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幼稚園入園前(2022年11月10日追記)

幼稚園入園まで(1958年3月~1952年6月)

1952年6月15日、和歌山市和歌浦で出生

祖母の駄菓子屋

駄菓子屋は実質祖母ひとりで切り盛りしていた。新聞紙を切って水のりで貼り付け、飴を入れる袋を大量に手際よく作ったりしていた。
その駄菓子屋で、お菓子を取り放題だった。
グリコのおまけを集めるため、何箱も食べた。

(NEW!)
お菓子は今のように衛生的な包装はされていなくて、飴玉は2個1円で瓶にはいり、その他のお菓子もガラスのふたのあるすごく平たい木箱に並べられていた。パンはショーケースにむき出しで並んでいて、あんぱんが5円
2枚のチューインガムが5円、4枚が10円
明治の板チョコが10円と20円だった。

グリコの「ソーセージ風のチーズ」はまずかった。チーズ嫌いになった。
グリコの「魚肉ソーセージ」もまずかった。ソーセージ嫌いになった。
どちらも本物の味を知るのは大学生になってからだった。

家族旅行の時、私はお菓子屋に入ると
好きなお菓子をいくつも手に取って店を出て行ったので、
両親は私の後について、店の人に謝って代金を払っていた。

炭本家

「和歌山の汚い言葉に染まる」と言って、近所の子どもと遊ぶのは禁止で、唯一親しくしてる炭本一家とだけ交流が許された。
炭本一家は長女、長男、次男、次女の4人子どもがいて、次女は私より一つ年上で、中学生ぐらいまでよく家に遊びに行った。

(NEW!)
私より1歳年上の炭本家の次女が「私のおなかにも赤ちゃんいるの?」と母親に聞いた。「うん、今、このくらいかな」と言って両手で球を作る。
わたし、すかさず「ぼくの赤ちゃんはどのくらい?」
おばさんは、ぎょっとした表情を一瞬見せたが、笑いながら
「ぼくはちいさいからまだこのくらいかな」と言って両手で小さな球を作った。

炭本家前の路地で集団遊びをしたことがある。
石10個、道路一周、電柱タッチなどの領域が描かれたマップに石を投げ、
石が入った領域に従い、最速で達成した子が1番になる
大多数は一番時間がかかる道路一周になるが、
たまに「電柱タッチ」や「石10個」になって、年少者が1位になる。
運動にもなり、単純だがよく考えられたゲームだった。

道路一周の途中に井戸のある広場があった。ポンプ式で、井戸にはふたがされ、ポンプの口から冷水が出る。夏はよくお姉さんがたらいに入り、裸で水浴びしていた。まわりにすだれを立てかけて囲んではいるのだが、ほぼ丸見えだった。

路地には紙芝居がよく来ていた。自転車で路地に乗り付け、紙芝居を演じたあと、1個5円の水飴を売る。
豆腐の量り売り、醤油の量り売りも路地に来た。みな、鍋や一升瓶を抱えて列に並んだ。大通りには、本物のロバが引く「ロバのパン屋」が、例の音楽に乗ってやってきた。
1回5円で巨大な円盤を回すと、上向きの矢印が指し示した本数だけきびだんご(きなこ砂糖をまぶしただんごが串に刺されたタイプ)をもらえた。
ホームランバーのアイスクリームもすでにあった。

1枚10円のお好み焼き屋があった。お好み焼きといってもクレープの生地のようにペラペラのお好み焼きで、紅ショウガや鰹節がぺちゃんこになって入っている。ソースをたっぷり塗って新聞紙にくるんで手渡される。
お好み焼きが熱々なので、新聞の文字がお好み焼きの生地に転写されていた。

炭本家は魚の行商をしていた。

我が家に白黒テレビが入った。当時は4チャンネルがNHKだった。
チャンネルはガチャガチャと回転させる方式だった。真空管が暖まらないと映らない。電源を入れてから映るまで時間がかかった。
炭本家からテレビを見に集まってきた。
私は「ポパイ」を見ていたが、炭本家優先でチャンネルを変えられ、「うちのテレビなのに」と不満だった。
炭本の兄弟は「サユリスト」で、テレビに映る吉永小百合を写真に撮り、大事にしていた。

ある時、有力者の家で「カラーテレビ」の試写会をするというので出かけていった。タンスぐらいの大きさの装置の真ん中上部に小さなブラウン管がつある。確かに色がついていた。

