の趙光義のもとに戻った。趙光義は、符昭寿が汴京に護送される前になんとしてでもなんとか事に蹴りを付けたいと考え、再度葛覇に符昭寿暗殺を命じた。さて、韓珪に捕縛された符昭寿は、劉温叟・高懐徳のもとに引っ立てられた。符昭寿は、義兄・高懐徳に助けを求めたが、大罪を犯した符昭寿を助けられようはずもない。高懐徳は厳しく符昭寿を叱責し、観念するように促した。符昭寿は激怒し、「我が妹夫の趙光義が皇帝になった暁には、俺はお前たちの九族を誅滅してやる!!!!」と暴言を吐き、劉温叟を口汚く罵倒した。符昭寿の野蛮な振舞いに、高懐徳・劉温叟・韓珪の三人は大いにあきれ果てた。
: 捕縛された符昭寿は、劉温叟・韓珪らによって、洛陽から汴京に護送されることとなった。夜、彼らは林道にて宿営することとなったが、葛覇は皆が眠ったのを見計らい、単身宿営場所に乗り込み、一思いに符昭寿を暗殺し、迅速に逃亡した。韓珪・劉温叟は、符昭寿が暗殺されたのを地団駄踏んで悔しがるも、後悔先に立たずであった。
: 劉温叟は汴京に帰還し、趙匡胤に尚方宝剣を返還し、復命を行った。劉温叟は趙匡胤に対して報告した、「符家父子には確かに大罪がありました。城外の7000畝の土地を不法に占領し、私的に税賦を徴収していたのです。また符昭寿は多数の民間女性を見初めては強引にさらい、強姦された女性のうち5人は自害したのです。」と。そして劉温叟は、趙匡胤に事件の詳細な調査報告書を提出した。趙匡胤はある不穏な噂に関して劉温叟に問うた、「符昭寿は死ぬ前に、『趙光義が将来皇帝になる!!』と言ったそうだが、それは誠か?」と。劉温叟はその質問を肯定し、「高懐徳・韓珪もその証人です」と述べた。趙匡胤は、大罪を極めた符父子に唖然とするしかなかった。符彦卿は、自身の収賄不正の罪を断じて認めず、劉温叟による家宅捜索後も確かに証拠は見つからなかった。一方で趙匡胤は、符昭寿が暗殺されたことに強く憤慨し、劉温叟に対して、「いったい誰の仕業なのか?」と問うた。劉温叟には見当もつかなかった。趙匡胤は、符昭寿の死に強い不信感と疑念を抱いていた。符昭寿の死は、大罪を犯した報いであるといえなくもない。だが、世人の怨恨を鎮静化するためにも、正当な法で符昭寿を処刑する必要があったはずだ。趙匡胤は、義弟・符昭寿の死に対して、驚き・怒り・憤慨・悲しみ・疑念など、様々な感情が入り乱れ、ひとまずは彼の遺体を符王府に送り届けてやることしかできなかった。符昭寿が殺され、趙匡胤の4人の義兄弟は、もはや長兄の高懐徳しか残っていなかった。
: 宰相・趙普は、符昭寿暗殺の黒幕は開封府尹・趙光義だと信じて疑わず、趙匡胤に対して強く述べた、「符昭寿暗殺は、趙光義の仕業に違いありません。陛下、杜太后は御臨終に際して、『兄終弟及』の遺言を残しました。これは符彦卿が杜太后に勧めたのが発端であります。符彦卿が趙光義の指示に従い、『兄終弟及』の件を杜太后に唆したのは明らかです。臣は断言しましょう、当時趙光義・符彦卿らがその事を議論していたとき、符昭寿もきっとその場にいたはずです。現在、符昭寿が騒動を引き起こしため、趙光義は『卒を捨てて車を守る』べく、口封じのために、邪魔者・足手纏いの符昭寿を暗殺したのです。臣が思うに、趙光義を重罰に処すべきです。まず趙光義の官職を削り、彼の皇位簒奪の野心を徹底的に潰すべきです。そして目下最も重要なのは、符彦卿であります。彼は子を失った心痛極まりなく、きっと陰謀を引き起こし、機を窺って復讐を目論むはずです。陛下、符彦卿の旧属の部下は、軍の至るところに所属しているのです。断じて油断してはなりません……!!!!!!」と。趙匡胤は趙普の言を聞き入れ、強く考えさせられることとなった。
: 兄・符昭寿の死を知った符蓉は、悲痛のあまり泣き叫んでやまなかった。符蓉は、父・符彦卿の身の上を案じ、必死に夫・趙光義に対して助けを請うた。一方趙光義は、「自身の皇位の野心を、符昭寿が生前に公言した」ということを知り、不安のあまり戦々恐々としていた。趙光義はすぐに腹心の賈琰と廬多遜を呼び、善後策を協議した。廬多遜は、「符彦卿を見捨てて生き残りを図るべきだ」と説き、賈琰もこれに賛同した。だが趙光義は、断じて大事な岳父・符彦卿を見捨てることなどできなかった。ほどなく趙光義は、趙匡胤のもとに呼び出された。趙光義は趙匡胤に対し、「かつての功績に免じ、符王爺(符彦卿)をどうか許してください」と強く懇願した。趙匡胤は、両親の旧友でかつての恩人でもあるとはいえ、符彦卿を許す気はなく、厳罰に処すつもりだった。趙匡胤は、「おまえが将来皇帝になったとき、身内が罪を犯してもそれを罰さない気か!?」と皮肉交じりに詰問した。趙光義は、皇兄・趙匡胤の叱責にすっかり怯え、委縮しきってしまった。趙匡胤は、符昭寿暗殺の黒幕が趙光義であると強く疑い、その件についても趙光義に対して厳しく問いただした。無論、趙光義はなんとか弁明するしかない。趙匡胤はさらに、符昭寿が生前に「趙光義が将来皇帝を継承する!!」と公言した事実についても趙光義に対して詰問した。趙光義はただ、「符昭寿は生来のほら吹きで、その言も気まぐれなでたらめに過ぎず、信じるに値しません。もし臣がそのような叛逆の野心を抱けば、天がこれを許さず臣を誅するでしょう!!!!」と弁解し、必死に叛逆罪を逃れしようとした。そして趙光義は自身の(偽りの)潔白を示すべく、趙匡胤に対して請うた、「私は開封府尹・同平章事の職にある身です。符王爺(符彦卿)の審理は、どうか私に任せて下さい。私情は一切考慮せず、厳正に調査・処罰を行う所存であります。」と。趙匡胤は、兄弟の情を強く鑑み、また趙光義の改心・更生を期待して、その懇願を特別に許可し、趙光義に符彦卿の審理を任せることとした。符彦卿の審理を申し出るのは、賈琰の提言によるものである。趙光義は、賈琰の献策のおかげで、ひとまず窮地を脱することができた。その後すぐ、趙光義は岳父・符彦卿に対する審理を実施し、符彦卿に収賄不正の証拠をすべて提出させた。趙光義は、符彦卿の罪状を確定させつつも、皇兄・趙匡胤に対して、符彦卿への法外の恩赦を願い出た。趙匡胤も、大恩人・符彦卿を処刑するのは忍びなく、彼の罪一等を免じ、命を助けてやった。これにより符彦卿は絶体絶命の危機を脱し、趙光義も、大事な岳父・符彦卿を失うことなく済んだ。
: 符昭寿・符彦卿の起こした一連の事件は、とりあえずの決着をみた。事件解決後、趙匡胤と韓珪の二人は、かつての諍いや天下国家の安寧について熱く語り合い、過去の恨みを消し去って、完全に和解することとなった。なお趙匡胤は、かねてより韓珪の見識の高さやその義侠心・正義感の強さを高く買っており、「彼を還俗させて宋に仕官させ、暫く御史台の官吏として務めさせ、その後高齢の劉温叟に代えて、新たな御史中丞に任命したい」と強く望んでいた。韓珪は趙匡胤の好意に感謝しつつも、自由気ままな人生を良しとし、朝廷への仕官を丁重に固辞した。
: さて、韓珪に救出された美女・姫燕珏は、宋の宮殿に暫く滞在しており、そこで宋皇后(宋華洋)と仲良くなった。姫燕珏は、恩人・韓珪を強く恋い慕っており、宋皇后も姫燕珏の恋心に気付いていた。そこで宋皇后は、姫燕珏と韓珪を再び引き合わせ、二人の仲を取り持つこととした。宋皇后は、趙匡胤に願い出て、姫燕珏と韓珪の結婚をやや強引に取り決めた。韓珪は、「自分は出家して世俗を捨てた身ですから、妻帯はできません」と言って、結婚を丁重に固辞した。しかし宋皇后と趙匡胤は、「結婚して亡き韓通将軍の血筋を残すことが最大の親孝行である」と強く説き、韓珪に結婚を承服させた。韓珪と姫燕珏の二人は、父・韓通の墓前で互いに愛情を誓い合い、正式に結婚した。以後韓珪は、辛い過去を胸にしまい、妻の姫燕珏と幸せに暮らすこととなる……。
【南唐征伐と、宰相・趙普の失脚】
: 韓珪が新たな人生を歩み出した頃、趙匡胤は再び天下統一の大志実現に目を向け始めた。宋は西暦971年に南漢を滅ぼし、十国のうちで残るのは江南国(南唐)・北漢・呉越国のみとなった。宋の最大の強敵は、江南国(南唐)である。特に南唐の大将軍・林仁肇(※枢密使)は名将の誉れ高く、趙匡胤の南唐征伐における最大の障害であった。林仁肇を除かねば、南唐征伐は非常に難しい。趙匡胤は念入りに策を練り、側近宦官・王継恩に命じて、巧妙な「離間の計」を実行に移すこととした。
