なぜあなたは他人の口調に敏感なのか
「こんなこと言いたくないけど」と前置きする上司は大抵人間ではないのだが、時折自分も「ほんとは言いたくないけど…」と保身していることがあり、はっとする。
自分だけならまだしも、好きな芸人や歌手が「悪い意味じゃないけど」などと言っているとき、私は、「あれ?」と思う。「好きだったけど、この歌手ってほんとは小さい人間だったのか」と勝手に幻滅してしまう。
むかしからそんなことが多かったな、とぼんやり考えているとき、ひとつ記憶がよみがえった。
むかし職場で、嫌な言いかたをされた記憶だ。「だから入るなつってるでしょ」というのが、私が掛けられたせりふだった。
確かそのとき私は新人で、病棟の機材をカウントしていた。カウントし、別部署の機材係に、総数を報告しなければならないのだった。いや、「カウントする」というより、「すべての機材が確かに存在しているということを、確認しなければならない」。足りないと大問題になるから、足りないということは許されない。機材係はすでに見えていて、私はすぐにでも病棟中の機材を数え切らなければならなかった。
声を掛けながらおそるおそる病室に入っていくのだが、中には若い患者を清拭している部屋もあり、その部屋に足を踏み入れた私は、清拭中だった看護師から、あとにするようにと、まず軽くたしなめられた。
しかし、病棟を一周してもまだ機材が揃えられなかった私は、よせばいいのだが、再びその部屋に足を踏み入れた。清拭が終わったかもしれないと踏んでの行動だったが、結果的に私は、先に上げた「だから入るなつってるでしょ」という叫び声を、掛けられることになった。
なんだかんだで機材は集まり、その日の仕事終わり、私は清拭をしていた看護師に謝りに行った。私は、説教とまでは行かずとも、何か叱責を頂戴するだろうと構えていた。あるいは軽くあしらわれるか、「いいよ、次気をつければ」と、不自然なまでの愛想のよさで諦念をぶつけられるか、どちらかだと思っていた。
しかしその看護師は、後悔が残っているような顔をした。そして、「若い患者さんもいるからね」と言ったのだが、内容どうこうではなく、口調や表情に、どこか恥じるような調子が浮かんでいる。ように見えた。
悪いのは100%私であり、その看護師が気に病むことなどひとつもないはずだった。しかしその人は自らの言動を省みているようだった。
恥じているように見えたというのは、私の思い違いかもしれない。また、実際に恥じていたとしても、それは私のような使えない後輩を思いやったわけではなく、大声を出してしまった自分にモヤモヤした気持ちを抱えていたから、というだけかもしれない。
しかしその内実は、どうでもよかった。その人が自分の言動に迷いを見せている(ように思える)ことが大事だった。
迷いがない人は怖い。迷いがない人は正しい方向に進むスピードが速いけど、誤った道に分け入ったときもスピードが緩まらず、安易に他人を傷付ける。だから私は迷いのある人が好きだ。その看護師も迷いのある人に思え、すなわち私はその人のことが好きになった。
その人の口調がどうとか、そんなのは関係がなかった。大声で怒鳴ろうが、仮に「こんなこと言いたくないんだけど」と前置きしようが、私がその人のことを好きだという事実は変わらないと思った。
この考えかたは、全然論理的じゃないと思う。感覚的に過ぎるし、「この人が言ってるんだから絶対大丈夫だ」という、偏った思想を産んでしまうかもしれない。
ただそれでも、「この人はいい人だ、この人を信じたい」と私の中の天秤が告げるときがある。ときにはそれに従いたいし、それに身を任せるとき確かに私は幸福なのだった。