洗濯機も早くに買った。洗濯槽だけで、ローラーに洗濯物を挟み、手動で回転させる脱水機構が付いていた。

(NEW!)
扇風機は、今で信じられないくらいすきまがあり、よく指を突っ込んで止めたりした。中央の回転部分を親指で強く押すと止まるのもおもしろかった。
首振り機構はモータのすぐ脇に押し込むボタンがあり、押すと首振り、引くと回転が止まる二択なのだが、押し引きにすごく力が必要だった。

電気炊飯器やトースターも我が家に来るのが早かった。

電話を引くのも早かった。炭本家の電話をよく取り次いできた。
ある時、知らない人が飛び込みで「電話を貸してくれ」と言って、電話したあと10円置いて出ていった。市外通話だったことが判明し、母がいつになく怒っていた(当時、市外通話はものすごく高かった)。

(NEW!)
天井をむき出しの配線が並行に走っていた。ヒューズが飛ぶと配電盤のヒューズを交換した。ヒューズがない時、ヒューズを購入するまでの間、父が針金を巻いて代用していることがあった。
水に濡れた手でトイレの明かりのトグルスイッチを触ると感電する時があり、いやだった。ほかの照明はぶら下がっている紐を引っ張るのだが、なぜかトイレだけが壁面スイッチだった。トイレの手洗いの水はツボにししおどしから水が供給されていた。水源はどこだったのだろう?

ひとり遊び

一人っ子なので、いきおい、ひとり遊びにのめりこむ。
両親は積み木、組み木、パズル、トミカ、プラレールなどのおもちゃはいくらでも買ってくれた。きれいな色のおはじきやビー玉があった。
たくさんのビー玉を鴨居に一直線に並べ、左端にビー玉を当てると右端のビー玉が1個だけはじき出される。どんなに思い切りぶつけても1個だけだ。塊にすると飛び散るのに直線に並べるとなぜ1個だけなのかすごく不思議だった。残念ながらカーブを描いた鴨居は我が家になかったので、曲線で試すことはできなかった。
絵本もよく読んだ。

(NEW!)
脚付き将棋盤と脚付き碁盤があった。
本将棋の他にいろいろな将棋遊びをした。
将棋倒し:ドミノと同じように駒を立てたあと一番前の駒を倒し、次々倒れる様を見て遊ぶ
将棋山崩し:将棋の駒を積み重ねて山を作り順番に駒を取っていき、駒を取る時に他の駒が動くと負けになる
はさみ将棋:お互い一番手前の行に9個の駒を一列に並べる。将棋の駒はどの駒も上下左右に何ますでも直進でき、相手の駒を挟むと盤上から取り除き、先に3枚になった方が負け
まわり将棋:お互いに角のますに歩兵を置く。金将4枚を振って出た数だけ駒を進め、角に止まると一つ上の駒に出世する。上の位の駒に追い越されると仮死状態。もう一度追い越されると蘇る。王将になると将棋盤の中央に向かって進み、中央のマス目に止まるとゴール。決闘や、反対則まで仮死を繰り返すと王将で復活するなど結構ルールは凝っていた。
これらをよく遊び、時にはひとりで何人分も受け持ってひとり遊びをした。
本将棋は父が相手をしてくれて、私は4セットある駒を全てもらう。父は取った駒を全く使わずに相手をし、あるタイミングで私に襲いかかり、王将を取る。そのたび私は大泣きした。
幼稚園に入学する頃から父と平手で対戦できるようになり、近所のおじさんや家に遊びに来るお兄さんにも勝つようになった。
囲碁は、五目並べが主だった。ある時、将棋で私に負かされたお兄さんが、「囲碁をおしえてやる」と言いだして、目が二つあるとその石は取れないこと、シチョウになって助かる場合と助からない場合、勝敗の決め方など簡単なルールを教わり、互い先の黒石をもらった。
相手の白石を大きく取り囲み、「やった、大石取って勝ちだ」と思った時、お兄さんが「ほんとうにそこでいいの?」と聞く。
私は「あっ」と叫んだ。白を取り囲んだ私の黒石の大群が、さらに外側を白石で囲まれている。石を全部取られて私は敗北した。不思議と将棋で負けた時のように腹が立つことはなかった。

