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日記:冬の陽・なんか・距離感
冬の陽のあたたかさは、何とも言いがたいけど確かに何かがある。そんな感じがして公園とか街路を歩きたくなる。
料理で言えば、一旦冷まして味を染み込ませる、あの工程で生まれる温かみのような、すごく丁寧に処理された空気がしていて、めいっぱい息を吸う。
そうやって深呼吸してたら、少し鼻の奥のほうが痛くなって。温かみはあるけど温かいわけじゃないから、着実に冷たさが痛さに変わってく。この鼻の痛みも冷えた手指の痛みも、そんな、ずきずきとする痛覚を、ぬるま湯に手を浸けたぬくぬくとする感覚だと見当違いして、そのまま冷たい風をなでるのがもはや心地良くて好き。
どうでもいいけど、わさびのつんとする刺激と冷たさの刺激は同じところのセンサーで感知してるらしい。なんかいい。辛味成分と冷めさは似てる?
(調べたらネズミの場合だけで現在では人間の場合は否定されてるみたい。それでもいい)
○
特に何かあるわけでもない道を立ち止まって写真を撮るのは、なんか見られたら恥ずかしいと思ってたら、ついに写真を撮り忘れてた。せっかくだし写真を小さい趣味にしようと思ってたのに。
写真はないけど、非常階段だけが新しく建て替えられたビルを見つけて、なんか嬉しかった。新鮮なオレンジ色が薄汚れた白色のビルの差し色になってて、そこに時間の奥行きを見る。
○
副詞のなかで「なんか」が一番好き。ネガティブな否定の文脈で使われることもあるけど、肯定文で使われるときにその輝きが増してくる。
「なんか嬉しかった。」だと思いがけない発見のような感じがして、「悪くはないな」って紆余曲折のあった心の機微を感じる。諦観のようで希望のような。妥協のようで本望のような。その曖昧にゆらいでる様子。なんだろう。むしろ、ゆらぎの波が一旦収まった凪のような気持ちがして好き。
副助詞としての「○○なんか、」って明らかな否定の用法は嫌い。「どうせ、」と見下した文脈で使わないでほしい。なんて、と同義の助詞なのかな。
「これなんかどう?」みたいなパターンは好き。小さな否定の中に謙遜とか思いやりが込められてる。
○
誰かの、趣味というほどではない小さい趣味や習慣をずっと聞いていたい気持ちが今してる。朝はラジオ体操をするとか、昼ごはんの時はバラエティ番組を観るとか、それか、夜は大音量で音楽を聴くとか。それをしなかったとしても、どうでもいいと思うようなこと。
そんな生活の下書きの部分を聞いていたい。なんというか、これは炭酸水を飲むようなことで、味はなくても、ぱちぱちと喉を打つ痛みがほしいだけ。
○
実生活でもSNSでも、いま繋がっている人と、うっすら遠くで応援し合いながら、これからもお互いに暮らしていたいという気持ちがする。
それが自分にはちょうどよくて、自分が繋がってる誰かにもちょうどいい気がしてる。
今この感情が自分から湧き出したものなのか、共感によって醸造されたものなのか、たまに分からなくなってしまう。誰かの悲しみは自分の悲しみだし、誰かの希望は自分の希望だから、誰か由来の感情なのか自分由来の感情なのか曖昧になってしまう。
悲しみを一緒に背負ってるつもりはないけど、それを黙って見ているのは別の悲しみを生み出すから、できるなら伴走していたい気持ちになる。でも結局、伴走できるほどの関係性ではない気がして、独り善がりの感傷にごちる。
だからその距離感のままでいるべきだと思う。その悲しみを一緒に見たり助けたりしないけど知ってる。ただそれを知ってるだけ。みたいなね。
夕凪、某、花惑い/ヨルシカ
僕らを貶す奴らを殺したい
君はきっと笑ってくれる
朗朗/さとう。
それでいいなら それでいいけど
そうじゃないから ここにいるんでしょ
誰かの言葉でもかまわない 伝えなくちゃ
この声に 優しくふれたあの人へ
また明日。