『最後の決闘裁判』に寄せられた雑な言説を真剣に考えよう~映画ファンと映画関係者の乖離について~
リドリー・スコット監督『最後の決闘裁判』(2021)について、映画ファンたちが荒れている。正確に書けば、作品の内容について激しい議論が起きている、というわけではない。作品のテーマからして、むしろそうであることのほうが望ましかったし、もちろん、建設的な意見交換をしている映画ファンたちもいる。ただ、映画評論家や作り手側の意見があまりにもお粗末すぎて、映画ファンたちが怒っているというのが実情だ。
これは、少なくとも日本において、『最後の決闘裁判』が内包している要素を最低限、正しく受け取れない人間が言論や映画制作にかかわっている、という状況を示している。別に作品を批判するなと言っているわけではない。同作の物語としては、賛否両論あってしかるべきだろう。それは置いておいても、なぜここまで雑な言説が、『最後の決闘裁判』に対して投げかけられてしまったのか。この現象はしっかりと分析しておく必要がある。
批判を招いたキネ旬星取表
さて、『最後の決闘裁判』へのレビュー、感想において、もっとも強いバッククラッシュをともなったのは、KINENOTEで閲覧できる「キネ旬Review」の、上島晴彦氏の評である。上島氏は5つ星中、3つ星を同作に進呈している。ただ、星の数よりも、短評に多くの批判が集まった。以下、リンクを示す。
この評に、敏感に反応したのは、同じ回のReviewに参加していた児玉美月氏である。児玉氏はTwitterで上島氏の評を強く批判した。上島氏の名前こそ出していないが、掲載された雑誌を公言するなど、はっきりと批判先は示している。
『最後の決闘裁判』で、「被害者女性はなぜ本当のことを夫に言ったのか、普通は隠すだろう」と書かれた批評を見てしまった。そういう性犯罪に対する抑圧的な価値観が今まで女性たちの口を封じ込め、泣き寝入りを強いてきたのではなかったのか。だから映画は「黙らない」態度で真実を話す女性を描いた。
— 児玉美月(映画執筆家)☽⋆Mizuki Kodama (@tal0408mi) October 19, 2021
児玉氏が一番問題視したのは
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お姫さまが何故ホントのことを旦那様に告げてしまったのか、すらよく分からない。普通隠さないかな。
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という上島氏の文章だ。『最後の決闘裁判』は史実に基づく映画だし、予告でも描かれていることなのでネタバレするが、「ホントのこと」とは、マルグリットという女性が夫のジャンの友人、ジャックに強姦された事実を指す。舞台は14世紀のフランスで、ジャンは王に仕える騎士である。ジャンは強姦の事実を否定するジャックを裁くため、決闘裁判を申し込むのである。
上島氏の文章は「強姦された女性はその事実を隠すだろう」と言っているように読める。そして、児玉氏もその旨を批判し、Twitterユーザーの多くも彼女に共感した。一方で、上島氏の文章は「映画の作劇としては普通、強姦の事実を隠して進行するだろう」とも読める。
ただその前に、女性キャラクターを「お姫さま(マルグリットは貧乏な騎士の嫁なので、この名称は似つかわしくない)」と呼び、ジャンを「旦那様」と表したことで、その後の文がゲスく読まれてしまったのだといえる。ジャンを「ブ男で無学」とするのも、的を得ていない表現だ。「粗野で直情的」とかならまだ分かるが、どうにも全体的に表現が乱暴なのである。つまり、上島氏は「性暴力の告発」を題材にした映画について、メディアで意見を書くということに対し、あまりにも無頓着すぎるのである。上島氏が批判されたのは、映画評論家としての力量以上に、こうした時代感覚の無さが文章からにじみ出てしまったからではないのか。
なお、上島氏は同回、『キャンディマン』のレビューについても
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しかしこの映画のインテリ黒人たちはアート・アンサンブル・オブ・シカゴっぽいフリージャズを楽しんでいて、可笑しい。彼らが、しかし黒人リンチの記憶を地域に呼び起こしてしまう趣向が残酷だ。
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と書いている。表現がしっくりこないだけではあるのだが、被差別者の受けてきた暴力が、時を経て明るみになるのは「残酷」なのだろうか?自分は、キャンディマンというモンスターが降臨するというおぞましい展開なのに、彼が白人への復讐心を背負ってしまうことで奇妙なカタルシスが描かれている点に、本作のポイントがあると感じる。それを「残酷」と形容できるのだろうか。個人的には、『キャンディマン』と『最後の決闘裁判』のレビュー、合わせ技で上島氏へのモヤモヤが増しているような印象を受けた。
原田眞人氏のブログ
次に、上島氏ほどの話題にはなっていないものの、ある程度は反響があったのは映画監督、原田眞人氏のブログだろう。原田氏は10月29日更新の日記にて、『最後の決闘裁判』についてこう書いている。
「真実」の「薮の中」を追求していくわけではない。女性が男性に隷属する中世に於ける「女の勇気」がテーマであるかのように展開し、その雑なツメで失速している。
そして、その根拠を述べていく。ここからしばらく日記を引用。
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映画の真意は、立ち上がったマルグリットの勇気を描く、ということだが、その勇気を具体化した言葉は一切、映画では描かれない。強姦された、それが真実、と彼女は叫ぶだけだ。
一方のジャックは強姦ではないという。口では拒みながらも体が受け入れた、つまり、彼女は歓びを感じていた、と。ところが、性行為の描写自体、ストレートな強姦なので、彼女の下半身をまさぐって、その体の反応に喜ぶジャックの描写も何もない。そういうことのすべてが、第三章、マルグリットの真実で語られるのかというと、それもない。