: その頃汴京には、南唐国の使臣・李従善が訪れていた。李従善は、先の南唐皇帝・李璟の七男であり、目下の南唐皇帝・李煜の実弟にあたる、由緒正しき南唐の皇族だ。宦官・王継恩は、李従善を偏殿に招待し、わざと林仁肇将軍の肖像画が目に入るように手配した。林仁肇は関羽のようなたくましい顎鬚を持つ、威厳に満ちた風貌の武将だ。李従善が林仁肇の肖像画を見て、当然気が付かないわけがない。李従善はすぐ、肖像画に描かれた人物が林仁肇であると認識した。李従善は強く猜疑心を抱き、王継恩に高価な玉佩を贈って彼を買収し、事の詳細を聞き出そうとした。王継恩は李従善から贈られた玉佩を恭しく受け取り、神妙な面持ちで、李従善に対して詳しい事情を尤もらしく説明した、「李節使(李従善)はもはや我が宋の仲間です。それ故本当のことを打ち明けましょう。陛下(趙匡胤)は優れた人材をこよなく愛し大切にされるお方であります。なんでも陛下は、久しく林仁肇将軍の文武における奇才やそのずば抜けた智勇を聞くに及び、何としてでも自分の配下にしたいと望んでおりました。そこで陛下は、何度も南唐に密使を送り、林仁肇将軍に対し、宋への帰順を密かに促していたそうなのです……。そして近頃、林仁肇将軍はその説得に応じ、軍を率いて宋に帰順することを約束したそうであります。また林仁肇将軍は、特別に使者を汴京に派遣し、陛下に自らの肖像画を寄贈して、その忠誠心を強く示しました。陛下は林仁肇将軍の帰順を知って大いに喜び、私に命じて林仁肇将軍の肖像画を偏殿に飾らせたのです。さらに陛下は、林仁肇将軍を迎え入れるための豪邸を汴京に建設し、彼を正式な投降後に使相に任じるとまで宣言しています。」と。李従善は大いに驚いた。しかし林仁肇は、かつて戦場で趙匡胤の父・趙弘殷と対峙し、趙弘殷を負傷させたことがある。いわば趙匡胤にとって林仁肇は仇敵のはずだ。李従善は、趙匡胤と林仁肇の私怨について王継恩に問うた。しかし王継恩は、作り話をでっち上げつつ、巧みな台詞まわしで強く述べた、「陛下は旧怨を気に留めぬ度量の広いお方で、大事を成すべく人材の獲得に注力を惜しみません。かつての江南国の大将軍・陳承昭がその最たる好例でありましょう?」と。李従善は王継恩の巧妙なでたらめに騙され、林仁肇と趙匡胤の密通を完全に信じ込んだ。李従善は、江南国の都・金陵に急ぎ密使を派遣して、林仁肇の裏切りを皇兄・李煜に告発した。李従善は、趙匡胤が仕組んだ離間の計にまんまと嵌められたのである。
: 弟・李従善からの密書により、枢密使・林仁肇の裏切りを知った南唐皇帝・李煜は、ひどく憤慨し、毒酒を賜って林仁肇を殺害した。毒殺された林仁肇を見て、翰林学士承旨・徐鉉は大いに失望し、李煜に対して諫言した、「なんてことでしょう……‼国主(李煜)は宋皇帝・趙匡胤の『離間の計』にまんまと引っ掛かり、無実の林仁肇を誤殺してしまったのであります…‥‥!!」と。李煜は徐鉉の言を信じようとはしなかった。だが徐鉉は激しい口調で説明を続けた、「宋皇帝・趙匡胤は、李従善を三国時代の蒋幹に見立て、国主(李煜)の手を借りて、天敵・林仁肇を排除したのです!!」と。李煜はますます意固地となって、その言に反論した、「我が弟・李従善は、宋の宮中で林仁肇の肖像画を直接目にしたのだ!!どうして間違いがあろうか!?」と。しかし徐鉉も、冷静にはっきりと事情を説明した、「一昨日、臣は栖霞寺に赴き礼拝をしたのですが、その際、寺から林仁肇の肖像画が盗まれたと聞きました。当時は、南唐国の悪しき民の非行に過ぎぬと、たいして気にも留めませんでした。だが今考えてみると、きっと宋皇帝・趙匡胤が自身の間諜を派遣して密かに林仁肇の肖像画を寺から盗ませたのでしょう。そして趙匡胤は、その肖像画をわざと李従善に見せ、彼に強い猜疑心が湧くよう仕向けたのです……。これは三国時代の呉の名将・周瑜が用いた『離間の計』とほぼ同じやり口ですぞ!!林仁肇将軍の死は、全くの冤罪にほかなりません」と。徐鉉は林仁肇の無実の死を激しく嘆き悲しんだ。南唐皇帝・李煜も、軽率に林仁肇を殺したことを後悔したが、後の祭りであった。林仁肇が非業の死を遂げたことで、南唐(江南国)は最強の武将を欠くこととなった……。
: さてその頃、趙匡胤は、徐蕊(金城夫人)の家族やその使用人たちを汴京に呼び寄せ、手厚く遇した。併せて趙匡胤は、徐蕊に対し、後宮を出て家族と邸宅で暮らすことを許可した。ところが徐蕊は、感謝の意を述べつつも、趙匡胤に対して痛烈な皮肉を浴びせ、趙匡胤を激怒させた。宋皇后(宋華洋)は、夫・趙匡胤に対して不遜な振舞いばかりする徐蕊への扱いにほとほと手を焼いた。祖国を失った徐蕊への同情の余地はあるが、いつまでもその好き勝手な振舞いを黙認するわけにはいかない。そこで宋皇后は一計を案じ、趙京娘(燕国長公主)を邇芙殿に呼び寄せ、徐蕊への処遇について相談した。宋皇后は、「徐蕊(金城夫人)を皇帝の嬪妃にすることができれば、夫・趙匡胤を喜ばせてやれる」と考えていた。趙京娘は徐蕊に好感を持っておらず、その考えに反対したが、宋皇后はあくまで自分の意思に固執した。
: 宋皇后は徐蕊に対し、様々な根拠をもって必死の説得を行い、「姉上も陛下(趙匡胤)の皇妃(貴妃)となり、我々姉妹二人で協力して陛下をお支えすべきでしょう」と強く提案したが、徐蕊は断じてその説得には応じなかった。温厚で心の広い宋皇后も流石に怒りを隠しきれず、徐蕊に対してつい厳しい口調で迫ってしまった。
: その後徐蕊は、病気の母を見舞うために出宮したが、その際に都の長清観という道観に立ち寄った。徐蕊は俗世への未練を捨て去っており、道長・崇陽真人に対して、出家して弟子となることを請うた。崇陽真人は徐蕊の願い入れを許可し、出家式の準備に取り掛かった。徐蕊の侍女・柳瑤は、その状況を見て大いに焦り、急ぎ事情を趙匡胤に報告した。趙匡胤は大いに驚き、王継恩を長清観に派遣して、徐蕊の出家を取り止めさせた。崇陽真人も、徐蕊が宋の後宮の女官であると知り驚きを隠せず、直ちに彼女の出家を取り止めさせ、徐蕊を宮中に帰らせた。
: 趙匡胤は、宮中から戻った徐蕊に対して、突然出家しようとした理由を問い詰めた。徐蕊は明確な理由こそ口にしなかったが、皮肉を交えて趙匡胤を強く批判しつつ、一方で、「宋皇后が皇帝の嬪妃になれと迫ってきたのだ」と暗示してみせた。趙匡胤は大いに驚き、邇芙殿に赴いて宋皇后に説教した。宋皇后はやむにやまれぬ事情を夫・趙匡胤に説明しつつ、自分の間違った行いを強く反省した。その後趙匡胤は、徐蕊・宋皇后を引き合わせ、二人の仲直りを取りなしてやった。趙匡胤は、二人の和解を見てひとまず安堵しつつ、夫の謎死への疑念を拭い去れないままでいる徐蕊に対して、改めて「孟昶の死の真相を必ず明らかにして見せる」と固く約束した。
: さて、話は南唐攻略編へと戻る。趙匡胤が「離間の計」を敢行してから暫く後、宋には「林仁肇死去」の報が届いた。宰相・趙普は趙匡胤に対して、「林仁肇が除かれた今こそ、兵を発動して江南国(南唐)を討伐すべきだ」と進言した。だが趙匡胤は、10万の精鋭と天然の要害・長江が待ち受ける南唐攻めには、あくまで慎重を貫いていた。趙匡胤は枢密使・李崇矩に命じて、長江の水の浅い部分を調べさせ、開戦後に浮橋をつくって長江を渡ることを計画した。また趙匡胤は、江南国との戦いには水軍が非常に重要であると考え、現有の水虎捷軍2万に1万を追加し、さらに将軍・陳承昭を水虎捷軍副都指揮使に命じ、宋偓と協力させて急いで兵を訓練させ、同時に戦闘用の船を1000艘つくらせた。そして趙匡胤は、すべての準備が整った後に、江南討伐を開始することを決意した。また一切の軍需品の準備は、三司使・楚昭輔が担当することになった。
: さて、南唐征伐を前に、宰相・趙普の息子・趙承宗と枢密使・李崇矩の娘の婚姻が決まった。趙光義は、趙普・李崇矩の結束が深まり彼らが朝廷でますます増長することを激しく恐れ、趙普・李崇矩を排除するための作戦をついに実行することとした。
: 一方で宰相・趙普は、親友・楚昭輔が趙光義一派と連携を結んでいるとの確証を得て大いに憤慨し、三司使・楚昭輔の自宅に押し掛け、趙光義との関係を厳しく問いただした。無論、楚昭輔は、噓でたらめで弁解し、その場をやり過ごそうとしたが、宰相・趙普はそう甘くない。趙普は楚昭輔の裏切りを確信しており、楚昭輔に対し、「趙光義などに味方せず、自分の味方をしろ。それがおまえの身のためでもあるんだぞ。」ときつく忠告した。趙普は楚昭輔との30年来の交友を鑑み、最後にもう一度だけ特別に後悔・改心の機会を与えたのである。楚昭輔にとって趙普は、自身の親友・大恩人である。趙普を裏切り陥れるのには、どこか後ろめたい気持ちもある。楚昭輔はここにきて再び、趙光義と趙普を天秤に掛け、どちらに味方すべきかを強く悩んだ。
: 宰相・趙普の息子・趙承宗と枢密使・李崇矩の娘の婚礼は滞りなく終わった。婚礼の翌日、宰相・趙普は勤政殿を訪れ趙匡胤に謁見し、「皇長子・趙徳昭をそろそろ皇太子に封じるべきでしょう」と進言した。趙匡胤は皇太子の件をひとまず先延ばしにし、趙普もこれに食い下がった。だが趙普は、さらに提言した、「諸々の理由を鑑み、宋朝は汴京から洛陽に遷都すべきであります。」と。趙匡胤は、趙普の提言を受け、遷都の件を一応考えておくことにした。
