イランの旅を深める世界史入門:歴史的スポットを巡るために
イランは、シルクロードの要所としてだけでなく、イスラム教のシーア派信仰の中心地としても、イスラム世界の中で独自の進化を遂げてきました。また、イランの住民であるペルシャ人は、他の中東諸国とは異なる独自の民族的背景を持ち、その歴史は古代から続く王朝の繁栄によって彩られています。ペルシャ帝国時代から続く強力な王朝と文化は、イランの都市や遺跡に色濃く反映されており、テヘラン、イスファハーン、シーラーズ、ヤズド、タブリーズ、マシュハド、そしてペルセポリスなどの都市では、異なる時代や王朝が築いた壮大な歴史が今も観光地としての魅力を形作っています。
今回のブログでは、イランを訪れる際に観光をより深く楽しむために知っておきたい「最低限の世界史の知識」をお伝えします。これを知っていると、ただ通り過ぎてしまいがちな場所も、記憶に残る特別なスポットになります。ここでは、上記の7つの都市とペルセポリスを中心に、イランの歴史を時系列で見ていくとともに、各地の観光地を紹介していきます。
アケメネス朝ペルシア(前550年~前330年):ペルセポリスの栄華
ペルセポリスは、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によって築かれた壮大な都市で、古代ペルシア帝国の栄華を象徴する遺跡です。アケメネス朝は、聖書にも登場する新バビロニアや、ピラミッドで知られるエジプト王国をも滅ぼし、オリエント全体を統一した広大な帝国を築き上げました。ペルセポリスはその儀式の中心地として機能し、壮麗な宮殿群やレリーフには、アケメネス朝の強大な権力と富が表現されています。
その後、アケメネス朝はマケドニアのアレクサンドロス大王(アレクサンダー大王)によって征服され崩壊します。さらに、その後もイランではギリシャ系の王国や政権の影響を受け、しばらくの間、イラン系の王朝が途絶えることになります。
3世紀〜7世紀:ヤズド、砂漠の都市とゾロアスター教の遺産
ヤズドは、イラン中央部の砂漠地帯に位置し、古代から続くゾロアスター教の中心地として知られています。ヤズドはその乾燥した気候に対応するための独特の建築様式で有名で、風を通す塔(バードギール)や、地下水路(カナート)など、伝統的な建築技術が今も残っています。
8世紀末〜9世紀:マシュハド、シーア派の聖地と文化の中心
マシュハドは、イラン北東部に位置する都市で、シーア派イスラム教徒にとって重要な巡礼地として知られています。中世には、シーア派イスラム教の第8代イマームであるイマーム・レザーがこの地で殉教し、その後、彼の霊廟が建てられました。 これにより、マシュハドはシーア派信仰の重要な聖地となり、宗教的な中心地としての地位を確立しました。イマーム・レザーの墓廟は多くの巡礼者を集め、現在もシーア派イスラム教徒にとって最も神聖な巡礼地の一つです。
当時エジプトを中心に栄えたスンニ派に対抗するかのように、この都市は、宗教的な影響力だけでなく、学問と文化の中心としても栄え、イスラム世界全体から学者や巡礼者を引き寄せました。
セルジューク朝(11世紀から12世紀):文化の都イスファハーン
イスファハーンは、後のサファヴィー朝時代に「世界の半分」と称されるほどの栄華を誇りましたが、中世にも重要な都市として機能していました。トルコ系のセルジューク朝時代(11世紀~12世紀)には、帝国の首都として、また学問と文化の中心地として栄えました。中世のイスファハーンには、壮麗なモスクや宮殿が建設され、現在でもその多くが残っています。
イルハン朝(13世紀~14世紀):タブリーズとモンゴルの支配
タブリーズは、モンゴル帝国の支配下に入った13世紀以降、特にイルハン朝時代に大きな発展を遂げた都市です。イルハン朝は、チンギス・カンの孫であるフレグ・ハンがペルシアを征服し、1256年に設立されたモンゴル帝国の西部領域を統治する王朝でした。タブリーズは、イルハン朝の首都となり、文化と政治の中心地として栄えました。
サファヴィー朝(16世紀~18世紀):イスファハーンの栄光(2度目)
16世紀から18世紀にかけて、サファヴィー朝はイランを支配し、その首都をイスファハーンに置きました。イスファハーンは、この時期に「世界の半分」と称されるほどの壮大な都市へと発展しました。サファヴィー朝の支配者たちは、イスラム教シーア派を国教として確立し、シーア派の信仰と結びついた壮麗なモスクや宮殿を建設することで、イスファハーンをイスラム文化と建築の中心地にしました。