(NEW!)
家には秋田犬がいた。
3歳ぐらいまでは秋田犬が子守をしてくれたそうだ。
秋田犬が、腹に水がたまる病気にかかった時、獣医さんが来た。
麻酔も打たずに、腹にぶっとい針を刺す。すごく痛そうに見えるが、犬はすごく気持ち良さそうに見えた。
スピッツも一匹いた。ある時、よそからもう一匹のスピッツが来ていて、度までじゃれ合っていたかと思うと「キャン、キャン、キャン」と叫んでおしりがくっついた。お互いお尻をくっつけて反対方向を向いたままじっとしている。母親がバケツの水をぶっかけると離れた。
ほどなくして子どもが6匹生まれた。出産は、お尻の穴から子犬がするりと出てくるように見えた。4匹はよその家に引き取られ、2匹が残ってスピッツだけで3匹になった。
猫の「ミケ」もいた。すごくおとなしい老猫だった。我が家の犬とも仲良くしていた。

ずいぶんあちこち旅行に連れて行ってもらった。
別府温泉の血の池地獄が強烈な印象で記憶に残っている。
遊園地は「みさき公園」が多かったが、いちど「奈良ドリームランド」まで足を伸ばしたことがあった。入り口から別世界で、入場ゲート前に馬車がいる。しかもカーゴは鉄輪で、線路の上を移動する!
園内は広かった、岩山の頂上から下るジェットコースターは乗れなかったが、岩山から鍾乳石のように垂れ下がった岩のすぐ脇を通る。通る時、みな、首を思いっきり曲げて顔が岩にぶつからないようにする。外から見ると、岩は絶対顔に当たらないだけの距離離れているのにだ。

3歳の時に、南海難波駅で父親がトイレに入った時、出てきた別人を父親と勘違いして後を付いていき、振り向かれた時に別人とわかって大泣きした。駅員がやってきて話しかけてくれてもひたすら泣いていた。

以後、下着を含めてすべてのモノに住所と名前が墨書きされた。

牛乳屋

私が生まれた頃は、実家でも牛乳と一緒にパンを売っていた。なかたのぱん、クリームパンもあんパンも1個5円だった。
牛乳の業務用冷蔵庫は最初氷式で、氷屋で切ってもらった氷を冷蔵庫の最上段に並べた。後に、冷蔵庫はそのままでモータとポンプが一体になった冷却器を外部接続して冷やせるようになった。モータ銘板の日立のマークが私のお気に入りだった

炭本家の子どもを中心に牛乳配達をしていて、土間には自転車が並んでいた。
牛乳のキャップには曜日が印刷されている。「毎日牛乳」の本社から届く牛乳は、キャップに翌日の曜日が印刷された牛乳の他に、「さきつけ」と呼ぶ、キャップに翌々日の曜日が印刷された牛乳があった。
私は「日付をごまかしてずるい」と思った。
小売店は牛乳瓶のデポジットは取らないが、生乳会社からは不足した瓶の料金の請求が来る。宴会会場に80本の牛乳を届けた時、母が「ほとんど瓶が返ってこなかった。これでは赤字だ」と怒っていた。
毎日80本届ける店があった。店舗なので定価の2割ほど安く卸す。
ある時、私が牛乳を届けると、返却の牛乳瓶が不足していた。こどもながらにこれでは赤字になると思い「瓶がたりない」と店の人に言った。店の人はすぐ母親に電話をして「なんていけすかん子や!」と、苦情を言われた。実際は瓶代を引いても利益はあったのだ。

牛乳は月極の配達契約で、月初めに先月の牛乳代を集金する。
だから月初めは、現金と領収書控えの束の突き合わせをする。
現金は10枚ずつ束にして広げ、領収書控えは、そろばんで計算する。
未就学の頃は、なぜか1の位に玉が5個あるそろばんだった。そのうち玉が4個で、かつ小型のそろばんに変わった。
金額が合わない時は数え直しと検算を並行して繰り返し、結構大変だった。

ヤクルトに倣って「ドリプシ」という乳酸菌飲料が発売になった。
私の発案で、全戸に試飲品として無料配布することになった。
200件に配ったら、20件が月極契約してくれた。
わたしは「たった20件」と落ち込んだが、父は「1割が月極で取った」と言って喜んでいた。