: 宰相・趙普は、皇帝をないがしろにして政務を独断専行し、その権勢は朝廷から在野にまで広く及んでいた。また宰相・趙普は、政事堂で執務(※上奏書の決済)を行う際、気に喰わない上奏書は推断のうえで破って彩釉陶缸(※巨大な壺のごみ入れ)の中に捨ててしまい、彩釉陶缸の中が一杯になると破棄された上奏書はすべて焼却処分されていた。知制誥・廬多遜の告発(※趙光義がその告発の黒幕)によって、宰相・趙普の専横の甚だしさを知った趙匡胤は愕然とし、事態を大いに深刻視した。趙匡胤はすぐに政事堂を訪れると、廬多遜の告発(上奏)がすべて事実であることを確認し、激怒して趙普に強く説教した。
: 宰相・趙普の酷い独断専行が趙匡胤に露見し、趙普は趙匡胤の不興を買った。趙光義はこれを聞いて大いに喜んだ。そして趙光義は、勢いに乗って一気に作戦を進めようと考え、次なる行動を起こした。趙光義は勤政殿を訪れ、趙匡胤に上奏した、「宰相・趙普と枢密使・李崇矩は、不忠にも陛下(趙匡胤)を欺き騙し、結託して徒党を組み、朝廷において急激に勢力を拡大しています。特に宰相・趙普の権力は、陛下さえも凌ぐほど強大なものに成長してしまいました。朝廷の安定のためにも、陛下は絶対に趙普・李崇矩の二人の増長を抑圧すべきでありましょう……。」と。趙匡胤は大いに事態を憂慮し、まず枢密使・李崇矩を鎮国軍節度使に任じ、地方に左遷。趙普との連携を絶った。趙光義は内心で大いにこれを喜びつつ、さらには自身の腹心・廬多遜を後任の枢密使に推挙した。趙匡胤はただ、廬多遜の抜擢には反対し、後任の枢密使の座には、沈義倫を据えることとした。
: 趙光義は迅速に作戦を進め、次に三司使・楚昭輔のもとを訪れた。楚昭輔は、趙光義と趙普の二人を天秤に掛け、どちらに味方するかを強く悩んでいた。それを予め知っていた趙光義は、自身が施した恩恵・利益を盾に、迷う楚昭輔を根気強く説得し、楚昭輔もついに覚悟を固め、趙普を裏切って心から趙光義の味方となることを決意。そして楚昭輔は、自分だけが知る宰相・趙普の大きな罪業を、趙光義に対して全て漏らした。
: 趙光義の作戦は極めて順調に進んでいた。楚昭輔の説得に成功した趙光義は、翌夜、信頼する腹心の賈琰・楚昭輔・雷有隣・廬多遜を開封府に集め、密議を行った。雷有隣・楚昭輔によれば、趙普には多くの罪状があった。例えば、趙普は権知龍州事・宋琪、権知揚州府事・翟守珣ら地方官吏と結託して謀を巡らせ、減免税賦や災害支援物資、戦用の糧食などの上前をはね、不正に私腹を肥やしていた。さらに趙普は、工部侍郎の趙彦韜を利用し、様々な経理の方面で上前をはね、不正に私腹を肥やしてもいた。加えて趙普は、子息の婚姻にかこつけて多額の収賄を行い、気に入った他人の土地・邸宅を強引に買い取って自分のものとし、公事にかこつけて私腹を肥やし、木材や磁器を転売するなどして利益を得たりもしていた。趙普の横領は大変に程度の甚だしいものであり、横領額は糧食60万石、公金83万石にも及んでいた。
: また新任の桂陽知事は、折良く趙光義に密書を送り、前任の3人の知事の巨額横領罪(※公金38万貫)を密告した。趙光義はこれを大いに喜び、廬多遜に命じ、趙匡胤に対してその件を上奏させた。前任の桂陽知事は、兵部侍郎・董枢、右贊善大夫・孔璘、太子洗馬・趙瑜である。董枢と孔璘は、政事堂枢機使・胡贊の勧めで宰相・趙普が推挙した人物である。また趙瑜は二人の汚職に対し、旧情を鑑みて見て見ぬふりをしていた。
: 趙匡胤は事態を重く受け止め、御史中丞・劉温叟に命じて横領事件の徹底調査をさせた。趙光義は、腹心の葛覇に命じ、密かに董枢と孔璘を脅迫して趙普を陥れる供述を強要した。董枢・孔璘は葛覇に脅され、劉温叟に横領事件の仔細を自供し、宰相・趙普の関与も認めた。
: 数日後、調査を終えた劉温叟は、趙匡胤に謁見した。劉温叟は調査結果を趙匡胤に対して報告した、「横領された38万貫のうち、15貫は董枢が、23万貫は孔璘が、それぞれ懐に入れて私腹を肥やしていました。そして董枢・孔璘の二人は、横領した公金の半分の1を宰相・趙普に賄賂として贈っていたのです。」と。確かに、宰相・趙普の収賄は事実であり、趙普は8万貫、胡贊は3万貫、それぞれ董枢・孔璘の二人から謝礼として受け取っていた。趙匡胤は趙普の収賄を知って激怒し、横領をした董枢・孔璘を処刑し、見て見ぬふりをした趙瑜を百叩きの刑に処した上で海島に流罪とした。
: さらに、胡贊からの情報で様々な趙普の罪状を入手した雷有隣は、趙普の19の罪状を掲げて御史台の門鼓を叩き、宰相・趙普を堂々と弾劾した。趙匡胤は、劉温叟から趙普の19の罪状を聞かされ、愕然とし激しく動揺した。趙匡胤は、宰相・趙普の収賄不正を信じたくはなかった。あるいは、雷有隣が私怨から趙普を誣告した可能性もあると考えた。趙匡胤は劉温叟に対して、趙普の収賄不正の真偽を詳細に調べ上げるよう命じた。
: 趙光義は作戦の最後の一押しに移った。まず趙光義は、勤政殿に赴き趙匡胤に対して、「趙普を自宅蟄居させ、兵を用いて厳重に宰相府を取り囲み、警備するべきだ」と説いた。趙匡胤はその提言を許可しつつ、「雷有隣の趙普弾劾が、趙光義の影での指示によるものではないか?」と強く疑い、趙光義に詰問した。当然趙光義は、巧みな弁解でこれを否定した。そして趙光義は、趙普の代理宰相に廬多遜を推挙した。だが趙匡胤は、廬多遜の代理宰相抜擢にはあくまで反対した。
: その頃ちょうど、知成都府事・沈義倫が、成都の地での任を終え、汴京に帰還し、勤政殿にて趙匡胤に謁見した。趙匡胤は沈義倫との5年ぶりの再会を大いに喜び、その功績を深く労った。趙匡胤は、沈義倫を枢密使&参知政事(※代理宰相)に任命した。沈義倫は、「重職の兼任は荷が重い」と固辞したが、趙匡胤が強く説得したので、決意を固めて拝命した。これにより暫くの間、沈義倫が枢密院と政事堂を管轄することとなった。
: 趙匡胤は、信頼していた腹心・趙普の悪事に強く胸を痛め、心労のあまり病に臥せり、朝議も休むほどだった。太医・程徳玄から趙匡胤の病状を知らされた趙光義は、一計を案じ、「陛下(趙匡胤)の病を必ず治してくれ。ただ、陛下にご自身の病状について問われたら、病状を大げさに答えなさい。勿論逃げ道は残しておけよ。」と程徳玄に言い付けた。趙匡胤が自分を皇位継承者にせぬうちに死ぬのはまずい。趙光義が考えるに、皇兄・趙匡胤には、もう暫くなんとか生きてもらわねばならなかった。
: 徐蕊は趙匡胤の病を強く心配し、勤政殿に見舞いに訪れた。病床にあった趙匡胤は意識が朦朧とし、うっかり徐蕊を亡き王皇后(王月虹)と勘違いしてしまうほどだった。ほどなく、趙光義も勤政殿を訪れ、病床の趙匡胤を見舞った。程徳玄の治療により、趙匡胤の病は少なからず回復の兆しを見せ、趙光義はこれを喜んだ。趙匡胤と趙光義は、昔話に花を咲かせた。趙匡胤は、弟・趙光義が自分を喜ばせ、元気づけるために徐蕊を入内させるべく尽力したことや、趙光義が徐蕊を後家にするためにその夫・孟昶を毒殺したことも、全て熟知していた。だが趙匡胤は、孟昶毒殺の真犯人が趙光義だと分かっていながら、趙光義の罪を決して追求せず、ただ改心・更生を求めた。それは、趙光義が趙匡胤の実の弟だからであり、趙光義が大宋の安定に欠かせぬ人材であったからである。趙匡胤は趙光義に対し強く教訓を示した、「宋は強引な武力で天下を争ってはならず、虚言で天下を欺いてはならない。なにより宋は、誠実さをもって天下を安定させねばならない。これをくれぐれも覚えておけ。」と。趙匡胤が孟昶暗殺の真犯人である趙光義の罪を追求しないのは、愛する徐蕊への裏切りに等しかった。しかし趙匡胤にとって、徐蕊への愛情よりも大事なのが趙光義との兄弟の絆であった。趙光義は、皇兄・趙匡胤の真意を知り、感謝感激してやまなかった。
: その後趙匡胤は、御史中丞・劉温叟を勤政殿に召し、趙普の収賄事件の調査の進捗状況を確認した。劉温叟は、「雷有隣の告発した19の罪状は全て事実に相違ありません」と断言し、詳細な調査報告書を提出した。趙匡胤は驚愕・憤怒し、調査報告書には目を通さなかった。趙匡胤は、腹心・趙普に対して激しく失望・幻滅した。趙光義は、趙普の罪業の大きさを根拠に、趙普の処刑を強く主張した。劉温叟も趙光義の言に一定の理解を示しつつ、「趙普の過去の功績の大きさを鑑み、免職処分にとどめるべきだ」と主張した。趙光義と劉温叟は、主張の違いから激しい口論となった。趙匡胤は苛立ちながらこれを制して、二人を勤政殿から退出させた。
: 一方、自宅蟄居中の趙普は、失意のあまり体調を崩していたが、主君・趙匡胤も病床にあることを知って、大いにこれを心配し、劉温叟に頼んで趙匡胤に文を届けた。趙普は書面において、自身の犯した全ての罪を認め、蓄えた財産を全部差し出し、横領された公金等の補填に充てることを強く請い、自身を処刑して人々への戒めとするように願い出た。また趙普は死ぬ前の最後の忠言として、「皇長子・趙徳昭を皇太子に封じるべきです」と再提言した。趙匡胤は、趙普の真摯な反省態度とその誠意を認め、特別に死罪を免じることを決意。一方皇太子の件に関しては、「自分なりに考えがある」と言って敢えて明言は避けた。太医・程徳玄から一連の事情を聞いた趙光義は、趙普の死罪が免じられそうであることに激しく怒り動揺し、また、皇長子の皇太子の冊封の件に関しても強く焦りを感じ始めた。
