気がつくと「人生は死ぬまでの暇つぶし」を実践していた
「人生は死ぬまでの暇つぶし」
という言葉、よく聞きますよね。偉人の格言や、有名人の名言としてもよく現れる言葉です。
若い頃はこの言葉を聞いても、「なんか随分悲しい言い方だな。」と思っていました。「暇つぶし」という表現を、「無駄に時間を使う」という感覚で受け取っていたのだと思います。
しかしながら、歳を重ねるとその感覚は変異していき、ふと我に返ると「僕が生きている人生って、死ぬまでの暇つぶしだよなぁ」と思っている自分に気が付きました。
この記事で紹介している内容はあくまで個人的な意見なので、世間一般に通じるかは知りませんが、なぜそのように思うようになったのか?ちょっと自分なりに深堀りしてみようと思います。
若い頃は「何かを成さねばならぬ」と必死だった
僕が若い頃は、心によぎる「何かを成せない者は人ではない」という謎の恐怖心から、無我夢中で努力しておりました。
現実では決して「何かを成せない者は人ではない」なんてことはありませんし、そんな言葉を盲信する方がおかしいでしょう。
しかし僕はなぜかそのような恐怖心を抱き、
稼がなければいけない
結婚しないといけない
子供を作らないといけない
のように考えていました。他にも、
恥ずかしいことをしてはいけない
立派に生きないといけない
真面目に生きないといけない
とも思っておりました。つまりは、何事においても「○○しないといけない」と考えていたのです。しかしそれは結局、自分が本当にやりたいことではなく、自分の中で生み出したただの執着心だったのです。
その結果、私は真面目に生きていたものの、真面目すぎて馬鹿を見ることが多かったり、心をすり減らすことも多かったのです。
あの世には何も持っていけない
当たり前のことではありますが、人間はいずれ死ぬ生き物であり、それは避けられない運命かつ紛れもない事実です。
たとえどれだけお金を稼いでも、多くの人に敬われても、目覚ましい成功を収めたとしても、あの世には何も持っていけません。
僕自身、自分の好きなものを集めるのが好きで、部屋が狭くならない程度に収集しております。しかし、それらをどれほど大切に扱っても、いつか自分が死ねば意味を持たない「ただの物体」になります。
そう考えると、何かものを所有する、何かの概念の執着するという自分が、ひどくおかしい存在に感じてきたのです。
「親も、友達も、そして自分も、最後は結局死ぬ。それなら、なにかに執着しても意味なくないか?」
そう思うようになってきました。
自由のために執着心を手放す
自由に生きるためには、執着を手放さなければなりません。なぜなら、執着している限り自由から遠ざかるからです。
例えばお金やプライドに執着していると、それが目的になります。執着していなければ別の選択肢を選ぶことができたはずなのに、執着してたせいで選択肢を見誤る、というのはよく聞く話ですね。
なにかに執着していると、視野がそれだけに狭まってしまいます。そのせいで、新しい発想や発見から遠のいてしまい、結果的に自由からも離れてしまうと思っています。
僕も若い私はさまざまなことに執着していましたが、気づけばその執着を手放し、精神的に自由に生きることができるようになっていました。
良い意味で人生に対して執着しなくなったことにより、自分が楽しいと思うことをより自由に、好き放題にやれるようになっているなと、最近特に感じています。
「やっぱり人生って暇つぶしだよね」
執着を手放すことで精神的に自由になると、ますます人生は暇つぶしだと感じるようになりました。
「暇つぶし」と聞くと、かつての僕のようにマイナスの印象を持つ人もいるかと思います。しかし今の僕は「人間どうせ死んでしまうのだから、執着して消耗するより、思い切ってめちゃめちゃに生きたほうが楽しそう」というニュアンスとして受け取っています。
執着を手放すことで心に余裕が生まれ、人生をもっと軽やかに楽しむことができるようになりました。また執着しないことで「自分が本当にやりたいこと」や「人生で大切にしたいこと」が見えてくることもあります。
僕も人間である以上、執着心がゼロになることはないでしょう。それでも今では、以前よりも物事に対するプレッシャーも軽減され、ストレスを感じることも減ってきました。
「やっぱり人生って暇つぶしだよね」
これは決して後ろ向きなことではありません。むしろ僕の人生にとっては「自由に、楽しく過ごすための秘訣」と捉えています。