『童貞。をプロデュース』問題の根底にある映画界の搾取と欺瞞について―「映画愛」は理不尽を肯定できるか?
松江哲明監督『童貞。をプロデュース』(2007)撮影時に起こった問題が、2019年の末、藤本洋輔氏によるインタビュー記事で再燃している。https://getnews.jp/archives/2308598
記事内では、出演者の加賀賢三さんが望まない口淫を受けたこと、数々の不条理なやらせ演出に付き合わされたこと、自身の企画をほとんど強奪のような形で松江監督に使われたことなどが赤裸々に語られている。その多くは加賀さん自身がこれまで、ブログで告発してきた内容ではあった。しかし、メディアが加賀さんに取材し、その声を記事化したのは今回が初めてだった。それだけに、記事の反響は大きかった。
当然ながら、松江監督や配給元のSPOTTED PRODUCTIONSには厳しい批判が寄せられている。一方で、松江監督を擁護したり、彼への批判を過剰だと主張したりする声も出てきた。
伊藤さとり オフィシャルブログ
「童貞を。プロデュース」における一件について思うこと。
https://lineblog.me/satori_ito/archives/9399702.html
ただ、松江監督と比較的近しい立場から彼を擁護する声は著しく説得力を欠いている。切通理作さんにいたっては、Twitterで
「「童貞。をプロデュース」公開当時支持してた人はみんなで出演者を笑いものにしていた風なこと書く人がいるけど、それは違う。僕は自分の中の頑ななところ、表に出れない心を映画の中の彼らと一緒に解き放てるような希望を感じた。しかし出演者に関しそれは虚像であって現実とは違ったという事だと思う」
と投稿していた。
自分は、公開当時に大勢のお客さんと一緒に、加賀さんが画面の中で松江監督から殴られるシーンを見て爆笑していた。そして、監督が上映後に「加賀よりも梅澤(他の出演者)のほうが上」と言っていたのを聞いた。別の会場で同作品を見た弟も、監督が同様の発言をしていたと言っている。切通さんのように、あの作品を見て希望を感じた人がどれほどいたのだろう?少なくとも、自分たちは普通に加賀さんを見下し、笑い飛ばしていた。そして、松江監督は「『電車男』のようにメジャーなコンテンツとして『童貞。をプロデュース』を育てていきたい」とまで語っていた。
あれから10年以上が経ち、自分は『童貞。をプロデュース』が倫理性の欠如した作品だと思い直すようになった。加賀さんの告発があって、それでも松江監督や関係者を擁護している人間には「自分が彼らと近しいから」か「映像作品の成り立ちにそもそも興味がないから」以外の理由があるのだろうか。
さて、松江監督が加賀さんに与えてきた精神的苦痛については、すでに多くの場で語られてきたので省略する。ここで自分が問題にしたいのは、どうして松江監督や関係者はここにきて、依然、加賀さんに対する頑なな「上から目線」を崩さないのかという点だ。もちろん、松江監督はインタビュー記事を受けて加賀さんに謝罪文を発表している。しかし、あの文面を見て、心から松江監督が反省をしていると考える人はいないだろう。
http://spotted.jp/2019/12/13_message/
自分の経験を元に予測する。おそらく、松江監督もSPOTTED PRODUCTIONSも本気で、加賀さんに悪いことをしたと思っていないのではないだろうか。インディペンデント映画界に蔓延している「搾取」の在り方は、それほど根深い。
たとえば、自分は2012年から2013年にかけて京都でとある映画の宣伝に協力していた。というよりも、いつの間にか頭数に入れられ、宣伝会議やら関係者インタビューやらに駆り出されていたという感じである。当然のように、稼働に関する報酬など支払われない。ある日、「せめて交通費はもらわないとモチベーションが保てない」と言ったところ、とある広報スタッフから「それは甘えだ」と返された。彼は関西を中心に、すでに多くの映画作品の宣伝を行っていた「売れっ子」だ。あの作品についても、正式に依頼を受けて作品を宣伝していた立場である。
その後、自分は同作品の関係者が立ち上げた、某映画館でスタッフとして働くことになった。しかし、2カ月間休みなく働かされて、給料は月5万円だった。そのとき、支配人に言われたのは「給料が出るだけましだと思わないのか」「お前は家に帰ったら劇場の仕事をしていないだろう。それでもっと給料が欲しいなんて虫が良すぎる」という理不尽なものだった。なお、支配人は「映画に関わりたい人間は好きでやっているのだから、給料なんていらない。お返しをする必要なんてない」が口癖だった。
なぜか当時の自分は不思議と、そういった状況を受け入れていた。映画についても映画館についても他の場所を知らないので、「自分が我慢するしかない」のだと思い込んでいた。それでも、生活ができなくなって2014年夏に映画館を離れた。現在、あの支配人は映画関係で別の仕事をしており、たまにインタビュー記事などを目にすることもある。そこで彼が語る真剣な映画愛からは、まさか時給200円で働く従業員に「この仕事に集中してほしいから副業をするな」と言い放った人物だと誰も思わないだろう。
上記の伊藤さとりさんのブログでは、松江監督の映画愛が語られていた。それは否定しない。分かってほしいのは、映画愛は蛮行や理不尽を正当化しないということだ。そして、「友人だから」「映画愛があるから」と、加害者を擁護できるのは「自分が被害に遭ったわけではないから」でしかない。伊藤さんは
松江さんの一件で
私たちのイベントについて
意地悪なコメントをする人たちも
松江さんだけでなく
松江さんに関わる周囲の人々の心を
傷つけるという罪をおかしているんです。
と書いている。そうかもしれない。ただ、松江監督がイベントで映画愛を語るとき、その態度によって傷ついている人間がいるとは思わないのだろうか。少なくとも自分は、元上司がリアルタイムで映画について発言をしているのを見るだけで心からうんざりさせられる。別に、松江監督にも元上司にも「映画に関わるな」とは思っていない。ただ、彼らを「映画愛があるから」という理由で、負の部分に目を瞑り、肯定することはできない。
そして、社会的立場が同等以上とみなした人間には甘い顔を見せ、見下している相手には傲慢に接する人間は存在する。こうした人間を見抜けないのも罪でも悪でもない。少なくとも自分は、情けないと思うだけだ。
『童貞。をプロデュース』事件の根底には、映画界が積み重ねてきた搾取や欺瞞の歴史がある。それを一掃しないと、無限の加賀さんが生まれ続けるだろう。システムを改善するために提言をしなくてはいけないはずのライター、評論家、ジャーナリストやメディアが本件を黙殺している理由が、「自分には害がないから」だとすれば、本当に悲しい。映画愛は何も美化しないし相殺もしない。それが分からないのは、本当に映画産業を支えている現場の気持ちを想像する能力がないだけの話だ。
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