私は父に砂浜に連れて行かれて、大人用の自転車で乗れるように練習した。
父が自転車の後ろを持って押す。ある程度速度が出たところで手を離す。「砂浜だとこけても痛くない」との配慮だったが、乗れるようになるまでなかなか大変だった。

それまでは補助輪付の子ども用自転車に乗っていた
更に前は三輪車だったが、あまり記憶がない。
座敷に木犀の木の記者狩り、そちらに乗って遊んでいた方を覚えている

すぐに風邪を引き、40度以上の高熱を出した。医者が昼夜関係なく往診で駆けつけた。医者は「高熱の原因の扁桃腺を切りましょう」と提案したが、両親は頑と拒否した。

体温計は赤い液体が入った「アルコール体温計」で、5分計だった。宝石箱のオルゴール「エリーゼのために」が鳴り終わるとちょうど5分。
そのうち水銀体温計に変わって、時間は3分になった。
一度、水銀体温計の先が折れて水銀が敷居の溝に転がった。ほぼ半球に盛り上がり、近づくと「ぺとっ」とくっつくのがおもしろくて粒を突っついたり無理矢理分裂させたりした。

父は「医者は儲かるし尊敬される。町の小児科医でさえ、1日に3人患者が来れば余裕で生活できる」と言い、母は「一番人助けができるのは医者だから、医者になれ」と言った。私は、自分が大嫌いな注射を他人様に射つなんて恐ろしくて、医者は向いていないと思った。

父は器用で、家の前でコンクレートを練りはじめたと思ったら、家の欄間の下と家の前の排水口の間の細長いスペースに、真ん中に金魚の池がある花壇を作った。季節ごとに花を植えた。

風呂も父が作った。レンガで火炎と煙の流れる道を迷路のように作り、その上に木製で長方形の風呂桶を載せる。風呂桶の向かいに同じ広さの洗い場をコンクリートで作り、タイルを貼って仕上げた。この時、タイルは1枚ずつ貼っていくのではなく、タイルの表面が、あらかじめ四角い大きな紙に張り付いけられた何十枚ものタイルの貼り付ける側ををコンクリートに押しつけていくのだと知った。紙をはがすときれいに整列したタイルの壁ができる。薪で焚く風呂が完成した。

台所が土間で底冷えするので、板の床を張ることになった。
父はコンクリートブロックで台座を作り、その上に2cmx10cmx180cmほどの平板を並べていく、板の側面に溝があり、反対側の側面にはその溝にはまる突起がある。。父が木槌で平板の側面をコンコンとたたくと、板はおもしろいようにはまっていき、最後にのこぎりとかんなで板間の側面を揃えて、台所が板間に変身した。

家には住み込みの若い女性のお手伝いさんがいた。知り合いの娘さんで、預かっているのだと言っていた。お中元の柿を食べてしまったと怒られたり、結構ドジっ子だったと思う。母が探してきた相手と結婚して、私が幼稚園に入学する前に我が家を去った。

もの心ついた頃には「蓄音機」があった。Victorのマークで、犬が首をかしげて聞いている、大きなラッパのついた、あれだ。
母は「舞」の師範で、私が生まれる前はたくさんのお弟子さんに稽古をつけていた。78回転のレコードが山のようにあった。
「生け花」や「茶の湯」も免状を持っていた。
床の間には水盤が置かれ、剣山を3個ほど置いて、母が生けた花が飾られていた。剣山でよく遊んだ。

有名作家のゴーストライターもしていたそうだ。
法律にもやたら詳しく、時々法律相談に乗っていた。
母は多くを語らなかったので、今でも謎が多い。

母のお気に入りの「つげ」の櫛の歯を横に思いっきり寝かせるとポキリと折れる。次々に歯を折って、歯がなくなってしまった。
記憶にはないが、青銅製のつぼを金槌でたたいてへこませた。
社会人になってから母が「あなたの持っている青銅製のつぼは私の持っているつぼとペアで、買いたい人が現れたので○○万円で売ってくれないか」と相談があったが「息子が金槌でへこませてしまった」と話をしてあきれられたらしい。後日、へこんだ実物のつぼを見る機会があったが、現在は行方知れずだ。とにかく母はモノの「価値」に無頓着で、高価な品を台無しにしても全く怒らなかった