: 趙匡胤は、病で心身ともに憔悴状態となるに及び、本格的に自身の後継者問題について考え始めるようになった。古来よりの原則に基づき、皇位を皇子の趙徳昭・趙徳芳のどちらかに継がせるか。それとも杜太后の「兄終弟及」の遺詔に基づき、皇位を弟の趙光義に継がせるか。どの選択肢を取るべきかで、心は激しく揺れ動いた。趙匡胤の長男・趙徳昭は、すでに当時23歳の成人であったが、生まれつきの知性と才能に乏しく、皇帝を務められる器かは未知数だった。趙匡胤はむしろ、聡明で学問熱心な次男・趙徳芳のほうを大変気に入っていた。しかし趙徳芳は当時15歳であり、国家の大事を担える年齢には達していなかった。もし趙光義と趙普が協力して趙徳芳を補佐できるのなら、趙匡胤も安心して趙徳芳に皇位を譲れるのだが、それは非常に難しいことであった。
: 趙匡胤は、勤政殿に趙普を召した。趙普は趙匡胤に謁見すると、自身の罪を懺悔して死罪を請う一方で、自身の真心・忠心を趙匡胤に対して強く訴えた。趙匡胤は、趙普の過去の功績の大きさを鑑み、またその真摯な反省態度を認め、特別に死罪を免じることを明言し、河陽節度使(使相)に任命して、河陽の地に左遷することとした。趙普は趙匡胤の大恩(特赦)に深く感謝した。趙普は病床の趙匡胤の身体の健康を気遣いつつ、最後に洛陽ないし長安への遷都を再提言して、勤政殿を去った。開宝6年(973年)8月、10年間宋の宰相を務めた趙普は、罪を弾劾されて宰相職を解かれ、使相(河陽節度使)に降格し、汴京を離れて河陽の地に左遷されることになった……。
: その後趙匡胤は、翰林学士承旨・陶谷を呼び出し、人事異動の詔を宣布した。その内容は以下の通り───。
①趙光義を晋王に封じ、宰相を超越する唯一の地位に置き、原職の開封府大尹も引き続き兼任させる。
②沈義倫を宰相に任じる。
③廬多遜を参知政事に任じる。
④高懐徳を沈義倫の後任の枢密使に任じる。
⑤高懐徳の本来兼任していた侍衛馬歩軍都指揮使の職は、張永徳が引き継ぐ。
⑥大理寺秘書・雷有隣を判大理寺事に昇進させる。
⑦旧宰相・趙普の死罪を免じ、河陽節度使に任じ、河陽に左遷する。
⑧趙普の息子・趙承宗を礼部員外郎に任じる。
: 開封府推官・賈琰は主君・趙光義の封王を大いに祝福した。趙光義は腹心・賈琰を枢密副使に推薦したが、趙匡胤の許諾は得られなかった。しかし賈琰は自分の出世など気にもかけず、ただ主君・趙光義の栄達とその明るい未来をひたすら喜ぶばかりであった。またほどなく栄転した廬多遜・雷有隣も開封府を訪ね、主君・趙光義の栄達を祝し、併せて趙光義の推薦に強く感謝した。
: さて、趙匡胤は病から回復し、再び政務に熱心に打ち込んだ。趙匡胤は、徐蕊が自分の病気を心配してくれたこと、そして徐蕊が自分を名君と認めてくれたことを大いに喜び、二人は大いに打ち解け合い、深く心を通わせた。徐蕊の心には、少しずつ趙匡胤への愛情が芽生えだしていた。
: 一方で趙匡胤は、病を経て自身の死後のことを強く考えるようになり、心中では、次男・趙徳芳を自身の後継者にしようとの決意を概ね固めていた。趙匡胤は、官界を引退したもと宰相・魏仁浦を太傅に封じ、趙徳芳の教育係とすることにした。宋皇后も趙匡胤の真意を汲み取り、義子・趙徳芳への教育に更に力を入れ始めた。魏仁浦が太傅に封じられ、皇次子・趙徳芳の教育係に任命されたことを知った趙光義一派は大いに驚き、動揺した。趙光義・賈琰らは、皇次子・趙徳芳が数年後に皇太子になることを確信し、焦りを禁じえなかった。皇次子・趙徳芳が皇太子になってしまえば、杜太后の残した「兄終弟及」の遺詔が遂行できなくなるではないか───。参知政事・廬多遜は、「太医・程徳玄を利用して、趙匡胤を密かに毒殺してしまうべきだ」と趙光義に対して説いた。しかし趙光義には、敬愛する大切な皇兄・趙匡胤を殺せるほどの凶悪な意思は皆無で、「兄殺しの叛逆は絶対に避けるべきだ」と考えていた。だが趙光義は、兄殺しをするほどの残虐さは持っておらずとも、皇帝即位への野心は絶対に捨てようとせず、何としてでも杜太后の遺詔を遂行したかった。三司使・楚昭輔は、「杜太后の遺詔に背くのは大きな親不孝の罪です。杜太后の遺言を果たし、孝を成すためにも、『婦人の仁』は捨て、陛下(趙匡胤)に手を下すべきです。」と強く説いた。趙光義は楚昭輔の提言を聞くと激怒し、「二度と皇帝毒殺の件は蒸し返すでない。もし蒸し返せば、死を覚悟しろ。」ときつく説教した。その後、趙光義の妻・符蓉も「趙匡胤に手を下して杜太后の遺詔を果たすべきだ」と説得したが、趙光義はあくまで冷静にその言を退け、ただ焦らず打開策を練ることとした。
: ところで、話は再び南唐攻略編へと戻る。趙匡胤がかねてより進めていた南唐征伐の準備は整った。宰相・沈義倫と晋王・趙光義は、南唐征伐の開始を提言したが、趙匡胤は依然として江南国(南唐)の天然の要害・長江をどう攻略するかを強く憂慮し、なかなか開戦に踏み切れずにいた。そんな中、江南国の儒学者・樊若水が宋に投降し、江南国の軍事上の弱点を宋に暴露した。天然の要害・長江攻略の目途が立ち、趙匡胤はついに江南国への出兵の決意を固めた。趙匡胤は、南唐皇帝・李煜に最後通牒を突き付け、「国王自ら汴京に赴き、宋皇帝に謁見せよ」と命じた。李煜は趙匡胤の要求に激怒し、眼病(※仮病)を理由にこれを拒否した。宋側は医者を江南国に派遣して、李煜の眼病を診察しようとしたが、江南国側はこれを拒絶した。趙匡胤は、李煜に誠意がないと見なし、本当に正式な出兵を決意した。
: 南唐皇帝・李煜は、呉越国に救援を求めて、あくまで宋に対抗しようとしたが、呉越国は宋との友好を鑑みて南唐の要請を拒否。逆に、宋側に協力することを決定した。さて、出兵を取り決めた趙匡胤は、長江を渡っての合戦にはあくまで慎重を期していた。趙匡胤は10万余りの兵を4つに分け、それに援軍の呉越軍を加え、計5つの経路から、江南国を攻めることにした。南唐攻略作戦の総指揮官・号令役は、枢密使・高懐徳である。趙匡胤は厳命を下し、無辜の民の虐殺や、現地での掠奪などを固く禁じ、違反者は処刑するよう取り決めた。
: 開宝7年(974年)9月、宋の南唐征伐が始まった。宋軍は江南国(南唐)を激しく攻め、江南国は大苦戦を強いられていた。李煜は汴京に翰林学士承旨・徐鉉を派遣し、宋に撤兵を求めた。だが使者の徐鉉は、かえって宋皇帝・趙匡胤や姪・徐蕊に上手く言いくるめられ、江南国に帰るやいなや、国主・李煜に宋への降伏を強く説いた。この説得に対して李煜は激怒し、宋への降伏に猛反対。10万の大軍を頼りに、宋への徹底抗戦を再宣言した。李煜が宋への降伏を頑なに拒むのは、自分が趙匡胤の罠に嵌められ、第二の孟昶となることを強く危惧していたからである。李煜は即刻、朱令贇将軍に厳命した、「全軍を率いて速やかに湖口を離れ、采石磯の地に赴き、宋軍の浮橋を焼き壊し、その後、金陵に救援に戻れ」と……。
: 宋と南唐が熾烈な戦いを繰り広げていた頃、趙光義の愛妻・符蓉は急病に倒れ、病は悪化の一途を辿った。そして晋王妃・符蓉は、あっという間に危篤状態に陥った。符蓉は死を前にして、夫・趙光義との深い愛を強く確認し合い、死ぬ前の最後の願いとして、自身が用意した黄袍を夫・趙光義に着てもらった。開宝8年(975年)、趙光義の愛妻・符蓉は、様々な無念を抱えつつ、34歳の若さで世を去った。趙光義は激しい悲痛に見舞われながらも、なんとか妻の葬儀を執り行った。趙匡胤も、符蓉の葬儀に参列し、自身の即位の功労者の一人である晋王妃・符蓉に対して強く哀悼の意を示した。趙匡胤は、符蓉が自ら作った「陳橋の変」の黄袍を取り出し、符蓉の遺体が眠る棺の前でこれを焼却し、恩人である義妹への弔いとした。
: さて、話を南唐攻略編に戻そう。宋軍はその後も戦いを優位に進め、ついに金陵城外にまで辿り着いた。また、国王・銭弘俶率いる呉越軍4万は、常州を攻め落とし、金陵で宋軍と合流した。そこで宋軍の主帥・高懐徳は、南唐皇帝・李煜に対して本当の最後通牒を出した。だが李煜はこの最後通牒にもあくまで反対し、金陵城内総動員の徹底抗戦を宣言した。主帥・高懐徳はついに城攻めを開始。宋軍は激しく城を攻め、開宝8年(975年)11月、南唐の国都・金陵はついに陥落し、南唐(江南国)は滅亡した。南唐皇帝・李煜と、皇后・周英(※周娥の妹。周娥の死後、李煜の皇后になった)は、亡国の悲運を激しく嘆き悲しんだ。李煜は、愛后・周英の琴の演奏に乗せ、筆で豪快に詩を書き記し、失意・悲痛の感情を強く吐き出した。その後、李煜・周英は宋軍に捕縛され、汴京に護送された。
: 趙匡胤は、降伏した南唐(江南国)の皇族・大臣を許すこととした。趙匡胤は、南唐の忠臣・徐鉉を翰林学士に任じ、南唐の宰相・李景達を名誉職の太子少保に封じた。また趙匡胤は、宋と南唐の旧交や南唐後主・李煜の誠意ある反省を鑑み、彼の死罪を特別に免じ、李煜を「違命侯」という皮肉めいた地位に封じた。また趙匡胤は、李煜を右千衛上将軍に任じ、汴京に邸宅を賜って、正妻・周英とともに暮らすことを許した。ちなみに、南唐後主・李煜の皇后・周英は、鄭国夫人に封じられた……。
