008 親が持ち帰ってくるお菓子が好き(だった)
『巷で見たことない』
1.
「親が持ち帰ってくるお菓子」が好きだった。
親が「買ってくるお菓子」は、親自身にもニーズがあることを知っており、仕事の合間につまんですぐ寝たり、めちゃくちゃ酒を飲んでメシを食った後お腹いっぱいだろうに無理やり詰め込んで憂さを晴らしたりしている姿を見ていた。
なので許可なしに食うとかわいそうだな〜と思ってバクバク食うことは出来なかったが、実際は肥満児だったので小学生の頃から許可なしにバリバリ食ってた。食い意地だけなら北海道ブロック代表だったかもしれない。実際の食える量じゃなくって食い意地を競う競技は想像がつかないが。食い意地はりすぎて、食えるものが何もない日、親が禁煙用に買ってたニコチンガムを食ってめちゃくちゃ具合悪くなったりしていた。
2.
子どもは親の生活習慣を一回り小さくした状態や、あるいは親の生活習慣を局所的にクローズアップして更にいびつなグラフにした状態で幼少期の生活をおくるものだと思う。そこにわかりやすい好き嫌いやアレルギーがない限り、こと食生活に関しては親の影響をモロに受けまくりだろう。自分で買い物も行けないから、家にあった食べ物を食べるしかない。鳥のヒナのようなものだ。
実家のお菓子事情は、結構多岐に渡っていて、まずポテトチップスバターしょうゆ味は常に箱で常備されていた時期がある。ポテトチップスバターしょうゆ味だけではなく、時期ごとにスナック・せんべいの類は常に2~3種類ぐらい袋で常備されていた。
特に母親の趣味趣向が反映されていて、薄焼きのみりん味のえびせんべいは今も常備されている。このえびせんべいを二枚重ねにして、間にマヨネーズを挟むのがスタンダードだった。
そして、明治のチョコのファミリーパックや、母親の大好物であるバッカスとラミー(中にスコッチが入っているのがバッカスでラミーはラムレーズンが入っているチョコ)も、販売時期である冬季になると冷蔵庫に2、3個は入っていた。
その他、珍味・乾き物の類や、チキンラーメンの小さいやつ的なそのまま食っても行けますを売りにしている乾燥麺も常にあった。ここまで書いて客観的に見ても、幼少時の肥満具合は推して知るべしという感じだ。
今年帰省したときも常備してあって、年老いてもお菓子欲は尽きないものなのか、と思った。趣味趣向も、せんべい類が少し増えたかなというぐらいで、ほかはパイの実やカントリーマアム、カラムーチョと特に実家に住んでいるときと大きな変化がないどころか、むしろ若返っているのでは!?というセレクションだった。お菓子好き界のベンジャミン・バトン。
前略プロフィールの「絡む~ちょ」って欄なんだったんだ。座右の銘「絡む~ちょ」にしようかな。
3.
そのように家にお菓子や乾き物が常備されていた環境だったが、更に実家は自営業でスーパーを営んでいたということもあり、意図せず大量補充されるボーナスタイム的な時期があった。
「実家がスーパーの人あるある」で、それ以外の人には全くないないだと思うが、毎年春と秋(たぶん)に”見本市”というものが大々的に開催されていて、両親は定期的にそこに赴いては、各メーカーの新製品の試供品を持ち帰ってきた。
親が「見本市に出かける」と言った日、朝は「見本市に行くのか~」と思うが、昼には忘れて学校に行って、バトエンのキャップでサッカーゲームをしたり、川口くんと作ったオリジナルゲーム”ニィ!”に興じたりしていた。(高い声で”ニィ!”と叫びながら相手の首筋を手で突くゲーム。平河くんが泣いたことで廃止に)
家に帰ってくると、両親が居ない。夜になっても帰ってこない。そういえば今日は見本市だった、ということを思い出し、そこからは「早く来ないかな~」と、サンタさんや学研のおばさんを待つ気持ちで待ち続けた。
そのうちに寝てしまい、翌朝紙袋で8袋ぐらい持ち帰られた大量の試供品に胸を躍らせる、ということが恒例行事だった。お菓子だけではなく、レトルトカレーや缶詰もあった。
試供品は親もまだウマイかどうかを知らないので、どの商品も自由に食べていいという扱いだった。そして、食べた感想を聞いて仕入れるか仕入れないかを判断するという流れだったが、とにかく食い意地マンション(ルイージマンションとのダジャレです。念の為)絶賛建設中だった僕は食っても食った感想を覚えていないぐらいの、マンガの食いしん坊みたいな小学生だったので感想を言うことも出来なかった。親としては仕事にならなかっただろう。
その後も僕の食い意地マンションは、中学以降まで、都心の一等地から夜景を一望できるラグジュアリーなタワーマンションぐらいまでそびえ立っていった。見本市がその一端を担ったことは間違いないだろう。
4.