行事

(NEW!)
我が家には縁側があり、
内庭とつながっていた。お弁当に使うばれんや八つ手が植わっていた。庭には庭石を踏んで降りることができた。
洗濯物もこの庭に干していた。
夏には、井戸につけておいたスイカを食べた。種を庭に飛ばすのがおもしろかった。
種を飲み込むと体内で発芽すると脅かされ、信じていた。
お茶を飲んだり、ようかんを食べたりして内庭をぼーっと眺めた

権現前電停を挟んだ御手洗池で夏祭りがあった。
走馬灯、金魚すくい、型抜き(割れやすい砂を固めたような板を、尖った針で線に沿って切り、型を抜く。割れないで抜けると景品がもらえる)、射的、紐引き(紐の束から1本引くと紐につながった景品が持ち上がる)、ヨーヨー釣り。綿あめは、棒にくるくるわたが巻き付いていくのがおもしろかった。むき出しで手渡されて食べた。りんごあめ、たこ焼き、お好み焼きなど屋台がたくさん並んだ。櫓の上でお姉さんがレコードの曲に合わせて踊り、櫓のまわりではみな、盆踊りを踊っていた。

和歌浦花火大会があり、片男波の堤防から見物できた。
仕掛け花火は、スポンサーの文字が浮かび上がるだけのしょぼいモノから、文字が燃え尽きる頃からまばゆい白の火が滝のように流れる「ナイアガラ」,さらには、ナイアガラが終わると連続で花火が打ち上がるモノがあった。
一度、打ち上げに失敗して水面から半円状に広がった打ち上げ花火があった。近くまで火粒が来て、とてつもなく巨大に感じた。
堤防は反対側に、堤防を越した海水を海に貫流させる幅20mくらいの水路があり、水路に屋台が並んでいた。

母が母方の祖母から譲り受けたひな飾りがあった。男の子なのにひな祭りを祝った。7段飾りが床の間に飾られた。かなり似た写真を発見したので貼っておく(写真は以下URLより)

五月人形もフルセットで、セットの脇には金太郎と熊までいた。刀や弓は私の身の丈にピッタリで、新聞紙を折って作ったカブトをかぶり、武装してひとり、あそんだ。

八畳間に洋箪笥ほど大きな仏壇が2基並んでいて、お盆になると仏壇の前がお供え物であふれかえった。お盆にはお坊さんがカブに乗り付けてやってきて、念仏を唱えて挨拶し、みな合掌した。お供え物はお菓子や果物も多く、お盆が終わると食べ放題だった。

床の間には竹藪の中の虎がこちらをにらんでいる絵の掛け軸が飾られていた。熱が出て寝込むと、掛け軸を延々と見つめるしかすることがなかった。
掛け軸の虎はすごくリアルで、今にも飛び出てきそうな迫力があった。母は、「渡辺崋山の直筆」と言っていた。

七夕は笹の葉に願い事の短冊を紐で茎にくくり、玄関横に立てかけて、7月7日の夕方に川に流した。

クリスマスケーキも父の手作り。
祖母のお菓子屋からカステラや明治板チョコなどを大量に持ち帰り、毎日乳業の生クリームを使う。
祖母のお菓子屋で扱うクリスマスケーキはバタークリームなので美味しくないと言っていた。
大きな四角い板の台座を据え、台座の上に、カステラを上下に切り、間にフルーツとクリームを塗って重ね、それをを敷き詰める。正方形の土台ができる。ウエハースをチョコで固めながら、四角い教会の尖塔風の塔を高く積み上げる。ベースに生クリームを塗り、いちごなどのフルーツをたっぷり盛り付け、小物を並べて、チョコを絞り出しつつ「4回目のクリスマスおめでとう」の文字を書くと完成だ。

お正月は羽子板。負けると顔に墨を塗られる。
凧は、「やっこだこ」しかなかった。頑張って走ってもくるくる回るだけで、全然上方に揚がらないことも多々あった。
福笑いは、「耳」とかいいながら手渡されたパーツを顔の輪郭が書かれた紙の上に並べるのだが、目隠しされているとこれがなかなか難しい。渡されるパーツの順番により、眉毛が目の下に来たりする。
双六は「おもしろぶっく」の付録についてくる。単純だが盛り上がった。
お手玉、私は3個が精一杯だったが、7個という強者もいた。
百人一首の坊主めくりなどもして、大勢でとにかく遊んだ。
なぜなら、商店は初七日が過ぎるまで開かないのだ。
商店が開く前日に、餅で疲れた胃腸を休めるために七草がゆをいただく。

