見出し画像

「防災無線通信」東京藝大アートフェス2024

東京藝大アートフェス2024に、修了制作の「防災無線通信」が採択されました。
2025年5月ごろまで、藝大アートフェス2024公式サイトにて公開されます。

 作品を補完する意味も込めて、今年の1月の修了公演のリーフレットにつけていた文章を改めて公開します。能登半島地震が起きた直後に、”防災”について自分がどのように考えているのか、なんとか綴った文章です。


 令和6年能登半島地震に被災された全ての皆様にお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。防災の名前を冠した作品を制作しながら、少額ばかりの寄付しか支援する手段を持たない身として、被災状況を伝えるニュースを見ながら歯痒く感じるばかりです。

 僕はまだ、災禍によって故郷や大切な人を失ったことはありません。だから、防災という距離を持った地点から、災禍を考えているのでしょう。僕は1998年に静岡県浜松市に生まれました。土地柄もあり、生まれた時から、周りの大人たちに、いつか来るという南海トラフ地震のことを聞かされて育ちました。そうして浜松で過ごした高校卒業までの間に、日本では何度も大きな地震が起こりました。そのたび、特に東日本大震災以降、学校で行われていた避難訓練がよりシリアスなものへ変化していったことを覚えています。今でこそわかりますが、当時の僕と同じように、大人たちも怖かったんだと思います。ある時期は、ほぼ毎月のように、抜き打ちで行われていた時もありました。突然警報が鳴らされ、全校生徒が一斉に校庭へ整列させられる光景を目の当たりにするたびに、都市と共同体について嫌でも意識しました。およそ100年周期で起きるとされている南海トラフ地震。最後に発生した1946年から78年が経過していることを考えると、私が生きている間にはほぼ確実に起きることになります。その時、私の故郷はきっと、大きく姿を変えてしまうのでしょう。

 かつて、僕が生まれるよりずっと前、僕の故郷は、災禍によって姿を変えたことがありました。1941年から1945年まで行われた太平洋戦争です。浜松は戦前より工業地帯として発展してきました。紡績に加え、楽器生産など、産業と文化の両面から日本の近代化を強く支えることになります。しかし、戦争が始まるとそうした工場の多くが軍需工場として、軍需物資の生産を行なっていました。ヤマハの前身である日本楽器製造も練習機のプロペラを製造していました。そうした背景もあり、浜松は攻撃の標的として、何度も空襲や艦砲射撃を受けました。今年で86歳になる僕の祖父はそこで、3度の死に目にあったと語っています。少し運命が変われば、私は生まれていなかったのだと実感します。空襲や艦砲射撃により焼け野原と化した浜松ですが、戦後は工業地として、楽器生産地として、発展していくことになります。そうした土地柄の影響もあってか、僕は音楽の道を志すことになりました。2020年にヤマハの時報楽器、ミュージックサイレンのリサーチを始めてから、祖父や故郷の戦争体験を詳しく知り、次第に自身の存在や音楽自体に血生臭さのようなものを感じるようになりました。工業都市、文化都市としての故郷の恩恵を受けながら、そうした歴史が祖父の死という僕自身の存在の危機に直接繋がっている。戦争の歴史は街の中に、いくつかの遺構として残されています。しかし、それらもいつまで残り続けるかはわかりません。遺構のひとつであったミュージックサイレンは、すでに稼働をやめています。祖父の戦争体験を詳しく聞けたのも、数年前に祖父が癌で入院した際に、遺書として詳しくまとめていたからです。本作をつくり始めたのは、こうした故郷の歴史と自分の存在に落とし前をつけたかったからでした。僕を含む、日本に住む多くの人々が、日常の中に淡い災禍の影と恐怖を感じながら生きています。人々はそれを”防災”と呼ぶのでしょう。この恐怖はときに隠され、この恐怖こそが僕たちの共同体を形作っています。防災無線はその一つの象徴であると言えます。日々時報として鳴らされる郷愁と母性を帯びたメロディ、それが未来の災禍へ備えるために鳴らされています。そうした装置としての音楽を引用しながら、”防災”という僕たちに働く力を捉えようとしたのが今回の作品でした。メロディを通し、人々の中にある記憶を呼び起こしながら、仮初めの共同体を劇場につくり出そうとしていたのです。郷愁は音楽の大きな効果の一つでしょう。言うまでもなく、音楽にも共同体を作り出し動かす強い力があります。しかし時にそれは反転し、人を全体主義へと向かわせることもあります。こうした力に対して、最後のセリフはこうして劇場を出て、仮初めの共同体を離れていく皆様へのエールとして書いたものでした。しかし先の震災を受け、現実に崩壊する共同体を目の当たりにして、僕の気持ちは今も大きく迷っています。本当に人は寄るべもなく生きていくことができるのでしょうか。良いものも悪いものも含め、恐怖は連帯を呼び起こします。しかし、帰ることができなくなった人たちに必要なのは、強い共同体なのではないか。今も迷っています。

 それでも、寄付や支援以外に、音楽や芸術が災禍に対してできることは、災禍を現実として受け取り、よく考え、作品にすることしかないと思います。今もずっと考えています。むしろ、ずっと考え続けるためにつくっているのでしょう。昔から人は音楽を通して、亡くなった人のことを弔う、愛する人のことを憶う、そうすることで自分の心をも慰めるということを、ずっとやっています。では、弔いとは何か、それは過去を記憶し、認識し、考え続けることだと思います。過去は次第に忘れられていきます。そうして過去は亡き者になった時に、亡霊となって現れる。僕が故郷に感じていたものの正体はこの亡霊だったんだと思います。だからこそ、悪い形で取り憑かないよう、過去は弔い続け、考え続けなければならない。僕はそれを”防災”と呼んでいるんです。それは見えない恐怖と付き合っていくための手段でもあります。祖父と故郷の経験した太平洋戦争からスタートした作品でしたが、きっとこの作品の持つ意味はこれから先も変わり続けていくのだと思います。地震に限らず、あらゆる災害、あるいは戦争、あらゆる災禍が、いずれ僕や僕の親しい人たちにも降りかかることになるかもしれません。その時の”防災”のため、芸術に携わる者の端くれとして、今日もまた、祈っています。

いいなと思ったら応援しよう!