もう一つ持ち帰ってきたお菓子で思い出すことがある。
自分の町だけかもしれないが、町民会館などでお葬式があったとき、参列者に一つお菓子が配られる習慣があった。縁故なのか、多くは地元の製菓会社の工場で作られたものだった。
その中で、時々ブルボンのお菓子が配られることがあった。
幼い頃からブルボンのお菓子には慣れ親しんでいて好きだったが、我が町のお葬式で配られるお菓子は『ルマンド』や『バームロール』、『ホワイトロリータ』といういわゆるブルボンのエース級お菓子ではなく、『チョコあ~んぱん』や『プチシリーズ』、『味サロン』など下位打線でしっかり勝負強いバッティングをする名作お菓子たちでもなかった。
配られていたのは主にチップスター型の筒状の『ポテルカ』。見た目も中身もチップスターのニセモノのような感じで、味もブルボン信者として大変心苦しいがチップスターのニセモノ、一個格落ちするような味だった。
他にはこれも筒状の『ピッカラ』という、何味かわからないスナックにちょこちょこ豆が入っている不思議なお菓子だった。
これらは親たちにとっても得体の知れないものだったようで、持ち帰るとソファーの上に乱雑に置かれ、目もくれずそのまま喪服を着替えだすのであった。
そこは、食い意地マンションの建設が完了して入居者募集中だった僕。スカスカの建物とあってはどんな入居者とも契約を結びたくなる状態だった。親が参加したお葬式の後は、袋を乱雑にあけ筒からポテルカやピッカラを貪り食うというルーティーンだった。
そのうちに、最初は「格落ちする」「得体が知れない」と思っていた、ポテルカやピッカラの味が大好きになっていた。
親にもニーズがある「買ってきたお菓子」は、食べてしまうと小言を言われたりすることもあるが、見向きもしない「持って帰ってきたお菓子」は何も言われず伸び伸び食べられる。その独占感からいつの間にか、ポテルカやピッカラに気心の知れた友達のような親しみを抱いていたのだろう。
こんなことを言うとブルボンに失礼かもしれないのだが、この歳までポテルカやピッカラを、あの「親がお葬式から持って帰ってきたお菓子」でしか見たことがない。店頭に並んでいることも、誰かが買ってきた場面も見たことがない。
そりゃポテルカを買うならチップスターやプリングルスを買うし、同じブルボンだとしてもピッカラよりルマンドやバームロールに手が伸びるだろうと思う。
小学生の頃川口くんちに遊びに行ったときにピッカラが出てきたことがあったが、それも川口くんの両親がうちの親と同じ葬儀に参列していたからだった。やっぱりお葬式から持って帰ってきたピッカラだった。
そのせいでポテルカ・ピッカラ=お葬式、というイメージの結びつきが強固になり、葬儀会場や喪服を見ると口の中の奥のほうで5%ぐらいポテルカやピッカラの味がほんのりするような、無駄パブロフが形成されてしまった。
幸い僕は喪服を着る機会があまりないが、次にポテルカやピッカラを食べるのは、誰かのお葬式に参列したときなのか、と思うと少し悲しい気持ちになる。
その連想から、ポテルカやピッカラが「悲しいお菓子」という印象になる前に、どこかの店先で”かつての友達”に再会しておこうと少し思っている。