: 南唐(江南国)の滅亡により、残るは呉越国と北漢のみとなり、趙匡胤の天下統一の大志の実現は、間近に迫りつつあった。だが徐蕊は、喜び勇み上機嫌に浸る趙匡胤に対し、琵琶を演奏して、『十面埋伏』(※楚漢戦争における「垓下の戦い」を題材とした曲)という悲しみに満ちた冷ややかな音曲を聴かせた。徐蕊が『十面埋伏』を演奏したのは、浮かれ驕る趙匡胤に対し、亡国の悲痛を想起させ、戒めを与えるためである。趙匡胤はそれに機嫌を崩しつつも、徐蕊の真意を汲み取り、決して彼女を責めなかった。そして趙匡胤は、「我を知る者は、花蕊夫人(徐蕊)なり!!」と言い、かえって徐蕊を称賛した。
【宋と呉越国の友好。趙光義と趙普の和解】
: 南唐征伐を終えた高懐徳・陳承昭は汴京に凱旋し、崇元殿で趙匡胤に復命した。趙匡胤は、二人の名将を大いに労い、南唐の皇宮から押収した金銭や宝物は、一部を将士たちへの褒賞に充て、残りは国庫におさめることとした。晋王・趙光義は、「江南国(南唐)を攻め滅ぼした勢いに乗って、防備の薄い呉越国を攻めるべきです」と趙匡胤に対して提言した。また侍衛馬歩軍都指揮使・張永徳も趙匡胤に対して提言した、「北漢国と呉越国を攻め滅ぼすのは、手の平を返すように容易きこと。兵を二手に分け、一方の部隊に北漢の都・太原を攻めさせ、もう一方の部隊には呉越国の都・杭州を攻めさせましょう。」と。さらに宰相・沈義倫も、「北漢と呉越国を攻め滅ぼし、天下統一を成し遂げましょう」と趙匡胤に対して説いた。しかし趙匡胤は、重臣たちの言に反対して言った、「北漢は都・太原を残すのみで、殆ど国力は残っていないが、遼の屈強な兵2万が駐屯してこれを守っている。我が宋は、強大な契丹を敵とせぬことが国是であり、今北漢を性急に攻めるのは妥当ではない。」と。さらに趙匡胤は言を続けた、「呉越国は、宋の江南攻めにも協力を惜しまなかった友邦である。どうして味方を急に敵とみなすことができようか?出兵には大義名分が必要だ。呉越国を攻める理由は一切ないのだから、朕は呉越国討伐に反対だ。また、今は南唐征伐を終えたばかりだ。暫くは兵を休めるべきであろう……。」と。そこで参知政事・呂余慶は進言した、「陛下が戦をお望みでないのならば、いっそ呉越国王・銭弘俶が自ら進んで宋に従うように、勧告してみてはいかがでしょうか?」と。呂余慶の進言は、趙匡胤の本意にぴったりと沿うものであった。
: 趙匡胤は、親書を呉越国皇帝・銭弘俶に送り、銭弘俶に対して来朝を要請した。宰相・沈虎子は、主君・銭弘俶の汴京行きに反対したが、銭弘俶は、「宋の天下統一は天意によって定まっている」と強く信じ、南唐の一連の悲劇を繰り返さぬためにも、汴京行きを決意。銭弘俶は貢物(※糧食10万石&黄金2万両)を携え、自ら汴京に赴いて、崇元殿で宋皇帝・趙匡胤に謁見した。
: 宋皇帝・趙匡胤と呉越国王・銭弘俶は、李重進の反乱討伐(960年)に際し、互いに協力し合った仲であり、揚州の地で面識もあった。開宝8年(975年)の二人の再会は、実に15年ぶりのものであった。呉越国王・銭弘俶は、趙匡胤に対して正式な君臣の礼を取り、呉越国が宋の属国となることを強く宣言した。また銭弘俶は、宋朝に貢物を贈り、さらに趙匡胤の父・趙弘殷の名を避諱するため、銭俶と改名した。趙匡胤は、銭俶の誠意を強く喜びつつも、決して貢物を受け取らず、また「宋と呉越国は別の国だから敢えて避諱のために改名する必要もない。」と説いた。一方、呉越国王・銭俶は、趙匡胤の心遣いに感謝しつつ、呉越国と宋の永遠の友好を改めて趙匡胤に願った。趙匡胤はその願い入れを勿論受け入れ、大いに上機嫌となり、銭俶歓待のための祝宴を設けることにした。趙匡胤による厚い歓迎を受けた銭俶は、汴京に暫し駐留し、汴京見物を楽しむことになった。
: さて、晋王・趙光義は愛妻・符蓉を失った深い悲しみに心労が重なり、すっかり病に臥せってしまった。趙匡胤は弟・趙光義の病をひどく心配し、程徳玄を開封府に派遣して治療にあたらせた。程徳玄の優れた治療により、趙光義の病は回復した。趙匡胤は、趙光義が晋王妃・符蓉の死後、約1年間独身を貫いているのを不安視した。趙光義の妻・符蓉への愛は異常なまでに深かった。趙光義は服喪のため当分の間は妻を取らないつもりだった。しかし趙匡胤は、「心労の多い趙光義を世話するために、後添いを設けるべきだ」と考え、宋皇后(宋華洋)の側近侍女・小蝶を開封府に送り、趙光義の側室とした。趙光義は、小蝶のことを「趙匡胤が自分の傍に送り込んだ密偵である」と見なし、強く危機感を抱き、彼女への注意を怠らなかった。
: ある夜、趙光義・賈琰・廬多遜・楚昭輔・葛覇の5人は、開封府にて重大な密議を行っていたが、開封府の侍女・蓮香はその重要な密談を誤って聴いてしまった。趙光義は、葛覇と蓮香が恋仲にあることを知っていて、当初は二人を結婚させてやるつもりだった。だが、重要機密を聴かれた以上、もはや生かしておくことはできない。趙光義は葛覇に命じて、口封じのために蓮香を抹殺した。蓮香のお腹には葛覇の子もいた。葛覇は最愛の女性を失いたくはなかったが、君命には逆らえず、断腸の思いで蓮香を絞め殺した。趙光義は復命した葛覇に対して一言かけた、「すまなかった」と……。
: さて、開封府推官・賈琰は、来るべき兵変に備え、6年前から開封で密かに私兵を養っており、その数は10万にも及んでいた。旧宰相・現河陽節度使の趙普は、左遷されてもなお趙光義側の動向に目を光らせていた。趙光義らは、なんとかして趙普を排除し、後顧の憂いを絶ちたいと考えた。そこで賈琰・廬多遜は、すでに買収済であった趙普の執事・李可度を利用し、打倒趙普のための策を実行に移すこととした。
: 廬多遜は、汴京にやって来た李可度を私邸に招き入れ、「趙普を叛逆の罪で告発しろ」と説得した。李可度は主君・趙普を見限り、これを承諾。また廬多遜は、趙普の詠んだ反詩を宰相・沈義倫や陶谷・高懐徳・張永徳・楚昭輔・雷有隣らに見せつけた。彼らは憤怒してやまず、連名の上奏で趙普を弾劾することとした。廬多遜から、趙普打倒計画が順調に進んでいると聞かされた趙光義は大いにこれを喜び、翌日、諸大臣とともに勤政殿に参内し、趙普打倒計画を実行に移すこととした。
: そして作戦決行の日となった。河陽節度使・趙普は、執事・李可度の裏切りに遭い、「陛下を冒涜し、反詩を詠んで不平不満を吐露している」と告発された。参知政事・廬多遜は趙匡胤に対して上奏した、「趙普は大罪を犯しながらも、過去の大功により死罪を免れました。ところが趙普は全く反省の色を見せず、聖恩に背きました。そして反詩を読んで陛下(趙匡胤)を罵倒するありさまです。絶対に許せません!!」と。翰林学士承旨・陶谷と宰相・沈義倫も趙匡胤に対して説いた「逆臣・趙普をこれ以上甘やかしてはなりません。必ず厳罰に処すべきです。」と。一方、参知政事・呂余慶は趙匡胤に対して説いた、「趙普はひたすら私欲の強い男ですが、陛下への忠誠は本物です。決して反詩を詠むような真似はしないでしょう。」と。それに対して侍衛馬歩軍都指揮使・高懐徳は反論した、「李可度の告発は、事実に決まっている」と。そして三司使・楚昭輔は趙匡胤に対して上奏した、「趙普は自分の功を鼻に掛ける傲慢不遜極まりない男で、かつて『自分の活躍がなければ宋の天下はなく、陛下も皇帝に即位できなかっただろう』などと私に漏らし、ひどく自慢していました。」と。枢密使・張永徳も趙匡胤に対して進言した、「趙普は陛下(趙匡胤)のことなど眼中になく、反詩で陛下を罵倒しました。重罪人・趙普を、断じて許すことはできませぬ。一族皆殺しの刑に処すべきです」と。雷有隣も趙匡胤に対して強く説いた、「古来より、皇子が罪を犯した場合も、庶民と同罪になるのが鉄則です。ましてや趙普はせいぜい使相(節度使)に過ぎません。法に則り、趙普を重罪に問い、その九族を誅滅すべきです。そしてこれを天下に示し、天理を正すのです。」と。諸大臣たちは、口を揃えて趙普への厳罰を請うた。趙匡胤は大いに悩んだ。だがそこで、晋王・趙光義は、なんとも思いもよらぬ発言をした。趙光義は趙匡胤に対して私見を述べた、「趙普は罪を犯しましたが、彼に叛逆の意思はなく、ただ朝廷への復帰を願っているだけに過ぎません。犯した罪は大きいものの、過去の功績と相殺して、やはり死罪は免じるべきでしょう。臣が思うに、趙普父子の官職を全て解き、汴京に呼び戻して、陛下自らが趙普をきつく叱責すれば十分ではないでしょうか?」と。趙普を激しく憎悪し、彼を排除したいと望んでいた趙光義が、なんとなんと趙普を擁護する発言をしたのである。これはまさにあべこべである。しかし趙光義の趙普擁護の発言には、隠された意図もあった。趙光義は、趙普を擁護してやることで、彼を買収しようと考えたのである。呂余慶も、趙光義の発言に強く賛同した。趙匡胤は、晋王・趙光義の進言に従い、趙普を汴京に呼び戻し、自身に謁見させることとした。
