インスタ映えはもう飽きた
この話も、もう飽きた話だろうか?だが、少し書かせて欲しい。これは、インスタ映えに飽きてしまったわたしの個人的な話である。
疲れたと言った方が、適切な表現なのかもしれない。
インスタを始めたのは21歳くらいだろうか。当時はまだあまり流行っておらず、旅の写真の中でよく撮れたなぁと思ったお気に入りを、キャプションもないままアップしていた。拡散もいいねもコメントも、インスタ映えも、何も気にせずアップした。
お気に入りの写真が綺麗に並んでいるのが凄く嬉しくて。正方形に揃えられた画像は一覧で見るときちんと整列しており、その美しさがまた素晴らしいのだなと感心した。
インスタがちょうど流行り始めた頃、それまであまり関わったことのないお洒落な人たちと関わることがあった。私のインスタは地味だとご指摘を受け、インスタとは日々の充実した暮らしぶりや人間関係、お気に入りのアイテムの写真をアップするものだと教わった。フム、素直なわたしは素直に聞き入れた。
ハッシュタグについても学んだ。ハッシュタグにより写真は全世界に拡散され、知らない人からもいいねが付く。簡単に繋がれる世界だなァと、感心したものだ。シャープの後に入力する文字によって、充実した暮らしぶりとお気に入りのアイテムの世間的な地位を公表することができるのだ。
結論から言うとその後1年くらいは、インスタ映えに取り憑かれてしまった。ハッシュタグにも詳しくなったわたしは様々な法則を学んだ。SNS上で人気の、拡散されやすいブランドというものが存在する。同じような価格帯・知名度でも、SNSとの相性の良し悪しがあるのだ。また、ファストファッションのハッシュタグはかなり拡散されやすい。
そうこうしているうちに、自分が好きなファッションよりも、インスタ映えするファッションを目指すようになった。洋服を選ぶ際も、頭の中に # が浮かぶ。これは重症である。
自身が選択することに意味を見出していたファッションが、インスタ映えに左右されていることに気づいたのはかなりショックだった。選んでいるのではなく、選ばされていたのだ。
そう考えると全てがインスタ映え基準になっているのではないかと恐ろしくなった。それまでの投稿を消して愚行を振り返り、冷静になった。
頭を冷やして周りを見ると、まるでアクセサリー感覚で見せびらかす交友関係、写真に収めることが目的の料理、雰囲気だけはいい感じに見える店、「綺麗だった」「最高だった」だけで語り尽くされる旅、など。中身が何にも伝わって来ない写真が世の中に溢れていた。
そんな写真を見るのに、
疲れた。
飽きた。
今日はそういう話である。
人間関係とはアクセサリーのように身につけてひけらかすものなのだろうか。わたしとあなたの関係は、「特別だ」と公表しなければ特別たりえないのだろうか。
料理はカメラ越しにしか味わえないのか。インスタ映えしない店は、もう流行らないか。
「綺麗だった」と「最高だった」の間には、どんな言葉が隠されているのだろうか。
できれば、わたしとあなたの関係はわたしとあなただけで特別なものにしたいし、誰の評価も承認もいらないから、友達でも恋人でもなく特別なものとして抱いておきたい。
料理は舌で味わいたいし、「お洒落」以外の基準でお店を愛でる心を忘れたくない。旅先の風景を綺麗以外の言葉で表現したいし、旅の記憶をもっと複雑に、わたしの知っている言葉では言い表すことのできないような感情で埋め尽くしておきたい。
インスタに支配され、つまらない人間になりかけた。もうあなたのいいねに振り回されたりはしません。今日も適度に楽しく、インスタグラムとお付き合いしています。