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URCを聴き直す①――金延幸子(2)

ポール・ウィリアムスの出会いとアメリカでの結婚生活(1972~1986)

『み空』制作のあたり、金延は室矢憲治の紹介で、のちに結婚する音楽評論家のポール・ウィリアムスと出会います。同時期、ウィリアムスの本の翻訳を手がけていた室矢は、NHKの「とべたら本こ」という子ども向け番組のテーマソングを依頼するために金延と連絡を取り、その流れで日本でおこなわれたウィリアムスを囲んだパーティーに金延を誘ったとのことです。金延はウィリアムスとタロットカードなどを楽しみ、後日、ウィリアムのほうから金延に連絡をしたそうです。当時、金延は友人(「春一番の風は激しく」の作詞をしている藤原明子)と原宿でルームシェアをしており、ウィリアムスはわざわざ原宿まで遊びに来たとのこと。

『み空』のなかでも、「道行き」「はやぶさと私」「春一番の風は激しく」あたりの曲は、ウィリアムスとのことが歌われているそうです。「春一番の風は激しく」は友人の藤原が、金延の話を曲にしたもののようです。金延はパーソナルなこと、とくに恋愛感情を曲にすることが多く、大阪時代に作った「時にまかせて」「おまえのほしいものは何」もそうやって作られた曲です。ちなみに、これは金延がdublabのラジオで言っていたことですが、「時にまかせて」「おまえのほしいものは何」は大阪時代の金延が、当時、遠距離恋愛の相手だった遠藤賢司について歌ったものだとか。ふたりが恋人同士だったことは知らなかったので驚きです。しかも、さらに驚くべきことは、エンケンの『満足できるかな』に収録された「待ちくたびれた僕はとても疲れてしまった」は、金延との遠距離恋愛に疲れたエンケンの思いを吐露したものだとか(!?)。

このウィリアムスとの交際期間のうちに子どもができて、プロポーズを受けた金延は、悩みながらも『み空』のレコーディング終了後、発売も待たずにウィリアムスのいるアメリカに渡ります。したがって、マスタリングや曲順はプロデュースをした細野が決めたそうです。『URCレコード読本』には、「これが最初で最後のアルバムになるだろうなと思ってた」「レコーディングしてやね、すぐにアメリカへ行っちゃったのよ。曲の順番も決めずに」という金延の話がありますが、その裏にはそのような事情があったようです。

さて、金延は、1986年に離婚するまでポールと一緒に過ごします。ニューヨーク/カリフォルニアでのウィリアムスとの生活のさなか、ふたりの子どもを育てながら、金延は1970年代後半から80年を通じて、作曲活動を続けていました。金延ファンにはわりとよく知られた話ですが、SF作家のフィリップ・K・ディックは金延の大ファンで、シングル「Folk In The Road」を出すときに出資までしているのですが、ディックに金延を紹介したのもウィリアムスです。金延いわく「フィリップ(・K・ディック)はアメリカで一番最初の『み空』のファンだったんです」と。

しかし、インタビューによると、音楽活動を続ける金延とウィリアムスのあいだですれ違いがあったようで、ディックのほうは「もったいないから音楽を続けなさい」とアドバイスをしていました。「Folk In The Road」のシングルはこの時期に自主制作されたもので、82年春にはディックのバックアップのもと、英語詞のアルバム制作の話も出ていたらしいですが、映画『ブレードランナー』公開直前、82年2月にディックは脳梗塞で亡くなってしまいます。インタビューには、「急に電話に出なくなり心配していたら、脳卒中で倒れてしまって……」という生々しい証言があります。結局、結婚生活をしていた時期の曲はほとんど世に出ないかたちで埋もれてしまいます。これらの楽曲が世に出るのは、もう少しさきになります。

アメリカでの音楽活動(late1980s~early1990s)

このあたりから、URCともほとんど関係なく、『URCレコード読本』のインタビューで語られた話のさらにさきの話になります。

1980年代、金延はときどき日本に里帰りをし、そのさいに弾き語りのライブなどもおこなっているましたが、拠点となっているのは変わらずにアメリカです(おそらく、この時期はカリフォルニアだと思われる)。1983年頃、金延は、ウィンター(Gt,Vo)、トレイ・ロング(Ba)、マイク・リヴァーモア(Dr)というメンバーとともにSachiko & Culture Shockというバンドを結成し、4曲入りのEPが地元で話題になったこともあり、バンドは本格的に活動をします(そのときは、SACHIKOという名義のバンドだった)。そして、1991年、『み空』から20年を経て、アメリカで(日本のリスナーにとっては)ひっそりとセカンドアルバム『SEIZE FIRE』をLXRレコードという自主レーベルからリリースすることになります。

内容は『み空』とうって変わって、全編英語で社会的な歌詞、ヴォーカルも力強く低い声、サウンドはパンキッシュで荒々しいサウンドです。「Live Or Die」などかなりパンク。あとは、時代的にセカンド・サマー・オブ・ラヴの同時代性を感じます。「Climb To The Future」はハッピー・マンデーズのようにも思えるし、あるいは、「Big Light」はグレイトフル・デッドのようなサイケデリックなロックサウンドをアップデートさせたような感じです。内省的かつ重厚なギターが印象的な「Bad Boy」は、同時代のニルヴァーナを感じさせます。この時点で金延はウィリアムスと別れていますが、ウィリアムスはこのアルバムに対してコメントを寄せていて、「Bad Boy」については「アルバムのなかいちばん好き」「胸が引き裂くほど美しい」と書いています(in my favorite track of the album, the beautiful, heart-tearing “Bad Boy”)。

こうしてひっそりとアメリカで発売された金延幸子のセカンドだったわけですが、そのアルバムを中川五郎が偶然見つけることになります。1992年の11月、ニール・ヤングの取材でサンフランシスコに訪れた中川五郎は、ヘイトアシュベリーのレコード屋で、偶然『SEIZE FIRE』を発見しました。『SEIZE FIRE』のライナーによると、中川は「見つけた時は一瞬我が目を疑い、すぐにもやたらと嬉しくなって、そのままでいると今にも乱舞でも始めてしまいそうな状態にまで陥ってしまったのである」とのことです。このことがきっかけかよくわかりませんが、このアルバムは1993年に逆輸入されるかたちでMIDIから日本盤CDが発売されました。この時期、金延は『SEIZE FIRE』を引っ提げて、ドイツでライブをするなど精力的に音楽活動をしています。

1995年には、やはりMIDIから『It’s Up To You』というアルバムを出しています。残念ながら入手してはいないのですが、YouTubeで曲を聴くことはできます。以下は、YouTubeを聴いた限りでの感想です。

表題曲のように前作から引き継いだようなロックサウンドもある一方で、「So Far Away So Close」のようなアコースティックな曲、あるいは「Monkey Island」のようなワールドミュージック風の曲もあります。なかでも「Walking On A Tightrope」などは完全にレゲエで、しかもラガマフィンが少し入っていて驚きます。ワールドミュージックへの関心というのは、1980年代末から1990年代にかけての世界的なトレンドと言えますが、同時に、金延自身の趣向もありそうです。というのも、金延はサンフランシスコの生活を通じて、カリフォルニアの移民文化に大きく影響を受けており、その後、サンフランシスコで開かれた「世界平和と文化の祭典」を経て、ワールドミュージックに傾倒していくからです。そのことは、またあらためて書きたいと思います。(続く)


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