: 汴京に召喚された趙普は、趙匡胤に深く謝罪し、弁解はしなかった。趙普は趙匡胤の叱責を受けるも、罪は免じられ、家族と洛陽に住むことを許された。趙普は趙匡胤に対して、晋王・趙光義の危険性を強く説き、宮中を去った。趙匡胤は不安に駆られ、密かに人手を手配し、趙光義・趙普・張永徳・高懐徳らの動向を詳細に監視することにした。そして、「異状があれば即刻報告せよ」との厳命を下した。
: 趙光義は、趙普の家に見舞いに訪れた。趙普は、自分の命を救ってくれた趙光義にしきりに感謝した。趙光義は「今が好機」とみなし、趙普に対して杜太后の遺言について提起した。趙普は適当な言葉でお茶を濁し、趙光義もその場では食い下がった。しかし趙光義は、杜太后の「兄終弟及」の遺詔を果たすためには、その証人たる趙普の協力が必要不可欠であると考え、あくまで趙普の買収を諦めはしなかった。
: 趙光義と趙普の密会や、趙光義と高懐徳・張永徳の交際を知った趙匡胤は、事態を大いに憂慮し、侍衛馬歩軍都指揮使・高懐徳を勤政殿に召した。趙匡胤は高懐徳に対し、趙光義との交際に関して、その詳細な事情を詰問した。高懐徳は委縮しつつも、嘘偽りのない供述を行い、趙匡胤への揺るがぬ厚い忠義心・真心を強く訴えた。趙匡胤も、高懐徳の忠義心・真心を強く信じ、一切の猜疑心を解いた。趙匡胤と高懐徳の義兄弟の絆は、決して揺らぐことがなかったのである。高懐徳は趙匡胤の命に従って帥印を返還し、これにより高懐徳の侍衛馬歩軍都指揮使の職は解かれた。趙匡胤は高懐徳を河陽節度使(※趙普の後任)&侍中に任命し、任地に赴任させることとした。また趙匡胤は、枢密使・張永徳を勤政殿に召し、昔話に花を咲かせた。張永徳は趙匡胤の真意を察し、老いを理由に枢密使の職を辞すことを自ら請うた。趙匡胤は、その願い入れを許可し、張永徳の枢密使の職を解き、兼職の侍中は保持した上で、太保の地位を加え、平時の朝議参加を免じることにした。さらに趙匡胤は、張永徳への褒賞として、銭1000貫と宮女1人を下賜した。
: 高懐徳・張永徳の禁軍大権が奪われたことを知った趙光義は、皇兄・趙匡胤の更なる疑念が自分に向くことを恐れた。そこで晋王・趙光義は一計を案じ、参知政事・廬多遜に命じて、多くの朝廷の大臣たちを動員し、それぞれに趙匡胤に対して「呉越国・北漢を攻め滅ぼすべきだ」と上奏させた。趙光義は、趙匡胤の関心・視線を天下統一事業の総仕上げに向けさせることで、趙匡胤の自分への猜疑心を一時的に弱めようと目論んだのである。ほどなく、趙匡胤のもとに大量の上奏文が届いた。その上奏文ではすべて、北漢・呉越国の討伐が説かれていた。趙匡胤は、「多くの上奏が趙光義の仕業である」と察し、「趙光義が自分の猜疑心をやわらげるために諸大臣を総動員したのだ」と確信した。
: 趙匡胤は朝廷の情勢を憂慮し、勤政殿に賓客・銭弘俶(※呉越国王)を召し出した。銭俶はかれこれ1か月と9日間も汴京に滞在し、心中では望郷の念を強めていた。趙匡胤は、銭弘俶との話に花を咲かせつつ、彼の深い懐郷の念を強く察して、銭弘俶の帰国を快く許してやることとし、手土産に「ある包み」を持たせた。それからすぐ銭俶は、呉越国都・杭州への帰路についた。銭俶は駕籠の中で手土産の包みを開いた。するとなんとその包みの中には、「宋朝大臣たちによる、呉越征伐を要請する趙匡胤に対しての上奏書」がぎっしりと大量に詰め込まれていた。趙匡胤は銭弘俶に対し、「呉越討伐を求める上奏書」という意味深な手土産を授けた。趙匡胤はそれを銭弘俶に見せつけることで、彼に宋への帰順を暗に強く促したのである。呉越国王・銭弘俶は、呉越国に未来がないことを深く悟った。趙匡胤の死から2年後の西暦978年、呉越国は正式に宋に投降し、国土の一切を明け渡した。これにより呉越国は滅亡するのだが、それはもう少し後の話になる……。
: さて、趙匡胤の最大の憂慮は、宋朝の遷都問題であった。趙普は趙匡胤に対し、長安ないし洛陽への遷都を提言していた。趙普は軍事防衛の観点を重視しており、特に「晋王・趙光義が、汴京で密かに蓄えた兵を発動して、謀反を起こす」と強く危惧していた。趙匡胤も、趙普の言に一定の道理があると考え、心が急き、不安となった。そこで趙匡胤は、文武の諸大臣を引き連れ、自ら洛陽・長安の視察を行った。
: 視察・熟慮の結果、趙匡胤は、洛陽への遷都を本格的に計画しはじめ、遂には遷都計画を実行に移そうとまでも考えた。趙光義は、「洛陽遷都が自分の皇帝即位のためには不利である」と考え事態を強く憂慮した。そこで趙光義は一計を案じ、単身で趙匡胤に謁見して、洛陽遷都の弊害を強く述べた、「汴京は、五代のうちの後梁・後晋・後周の三朝が都とした由緒正しき土地柄であり、我が宋朝も16年間汴京を都と定め、汴京は大いに繁栄し、国都は盤石で揺るぎないものとなりました。にも拘わらず、洛陽へ遷都するのは大変非合理的です。まず、多くの人やものの移動に、莫大な費用が掛かります。それに水運も洛陽より汴京の方が格段に良く、もし洛陽遷都のために新規の水利工事を行えば、人やものの大移動と合わせて、ひどく民衆を疲弊させるでしょう‥‥‥‥。確かに汴京は軍事上防衛に不向きな地形ですが、都の堅固さは、国の末永い安定とはさほど関係ありませぬ。君主が何より大事にすべきは、仁徳と民をいたわる真心です。無用な遷都事業で、民を無駄に苦しめてはなりませぬ。」と。趙匡胤は、都での兵変や、賊軍の都への侵攻を何よりも危惧していた。宋の自分の後継の皇帝が名君ならばまだよい。だが遠い将来、もし暗君が現れた場合でも、国都と宋の天下は決して失われてはならない。趙匡胤はただ、「人、遠き慮無ければ、必ず近くに憂あり」と説き、決して趙光義の洛陽遷都への反対意見を受け付けようとはしなかった。
: 厳しい状況に追い込まれた晋王・趙光義は、逆境の打開のため、「言い出しっぺの趙普を口説き、彼を味方に付けて、なんとか洛陽遷都を阻止しよう」と目論んだ。その夜、趙光義は、密かに洛陽の趙普の私邸を訪ねた。趙光義は趙普に対し、隠し続けていた皇位への野心をありのままに打ち明け、彼を買収すべく、一種の脅迫にも近い説得を行った。趙光義は、失脚中の趙普に対して、趙普の置かれた困難な状況を丁寧に説明してやり、自分の味方となることの巨利をはっきりと明示した。趙光義は趙普に対し、固く約束した、「もし普兄(趙普)のみが証人である杜太后の『金匱の遺詔』を世間に公表し、私(趙光義)の皇位継承を助けてくれるならば、私は普兄を宰相に再抜擢し、重用してやろう。」と。趙普は唖然とし、ただただ委縮した。最後に趙光義は、趙普に二つの選択肢を与えた、「①明日、陛下(趙匡胤)に、今日の出来事を密告し、私(趙光義)のことを弾劾する」か、或いは「②明日、行宮に赴き陛下(趙匡胤)に謁見し、洛陽遷都計画を阻止するべく陛下に対して説得を行う」かである。趙光義は、全ての話を終えると、趙普の邸宅を去った。趙普は激しく気持ちが揺らぎつつも、自身の保身・再起を図るため、最後は未来の皇帝・趙光義に味方することを固く決意。これにより趙光義・趙普の二人は、激しい闘争に終止符を打ち、和解した。趙光義・趙普の二人が良好な関係に戻るのは、宋の開国前~開国最初期以来であり、実に15年ぶりのことだった。趙普という強力な味方を手に入れることに成功した晋王・趙光義は、いよいよ皇位の座の間近にまで迫っていた……。
: 翌日、隠居の身である趙普は、自ら行宮に出向き、趙匡胤に謁見した。そして趙普は、自らが提案した洛陽遷都の考えに、強く反対してみせた。趙普は趙匡胤に対して私見を述べた、「洛陽の地形を調べるに、都とするにあまり適切ではないでしょう。また遷都すれば、皇宮・各所官署・軍営を新たに建設する必要があります。これは時・力・財を浪費し、民を疲弊させるものであります。民の不平不満が募れば、陛下が民心を失う恐れがあるでしょう……。」と。さらに趙普は趙匡胤に対して進言を続けた、「晋王・趙光義は国への忠義厚く、謀反の心配はありませぬ。それ故、遷都の意義も失われたに等しいと思われます。また、国が安定し太平の世が訪れれば、戦などもありませんから、都の守りが堅いか脆いかは、大した問題とはならないでしょう。それに、都の兵士をしっかりと鍛えておけば、なんら賊を恐れることはないでしょう。」と。そして最後に趙普は提言した、「今は北漢の太原を攻め落とし、天下統一を成し遂げるのが先決です。遷都はひとまず棚上げとしておくべきでしょう。」と。趙匡胤は、趙普の上奏を受け入れ、洛陽遷都をひとまず取り止めることとした。結局、その後も宋朝の洛陽遷都は行われることがなかった。だが、汴京の軍事防衛上の大きな欠点は、150年後の「靖康の変」において悲惨なほど露呈する結果となる……。
【徐蕊の死諫。趙光義、絶体絶命の危機】