シーア派の特徴として、イマームを強く敬う信仰があり、イスファハーンにある数々の建築物にもそれが反映されています。
ザンド朝(18世紀):シーラーズの繁栄
あまり世界史の教科書では聞かないザンド朝は、18世紀にイラン南部を支配し、その首都をシーラーズに置きました。シーラーズは、詩人ハーフェズやサアディの故郷としても知られ、文化と芸術の中心地として栄えました。遺跡の綺麗さよりも、薔薇の庭園など、自然と融合した美しさで人気の都市です。
19世紀から20世紀:テヘラン、近代化と現代イラン
19世紀から20世紀にかけて、テヘランはイランの首都として近代化の波に乗り、現在の都市として発展しました。テヘランは第一世界大戦直前まで続いたカジャール朝時代に首都に選ばれ、近代的な都市計画とともに、多くの歴史的建造物が建設されました。
ペルセポリス
ペルセポリスの中でも、アパダーナ宮殿は特に有名で、その壁面には、ペルシア帝国の各地から貢ぎ物を持ってくる使節団の姿が刻まれています。また、クセルクセス門や諸民族の門など、当時の建築技術の粋を集めた遺跡が多く残っています。
ヤズド
ヤズドの観光名所としては、ゾロアスター教の火の寺院があります。この寺院では、1500年以上燃え続ける聖なる火が祀られており、ゾロアスター教の信仰が今も生き続けていることを感じることができます。また、沈黙の塔も訪れる価値があります。この塔は、ゾロアスター教徒が遺体を天に捧げるために使用した場所で、ヤズドの周囲の山々に建てられています。
マシュハド
イマーム・レザー廟は、マシュハドの象徴であり、シーア派イスラム教徒の信仰の中心です。この廟は、壮大な建築と美しい装飾で知られ、多くの巡礼者が訪れる場所です。また、マシュハドには多くの宗教施設や学校があり、中世から続く学問と宗教の伝統を今に伝えています。
イスファハーン
セルジューク朝時代に建設されたもので有名なのは、ジャーメ・モスク(金曜モスク)です。このモスクは、ペルシア建築の最高傑作とされ、その壮麗なドームとミナレットは、訪れる者に中世イスラム建築の真髄を感じさせます。
真骨頂はサファヴィー朝時代に建築されたもの。特に、イマーム広場(ナクシェ・ジャハーン広場)は、イスファハーンの観光名所として外せません。この広場は、世界遺産にも登録されており、広場を取り囲むようにイマーム・モスクやアリ・カプ宮殿、シェイク・ロトフォッラー・モスクが配置されています。これらの建造物は、サファヴィー朝の建築技術の頂点を示しており、訪れる者を圧倒する美しさを持っています。
タブリーズ
ブルー・モスク(ゴイ・メスジッド)は、モンゴル支配時代の影響を感じさせる場所です。イルハン朝時代ではなく、後のカラ・コユンル朝の時代に建設されたものですが、モンゴル支配時代に形成されたペルシア文化の影響が続き、建築や装飾に反映されています。青いタイルはペルシアの伝統であり、イスラム世界全体に広がった装飾技術の一部です。また、タブリーズの旧市街には、イルハン朝時代の商業活動を象徴するバザールも残っており、モンゴル時代の交易の繁栄を今に伝えています。
シーラーズ
シーラーズの観光名所としては、カーリム・ハーン城塞が挙げられます。この城塞はザンド朝の創始者であるカーリム・ハーンが築いたもので、その強固な城壁と美しい庭園は、ザンド朝時代の建築の特徴をよく表しています。また、ハーフェズ廟も訪れる価値があります。イランを代表する詩人ハーフェズが眠るこの場所は、詩と自然の調和が見事に表現されており、多くの訪問者がその静謐さに心を打たれます。
テヘラン
テヘランの観光名所の一つであるゴレスターン宮殿は、カジャール朝の華やかな建築様式を今に伝える場所です。また、近代イランの象徴であるアザーディ塔は、1971年にイラン建国2500年を記念して建設され、テヘランの象徴的存在となっています。さらに、テヘランには多くの博物館や美術館があり、イランの豊かな文化遺産を学ぶことができます。
負の遺産として忘れてはいけないのが、1979年のイラン革命に関連するアメリカ大使館跡地です。ここは革命直後、アメリカの大使館がイランの学生グループによって占拠され、52人のアメリカ大使館員が444日間にわたって人質として拘束されました。この事件は、アメリカとイランの関係に大きな影響を与え、現在に至るまでその象徴的な場所となっています。現在、 大使館跡地は現在、「スパイの巣」と呼ばれており、反米的なメッセージが掲げられた壁画やスローガンが描かれています。この場所は、観光客にも公開されており、イラン革命やその後の国際的な関係について学ぶ場として注目されています。