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無題

それはもうずっと、私の中の物語は常に性と愛についてで埋め尽くされてきました。
小学校の図書室で「三毛猫ホームズの推理」を読んだときの衝撃が始まりだと思っています。
雪子とのシーン、片山が感じた 赤いフィルター が分からず、しかし知らねばならないことのように感じて何度も何度も読み返していました。
赤川次郎「顔のない十字架」、石田衣良「1ポンドの悲しみ」、それぞれ、小学生中学生のときに何度も読み返した作品です。
赤川次郎は、2000年くらいまでの作品はシリーズにもよりますがほぼ読みました。石田衣良も、2008年くらいまでの作品はほぼ読んだでしょうか。私の好むところは、性と愛があるが故に苦しむ人たちの物語でした。漫画だと「あさきゆめみし」。
徳の高い本はもっと沢山あって、(決して上述の作品と比較することではないですが)、例えば同級生たちはみんな「銀河鉄道の夜」とか「It それと呼ばれた子」とかを読んでいたんですよね。
私も別に恋愛にしか興味ないわけではないので、それら名作と呼ばれるところは勿論、ライトノベルも、多少のマイナーどころも、学校の図書室の購入希望が通る程度のフィルターに守られつつも、良く手に取って読みました。
しかしやはり、何度も同じものを読み返し、味わい、理解に努めたのは常に恋し愛しの世界でした。
余談ですけどこのとき、高校3年間に渡って購入希望を出し続け、却下され続けたのが「風と木の詩」です。

私の中でそれらの物語が性と愛についてのものであり、私の人生の関心が性と愛にあるのだということを知ったのは、紛れもなくポーリーヌ・レアージュ「O嬢の物語」でした。
中学に上がりたての頃だったと思います。どこで見つけたのか、家の本棚の中で、古い小さな文庫版のO嬢と出会いました。
私がO嬢を部屋に連れて帰ってからも、誰もその本を探したりしている様子がなかったですから、両親にとってはきっと取り立てて大切なものではなかったのでしょう。確かに私の両親は、ルネとO嬢あるいはステファン卿とO嬢のような関わりとは、人生を通じて無縁であろうと思います。
この本を読む人がどのように捉えるかはわかりません、恐らく、男女同権であるとか女性性の搾取について日々語られている方にとっては、O嬢やロワッシィの乙女たちは、迫害され奪われ人権を失ったモノのように写るのでしょう。それも間違いではないと思います。
しかし、私にとってこの本は、女の性が獲得しうる幸せとは何かを描くものです。そして、自らが女性として生まれたこと、その幸せを求めるにおいて、性と愛というものが不可欠な要素だと私に教えてくれた物語でした。
性と愛とは、儘ならないものです。
愛を伝えられないこと。愛が拒まれること。性が管理できないこと。性の意識をし続けられないこと。自らの性が身体性と合致しないことや、自らの愛が世間からは認められないこともあるでしょう。
常に苦しみを与え、孤独をもたらし、飢餓と迷走の果てに人を狂わせることすらあります。
であるにも関わらず、人間は性と愛無しに生きることができません。極端な話、雌雄性生殖な時点で、性に向き合わなければ絶滅するしかないでしょう。しかし愛は?

先日、BCC系列の番組で野鳥の求愛を見ました。極楽鳥のダンスは、人間の愛よりも情熱的に映りました。自らのステージをつくり、女性を誘い、1年間練習してきたダンスを真摯に至近距離で愛を歌いながら披露します。
しかしながら、これの面白いところは、より強くより美しく踊るオスが優位な遺伝子として求められていることです。つまり、どれだけ私を愛してくれたかなどということではなく、躍動感やステージの設えから、丈夫な体を持ち子育てに適切なオスかを判断しているということです。
メスは、オスのダンスを一頻り確認すると、多少検討の上、パートナーに相応しいかどうか判断します。当然断ることもあります。断られたオスは、すぐにまたステージの清掃を行い、飾り付けを見直し、新しいメスの来訪を待ちます。オスもまた、自分の遺伝子を残してくれるものであれば、いかようなメスでも構わないのだと思われます。
人間も、いわゆるスペック判断というものがあります。高学歴高収入高身長という言葉があるように、あるいは美醜であったり、遺伝子を考慮してパートナーを選ぶ手段はもちろんあります。
しかし、多くの物語が「親同士の決めた愛のない許嫁」であったり、「打算で結婚した仮面夫婦」であったりを描くように、スペックがもたらすものは利益であって、愛ではありません。満たすものがあるとすれば、利益への悦びでしょう。
ただ人間にはやはり、愛があります。極楽鳥のメスは、もしオスがダンスを多少ミスしたとして、どうするでしょう。のど自慢なら「カーン」と鐘がなるところです。ところが人間は、素晴らしいパフォーマンスであればもちろん喜び、ミスをすれば微笑む、愛という概念をもっています。
完璧を讃える姿勢はともかく、欠点や不足を慈しむことは、種にとっては繁栄と進化を阻むことでしょう。しかし人間はそこに美を見出し、愛を失うことなく21世紀も生きてきました。
結局のところ、やはり、私の思う人生の豊かさとは、性と愛がもたらすものなのです。
性と愛のない沢山の経済的な事柄が世界を回しているとしても、それらを操る彼らもまた、性と愛のもとに生まれ、性と愛に縛られて生きています。
これは端的に、男が女を好きになり、女が男を好きになり、性交渉を行い、充足を得るというような話ではなく、人にすべからく性があり、人にすべからく愛があるというような話です。
私の性は、レアージュの語るところの女という性であり、私の愛は、Oの抱いている愛によく似たものです。それは私が彼らに影響を受けたからであり、私もまたルネや卿の愛を知っているからでしょう。

こればかりは、毎回考えるたびに深みが増して、答えは出ても再考する価値を感じ、世界がどのように性と愛のもとにあるか染み染みと味わいたくなります。多少暇だからと話し始めた割に、語りきる満足の前に用事の時間になってしまったので、急ぎ足ですがここまでにします。
生きることと性と愛と切り離すことができないからこそ、人生の命題足り得るのでしょうと思います。
長々。

※本稿は2017年のtumblr投稿から転載した記事のため現在の思想と異なる場合があります。

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