: さて、趙匡胤の洛陽遷都計画は取り止めとなり、趙匡胤・趙光義ら文武諸大臣は洛陽から汴京に戻った。さてある日、趙光義はある悪夢を見た。その夢中で趙光義は、安忠・葛覇らとともに勤政殿に押し掛け、宮中の衛兵を惨殺し、重病の趙匡胤に対して譲位を迫っていた。しかし危篤状態の趙匡胤は、皇次子・趙徳芳に皇位を譲ることを宣言。すると布団の中からいきなり趙徳芳が飛び出し、葛覇と安忠を誅殺し、ついには趙光義にまで迫ろうとしたが………、そこで趙光義は、はっと目が覚めた。そのとき、悪夢に魘される趙光義を、側室の小蝶が親身に世話していた。趙光義は大いに驚き身震いし、慌てて「私は何か寝言を言わなかったか?」と強く問いただした。小蝶は、「なんら寝言は言っていませんでした。」ときっぱり答えたが、趙光義は大いにこれを疑い、不安により気が気でなかった。もし小蝶に、何か不都合な言を聴かれてしまっていた場合、我が身は大いに危うくなる。趙光義は、口封じのために小蝶を抹殺しようか悩んだが、ひとまず思いとどまった。
: その日、小蝶は、入内して邇芙殿に赴き、かつての主君・宋皇后(宋華洋)に謁見した。小蝶は、夫・趙光義の異状を何気なく宋皇后に対して報告すると、宋皇后は大いにこれを怪しみ、「以後、趙光義に何か異状があれば、すぐに入内してこれを報告せよ」と命じ、入出宮用の玉佩も授けた。
: さて、開封府に戻った小蝶は、趙光義と太医・程徳玄の往来を確かに目にしてしまった。程徳玄が趙光義の腹心であるということは、絶対に知られてはならぬ重大機密である。その後葛覇から、側室・小蝶のいくつかの怪しい行動に関する報告を受けた趙光義は、腹心・賈琰に相談し、「小蝶が趙匡胤の送り込んだ密偵である」との確信をいよいよ強めた。そして趙光義は、賈琰の進言に従い、自身の保身・大事のために心を鬼にし、無辜の妻・小蝶に毒入り茶を飲ませて、口封じのために容赦なく殺害した。趙匡胤は、小蝶の突然死をひどく怪しみ、「趙光義の仕業ではないか?」と勘繰った。趙匡胤は程徳玄と洪太医に、小蝶の死因を問うたが、趙光義が真犯人だという確証こそは得られなかった。
: 趙光義らは、「皇兄・趙匡胤が自分への猜疑心をますます強めている」と強く察し、打開策を協議した。廬多遜・楚昭輔・賈琰は、「事ここに至っては、もはや程徳玄に命じて陛下(趙匡胤)を毒殺するしかありません。」と強く説いた。だが趙光義には、「皇兄殺し」という良心に背くような行為をするほどの決心がついていなかった。
: さてその頃、徐蕊(金城夫人)は趙匡胤の懇ろな好意に心を許し、段々と趙匡胤への愛情を募らせていた。そして徐蕊はついに、趙匡胤に身を捧げる覚悟を決めた。ある夜、徐蕊は福寧宮を離れて、趙匡胤の寝殿である勤政殿を訪れた。そして徐蕊は趙匡胤に対し、孟昶への操を捨て、趙匡胤の妻となることを宣言。趙匡胤は大いに喜び感激し、二人は一夜を共にして、熱い男女の契りを交わした。徐蕊のことを10年恋焦がれた趙匡胤は、ついに本望を果たしたのである。
: ところが翌日、徐蕊のもとにある密書が届けられた。徐蕊の手先からの密書には、「孟昶・小蝶毒殺の真犯人は、晋王・趙光義である」との確かな情報が書かれていた。徐蕊は憤慨しつつも、冷静に覚悟を決め、自分の本分を果たすべく、趙匡胤に対して命懸けで忠言を行うことにした。勤政殿に赴いた徐蕊は、趙匡胤に対して強く説いた、「孟昶と小蝶は、晋王・趙光義によって毒殺されました。また趙光義は、陛下に叛逆して皇位を継承しようと目論んでいます。凶悪残忍な野心家・趙光義を生かしておくのは、宋の天下と民衆たちにとって大きな不利となります。宋の天下と民衆の安寧のために、どうか禍の種である趙光義を誅殺してください」と。趙匡胤も、「孟昶と小蝶を殺害した真犯人が趙光義である」ということは知っていたが、徐蕊の説得には従わなかった。趙匡胤は大いに悩んだが、趙光義を絶対に殺したくはなかった。なぜなら趙光義は、自身の大切な実弟だからである。また趙匡胤は、「信頼する趙光義が、自分に謀叛を起こすわけがない」と信じており、むしろ徐蕊を逆説得しようとした。すると徐蕊は、自身の首に刀を突き付け、命を賭して趙匡胤に対し強く諫言した。趙匡胤は大いに驚き、「話せば分かる。頼むから朕を脅迫しないでくれ」と言って、徐蕊に刀を手放すよう命じたが、当然徐蕊は聞き入れない。愛する夫・趙匡胤が、自分の命懸けの諫言にも耳を貸してくれないことに絶望した徐蕊は、涙を流し、宋の繁栄を祈りつつ自刎した。趙匡胤は、自身の愛する妻・知己を目の前で失い、激しく嘆き悲しんだ。しかし趙匡胤は、たとえ親愛する妻・徐蕊を失ってでも、大切な実弟・趙光義を失うことなどできなかった……。
: 趙光義は、徐蕊の自殺を知って大いに動揺し、「彼女が自分(趙光義)を殺すよう死諫し、その諫言を受け入れられなかったので命を絶ったのだ」と強く察した。趙光義は、いよいよ自分の身に危機が迫っていることを確信し、兵変のための準備を急ぐことにした。まず趙光義は、参知政事・廬多遜を高懐徳・張永徳のもとに派遣し、彼らに兵変時の内応を要求した。また三司使・楚昭輔には洛陽の趙普と連絡を取らせ、杜太后の「金匱の遺詔」の詳細内容を確認させた。一方、開封府推官・賈琰は、趙光義に対して、「太医・程徳玄に命じて、一刻も早く陛下(趙匡胤)に手を下すべきです。」と強く進言した。だが趙光義はこれを躊躇い、「程徳玄がしくじったり、恐れて逃げ出したりしたときはどうするつもりだ?」と賈琰に問うた。賈琰は答えた、「開封府の蓄えた10万の私兵を発動すれば、必ず陛下(趙匡胤)をねじ伏せることができるはずです。」と。趙光義は憂慮した、「それでは天下が大いに乱れるのではないか?」と。しかし賈琰は強く反論した、「天下が乱れずば、どうして英雄が頭角を現わせるでしょうか!?!?」と。趙光義も賈琰の説得を受け入れ、遂に覚悟を決めることとした。
: さて、開封府推官・賈琰は、太医・程徳玄を激しく脅迫し、彼に皇帝・趙匡胤毒殺を命じた。しかし命令を受けた程徳玄は、戸惑い・恐怖・不安のあまり放心状態・挙動不審となり、とても使いものになりそうにはなかった。そこで賈琰は従弟・王継恩に対して、「程徳玄が手を下そうとせぬ場合は、そなたが陛下を毒殺しろ」と厳命を下した。
: 一方、参知政事・廬多遜は朝廷の重鎮である高懐徳・張永徳のもとを訪れ、晋王・趙光義の謀反への内応を二人に要請。さらには、杜太后の「兄終弟及」の遺詔の存在も打ち明けた。そして廬多遜は、高懐徳・張永徳に対し、「兵変の際、詔を守り、国を正してください」と強く訴えかけた。趙光義は、兵変に際して、高懐徳・張永徳の二人を味方に付けることで、軍事上の優位を図ろうとしたのである……。高懐徳・張永徳は、表向きはその要求に従う構えを見せつつ、裏でその件を趙匡胤に密告した。趙匡胤は、趙光義・廬多遜らの謀反計画を知り、驚愕した。高懐徳・張永徳は、「逆賊・趙光義らを捕縛すべきです!!」と強く説いた。趙匡胤は迷いつつも遂に覚悟を決め、高懐徳・張永徳に禁軍の多くの兵力を授け、二人に対し「趙光義・廬多遜ら逆賊一党を残らず捕縛せよ」と厳命を下した。
: 一方で、絶体絶命の危機に陥った趙光義は、皇兄・趙匡胤との兄弟の情義に一縷の望みを託し、一計を案じて単身で入内し、趙匡胤に対して命懸けの弁解を行うことにした。この趙光義の命を賭けた大博打は、まさに自殺行為ともいえた。高懐徳・張永徳は、「趙光義を即刻捕縛すべきだ」と強く説いた。だが趙匡胤は、迷いつつもその進言に敢えて従わず、趙光義を勤政殿に召し、実弟の弁解を聞いてやることにした。趙光義は巧妙な詭計を用いつつ、趙匡胤に対して涙ながらに必死で弁解・謝罪をした。趙匡胤は、趙光義の誠意・真心をもう一度信じてやることにし、趙光義の罪を許し、開封府に無傷で帰らせてやることにした。そして趙匡胤は、「徐蕊の死諫の意図をしっかりと理解してくれよ。」ときつく趙光義に忠告した。趙光義は聖恩に深く感謝し、皇宮を去ることにした。高懐徳・張永徳は、「趙光義を釈放すれば、虎を山に放つようなものです。つがえた矢は必ず射なければなりません!!」と説き、あくまで趙光義の捕縛を主張した。しかし趙匡胤の意思は固く、その諫言を受け付けなかった。高懐徳は、「ならばせめて、晋王・趙光義を許しても、その配下である廬多遜ら逆賊一党を見逃すわけにはいきません」と強く説いた。しかし趙匡胤は、敢えて廬多遜らの罪も問わず、暫く様子を見ることにした。高懐徳・張永徳は不服であったが、趙匡胤の決意の強さを察し、ひとまず食い下がるしかなかった。これによって趙光義は、絶体絶命の窮地からなんとか脱することができた。一連の事件を経て、趙匡胤と趙光義の二人は、互いに気持ちが激しく揺り動かされていた……。杜太后の遺言、兄弟の絆、父子の情……、皇位をめぐる様々な要素が複雑に絡み合い、趙匡胤の後継者問題は、更なる混沌の様相を呈し始めていた…………。
【燭影斧声~千載不決の議~】
: 宋皇后(宋華洋)は、晋王・趙光義の謀反を強く危惧し、乱に備えて、禁軍の兵権を握る父・宋偓(※滑州節度使&水虎捷軍都指揮使)に協力要請を行い、皇子・趙徳芳の即位を助けるよう求めた。宋偓は謹んで拝命し、不測の事態に備えることとした。
