折衷性のないポップミュージックなどプロパガンダと変わらない–『エルヴィス』
ポップミュージックの最良の部分は何かと問われれば、間違いなく「折衷性」だと答えられる。ブロンクス出身の黒人ミュージシャンだったアフリカ・バンバータは、白人によるダンスミュージックを積極的にサンプリングし、ブレイクビーツを作り上げた。そのビートはヒップホップの礎となった。白人パンクバンドだったトーキングヘッズは、ブルースやアフロビートを取り入れ、ロックンロールの可能性を広げた。
映画『エルヴィス』(2022)はこうした折衷性に、とても自覚的な作品である。本作では幼いころのエルヴィス・プレスリーが、教会で洗礼を受けるシーンが描かれる。これは実話で、黒人の居住区に暮らしていたエルヴィス少年は熱心なキリスト教徒だったという。洗礼は、黒人のブルース奏者が歌う「ブラック・スネーク・モーン」と交錯して編集されている。ゴスペルの高揚感あふれるビートと、煽情的なブルースの歌声が組み合わさっていく。そう、2つの音楽の折衷はロックンロールの原点となった。
本作では(あの退屈な)『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)のように、ロックスターの孤独も描かれている。しかし、ほとんどの場面でエルヴィスは孤独よりも「繋がり」とともにステージに立つ。バズ・ラーマン監督は、エルヴィスを時代の代弁者として登場させた。黒人差別に貧困、ケネディ暗殺など、エルヴィスは社会の闇を引き受け、反抗者であり続ける。少なくとも前半は。
なぜなら、ロックンロールの折衷性こそが、権力に対抗する術だったはずだったからだ。
いうまでもなく、権力者が望むのは社会の分断である。白人は有色人種の上に立ち、富裕層は労働者たちを搾取する。メディアは視聴者を支配し、政治家は国民が自我に目覚めないよう、適度な娯楽で忠誠心を煽る。分断は権力者にとって、とても都合のいいスパイスだ。そして、多くの人間は分断が起こる状況において、有利な側に回ろうと必死になる。淘汰される側のことなんて考える余裕はない。誰もが自分のことで精一杯だ。
だからこそ、真の表現者は分断を繋ぎとめるための、折衷性をもって世に現れる。
エルヴィスがチャリティー・コンサートで「トラブル」を熱唱するシーン。比較的、史実の再現性の高い本作において、このシーンはほとんどフィクションである。それでもこのシーンが必要だったのは、エルヴィスがはっきりと分断に対して「NO」を叩きつける場面だったからだ。エルヴィスは保守層に媚びず、警察の脅しも無視し、無難な選曲が求められた場でロックンロールをバックバンドに演奏させる。熱狂し、暴動寸前になる大衆。良家のお嬢さんもスラムのガキも一緒になって踊り狂う瞬間、そこに人間を分け隔てる壁などない。
バズ・ラーマンは『華麗なるギャツビー』(2013)以降、繰り返しアメリカの1950~1970年代を舞台にした作品を発表し続けている。ドラマシリーズだった『ゲットダウン』(2016~2017)はヒップホップ黎明期の物語だった。そして、『エルヴィス』の終盤は、『ゲットダウン』の時代設定とほぼ重なる。エンディングにはエルヴィスの楽曲をサンプリングしたラップ・ソングが流れ、まるで『エルヴィス』から『ゲットダウン』への橋渡しを行っているかのようだ。
そもそもラーマンはミュージカル『ムーラン・ルージュ』(2001)でも楽曲のマッシュアップを多用してきた。彼は折衷性がない音楽など、プロパガンダと大差ないと知っている。黒人音楽と白人文化を股にかけた男の伝記映画『エルヴィス』には、ラーマンからポップミュージックの絶大な信頼が込められている。