冴えない会社員だった俺が京都で町興しの映画祭を頑張ったら1本のアニメが出来上がってしまったお話 その2

手応えを感じた小林達夫監督特集

(前回 https://note.com/yangyang_film987/n/n67f9cf101660)

地元のお偉いさんに怒られた映画トークのイベントですが、その後は軌道修正して広がりのある内容へと変わっていきました。私1人で内容を考えるのではなく、地元チームでアイデアを出し合うようになったのです。それを私が台本に起こし、出演者に渡します。当時はプロの俳優さんに司会をやってもらうなどして、ちょっとした盛り上がりを見せました。その流れから、夏休みイベントとしてビアガーデンを催し、映画上映もできないかという案が持ち上がったのです。

私の頭によぎったのは、2015年秋に公開予定の『合葬』という映画でした。柳楽優弥さんや瀬戸康史さんが出演している、幕末を舞台にした時代劇です。監督の小林達夫さんは京都出身で、私の勤めていた劇場でも過去作を上映したことがありました。劇場で初めて満員を記録した作品は小林監督の『カントリーガール』だったので、地元民からも彼は好印象を抱かれていました。小林監督と交流が続いていたこともあり『合葬』を応援する企画ができないかと提案したところ、地元からGOサインをいただきます。そして、小林監督が昔撮ったドキュメンタリーやデビュー前の短編などを特集したうえで、トークイベントにも出てもらう企画が実現したのです。

小林監督は地元でのイベントということもあり、かなり積極的に動いてくれました。正直、配給とのやりとりは小林監督に全てお任せし、我々は会場を整えることに専念していました。小林監督にはフライヤーまで用意して宣伝活動をしてくれるなど、何から何までお世話になりました。そして、僕の中でも「イベントをやるのは楽しい」という思いが強くなっていったのです。

井上さんの思い出―糸の切れた凧

その後も京都のみなさんとのつながりは続いていきます。相変わらずトークイベントやら飲み会やらで、ちょくちょく遊んでいました。しかし、2016年の末に新京極商店街の理事だった井上恭宏さんが亡くなってしまいます。井上さんは映画祭の総指揮者であり、プログラムやイベントの大半を考えていた方です。私の親くらいの年齢だったのですが、常にパワフルで感性の若い人でした。

井上さんとの思い出を1つだけ。私が映画館で働いていた時代に、大根仁監督がゲストでいらっしゃいました。打ち上げの席に映画祭関係者をお招きしたところ、監督と井上さんは古い映画やテレビドラマの話などでとても盛り上がりました。私もオタクなもので、ついつい口を挟んでしまったのを覚えています。すると、その2、3日後、井上さんは映画館に大量の雑誌のバックナンバーを持って現れました。いずれも何十年も前の非常に貴重な映画雑誌ばかりです。そして、「若い人がいる場所に寄贈したい」と言ってくださったのでした。飲みの席で少し話しただけで、井上さんは私たちを「地元を一緒に盛り上がる仲間」として受け入れてくださったのです。

井上さんは映画好きなんてものではありませんでした。あれはもう中毒の一種です。最後の指揮をとった2016年の映画祭で、井上さんは大好きだった森田芳光監督の『の・ようなもの』を上映しています。井上さんの棺を送り出すときに流れたのも、エンディングテーマの「シー・ユー・アゲイン雰囲気」(尾藤イサオ)でした。なんの偶然か、井上さんのお葬式の当日に、WOWOWで『の・ようなもの』が放送されていました。ここまで来ると、映画が井上さんを愛していたようにも感じます。なお、私はいろいろ思い出しすぎてしまうので、『の・ようなもの』は録画だけして、いまだに見返すことができていません。

私だけでなく、映画祭関係者の心にはいつも「井上さんのために」という思いがありました。井上さんは老若男女、全てから愛されていたヒーローであり、子どものように無邪気な大人でもありました。そのため、井上さんがいなくなった映画祭は糸の切れた凧同然で、自然と歩みを緩めてしまったのです。2017年、特に私は映画祭から呼ばれもせず、自分から連絡も取らずにだらだらと過ごしていました。

「打ち上げだけ来る人」になりさがった2017年

実は、前年から私は会社を再び辞めてフリーライターに転身していました。生活費を稼ぐため、仕事の選り好みをせず必死で働きました。それもあって、ボランティア同然である映画祭のようなイベントにまで思考が回らなかったのは事実です。もちろん、井上さんが亡くなって情熱が途切れたのも大きかったといえます。ただ何より、自分がぬるま湯の中で充足してしまった時期でした。この頃、私は映画関係者の飲み会にしょっちゅう呼ばれるようになり、監督や役者の方々、学生たちとどんちゃん騒ぎを繰り返していました。映画関係者の輪に入ることで、自分が芸能人になったかのような錯覚を覚えていたのです。

学生から慕われ、偉そうに映画論を語るのは気持ちが良かったです。しかし、あのころ可愛がっていた学生はもう1人として交流がありません。向こうからすれば、「お酒をおごってくれるおじさん」程度の認識だったのでしょう。年下相手にウンチクを並べる飲み会を繰り返すうち、私はやりたいことを見失っていったのです。

この頃、『さよならも出来ない』という映画が公開されます。松野泉監督という、お世話になった方の長編映画でした。私は直接関係していなかったものの、キャストやスタッフに親しい人が多かったので、上映後の打ち上げなどに呼ばれたのも勘違いを加速させた原因だったと思います。実は、映画に携わっていると「打ち上げだけ来る人」は無数に見かけるんです。関係者でもないのになぜか店に現れて、若手に説教をかまし去っていく人。映画館スタッフをやっていた頃は彼らが意味不明な存在として映っていましたが、自分が「打ち上げの人」になってよく分かりました。映画から遠ざかってしまったけど未練がある人ほど、打ち上げに来たがるし饒舌になってしまうのです。

『ブルース・ブラザーズ』で取り戻した情熱

映画や京都からもらった恩を仇で返すような期間は1年近く続きました。2017年の10月、京まちなか映画祭の上映に顔を出すまでは。その年の京まちなか映画祭はTジョイ京都で、1本だけ映画を上映することになっていました。京都国際映画祭というまちなか映画祭よりもはるかに大きいイベントの提携企画でした。作品は『ブルース・ブラザーズ』。井上さんが大好きだと公言していた映画です。映画を見ながら、私は涙があふれてしまいました。井上さんの思い出はもちろんですが、自分が上映に1観客として参加している状況が悔しくて悔しくて仕方がなかったのです。「またイベントをやりたい」。心からそう思いました。

劇場を出た後、井上さんの後を継いで実質上の総指揮者となった先輩、井本さんが声をかけてくれました。「石塚にも頼みたいことあんねん」と。すでに私はまちなか映画祭のSNS管理者から名前を除外されるなど、赤の他人になっていました。それでも井本さんは僕をもう一度、仲間として迎え入れてくれたのでした。『ブルース・ブラザーズ』を見に行ったのは単なる気まぐれでしたし、自分にまだイベントへの情熱が残っているとも分かっていませんでした。もしもあの日、映画館に行かなかったら、私の運命はまったく変わっていたと思います。

そして、2018年から私は正式に京まちなか映画祭の運営スタッフとして働くこととなるのでした。余談ですが、2018から映画祭が使っているロゴマークは、井上さんが『ブルース・ブラザーズ』を見て大笑いしている姿です。「天国の井上さんが面白がってくれるかどうか」は、いまだに映画祭スタッフにとっての大きなテーマなのです。

(続く)


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