: 一方、趙匡胤の病は再発し、ますます病状は重くなっており、趙匡胤も自分の死期が迫っていることを自覚し始めた。そこで趙匡胤は思い立ち、晋王・趙光義を勤政殿に召し出した。腹心の楚昭輔・廬多遜・賈琰は、主君・趙光義の参内に反対した。だが趙光義は、敢えて危険に身を投じ、そのうえで活路を見出そうと考え、勤政殿に出向いて皇兄・趙匡胤に謁見した。趙匡胤は趙光義に美酒を賜り、それを飲むかで弟の忠誠心を試した。趙光義は恐怖・不安に駆られ涙まで流し、緊張でとても酒を飲める状態になかった。結局、趙光義は、趙匡胤と同じ瞬間に酒を飲み干すことしかできなかった。同じ瞬間に飲んだのだから、無論毒など入っていようはずもない。趙匡胤は複雑な感情のまま、趙光義を退出させた。趙光義は、ただ無言で、深く叩頭して勤政殿を去った。
: 重病の趙匡胤が、皇子・趙徳芳に皇位を継がせる意思は明確であった。そこで趙匡胤は、趙光義に賜酒することで、趙光義に対し、暗に強く警告し、自重を促したのである。事態を大いに憂慮し焦った趙光義は、参知政事・廬多遜に命じて、京城の至る所に腹心の将領と数多の兵士を配置し、兵変の準備を急いだ。
: 趙匡胤は重病の身でありながら、太医・程徳玄が煎じた薬を決して飲まなかった。それは、程徳玄の煎じた薬に毒が入っていることを、事前に熟知していたからである。だが、毒殺を逃れるために薬を飲まなかった結果、趙匡胤の病状は急激に悪化の一途を辿っており、いよいよ危篤状態にまでなった。
: 開宝9年(976年)10月20日となった。季節は冬であり、その夜、汴京は大雪に見舞われていた。趙匡胤は、自らの死がすぐ間近に迫っていることを悟り、皇次子・趙徳芳を開封府への使いに出し、晋王・趙光義に対し、「勤政殿に直接出向くように」と命じた。趙光義は、趙匡胤の命を受け、甥・趙徳芳とともに参内し、勤政殿に出向いて趙匡胤に謁見した。趙匡胤は、次男・趙徳芳を先に下がらせ、酒と肴を準備し、実弟・趙光義と二人で、最後に腹を割って話すこととした……。
: 趙匡胤と趙光義は、昔話に花を咲かせ、二人は兄弟の絆を再確認し合った。だが趙匡胤は、徐々に話題を本題へと移し、自分の死後の宋の将来のことについて論じ始めた。趙匡胤は、高懐徳・張永徳からの密告で、事前に趙光義の謀反の動向をすべて明確に把握していた。趙匡胤にその件を問い詰められた趙光義は、ぐうの音も出ず、ただ委縮し、戦々恐々とするばかりだった。
: 趙匡胤は本来、死後皇位を皇次子・趙徳芳に継がせるつもりだった。それは父子の情だけが大きな理由ではない。もう1つの大きな理由は、弟・趙光義に対し、皇位継承の野心が潰える失望を強く味わせるためである。趙匡胤は、趙光義に対し厳しく説教した、「そなたは私欲や保身のために、孟昶と小蝶を毒殺し、宰相・趙普を失脚させ、それ以外にも影で盛んに陰謀を巡らし、皇位簒奪まで企てた。そのように凶悪残忍な野心家が、どうして宋の天下・民に安寧をもたらせようか!?」と。趙光義は号泣し、土下座してただただ謝罪するしかなかった……。そして趙匡胤は、趙光義に対し大切な遺品「一経(道徳経)・一拳(太極拳の書)・一斧(鎮紙玉斧)・一酒(諫臣に賜る極上の御酒)」を授けようとした。趙光義には恐れ多くてとても受け取れるわけがない。趙匡胤は、「好為之」と何度も叫び、鎮紙玉斧で何度も机を叩いた。「好為之」とは、「自ら適切に事を運び、しっかりと処断を行え」という戒めの意味である。
: 趙匡胤は、趙光義とのかけがえのない兄弟の絆が無惨に変わり果ててしまったことを嘆いた。それも全ては、皇帝の地位を巡る数々の争い・葛藤が原因である。趙匡胤は二度「好為之」と言うと、「一経(道徳経)・一拳(太極拳の書)・一斧(鎮紙玉斧)・一酒(諫臣に賜る極上の御酒)」の遺品を、自らの手で趙光義に託した。そして趙匡胤は、本当に最後の重要な遺言を趙光義に残し、二つの選択肢を用意して、大宋の将来を趙光義自身に選ばせることにした。その2つの選択肢は以下の通り───、
①皇次子・趙徳芳を即位させ、自身(趙光義)は皇叔としてその補佐に当たる。
②自ら(趙光義)が皇帝に即位し、帝王としての生涯を切り拓く。
: 趙匡胤は、大宋の将来の選択を、全て趙光義に託したのである。それは、趙匡胤が弟・趙光義のことを強く愛し、信頼していたからだ。趙光義は、兄・趙匡胤の寛大さに畏敬の念を抱き、自身の犯した大罪を素直に認め、深く謝罪した。趙匡胤は「好為之」と二度呟き、趙光義の両肩に手を載せ、彼を慰めて言った、「燭泪は流れ尽き、天もまもなく明けるだろう。何が正しく何が誤りかは、後世の人の評価に委ねようではないか……。」と。趙匡胤と趙光義は、互いに額を接し、兄弟の絆を確かめ合い、深い感動に浸った。
: 開宝9年(976年)10月21日、朝、宋太祖・趙匡胤はすでに息を引き取っていた。趙匡胤の死を目撃した宦官・王継恩は驚愕し、急ぎ邇芙殿に赴いて宋皇后に対し「趙匡胤崩御」の事実を伝えた。宋皇后(宋華洋)は夫の死を知り、愕然として悲痛に駆られたが、いつまでも悲しんでいるわけにはいかない。宋皇后は宦官・王継恩に対し「至急、皇次子・趙徳芳のもとに赴き、彼を宮中に参内させよ」と命じた。しかし王継恩は、言うまでもなく趙光義の手先であり、宋皇后の命令に従うわけがない。王継恩がまず向かったのは開封府の趙光義のもとである。王継恩は、趙光義に対して趙匡胤崩御の事実を告げた後、やっと皇次子・趙徳芳の屋敷を訪ねた。
: 趙匡胤の崩御を知った趙光義とその腹心の部下たちは、すぐに行動を起こし、裏切り者の高懐徳・張永徳を捕縛した。捕らわれた高懐徳・張永徳は、開封府に連行され、趙光義らの面前に引っ立てられた。高懐徳・張永徳は、趙光義とその一派を「弑逆の罪を犯した逆賊どもである」と激しく罵倒した。だが趙光義は、捕縛された高懐徳・張永徳の縄をほどくと、二人に対して、自身の罪深さをきっぱりと認めた。そして趙光義は、「国法に拠り、私(趙光義)を殺してくれ」と二人に請い、潔く2本の剣を差し出した。高懐徳・張永徳の二人は剣を受け取り、鞘を抜いて、剣を趙光義の首元に当てた。廬多遜・楚昭輔・賈琰・安忠・葛覇は大いに慌て、「国は長君を頼るべきです。高将軍・張将軍、どうかお考え直し下さい!!」と懸命に高懐徳・張永徳の二人に懇願した。だが高懐徳・張永徳は、決して剣を手放そうとはしなかった。趙光義はついに覚悟を決め、「殺すなら一思いに殺してくれ」と高懐徳・張永徳に強く請い、手が下されるのを、ただ目を瞑って待った。高懐徳・張永徳の二人は、趙光義の確かな誠意に強く胸を打たれ、ついに手を下せず、剣を放り出した。高懐徳・張永徳の二人は、心から趙光義を許した。その後、高懐徳・張永徳は、杜太后の「兄終弟及」の遺詔が確かに存在することを知り、驚愕。加えて趙光義は、昨晩皇兄・趙匡胤に委ねられた遺言を赤裸々に告白した───。「①皇次子・趙徳芳を即位させ、自身(趙光義)は皇叔としてその補佐に当たる」か、或いは「②自ら(趙光義)が皇帝に即位し、帝王としての生涯を切り拓く」か…‥‥。趙光義は、兄・趙匡胤の残した二つの選択肢を自分では決定せず、二人の将軍・高懐徳と張永徳、ならびに天下の臣民の願意に沿って決めることとした。そして趙光義は、高懐徳と張永徳の二人に、処断を強く託したのである。高懐徳・張永徳の二人は、義弟・趙光義の熱い決意・真心に深く感動し、趙光義を新帝に頂き、臣として従うことを宣言。陛下万歳を唱え、新帝・趙光義を敬い奉った。
: 即位した趙光義は、諸大臣とともに勤政殿に赴き、兄・趙匡胤の遺体と対面した。趙光義は、宋皇后・趙徳芳の命を助け、甥・趙徳芳を「一字平肩八賢王」に封じ、趙匡胤の遺品「一経(道徳経)・一拳(太極拳の書)・一斧(鎮紙玉斧)・一酒(諫臣に賜る極上の御酒)」を授けた。後世に名高い「八賢王・趙徳芳」の誕生の瞬間だった。また、宋皇后(宋華洋)は、皇太后の身分となった。
: 宋開封9年(976年)10月20日夜、宋の初代皇帝・趙匡胤は急死した。その死は1000年以上、謎に包まれ続けており、後世に「燭影斧声(千載不決の議)」と呼ばれる。英雄・趙匡胤、享年50歳。在位16年。諡号は「英武聖文神徳皇帝」、廟号は宋太祖である。その2日後、趙匡胤の弟・趙光義が、誓碑殿・霊柩の前で即位し、大宋国第二代皇帝となった。歴史上、宋太宗と称される。6年後、趙普は杜太后の残した「兄終弟及」の遺言を公表。「金匱の盟」が果たされ、趙普は宰相の地位に返り咲いた。また趙光義は新たに皇后を冊立し、ほどなく皇子(※宋真宗⦅趙恒⦆)に恵まれた。その後、趙光義の子孫が皇位を代々継承し、南宋の初代皇帝・趙构(南宋高宗)の代までこれが続いた。趙构の死後、趙眘(南宋孝宗)の代になって、皇位はやっと宋太祖・趙匡胤の系譜に戻った。西暦1279年に宋王朝が元朝に取って代わられるまで、これは続いていくことになった……。《完》