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「光を目指して進めなくとも灯りを持って進めばいい」という考え方もある
僕は20代の頃(特に前半~中盤)、「一芸に秀でた存在になって何者かになりたい」と強く思っていた。
そのために「こうなりたい」という理想像を描き、それが僕を導く光だと思い込むことにして、今いる暗い場所からその光を目指して進むんだと言い聞かせて、数歩歩いてはつまづき、立ち止まり、「本当にその理想像が僕の理想像なんだっけ?」と迷って光を見失ったりした。
こんなような経験、大なり小なり皆さんにもあるんじゃないですかね?
僕の場合は、結局その「光を目指して進む」というやり方だと上手くいかなくて、数年の間、暗中模索をすることになった。
※ ※ ※
そこからなんやかんやで時を経て、今はどうかというと、今の僕は光を目指して進むような人生の歩み方はしていない。じゃあ前に進むことを諦めたのかというとそれも違う。
僕は今、目指すべき光がない代わりに、足元とその少し先を照らしてくれるような灯り(あかり)を持っている。具体的にいうと、年を重ねるごとに培われていく「自分の感性への信頼」や「審美眼」、「人物鑑定力」などが灯りの役割を果たしている(と思う)。
灯りを持って暗闇の中を歩くということは、光を目指すことと違って明確なゴールが設定されているわけではない。でも、周囲を照らしながら、こっちに進んだ方が良さそうだなと判断して少し進むことが出来る。そしてまた周囲を照らして進んでと、それをコツコツと積み重ねることで遠くへと行ける。
それはきっと自分でも想像できない軌跡を描きながら、想像できないゴールへと辿り着く旅なのだと思う。それは、僕にとってはとてもフィットする進み方で、日々がとても楽しいし、きっとずっと楽しい。
※ ※ ※
人によって光タイプと灯りタイプには分かれるかもだし、人生のタイミングによってもそれが分かれてくるかなと思う。
だから、必ずどちらが正しいというわけではないが、「光を目指す進み方だけが正しい方法というわけではないよ」というのは声を大にして主張したい。
なんとなく、世の中的にはそちらが是とされがちな風潮がある気がするけど、それに押しつぶされてしまいがちな人にこそ、灯りを頼りに進む方法もあることを伝えたい。それ以外の方法もあるかもしれない。
人生を歩むための方法論は、超細かくいえば人の数だけ理論があると思う。自分なりの方法論を見つけることこそが、実は人生をいっぱい楽しむための遠回りな近道なんじゃないだろうか。
(おわり)
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