それどころか、国王の前での大審問という対決の場も、「マルグリットの真実」とくくられたチャプターで展開するため、ジャンやジャックは、傍聴席で聞き入る姿を点描されるだけなのだ。心理描写ゼロ。
女の権利が男たちによって踏みにじられるのはよくわかる。しかし、主役グループ三人の心の襞に映画は踏み込まない。
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引用ここまで。
要するに、「女性が事実を主張しているときに、男性たちがないがしろにされているのが気に食わない」のである。だから、「ジャックの心理に踏み込まない作り手の怠慢にも次第に腹が立って来る」し、「彼女の告発は勇気ではなく、知性も品格もない女の無暴に堕してしまう(原文ママ)」と考える。
自分は、女性が暴力被害を訴えるとき、その夫や加害者の心理や素性に興味はない。そこには被害者と加害者がいるだけで、法律によって正当な裁きが行われるべきだと考える。告発は勇気も知性や品格で受け止められるものではなく、切実さと事実が重要だと思う。むしろ、原田氏のような考えが多いからこそ、マルグリットのような女性は抑圧を強いられてきた、というのが本作のメッセージだと思うのだが。それが分からないから、
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ジャックの心理でいえば、彼のいうような「愛の心」があったなら、この審問と、その結果としての決闘裁判は「愛を選ぶか名誉を選ぶか」の究極の葛藤を生むことになる。
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ということを言い出す。映画を見れば、ジャックがマルグリットに抱いているのは、愛と美化された劣情だと理解できる。彼にあるのは、ジャンへの優越感と自惚れだ。そして、彼は権力の傍で甘い汁をすすっているうち、感覚が麻痺してしまった男でもある。確かにジャックには知的で、紳士的な面もあっただろう。そのような、評判のいい人間でも、性暴力の加害者にはなりえる。普段の態度を持ち出して、暴力の弁護などできないのだ。そのような考え方は14世紀では浸透していなかったのかもしれない。しかし、被害者側もそうなのだろうか?彼女たちも時代や常識を無批判的に受け入れ、一切の怒りや憎悪や自己嫌悪を感じてこなかったのか?
世の中から下駄をはかされた男たちが凶行に走るのは現代社会と同じではないか、600年以上経っても社会は変わらないんだな、とまで考えて、ようやく『最後の決闘裁判』を語る、最低限のラインにまで達するはずだ。それすらもピンと来ていないのは、かなり厄介だと思う。
さらに、原田氏はマルグリットとジャックの関係も読み取れていない。
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マルグリットの知性と勇気もジャックとイコールであり、祝宴の席での出会いで二人はその情感を分かち合う。情を交わしたかのようなシーンも点描される。
いずれにせよ、マルグリットはジャックと結ばれるべき才女である。
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祝宴で本の話をしたくらいで「情感を分かち合う」とか考え、「結ばれるべき」とまで言えてしまう心理こそ、男性の加害性である。それを第2章と第3章で、ジャックとマルグリット、それぞれの側から描くから、『最後の決闘裁判』の構成には意味がある。
なお、10月30日の日記では、『最後の決闘裁判』評に対する批判に反論している。それでも、主張は前回の日記とほぼ変わっていない。告発者は「もっと強く、果敢に君臨して欲しかった」らしく、「償いとしての決闘裁判の死」があればジャックの死は「高貴」とのこと。それは高貴ではなく自己満足というやつだし、被害者心理というものがすっぽり抜け落ちているのだが、まあ、暖簾に腕押しである。
上島氏と原田氏の文章はよく似ていて、女性の性被害を描いた作品に対し、男性的な目線を崩そうとはしない。いや、百歩譲ってそれは仕方ないとしても、そのうえで、女性の心理について無頓着なまま自説を繰り広げていく。こうした語り自体が現代の映画ファンのリテラシーとあまりにも乖離していたために、今回のような批判が起こっているのだろう。
監督主体で映画を語ることの限界
ただ、『最後の決闘裁判』をどのように見た人であっても、自分には引っかかる言説がある。それは、多くの人がやたら本作を「リドリー・スコットは~」という、監督主体で語ろうとしていることだ。それくらい、リドリー・スコットは偉大で人気がある監督ということかもしれない。また、『テルマ&ルイ―ズ』(1991)や『G.I.ジェーン』(1997)といった、強い女性を主人公にした監督作と関連付けて語りたくなる気持ちも分かる。
しかし、本作が発表され、反響を呼んでいる背景には、2010年代から続く、性暴力の告発とフェミニズム運動の拡散がある。その流れを、リドリー・スコットの作家性に集約するのはやや無理があると思う。これは自戒を込めて書くが、映画のメッセージ性について考えるとき、それを監督一人の主義主張と解釈するのは限界がある。物語だけでいえば、『最後の決闘裁判』の功労者はマルグリット視点の第3章を執筆した、脚本のニコール・ホロフセナーだろう。『最後の決闘裁判』のように、時代や社会の大きなうねりを反映した作品は、それらの前提なしに正しく読み解けない。映画メディアや評論家に求めるとすれば、その部分なのだが。
ともあれ、『最後の決闘裁判』は我々が映画について投げかけてきた、言葉のひとつひとつについて顧みる機会を与えてくれた作品だ。読むに堪えないレビューを他山の石とし、自分と映画の向き合い方も考え直していきたい。おそらく、これからも映画制作における、価値観のアップデートは加速化していく。凝り固まった価値観が作品解釈の足を引っ張るのだとすれば、それほどもったいないことはない。その点で、自分も含めたライターや映画関係者は、若い世代の映画ファンから学ぶことが非常に多い。