丸正百貨店の屋上に遊具がたくさんあり、両親が買い物をする間、両親からもらったお金で、遊具で遊ぶ。お気に入りは屋上の外周を一周する電車だ。(NEW!)
買い物が終わった両親と最上階の見晴らしのいいレストランで食事する。
私はたいてい80円のオムライス。母はざるそばが好きで、1枚40円のざるそばを2枚頼んで食べていた。チキンライスもカレーも70円で、父はカレーライスをよく食べた。


おもちゃ売り場に、欲しい積み木セットがあり、売り場の前で「買って欲しい」と、しゃがみ込んで大泣きする。いつものことだ。
いつもはすんなり買ってくれるのに、
この日だけはどうしても買ってくれなかった。
12月25日の朝、枕元に欲しかった積み木セットが置いてあった。
サンタさんが気の毒に思ってプレゼントを届けてくれたそうだ。

台所の奥に井戸があった。滑車につるべがかかっていて、つるべの先についている桶で水を汲む。井戸の周りは屋内だがかなり広い土間だ。年末になるとどこからともなく大勢の人が集まり、餅つきが始まる。せいろで蒸されたもち米が次々とつかれ、つき上がった餅がいろんな形に成型されていく。私も丸餅作り(適当な大きさにちぎって丸め、木箱に並べるだけ)を手伝った。参加者は各自の注文票に従って、餅を持ち帰った。
1月は7日まで餅を火鉢で焼いたり、雑煮にしたり、きなこ餅にしたりしてたっぷりいただいた。

ちゃぶ台で食事をする4畳半の部屋は、丸いちゃぶ台と火鉢、水屋、があった。火鉢は最初は炭だったが、そのうち練炭になった。どちらも台所のプロパンガスコンロで十分熱してから火鉢に運んだ。火鉢の火は、火鉢華鳳にある小さな四角い通風口を閉めて灰をかけると弱まり、通風口を明けると強くなる。時間差があって調節は結構難しい。やかんを載せて湯を沸かしたり、網を置いて、丸餅やのし餅、かき餅を焼いた。
部屋の四隅の壁には父が書いた「東」「西」「南」「北」を墨書した紙が貼ってあった。方角を考える時、いつもこの部屋を思い浮かべるだけで良かったので、中学生ごろまで役に立った(今は地球儀を思い浮かべる)。

和歌浦商店街

(NEW!)
私の家は国道に面していて、左側にプロパンガス屋があった。右側に行くと矢野鉄工所、丸濱かまぼこ、紀和タクシー、紀陽銀行和歌浦支店がある
紀陽銀行の角を曲がると坂道なる。子どもの頃はすごい急な坂に思えていたが、大人になって再訪問するとそれほどでもない。
坂道から和歌浦商店街が始まる。電器店、小児科があり、本屋で坂道が終わり道が平坦になる。床屋、魚屋、八百屋、肉屋、豆腐店とつづく。肉屋ではコロッケを売っている。豆腐屋の先に「明光マーケット」がある。後に嫁になる「御崎智子」の実家が営むお茶屋さんが入っている。マーケットには果物屋などの食品店のほかにも花屋や服屋などいくつかの店舗が入っていた。
さらに進むと銭湯と郵便局、さらに先には時計屋がある。もう1軒銭湯があり、ここから緩い下り坂になる。本屋があって、徐々に商店の密度が下がる。祖母の駄菓子屋に近づくあたりに銭湯と映画館がある。
祖母の駄菓子屋は長屋になっていて、長屋にはもう1軒お菓子屋があり、スナックと居酒屋も軒を連ねていた。

あとがき

年を取るほど時間のたつのが速く感じるのは、それまで生きてきた人生の長さと関係があるという説がある
この説によると、「40歳からの40年」は「20歳からの20年」と同じ長さになる。
確かに幼稚園入学前はずいぶん時間がたつのが遅かったように思う。
それは、人生の初イベントが多かったせいかもしれないが・・

謝辞

家族にはほんと感謝している。
特に妻は、常識のない私を手取り足取り指導してくれて、社会に溶け込む手助けをしてくれた。まだまだ人の心は読めないが、頼りになる相棒である。


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