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冴えない会社員だった俺が京都で町興しの映画祭を頑張ったら1本のアニメが出来上がってしまったお話 その1

この記事では、2019年に行われた「京まちなか映画祭」のプログラムのひとつとして、映画監督とお客さんが1日で1本のアニメ作品を仕上げたお話をします。そのために、冴えないサラリーマンだった僕がどうして映画祭の企画を任されるまでになったのかも説明させてください。この物語を読んでいただければ、映画祭や「アート」がとても身近で、人を選ばないものなのだとご理解いただけるでしょう。

映画祭とは身近なイベントである

さて、物心ついてから、映画を見たことのない日本人はほぼいないと思います。ただ、「映画祭に行ったことのある日本人」は非常に少ないのではないでしょうか。とりあえず、日本の映画祭としては東京国際映画祭がもっとも有名です。映画ファンの中では山形国際ドキュメンタリー映画祭、カナザワ映画祭、夕張ファンタスティック映画祭あたりも愛されていますね。ただ、実際のところコアな映画ファンでなければわざわざ映画祭にまで足を運ばないのではないでしょうか。つまり、1年に3、4回前後映画館に行って、たまに配信やレンタルDVDで映画を見るくらいの、普通の映画ファンにはそれほど情報が入ってこないと思います。

でも、映画祭とは何も有名な芸能人がたくさん来て世界的に注目されている作品が上映されるイベントだけを指す言葉ではありません。おそらく、どのような地域であれ、近隣で映画祭は開催されているはずです。私はサラリーマン生活から、いろいろあって映画祭の番組編成を担うまでになりました。それは私が特に仕事ができたからでも、マニアックな映画をたくさん研究していたからでもなく、「やってみたい」と思い続けたからです。正直、映画祭にはやる気さえあれば、誰でもどこでも企画参加できます。

脱サラして映画会社の事務所でお手伝いを

詳しく話しましょう。私は2012年、28歳で当時勤めていた営業の仕事を辞めました。モラハラめいた上司と接するのがきつくなっていたことと、子どものころから好きだった映画の世界に浸ってみたいと考えたからです。そして会社を辞める直前から、地元の映画会社の方とメールでやりとりをするようになっていました。その人が僕のブログを読んでくれていて、「一度話をしてみたい」という流れになりました。初めて会ったのは、その人が企画していた上映会の宣伝をかねたお花見でした。酔いつぶれて事務所にかつぎこまれ、ゲロを吐きながらずっとミスチルを歌っていたらしいです。全然記憶にありません。

とにかく、その黒歴史をきっかけに、僕は事務所に出入りして1年くらいイベントやワークショップを手伝ったり、書き物をさせてもらったりしました。ほとんどボランティアでしたが、そこで仲良くなって今でも交流がある人もいます。何より、映画産業の仕組みを知るためには必要な時期でした。ぶっちゃけ、映画会社からすれば僕の持っている自動車を利用したかったのと、タダ働きしてくれる人材が欲しかった、というのはあったでしょう。それでも、望んでやっていた手伝いなので、この頃の全てを後悔はしていません。

劇場で働く―餅つきでつながった絆

そして、2013年からミニシアター立ち上げに参加し、職員として勤務し始めるわけです。ただ、劇場と地元の間に溝を感じ続けていました。あくまで映画ファンのための劇場であろうとする支配人と、地域の要望を汲み取ってほしい地元民がすれ違ってしまったのです。僕も地元民のみなさんとはそれほど親しくならないまま半年ほど過ぎていきました。

歩み寄るきっかけのひとつは、地元の映画祭でした。新京極商店街主催の「京まちなか映画祭」の会場のひとつとなり、地元の方々と深く接する機会が生まれたのです。商店街の会長さんやイベンターさんと毎日顔を合わせるうち、なんとなく絆のようなものも生まれていきました。それでも、この時点では商店街のみなさんが映画祭を企画し、劇場は上映館として作品をかけさせてもらっただけです。僕自身もお祭りに参加しているという意識はなく、いつもの仕事よりもゲストが来て、賑やかで楽しいなと思っていたくらいでした。

おそらく、劇場側は地元の思いや取り組みに無関心だったのでしょう。そして、劇場側からの心の壁を察知し、地元もそれほど親しく接してはくれませんでした。地元から「劇場の人間は会っても挨拶をしない」というお叱りを、支配人を通して受けたことさえありました。これも、私たちが悪意を持って接していたわけではありません。地元で映画館を応援してくれている人たちの顔すらろくに覚えていなかったのです。

地元との関係が解消される際、大きかったのは正月の餅つきでした。正月に劇場へ出勤する途中、地元の餅つき大会に遭遇したのです。なんとなく見学していたら、お偉いさんが「石塚君もやってみなさい」と声をかけてくれました。しかし、恥ずかしながら私は餅つきをしたことがなかったので、上手く杵を扱えず失敗をしてしまいました。そうすると、周りから大笑いが起こったのです。「まさか石塚君がやるとは思っていなかった」さえ言ってもらいました。よほど冷たい人間に見えていたのでしょうね。

歴史を無視して地域のイベントは成功しない

それ以来、私個人としては地元の方々と話をしたり、ご飯に連れて行ってもらったりして仲良くなっていきます。私は2014年の夏に劇場を辞めるのですが、ちょくちょく遊びに来てイベントのお手伝いをするようになりました。もしも映画祭を企画したり、そうでなくても地域に還元する大きなイベントをやったりするのであれば、最初に地元民の方々と距離を縮めることが必須だと思います。なぜなら、特定の地域を会場に選ぶ以上、そこに根付いている思い、歴史を無視しては成功などするはずがないからです。

『サクラクエスト』という、町興しを題材にしたTVアニメがありました。ヒロインたちは行き違いから田舎の観光大使に抜擢され、町興しの企画を次々に立案していきます。しかし、TV局の力を借りて有名アーティストを招致したイベントは、集客こそ大きかったものの地元に何も残しませんでした。お客さんはアーティストを見に来ているのであって、地元に興味を持ってくれなかったからです。同じ過ちを犯してしまう町興しは非常に多いと感じます。

私も2014年の春。お花見に絡めた地元のお祭りで、やらかしてしまったことがあります。映画好きのお偉いさんの企画で、マニアのみなさんが面白い話をするイベントを任されたのです。しかし、自分の趣味に走っただけでなく、企画意図や地元への感謝を伝えることも忘れてしまいました。集客は悪くなかったものの、後でかなり怒られました。

私が関わるようになった京まちなか映画祭にも、かつて映画の撮影所や劇場がたくさんあった京都に思いを馳せつつ、現在の若者文化にも焦点を当てていこうというコンセプトがあります。いわば、伝統と未来、両面を大切にしているお祭りです。こうした思いは、外側から眺めていてもなかなか理解できません。パンフレットやSNSを見て、字面だけで分かった気になるのも運営の一員としては危険です。やはり、地元の方々の生の声を聞き、熱意に触れてこそコンセプトを共有できるのです。

2013年から2015年にかけて、私は特に映画祭で企画らしい企画もしていませんでしたし、言われたことをやるだけでした。もっと言うなら、たまに地元の飲み会に顔を出してバカ話をするくらいの関係でした。しかし結果的に、この期間で地元の思いを咀嚼できるようになりました。そして、2015年の夏。私にとっての転機が訪れるのです。

(続く)

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