
遊ばなくなったゲーム機を売りに行くのは時間の無駄か?
自分の手から離れるならば、捨てるのも売るのも同じ。物理的にはそうだろう。
でも、そう簡単に割り切れるほど、私は合理的ではない。
自分の物
今年の正月、実家の自分の部屋を整理していた時、何年も置きっぱなしにしていたニンテンドーWiiが目に入った。
当時高校生だった私が、『戦国BASARA3』をやりたくて、お小遣いを貯めて買った代物。
自分で買った初めての据え置きゲーム機だった。
いつもなら、ゲーム機は親が買ってくれて、家族で共有して使っていた。独占することはルール違反。
だがこのWiiは、正真正銘私の財産であった。
実際は半分共有物と化していて、家族がやりたいゲームがある時は普通に使わせてあげていたし、別にそれ自体全く嫌ではなかった。
けれど心の奥では、これは私の物、今は貸しているだけ、という感覚が明確に存在していた。家族も、このWiiで遊ぶ時には私に「Wiiやっていい?」と断りを入れてくれたから尚更だった。
学校から帰って来て、宿題を済ませたら、Wiiで遊ぶ。これが私の高校時代のルーティーンになり、Wiiは家族にも私の生活にも完全に溶け込んでいた。
それはそれは、楽しい時間だった。
決意
「もう使わないし、売るか」
部屋の整理を一通り終え、もう必要ない物をゴミ袋に詰めつつ、Wiiと戦国BASAR3、その他当時遊んでいたゲームソフトを売ろうと決意した。
後になって思い返すと不思議なもので、この時はっきりと「捨てよう」ではなく「売ろう」と思った。
他に捨てようとしている物を今まさにゴミ袋に詰めているところなのに。
しかもWiiなんてもう20年近く前のゲーム機だ。今さら売ったところで大した値打ちもないのもわかっている。
でも「捨てよう」とは微塵も考えなかった。
実家を出てから10年以上遊んでいないのに、なくても困らないのに。
時間の無駄
私はWiiとゲームソフトをまとめて、玄関まで運び出した。
そこへ父が来て言った。
「それどうするん?」
「もう遊ばんから、売りに行こうと思って」
すると父は少し考えた後、こう言った。
「どうせ売ってもいくらにもならんやろ?せっかく帰省してるんやし、時間は有効に使いや。今度父さんが売りに行っといてやるよ」
それを聞いて、私の心の中に暗雲が立ち込めた。得も言われぬ喪失感と悲壮感、どうしてそんなことを言うのかという軽い失望と苛立ち。そんなに大きな感情ではないけれど、どこか釈然としない居心地の悪さを感じた。
「そういうことじゃない」
私はちょっと不機嫌になって、父にそう素っ気なく返した。父は怪訝そうだった。
決して消えないセーブデータ
父の言っていることはよくわかった。
私は普段、実家から離れて暮らしており、帰省するのはそれこそ年末年始くらいだ。
だから実家で過ごす間は、余計な用事なんてしないで、のんびり過ごせばいい。父は私を気遣って言ったのである。
頭ではわかっていたし、それが正しいと思った。
でも、そうじゃない。父さんとっては、それはただのモノでも、私にとっては違うんだ。
そこには確かにあった。
自分で買ったあの日のワクワクが。
これがあることが当たり前になった日々の生活が。
家族と一緒に遊び、一喜一憂しながら交わした言葉が。
そういう記憶が芋蔓式に思い起こされるのだ。
実績やトロフィーは消えても。新しく上書き保存されることはもうなくとも。
何人にも決して消されようのない。
「思い出」というセーブデータが、このWiiにはあった。
思い出を「売る」ということ
愛着を持った物を、自分の手で捨てる。これはかなり疲れる。二度と戻って来ようがない状況に、自らの手で送り出すのだから。
でもこれは自分にとって一つの節目になるし、気持ちの整理をつける意味で、その効果や意義は絶大だ。
一方で、売る場合はどうだろう。自分の手からは離れるが、結局その物の行く末を他者に委ねているわけで、若干の責任転嫁感は否めない。その気になれば買い戻すという手が一応存在することも、ちょっと未練がましい気もする。
しかしこの「他者の介入」が、とても重要なのだと思う。
自分がその物に抱く執着を、第三者がフラットな目で見て払い除け、無慈悲に値段を付けて買い取る。その物を縛り付けていた「私」という存在を、その物から引き剥がす。
「思い出の品」が、ただの「モノ」に戻れる瞬間と言えるかもしれない。
そしてその瞬間を、自分の目で見届ける。自分が大事に思っていた物は、所詮その程度の価値のものだったんだ、と。
それは決してネガティブな考えではなく、その「呆気なさ」のおかげで、手離す踏ん切りがつくのだ。
まるでゲーム機からメモリーカードを引き抜くように、その物から「私」の記録を引き抜いて、そのメモリーカードは私の中にしまっておく。
あのWiiとゲームソフトたちは、やっと自由になれたのだ。
そう思い込むことが、私なりの思い出の手離し方だったのだろう。
思ったよりは高かった
父の意見を跳ね退けて、私は車で15分くらいのところにある買取屋にWiiたちを持ち込んだ。
「買取お願いします」
「かしこまりました。お時間少々いただきます。店内でお待ちください」
店員さんと定型文的な会話をして、Wiiたちを手渡した。店員さんは手際良く、淡々と査定の業務を行っていた。その冷たさが、むしろとても信頼できた。
査定を待っている間、店内のゲームソフトの棚を見ていた。ここにあるモノはみんな、かつて誰かの物だったんだなぁ。そんなことをぼんやり思いながら、私のゲームもここに並ぶのかな、と想像した。
「買取番号◯◯番でお待ちのお客様〜。カウンターまでお越しください」
しばらくして店内放送で呼び出され、私はすぐにカウンターへ向かった。さっきの店員さんが、Wiiたちを前に待っていた。
「持ち込みありがとうございました。こちらが査定結果となります」
見せられた伝票には、合計520円と書いてあった。「思ったより高いな」、それが率直な感想だった。
淡々と手続きを済ませ、520円を受け取って、売却終了。
「ではお預かりいたします。ありがとうございました」
この「預かる」という言葉が、この時は何となく嬉しかった。
「はい、そいつらをよろしくお願いします」
私は心の中でWiiたちに手を振って、帰路についた。
後継機
私はPS5を買った。実家を出てからはテレビもモニターも無かったので、据え置きゲーム機を買うのはあのWii以来のことだ。
理由は何を隠そう、来たる2025年2月28日発売予定の『モンスターハンターワイルズ』をやるためだ。
思えばWiiを買った時も『戦国BASARA3』をやりたい、というのが動機だった。
好きなゲームの発売日に合わせて、新しいゲーム機を買う。こんなワクワクは他にない。
新品のモニターに、新品のPS5のコードを繋いで、電源を入れる。初めて触る機械なのに、どこか懐かしい。
画面が映った!コントローラーが光った!
そんなことで毎度毎度ぶち上がりながら、即行モンハンワイルズを予約した。
私は、Wiiの後継機となったこのPS5を「BASARA」と名付けた。
これからたくさん思い出を頼むよ。私がお前を手離すその日まで。
そしてニンテンドーさん、CAPCOMさん、今後ともお世話になります。